血縁によらない絆の継承 ~山形県鶴岡市のケヤキキョウダイ~

野嵜 辰己

1.はじめに
 山形県の西部、鶴岡市大岩川地区(以下「浜中集落」という)[写真1]には、12歳、13歳になった女児が、くじ引きによって義姉妹の組み合わせを決め、生涯にわたって助け合うことを約する「ケヤキキョウダイ」の風習が受け継がれている[資料1]。
 本稿では、ケヤキキョウダイの特徴を評価し、歴史的、地理的背景の考察を通じて、地域の風習を継承する意義ついて報告する。

2.ケヤキキョウダイの概要
「ケヤキキョウダイ」の「ケヤキ」は「ケヤク(契約)」が変化したもので、江戸期に始まったと考えられている。くじ引きによって契りを結んだ姉妹は、生涯を通じて相談相手となり、共に助け合うことを約する[写真2]。該当する女児がいない年は開催されず、直近では2015年に行われた。
 ケヤキキョウダイは、12月28日に行われる。女児は、集落の大坂神社[写真3]に集まり、稲藁を2つに折ったくじを引くことで、キョウダイの組合せが決まる。引いたくじは、手を放さずに近くの小国川まで行き、川に流す。そして3日後の大晦日の夜、予め決められた民家を宿として、キョウダイが寝具を持って集まる。夕食に丸もちを焼いて食べた後、枕を並べて就寝し、翌日の昼まで食べ物を口にすることはできない。行事の一切は子供が取り仕切り、大人は関与しない[1]。
 ケヤキキョウダイの起源は「成女儀礼説」、「安産祈願説」が主流[2]であるが、佐藤[3]は、当時の浜中は船大工として出稼ぎに出る者が多く、女性だけで村を守る必要性から発生したとする「出稼ぎ説」を提唱している。

3.ケヤキキョウダイの特徴
 現在のケヤキキョウダイは神社で実施されるが、神道行事は行われない。昭和17年の参加者は「当時は牛小屋の二階で行われていた」[4]と証言しており、神社で行われるようになったのは近代と推測される。また、2011年は10歳~12歳の女児によって、12月17日に行われており[5]、宗教祭祀のように暦や年齢に厳格ではない。
 柳田は、日本民俗学会誌に佐藤が寄稿した「ケヤキ姉妹」[6]に関し、『日光山志』に登場する「兄弟契」に類似していると指摘している[7]。日光山志には「酒や食べ物を持参し、三味線を弾き、太鼓を打ち鳴らし、歌い踊ることを土地の習わしとしている。これを名付けて兄弟契という」[8]とある。つまり「兄弟契」は大人を対象とした酒宴であり、ケヤキキョウダイとは明らかに異なる。
 天野[9]は、全国の子供を主体とする風習を調査し、相互扶助組織として富山県の「海幸・山幸の採取」を報告している。しかし、その内容は労働力と資材の交換を目的とした結(ゆい)や催合(もやい)に近く、精神的な支えを含むケヤキキョウダイとは性質が異なる。また、起源に関する一般論や佐藤の「出稼ぎ説」が正しければ、その痕跡が他の地域にも残るはずである。しかし、天野の調査にみるように、子供が義姉妹の契を結ぶ風習は、全国、山形県内はおろか、わずか1.5km離れた小岩川集落にさえ確認されていない。
 このように、ケヤキキョウダイは、子供を主体とし、儀礼や祈願、宗教祭祀との関連は希薄であり、結や催合などの相互扶助の関係とも異なる。

4.地理的・歴史的背景
 江戸期、東北地方の日本海陸路は、加賀から能登、越中、越後を経由し、庄内藩の関所である鼠ヶ関を結ぶ北国街道、そして鼠ヶ関から沿岸部を北上し、秋田を結ぶ羽州浜街道が主要な幹線であった。浜中集落は、旧温海村に属し、鼠ヶ関と温海宿(現、温海温泉)の間、やや温海宿寄りに位置する[資料2]。温海宿が関所からほど近い温泉宿場として賑わう一方、温海村の農民には、当時の公共交通機関として、温海宿と鼠ヶ関を結ぶ「伝馬役」が課せられた。伝馬役には報酬が与えられたが、断ることができず、村には大きな負担となったとされる[10]。
 また、江戸期の東北地方は、1755年から3ヵ年に及ぶ宝暦の大飢饉、1783年から5ヵ年に及ぶ天明の大飢饉など、度々大飢饉に襲われ数万人の餓死者がでるほどの惨状を経験している。日本海以外の三方を標高600m程度の山に囲われ、面積の87%が山地、耕地は4%しかなかった浜中集落においては、飢饉の度に壊滅的な被害を受けたと推測される。

5.東北地方の相互扶助組織
 宝暦年間、東北地方に結や催合とは異なる性質を持つ「契約講」とよばれる組織が発生する。契約講は仙台藩が推奨し、主に東北地方南部、福島県、宮城県全域、山形県米沢地方に広まったとされる。契約講の会合への参加は家長に限定され、途中退席は許されず、欠席には罰則が伴うなど、厳格なルールによって運営された。講の主な目的は、漁や農林業の共同作業、橋や道、水路など共有資産の管理、祭祀の運営など多岐に及ぶ。ただし「講」といいながら、活動の中心は信仰ではなく、年に1回〜2回開かれる会合では、主に作業の確認と懇親が行われた。
 契約講の特色は、下部組織として「若者契約」、更にその下部組織として「子供契約」、「子供組」、女性を対象とした「嫁組」、「主婦組」などが組織されたことである。子供契約や子供組は、上位組織である若者組や、契約講に加入するための準備組織であると同時に、親睦や懇親、集落の様々な世話役としても機能した[11]。
 契約講の子供契約や主婦組は、世代別、性別による組織であること、宗教儀礼を中心としていないこと、必ずしも労働の提供を目的としていない、という点でケヤキキョウダイとの類似性が認められる。

6.起源の推定
 1700年代末期の東北地方は、4項で考察したように度重なる飢饉や役務によって厳しい生活環境であったと考えられる。そのような時代に、仙台藩から相互扶助の概念と、子供契約、嫁組などの下部組織を持つ契約講が伝った場合、困窮する地域は、積極的にこの仕組みを取り入れたであろう。
 本調査を開始した当初は、佐藤らと同様に「浜中集落に限ってケヤキキョウダイが発生した」と考えた。しかし、そうではなく、東北地方に広まった契約講が浜中集落にも伝わり、ケヤキキョウダイの原型となった、とは考えられないだろうか。
 つまり、多層的な組織を持つ契約講が浜中集落を含む広い地域に伝わり、相互扶助のしくみとして受け入れられる。鼠ヶ関と温海宿をつなぐ、伝馬役を命ぜられた浜中集落では、長期にわたって食糧、経済的苦難が続き、契約講は生きる手段として定着する。子供の数が少ない浜中集落では、子供契約を複数の子供で維持することはできず、2人を基本とした「キョウダイの契」に変化する。他の地域や集落では、経済や交通の発展、明治維新の「若者組」の解体[12]などの影響を受け、講や子供契約も青年会、婦人会、子供会などに変化し、徐々に姿を消すが「キョウダイの契」に変化した浜中集落はこの難を逃れた。
 また、情報論の観点から言えば、情報は「伝播させる」よりも、「伝播させない」ことの方がはるかに難しい。有益なしくみとして伝承されているケヤキキョウダイを、他の集落に伝播させないことは困難であろう。広域に伝播したしくみが他の地域では姿を消し、独自の変化を遂げた浜中集落にだけ残ったと考える方が自然である。
 このように考えれば、ケヤキキョウダイの「ケヤキ」とは契約を意味する「ケヤク」が変化したとする一般論と辻褄が合う。また、柳田は青森地方で兄弟分を指す「ケヤク」という方言が契約講の仲間を指す意味から派生したと指摘しており[13]、契約講が一般に知られるよりも広い地域に浸透していた可能性がある。

7.結論
 起源の考察は可能性のひとつを示すにすぎず、今後も契約講伝播の経過、伝馬役の実態などの調査と検証が必要である。しかし、歴史的背景や東北地方の相互扶助組織の考察から、当時の浜中集落の人々の姿が、おぼろげながら浮かび上がってくる。浜中集落では、家族という血縁のコミュニティ、地縁という集落のコミュニティ、そして世代別の第三のコミュニティを形成することで、度重なる苦難を乗り越えたのではないだろうか。
 血縁によらない絆、ケヤキキョウダイには260年以上もの、浜中集落の歴史が刻み込まれていると言っても過言ではない。浜中集落の人口は、減少の一途[資料3]であり、継承が危ぶまれるが「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」[14]に選定されたことによって、行事と共に浜中集落の人々の歴史も保存される筈である。
 以上のように、風習や行事には、形式という文化的価値に加え、人々が生きた証が含まれており、これらは社会学的、民俗学的にも、後世に継承する重要な意義がある。

  • %ef%bc%bb%e5%86%99%e7%9c%9f%ef%bc%91%ef%bc%bd [写真1]浜中集落全景 2019年7月20日 筆者撮影
  • %ef%bc%bb%e5%86%99%e7%9c%9f%ef%bc%92%ef%bc%bd [写真2]交流を続けるケヤキキョウダイ
    アイスリー出版『温海人 第2号』より転載 2021年2月21日転載許諾取得
  • %ef%bc%bb%e5%86%99%e7%9c%9f3%ef%bc%bd [写真3]大坂神社参道 2019年7月20日 筆者撮影
  • %ef%bc%bb%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%91%ef%bc%bd [資料1]鶴岡市広報誌『温海 ふるさと通信第16号』鶴岡市温海庁舎総務企画課
    2021年2月25日転載許諾取得
  • %ef%bc%bb%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%92%ef%bc%bd [資料2]庄内平野-温海地区地形図 筆者作成
  • %ef%bc%bb%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%93%ef%bc%bd [資料3]鶴岡市国勢調査より筆者作成

参考文献

■註記
[1] 佐藤光民/著 『浜中のケヤキキョウダイ』温海町 1999年
[2] 広報誌『つるおかの文化財』2011年2月1日号 鶴岡市総務課広報広聴係
https://www.city.tsuruoka.lg.jp/smph/shisei/kohojigyou/koho/koho-tsuruoka-h22/soumu201102010000018.html  (2020年12月20日取得)
[3] 佐藤光民 前掲書 p.19
[4] 地方誌 『温海人 第2号』 アイスリー出版 2015年 p.19
[5] 荘内日報 2011年12月22日 紙面
    http://www.shonai-nippo.co.jp/cgi/ad/day.cgi?p=2011:12:22:4440
     (2020年12月25日取得)
[6] 日本民俗学会 『民間傅承』第16巻4号 p.28 1952年
[7] 日本民俗学会 『民間傅承』第16巻6号 p.44 1952年
[8] 『日光山志』 天保8(1837)年 
     国立情報学研究所 国文研データセット画像107枚目 から抜粋し筆者が意訳。
     https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/NIJL0263/049-0107/107
      (2020年12月25日取得)
[9] 天野 武/著 『子どもの歳時記 祭りと儀礼』柏書房 1984年 p.76
[10] 平凡社地方資料センター/編
     『日本歴史地名体系第六巻 山形県の地名』1990年 平凡社【温海村】p.652
[11] 吉川弘文館 『國史大辞典』第五巻【契約講】p.72
[12] 川村邦光/著 『民俗文化論』京都造形芸術大学 2011年 p.42
[13] 柳田國男/著 『明治大正史 世相篇』講談社学術文庫 1993年 p.386
[14] 「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」1993年選択
    文化庁 国指定文化財等データベース 
    https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/208420 (2020年12月25日取得)

■参考文献
京都造形芸術大学/編 『東北学への招待』角川書店 2004年
神社誌編纂委員会/編 『鶴岡西田川神社誌』山形県神社庁鶴岡西田川支部 1990年
大場あや/著 『契約講研究の成果と課題』大正大学大学院研究論集第42号 2018年
梁 愛舜/著 『郷村社会の親族と近隣結合』立命館産業社会論集第35巻第4号 2000年

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