二十三夜講と二十三夜塔は「子ども食堂」に通じる

中澤 篤

1)序章
私はほぼ毎日夜の散歩を欠かさず行っている。夜の散歩は月が出る時は月を見るのが楽しみである。特に満月の夜は一番の楽しみで、満月の景色を撮ってSNSに投稿をしている。満月以外でも三日月などの時でも画像を撮って投稿をすることもあるが、ある夜、夜半12時を過ぎたあたりに上がる二十三日目の三日月に欠けた月を画像に収めた時、私の住む埼玉県さいたま市浦和区の東方川口市との境あたり、大宮から川口に抜ける産業道路に「二十三夜」という交差点があったのを思い出し、調べてみると「二十三夜講」という講が過去に存在したということがわかった。その交差点近くに「二十三夜塔」という碑が建っている。ここでは、二十三夜塔を遺跡として残された二十三夜講が現代の「子ども食堂」に通じるのではないかについて考察してみたい。

2)さいたま市の二十三夜塔
わたしの住むさいたま市の二十三夜塔について調べてみた。

2―1 南区太田窪の二十三夜塔
その二十三夜塔は、私の住む浦和区から東へ自転車で40分走った川口市との境、さいたま市南区太田窪にある。高さ65.3cm、幅30.1cm、奥行き30.1cmの石塔で、台座の上に乗っている。本塔には「二十三夜供養塔 天下泰平 国土安全」「天保三歳在壬辰八月吉日」とあり、台座には「観音講中 右なんぶいわつき道 左うらはよの道」「太田窪邑下 円正寺邑」と刻まれている。昭和42年に再建されたらしく、傍らに「二十三夜塔再建記念碑」が建っている。ここでは観音講中が月待ち信仰と関わっているのが確認できる。(画像2―1―1 2023年12月3日筆者撮影)近くの産業道路の交差点に「二十三夜」という名前が残っているが地名では残っていない。(画像2―1―2 2023年12月3日筆者撮影)(画像2-1-3 2023年12月3日筆者撮影)二十三夜塔に併設する説明札には、
「当時ここには住民の祈願堂があり、今から約150年前(天保3年)老朽により廃堂となり本石塔を建立したと伝えられる 平成9年6月吉日二十三夜保存会一同」
と記載されている。

2―2 緑区中尾の二十三夜塔
大聖不動尊境内にあるが、本来あった場所から移動している。高さ58.0cm、幅27.0cm、奥行き17.8cmの石塔である。正面に「(勢至菩薩立像の姿)廿三夜 先受う道 はとがや道」と彫られている。この左隣にほぼ同じ大きさの市内で唯一の二十六夜塔がある。(画像
2―2―1 2023年12月8日筆者撮影)

2―3 桜区西堀の二十三夜塔
西堀9丁目26番の駐車場脇にある。庚申塔などと共に屋根付きの囲いで一か所に合祀されており、移動したことは明らかである。高さ48.8cm、幅21,1cm、奥行き12,0cm。摩滅がはげしいこともあり、正面の「二十三夜」の文字以外、銘文の存在の有無も含めて詳らかにできない。(画像2―3-1 2023年12月6日筆者撮影)
以上は、浦和市博物館研究調査報告書 第24集 1997.3 「浦和の月待信仰資料」より一部抜粋

3)二十三夜待
「二十三夜講」自体について辞典で調べてみると、「二十三夜待(にじゅうさんやまち)」*という言葉が出てくる。「講」というのは、もともと寺院内で仏典を購読・研究する僧の集団を指したが、転じて民族宗教における宗教行事を行う集団、またはその行事・会合を指すようになった。二十三夜待は十五夜待、十九夜待、二十六夜待等の一つで、地方により若干内容が変わるが、特定の月齢の夜に講の人たちが集まって、念仏を唱えたり、安産祈願をしたり、飲食をともにしながら月の出を待って月を拝むものである。
『日本民俗学大辞典 下』吉川弘文館より一部抜粋
(以後「〇〇*」は後注参照)

4)歴史的背景について
歴史的背景について調べてみると。

さいたま市浦和地区は月待信仰の盛んな地域だったといわれている。この月待信仰は、
中世の東国において十五世紀後半以降「月待板碑」という形で現れ、近世に入ると「二十
三夜塔」などの石造物を残している。その起源などを明らかになっていないが、その発生
は原始社会の天体としての「月」の崇拝であり、後に仏教の浸透などにより月天子や本地
仏*勢至菩薩と結びついて月の神に対する信仰へと変化し、さらに講などの集団による宗教
的な月待行事へと展開、農村へ定着していくというプロセスがすでに語られている。
有元修一「中世民間信仰の一形態―板碑にみる月待信仰」

浦和には、月に所縁のあると言われる調(つき)神社(画像4―1  2024年1月11日筆者撮影)という鳥居がなく、入口を狛犬ではなく、子連れの狛兎が守っている全国的に特異な神社があるのも月待信仰とのつながりが関係するものとされる。

5)国内の他の事例
国内には各地に二十三夜塔を始め、十九夜塔、二十六夜塔等似た形の塔が見られる。
5-1
上尾市大字中分(なかぶん)の大悲庵境内の月待供養塔(画像5-1-1 2023年12月13日筆者撮影)
5-2
熊谷市妻沼の聖天山境内にある二十三夜塔 聖天山境内の庚申塔と共に並んでいる。(画像5―2―1 2024年1月12日筆者撮影)
その他、越谷市越ケ谷の天嶽寺山門側、福島県信夫山逆さ板碑、東京都大田区山王の板碑では路地に設置された二十三夜塔が見られる。

6)他の事例と比較してどんなことが特筆されるか
浦和の二十三夜塔は、南区太田窪のものはしっかりした石碑が建てられ、その石碑のための敷地が道路際にしっかり確保され、チェーンで囲われている。傍らに昭和42年の再建記念碑もある。同じく桜区西堀のものは、他の庚申塔とともに石碑が屋根付きで囲われているのは、設置当時から周辺の人々の信仰が厚く、現在でも整備されてこの遺跡を未来へ向けて守っていこうという意思が強く感じられる。

7)二十三夜講が子ども食堂*との相似について評価
二十三夜講は、当時の庶民が家族の安寧や母親の安産祈願、お互いの助け合いのために自然発生的に現れ、それが月の出を待って祈願するという行為と合わさっていたと考えられている。
私自身が先に芸術教養演習2で取り上げた「子ども食堂」も現在全国各地で子どもの食や居場所を提供するという目的で住民の自主的運営主体に自然発生的に現れてきたことは、先人の知恵として現れた二十三夜講と自分たち自身を守るために必要があって表れてきたことと擦りあうのではないかと私は考えている。

8)今後の展望について
二十三夜講は全国各地で存在が確認されていると言われるが、先に書いたように私が暮らす地元では調神社(つきじんじゃ)という月(つき)と読みを同じにする神社があり、市内にも先出の南区太田窪を始め、緑区中尾、桜区西堀等各所に道標等と共に存在が認められる。
二十三夜講は、南区太田窪のものではかつてそこにお堂があり、当時の北条氏と足利氏との争いに駆り出されて戦地に赴いた夫や家族の無事・安寧を願って、月の出を待つという形でその人々がそのお堂に集まり祈りを捧げたという記録がある。
今後、地元の二十三夜講とさらに全国のそれにまつわる背景をさらに調査を続けると過去の人々の生活のなかで培われた叡智が今日にも生かされているのではないかとさらに調査を続けていきたい。

9 )まとめ
二十三夜講は、南区太田窪のものではかつてそこにお堂があり、当時の戦争に駆り出されて戦地に赴いた夫や家族の無事・安寧を願って、月の出を待つという形で残された家族がそのお堂に集まり祈りを捧げたという事は先に書いた。
私自身先に芸術教養演習2で取り上げた「子ども食堂」も全国各地で自然発生的に、しかし子どもの居場所を提供するという必要に迫られて現れてきたのは、過去のこうした「講」に通じるものをこの調査で強く感じることになった。私の調査した北浦和の「子どもカフェ」は、「子ども食堂」の活動から進んで、あらゆる年齢層の人々が集うコミュニティの「場」となっている。常勤スタッフがここに関係する人たちに囲まれて、結婚式を挙げた場に参加できた時は、昔の村社会ではこんな形で式を挙げたのではと共同体意識が強く感じられた。
今回、二十三夜講を調べることによりその時代の庶民が必要として自然発生したものが、現代にも現代なりに必要とされるものが現れてくるということが実感されるのである。

  • 81191_011_32183219_1_1_二十三夜塔(太田窪(圧縮)2023.12.03. 画像2-1-1 さいたま市南区太田窪の二十三夜塔 2023年12月3日 筆者撮影
  • 81191_011_32183219_1_2_二十三夜交差点(さいたま市南区大字太田窪)(圧縮)2023.12.03. 画像2-1-2 さいたま市南区太田窪の二十三夜交差点 2023年12月3日筆者撮影
  • 81191_011_32183219_1_3_二十三夜塔(南区太田窪産業道路と) (圧縮)2023.12.03. 画像2-1-3 さいたま市南区太田窪の二十三夜塔から二十三夜交差点方面を望む 2023年12月3日筆者撮影
  • 81191_011_32183219_1_4_二十三夜緑区中尾(圧縮)2023.12.08. 画像2-2-1 さいたま市緑区中尾の大聖不動尊境内の二十三夜塔 2023年12月8日筆者撮影
  • 81191_011_32183219_1_5_二十三夜塔桜区西堀(圧縮)2023.12.06. 画像2-3-1 さいたま市桜区西堀の二十三夜塔左端〇印囲みの石塔 2023年12月6日筆者撮影
  • 81191_011_32183219_1_6_調神社入口(圧縮)2024.01.11. 画像4-1 調(つき)神社入口 鳥居がなく狛犬ではなく狛うさぎが入口に設置されている 2024年1月11日筆者撮影
  • 81191_011_32183219_1_7_二十三夜塔大悲庵北上尾(圧縮)2023.12.13. 画像5-1-1 上尾市中分大悲庵境内の二十三夜塔 2023年12月13日筆者撮影
  • 81191_011_32183219_1_8_二十三夜塔妻沼聖天山(圧縮)2024.01.12. 画像5-2-1 熊谷市妻沼聖天山境内の二十三夜塔 2024年1月12日筆者撮影

参考文献

1) 浦和市博物館研究調査報告書 第24集 1997.3 「浦和の月待信仰資料」
2) 『日本民俗学大辞典 下』(吉川弘文館) 福田アジオ編 神田より子編 新谷尚紀編
                    中込睦子編 湯川洋司編 渡邊欣雄編
3)『中世民間信仰の一形態―板碑に見る月待信仰』有元修一著(雄山閣出版)1976
4)埼玉工業大学人間社会部 紀要第20号
  「二十三夜信仰から紐解く地方創生」本吉裕之
5) 芸術教養演習2 「ジャズ喫茶で「子どもカフェ」からの地域コミュニティへ発展」筆者作製 2023年
6) 東京都の庚申塔紹介サイト 大田区山王1-41の蘇峰公園の二十三夜塔 2019.07.06
7) 福島県信夫山情報紹介サイト 信夫山おもしろ話 その76 女性だけの会(二十三夜講) 特定非営利法人ストリートふくしま

□*後注
3)二十三夜待
「二十三夜待 月待講の一つ。月待は特定の月齢の夜に行われる忌籠りの一種で、講の人たちが集まって念仏を唱え飲食したりしながら月の出を待って月を拝む。講の人たちが集まる宿は、現在ではまわり番でつとめることが多くなっている。二十三夜待は特に多く行われているが、二十三夜の月の出は遅いので深夜まで講が続くことになる。二十三夜講を略して三夜待・三夜講・三夜様などともいっている。もともとは毎月行うものであったと思われるが、多くは特定の月だけ行うようになっている。(中略)多くは女性の講であるが、福島県西郷村では二十三夜は男の月待といわれている。二十三夜講では月天子*・月読命(つくよみのみこと)*・勢至菩薩*などをまつり、念仏を唱えたりする例が多い・・ (中略) もともと月そのものが神体であったと考えられる。月の満ち欠けは日時の推移を知る手段であり、それだけでも信仰の対象になっているが、女性の生理と結びついて安産の信仰が加わったものもある。農耕や漁撈などは、太陽や月・雨・風などの気象条件に強く影響されるので、それらをまつって恩恵を受けようとする信仰がおこる。」
『日本民俗学大辞典 下』吉川弘文館


 ・月天子(がってんし)インド神話で月を神格化したもの。密教では単に月天といい、仏法守護の十二天の一つとされる。(コトバンク・日本国語大辞典)
 ・月読命(つきよみのみこと)名義は農耕・漁撈の暦をつかさどるため月齢をかぞえる神、転じて単に月の神の意。(コトバンク・日本国語大辞典)
 ・勢至菩薩(せいしぼさつ)阿弥陀仏の右の脇士で、智慧の光で一切を照らし、衆生をして餓鬼・畜生・地獄の三悪道から救い、臨終に来迎して極楽に引導するという菩薩。(コトバンク・日本国語大辞典)
4)歴史的背景について
 ・本地仏(ほんちぶつ)この世の神々は、人間を救済し済度*しようとする仏や菩薩がいろいろな姿であらわれた化身、すなわち垂迹(すいじゃく)身であるとし、その根本である仏・菩薩のことを本地仏という。(世界百科大事典)
  *済度(さいど)衆生を生死の苦海から救って、悟りの境地すなわち彼岸に導くこと。(コトバンク・日本国語大辞典)
7)子ども食堂
  埼玉県では、『「子どもの居場所(子ども食堂、学習の場、遊びの場)」について』として次のように定義している。
  NPO法人やボランティア団体等がこどもに対し、無料又は低額で食事を提供する「こども食堂」、学習を支援する「無料学習塾などの学習支援教室」、遊びの場を提供する「プレーパーク」など、こどもの居場所づくりの取組が広がっています。

 こどもの居場所とは
 子どもの居場所は、「家でも学校でもなく居場所と思えるような場所」のことです。こどもの安全・安心を守るための最低限のルールを除き、「こうあるべき」といった固定概念はなく、運営者の創意工夫により多様な形で展開されています。人とのつながりや教育・体験の機会を通じてこどもの自己肯定感をはぐくみ、貧困や孤独・孤立の解消、コミュニティの再生などの役割も担っています。
 代表的なものとしては次の3つが挙げられます。
 〇こども食堂
 地域の人々が主体となり運営し、こどもが一人でも安心して利用することができる無料または低額の食堂です。食事を提供するだけでなく、学習支援や体験の機会を提供している場所も増えています。
  経済的に苦しい家庭のこどもはもちろん、夜一人で食事をしているこどもや、忙しくて食事を作ることができない家庭、一人暮らしの高齢者等地域の人たちが一緒に食卓を囲み、団らんしながら、顔の見える関係を作っています。
 (学習支援教室、プレーパークについて他以下省略)
埼玉県 「こどもの居場所(子ども食堂、学習の場、遊びの場)」について
掲載日:2024年1月12日

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