「戸定が丘歴史公園の庭園」が高く評価される理由とは何か
はじめに
調査の経緯と目的として、『徳川昭武の屋敷 慶喜の住まい展(徳川家康公顕彰400年記念事業)』と『歴史と美術で読み解く没後100年 徳川慶喜展(松戸市制七十周年記念事業)』に参加し感銘を受け、平成17年に「関東の富士見百景」、平成19年に「日本の歴史公園100選」に選ばれるなど「戸定が丘歴史公園の庭園」が高く評価されているその理由の根拠について考察する。
第1章.検討内容及び調査方法
松戸市では、『原則として一般来園者の立入りを禁止し保全を図る。ただし特別な催事(月見の会、茶会等)を庭園内で開催するなど日本の伝統的文化に触れる場としては活用する。又、可能な限り作庭当初の姿に戻すよう、適切な処置を施す』(一部註1より引用)という定義付けを挙げている。
他の庭園と比較調査する為、以下に挙げる同時期に造られたものや様式のやや異なる庭園と建築物のある皇族や事業家の展示施設や管理地を見学し、その様子や管理体制の資料の収集を行いまとめる。
・新宿御苑・旧古河氏庭園・日比谷公園・旧渋沢庭園・旧堀田正倫庭園・高梨氏庭園・沼津御用邸記念公園・無鄰菴・京都御所・並河靖之七宝記念館・兼六園・金沢城玉泉院丸庭園・足立美術館の日本庭園(夏期・秋期)
第2章.基本データ
松戸市の本計画地は大きく保全エリア(戸定館および庭園、松雲亭区域、斜面樹林)と整備エリア(台地化上尾根)により構成される。
戸定(とじょう)とは古く中世の城郭に起源を持つ地名であり、この地には明治17年に水戸藩最後の第11代藩主藩主であった徳川昭武の別邸「戸定邸(国指定重要文化財)の建物」を含む旧松戸徳川家の敷地は「戸定が丘歴史公園」として、昭武と兄である江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍徳川慶喜の資料を展示する「戸定歴史館」、国指定名勝である「戸定邸庭園」とお茶室の「松雲亭」を含む。
主屋の南に広がる起伏のある芝生地とその緑辺を彩る植樹や西側傾斜地の豊かな落葉・常緑広葉樹林、眼下に江戸川、遥かに富士山を望む借景は風致に富む景観を構成しており、明治期の庭園の特質をよく表している。
また、隣接する千葉大学園芸学部を概念的には歴史公園と一体として取り込むことにより、歴史と文化の融け合った格調高い雰囲気を作っている(一部註1より引用)
[公園総面積]
2.3ヘクタール(22,907,80平方メートル)
「戸定邸の庭園」
2014年11月21日の文化審議会答申を経て、2015年3月10日付「文部科学省告示第三十九号」(同日付官報号外50号掲載)により、戸定邸庭園が国の名勝に正式に指定され、文部科学省告示における名称は「旧徳川昭武庭園(戸定邸庭園)」。
戸定邸の客間の南に面し、広くゆるやかな起伏を持つ芝生につつじの丸い刈り込みを配し、樹木がそれを取り囲む形式は、造園された明治17年頃には洋風の趣味を生かした近代的庭園であった。
[公園内面積]
戸定邸庭園・・・約 1,900平方メートル
前庭 ・・・約 310平方メートル
芝生広場 ・・・約 1,600平方メートル(花木苑含む)
主園路 ・・・約 175平方メートル
徳川の小径・・・約 130平方メートル
散歩道 ・・・約 300平方メートル
竹林 ・・・約 1,200平方メートル
[戸定邸の建物]
徳川家の住まいがほぼ完全に残る建物で、1884年4月に「座敷開き」が行われ、各区画の性格に応じて、建物の構成や材木の質が異なるなどの特徴を持ち、旧大名家の生活空間を伝える歴史的価値が、高く評価されている。
[戸定歴史館]
戸定邸に隣接する博物館。戸定邸と庭園の公開や徳川昭武の遺品を中心とする松戸徳川家伝来品、徳川慶喜家伝来品、1867年パリ万国博覧会関係資料を展示。
[松雲亭]
昭和53年に松戸市が市制施行35周年を記念して建設し、市民による伝統的な日本の茶会が開かれる茶室
(註2より引用)。
第3章.歴史的背景
明治17年頃にこの戸定邸が建てられた頃は、約300年間にも及ぶ鎖国と政治体制の後、世の中が落ち着きを取り戻し始めた頃である。
明治期の庭園の特徴として明るい西洋風の庭園の発生があげられ、芝生の広庭と白砂の園路で構成されるその庭園様式は、当時の庭園鑑賞家から、当世風、明治式と呼ばれ、そのような庭園は貴顕の人々、富豪の人々の庭園であり、戸定庭園も又徳川昭武という貴人の庭として明治式庭園を代表する庭園の一つである。
一方その頃の庶民に許された野外レクリエーションと言えば物見遊山といった「行楽」が主流を成しており、「花の名所」がその核となっていた。
当時の庭園樹や園芸品にも特徴がみられ、江戸中期以降、日本の庭園樹は成長の遅いことが条件であり、更に刈込物が主流であった(註4参考)。
この時期に草本花卉園芸が広まり、梅園、ショウブ園、菊人形等が人々の行楽対象ともなり、園芸はますます隆盛を極めていた。
このような状況が庶民のレクリエーション形態と共に、花を契機とした野外行楽の活発化を促したと言える(一部註5より引用)。
第4章.他の事例に比べて特筆すべき点と疑問点の結論
【特筆すべき点】
保護の必要性が十分に検討されないまま、都市化及び再開発によって消滅又は改変の危機に瀕している近代の庭園・公園等も数多く存在する中で、日本の近世をしのぶ歴史公園として、明治の初期から中期にかけての洋風庭園は、造園例があまり良く知られていない事もあって審らかではない点が多い中、造園年代が明確な戸定邸庭園は、明治22年に写された写真と現状との比較から造園当時の状態を良く保っている事が確認でき、洋風庭園の遺存例としてはごく早い時期に属するもので、明治20年代以降に盛んになる和洋折衷様式の庭園の先駆けをなすものという特質を有している(註4参考)。
【結論】
文化庁調査(註3)によると、学術上の価値の捉え方の方法とは、近代の庭園の学術上の価値を評価するに当たって、基本的に以下(1)〜(3)の3点を踏まえて考慮する。
(1)現状の地形、地割、植物、水系、石組、構造物等が作庭当初のものを継承するとともに、 作庭後における重要な変遷の経過をも示していること。
(2)作庭及びその後の変遷の経緯等の観点から特質を有するなど、庭園史上における時代的特質を表していること。
また、それらに係る資料(文献、写真、図面等)が残されていること。
(3)地域性の観点から特質を有していること。
これらのことに当てはまることから、日本庭園史における学術的価値が評価されて、名勝庭園として国から指定を受け、高く評価されていると考えらられる。
第5章.今後の展望
松戸市のメインテーマとして、『身近に自然を感じることが少なくなって来た今、自然的な要素を多く取り入れることにより、人々が「自然(森羅万象)を愛でる心」、「路傍の草木に美を感じる心」といった「日本人固有の伝統的文化、感受性を感じ取ることが出来、それらを次代に伝えてゆく場を作る」というを計画をコンセプトに反映させ、以下のサブテーマを挙げている。
1.静かなしっとりした空間づくり
2.丁寧な風景づくり
3.時と共に成長する美観づくり
4.花の名所づくり
本計画地で行われる利用形態、方法としては、行事として花見、月見、紅葉狩り、七夕祭り、菊花展、盆栽展等、芸術・芸能としては野点、能、旬会、歌会等(註4より引用)。
おわりに
地域における庭園や建造物などの維持管理と保護(註6)については、管理団体に指定された「地方公共団体やその他の法人」が文化財としての復旧及び管理を行うものとする、という考え方が示されているが、不動産の構成要素で特徴付けられる文化的資産は、地域の歴史と文化に根ざした風土の姿とも深い関係があり、地元の人々が茶室を利用するなどで親しまれていることから、その保護を考える上では松戸市と地域の住民の話合いにおいて維持管理を考えるべきである。
- 四季折々の顔を見せる戸定歴史が丘公園(2017年12月10日筆者撮影)
- 『歴史と美術で読み解く「没後100年 徳川慶喜」展』(松戸市制七十周年記念事業)図録(2017年12月10日筆者撮影)
- 『徳川昭武の屋敷 慶喜の住まい展』(徳川家康公顕彰400年記念事業)の展示図録 (2018年01月07日筆者撮影)
- 和風庭園部分は植治が造った旧古河庭園 (旧古河庭園案内図の版面、2018年01月09日筆者撮影)
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当時の状態が崩れたり雑草が目立っ旧渋沢庭園 (旧渋沢庭園の飛鳥山邸の版面
、2018年01月12日筆者撮影) - 芝生に部活動帰りの学生が遊び、ペットの散歩が見られた(旧堀田邸の施設情報の版面、2018年01月15日筆者撮影)
- 植治の傑作である無鄰菴 (無鄰菴の表札、2018年01月17日筆者撮影)
- 天皇家の様子がよくわかる展示の沼津御用邸記念公園 (沼津御用邸記念公園の施設情報の版面、2018年01月21日筆者撮影)
参考文献
参考資料
註1.『徳川昭武の屋敷 慶喜の住まい』展(徳川家康公顕彰400年記念事業)の展示図録
松戸市戸定歴史館 会期平成23年10月〜12月27日
註2.『歴史と美術で読み解く「没後100年 徳川慶喜」展』(松戸市制七十周年記念事業)図録
松戸市戸定歴史館・静岡市美術館 会期平成25年10月5日〜12月15日
註3.『近代の庭園・公園等に関する調査研究報告書』
近代の庭園・公園等の調査に関する検討会 文化庁文化財部記念物課 平成24年6月
註4.『戸定が丘歴史公園基本設計説明書(概要版)』 松戸市公園緑地部 平成元年3月
註5.『戸定邸と各見学施設のパンフレット』
註6:『文化財保護法』