都立殿ヶ谷戸庭園 —守られた別荘庭園—
都立殿ヶ谷戸庭園 —守られた別荘庭園—
Ⅰ.はじめに
都立殿ヶ谷戸庭園は、JR中央線国分寺駅南口から徒歩2分足らずの距離にある、平成10年に東京都が、平成23年に国が名勝指定した別荘庭園である。国の指定理由は「同時代に作庭された類似の武蔵野の別荘庭園の中でも、当時の風致景観を最もよく残し、その芸術上の価値は高い。」である。本稿は、殿ヶ谷戸庭園が造られ都立庭園として有料公開されるに至った歴史と、その過程での「殿ヶ谷戸公園を守る会」の運動を調査し、さらに他の別荘庭園などとの比較を通じて、文化資産としての殿ヶ谷戸庭園の評価報告書とするものである。
Ⅱ.基本データ
1.所在地
東京都国分寺市南町2−16
2.様式
和洋折衷型回遊式林泉庭園
3.開園年月日
昭和54年(1979)4月1日
4.開園面積
21,123平方メートル(約6400坪)
5.樹木数
低木:約800本、高木:約1,700本
6.主な植物
イロハモミジ(200本)、モッコク(300本)、アカマツ(110本)、モウソウチ ク、フジなど
7.主な建物
本館、茶室(紅葉亭)、倉庫
8.その他の主な構成物
芝庭、次郎弁天池、ハケの湧水と滝、馬頭観音、鹿おどし、
Ⅲ.歴史的背景
1.大正2年〜大正4年(1913−1915)
当時の三菱合資会社営業部長(後の南満鉄道副総裁)の江口定條がこの地に別邸を設け、赤 坂の庭師「仙石」の仙石荘太郎に作庭させる。しかし、現在その面影を残しているのは次郎弁 天池のみである。
2.昭和4年(1929)
旧三菱財閥の3代目岩崎彦弥太が買収し、別邸として再整備する。
3.昭和9年(1934)
津田サクの設計による、国分寺崖線の地形を生かした和洋折衷型回遊式林泉庭園として完成 する。茶室(紅葉亭)や本館も同時に出来上がる。
4.昭和13年(1938)
倉庫と敷地内全体の手直しがされる。
5.昭和31年12月(1956)
国分寺駅南口が開設される。
6.昭和37年6月6日(1962)
岩崎家個人所有のまま、都市計画公園の指定を受ける。
7.昭和41年(1966)
南口の商店会と再開発研究会により、南口再開発の構想が生まれる。
8.昭和47年9月(1972)
都市計画公園指定を解除し、南口一帯を商業地域に指定する用途地域改正素案が発表され る。
9.同年11月
「殿ヶ谷戸公園を守る会」が市民により結成され、守る会は1300余名の署名を集め、美濃 部都知事に陳情する。
10.昭和49年8月(1974)
東京都が36億4800万円で全面買収する。
11.昭和50年(1975)
都が開園に必要な整備工事を始める。
12.昭和51年6月5日(1976)
暫定開園を始める。午前・午後それぞれ100名以内の団体見学のみ受け付ける。
13.昭和52年8月23日(1977)
個人見学に切替え、在園者数を60名に制限する。
14.昭和54年4月1日(1979)
都立有料庭園として開園する。
Ⅳ.評価項目
殿ヶ谷戸庭園は、経済発展により自然環境の変化した現在では二度と再現できない、武蔵野の自然を活かして造園された別荘庭園である。
国の名勝指定理由は冒頭に述べたが、都の名勝指定理由は「大正から昭和初期にかけて多摩地区に開発された別荘地に取り残された数少ない庭園のひとつであり、国分寺崖線名勝群を代表する多摩の庭園。」である。
大正から昭和初期にかけて、東京西部に郊外型別荘が多く作られた理由はいくつか考えられる。
まず、健康のために都心から離れた空気のきれいな田園地帯が好まれたことだ。昭和2年には都衛生試験場が都内の降下ばい塵調査に着手し、昭和9年にはばい煙防止デーが開催されるほど公害が進んでいた。昭和24年に東京都工場公害防止条例が制定されている。(注1)
次に、鉄道整備と自動車交通のはじまりによる郊外の開発である。京王電鉄は大正2年(1913)に事業を開始し、小田急電鉄は昭和2年(1927)に事業を開始したが、いずれも当初から電気鉄道であった。中央線は明治22年(1889)に新宿・立川間で開通した甲武鉄道が前身であるが、大正11年(1922)には国分寺駅まで電化が進み電車が通っている。鉄道網の延伸は、開発地への電力の供給を意味したのである。(注2)
では、本園のポイントを次に挙げる。
1.庭園部分
殿ヶ谷戸庭園はとりわけその立地に特徴がある。それは国分寺崖線である。国分寺崖線とは、太古の多摩川が武蔵野台地の南側を削ってできた河岸段丘で、本園はまさに国分寺崖線上にあり、湧水や武蔵野の自然植生とが一体となり庭園を構成している。つまり、国分寺崖線による谷戸地形を活かして、舌状台地の平坦面と、崖面と崖下の湧水を利用して造られているのである。庭園の最上部の平坦面は広い芝生地の洋風庭園であり、崖面の傾斜地にはアカマツ、イロハモミジ、孟宗竹などが植えられ、最下部の崖下には湧水を湛える池があり和風庭園となっている。(注3)
2.建物部分
今は管理所となっている建物が岩崎の別邸時代の本館で、当時の約3分の1が現存している。来園者に資料展示室として開放されている部屋には、サンルームや洋風の暖炉があり当時の面影が窺える。サンルームの窓からは芝庭が一望出来る。
紅葉亭と名付けられた茶室は、次郎弁天池を見下ろす位置に建てられ、茶室の炉は縁側先の土間に仕切った外炉である。申し込めば、入園料とは別途料金がかかるが、茶会などに借りることができる。
倉庫は、地上2階、地下1階の鉄筋建築で、中は総檜造りである。棚やケースは節目のない台湾杉で、扉は金庫式になっており、その堅固な造りは関東大震災を教訓にしたと言われる。年に数回、花木類の展示に使われる際に内部の作りを見学できる。
3.アクセス
アクセスのしやすさも評価できる点である。現在、都立の有料庭園は9ヶ所あるが、その中でJRの駅から徒歩2分以内の距離にあるのは、旧芝離宮恩賜庭園と本園だけである。開発が進む郊外の駅前に立地する個人の庭園が、100年もの間生き残ってきたのは貴重である。
Ⅴ.他の同様の事例に比べ特筆される点
1.庭園を守る
殿ヶ谷戸庭園が、商業化の波に押し流されようとした時に防波堤の役目を果たしたのが「殿ヶ谷戸公園を守る会」であった。会長には元東京芸大長の上野直昭が就き、理事に元一橋大学長らが名を連ね、色川大吉、扇谷正造、串田孫一らが応援した。また、日本自然保護協会、日本野鳥の会および全国自然保護連合が後援に回った。都へ陳情した際の署名活動には、国分寺市民のみならず、大岡昇平、木下順二らも参加した。こうして、本園は、自然を愛する人々によって守られたのである。
また、「守る会」は殿ヶ谷戸庭園だけでなく、都立の庭園のあり方についても提言している。骨子は次の通りである。
①「都立公園を有料と無料に分け、優れた自然景観や学術的価値のある公園は有料とすること。」
②「公園を行楽の対象という利用法から、真に緑と憩いを求める人々の公園にし、豊かな人間性を培うための自然教育の場とすること。」
昭和50年当時、都立公園はすべて無料で公開されていたのだが、「守る会」の提言は、その後の有料化による庭園保護・保存の考え方を導入するきっかけとなったのである。(注3)(注4)
残念ながら、国分寺崖線につくられた別荘の大半は消失した。大正3年(1914)に造られた波多野別荘は滄浪泉園になり、大正7年(1918)に同じく国分寺市内に作られた今村別荘は、昭和17年(1942)に日立製作所中央研究所として生まれ変わった。現在も、武蔵野の面影をそのまま残している貴重な空間であるが、往時の別荘としての風雅なたたずまいは見ることが出来ない。
2.自然をいかす
近代庭園は大名庭園とは対照的に、自然主義的で変化に富む空間構成が特徴である。大名庭園として知られ、国の特別名勝と特別史跡のダブル指定を受けている小石川後楽園と比べると、その違いがよくわかる。小石川後楽園の景観は、築山と神田上水から引かれた水で満たされた池や田により構成されている。いわば、作られた自然である。一方、殿ヶ谷戸庭園では前述した通り国分寺崖線を利用して、可能なかぎりこの地の自然を活かした作庭がなされているのである。
Ⅵ.おわりに
本園は、武蔵野の別荘庭園の中で、どこよりもその特徴を現在まで残している貴重な文化資産である。同時に、自然を愛する人々によって作られ、現在まで守られてきた庭園である。つまり、武蔵野の自然と人間の努力とが合作した「都立殿ヶ谷戸庭園」であるといえる。
参考文献
注1. 東京都環境局HP www.kankyo.metro.tokyo.jp
注2. 第6回日本土木史研究会論文集 1986年6月「戦前の東京圏における民営鉄道による沿線開発と学園町の形成」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1981/6/0/6_0_250/_pdf
注3. 殿ヶ谷戸庭園パンフレットおよび園内解説板・展示室解説パネル
注4. 住吉泰男 東京都建設局公園緑地部監修【殿ヶ谷戸庭園】 東京都公園協会 2008
参考文献
1. 田中正大【東京の公園と原地形】 けやき出版 2005
2. 国分寺市史編さん委員会【ふるさと 国分寺のあゆみ】 ふるさと文化財課 2007
3. 多摩らいふ倶楽部事務局【多摩らび No.33】 けやき出版 2005.8
4. 文化庁国指定文化財等データベース www.bunka.go.jp/bsys/
5. 東京都公園協会HP www.tokyo-park.or.jp/
6. 滄浪泉園パンフレット 小金井市環境部環境政策課緑と公園係
7. 野村朋弘編【伝統を読みなおす3 風月、庭園、香りとはなにか】京都造形芸術大学