〜陸奥国・磐城(福島県いわき市)から 琉球、京都、そして奈良への架け橋〜

山際 歩

はじめに
沖縄でお盆の時期に踊られる「エイサー」、京都銘菓「八ッ橋」は、どちらもよく知られている。しかし「いわき市」(1)にゆかりがあるとは残念ながら市民にはほとんど知られていない。いわきのお盆の風物詩である「じゃんがら念仏踊り」(2)について調査を進めていくと、磐城生まれの「袋中上人」(1552〜1639)という浄土宗の学僧がいたことを知る。さらに浄土宗の寺院を辿ると京都・金戒光明寺(3)に、近世箏曲の祖と称され磐城平藩専属の音楽家を勤めた「八橋検校」(1614〜1685)が眠っていることがわかった。(4)【資料1】郷土の歴史に触れ改めて見直し、忘れられてしまいそうなこの人物(5)の誇るべき功績を伝承し、いわきから沖縄、京都、さらに奈良への道のりと今後の展望を考察する。
【資料2-1/2-2】

1 基本データと歴史的背景
1−1「エイサー踊り」と「じゃんがら念仏踊り」
「エイサー踊り」(6)は1603年、袋中上人が琉球に浄土宗の信仰とともに伝えた念仏踊りに影響を受け、時代の推移とともに創作エイサーとして発展し今に至る。いわきでは江戸時代の1655年、磐城平藩(7)の郡奉行をしていた澤村勘兵衛(1613〜1655)の尽力により小川江筋(8)が完成した。いわき市の発展に大変寄与したにもかかわらず完成を待たずに自刃する。悲しんだ農民達が、勘兵衛を偲び一周忌に念仏踊りで供養したのが「じゃんがら念仏踊り」の始まりといわれる。(9)

1−2「袋中上人〜京都・檀王法林寺創建までのあゆみ」
『西郷子供じゃんがらの会』という本を手に取り「能満寺」を訪ね、初めて「袋中上人」(10)の存在を知る。1552年、いわき市西郷町に生まれ、7歳で叔父の能満寺良要上人のもとで浄土宗を学ぶ。14歳で出家、48歳で磐城城主・岩城貞隆(1583〜1620)が袋中に帰依し建立した菩提院(11)の住職となる。1603年、明(中国)に渡る意思断ち難く、兄の以八上人(12)の反対を押し切り長崎平戸へおもむくが叶わず、琉球国にたどり着く。(13)1611年、東海道の玄関口京都三条橋の袂に「檀王法林寺」(14)、1622年、奈良に「念仏寺」(15)を創建する。【資料3−1/3−2】

1−3「八橋検校」と「聖護院八ッ橋」
八橋検校の名は知らなくても代表曲・『六段の調』は耳にしたことがあるだろう。(16)1663年、平藩の財政再建を機に京都に移住し、1685年金戒光明寺にある常光院「八はしでら」に眠るまで、多くの弟子を育てた。(17)「検校」という地位は「大名」と比べても引けを取らない権力があったという。亡き師を偲び門弟たちの墓参りが絶え間なく、没後4年の1689年、黒谷さんの参道にある『聖護院八ッ橋』がその業績を偲び、箏の形を模した菓子を『八ッ橋』と名付け(18)販売したのが始まりである。

2 評価する点
2−1「袋中上人」・四百年のお心
3年という短い期間であったが、琉球に初めて浄土念仏を広め、「尚寧王」の帰依を受け「桂林寺」を建立した(19)。甘薯の普及や砂糖精製の指導にも力を注いだという。1608年山城に入り、日本人が琉球について初めて著述した『琉球神道記』(20)を残している。織田・豊臣から徳川にいたる過度期の変動する社会、日本歴史の中でも未曾有の変革期にあり、社会の大衆が経済・思想の不安に恐れおののくなか、袋中の教えに導かれ輝かしい念仏信仰の生活に入ることができたという。民衆と共に歩む念仏実践は京都「檀王法林寺」の歴代住職に受け継がれ、特に日本初の夜間保育園設立は社会的にも大きな成果と評価を得ている。(21)さらに海を越えたハワイ浄土宗別院(22)では、それぞれのルーツが垣間見える「盆ダンス」が盛大に開かれていると聞く。ハワイ移民(23)にとっての盆踊りには先祖供養と祖国への想いが込められているのだろう。袋中が琉球に伝えた祈りとエイサーは、海を渡った先人に始まり今も受け継がれているのだ。

2−2「八橋検校」・三百年つづく
検校が亡くなった1685年に「バッハ」(1685〜1750)が生まれている。(24)「音楽の父」と呼ばれるバッハ以前にこれだけの音楽を創造していた八橋への評価は、もっと高くされてしかるべきではないだろうか。初めて聴く新しいスタイルの旋律と箏の音色は、大名はじめ多くの人々に衝撃を与え虜にしたのだろう。聖護院八ッ橋では、昭和24年から6月12日の命日に「八橋忌」を執り行い、今も社員全員で墓参りをして感謝を伝えている。

3 比較して特筆されること
3−1 「空也踊躍念仏」からはじまる「踊り念仏」
空也上人(903〜972)は、平安時代に京都・六波羅蜜寺(25)を開創し念仏の祖といわれる。一千年続く「空也踊躍念仏」は、(26)疫病退散と庶民の心の平穏を願って始められた。鎌倉時代に念仏は弾圧を受け昭和59年に公開されるまでの約800年間も、歴代の住職の口伝により受け継がれてきたのである。現在は12月13日から31日まで厳修する。本堂の中を僧侶が鉦を打ち、上半身を揺らしながら「南無阿弥陀仏」を外部にわからないように「モーダーナンマイト〜」と言い換え唱えることから「かくれ念仏」ともいわれる。(27)踊り念仏は、空也に始まり全国各地に形を変えて広がり六斎念仏(28)へと発展したのである。袋中の生きた江戸時代はまさしく念仏踊りが花開き、沖縄で「エイサー」を、京都府木津川市では新たに念仏講を作り「六斎念仏」を広めたといわれている。現在エイサーはイベント化し、エイサー文化と共に歩んでいるといえるだろう。いわきのじゃんがら念仏は、お祭り的なイベントではなく時間や場所も非公開、新盆供養という行事目的を大切に守り続けているいわき独特の民族芸能である。

3−2「京都」と「いわき」
三百年つづく「聖護院八ッ橋」は、「文化を守る」ことが会社の使命とし、伝統を踏襲しながらも新しいアプローチを試み成長している。(29)京都は世界的な観光都市であることがお菓子の知名度、販売数につながる利点はあるが、「京都」という文化を守り受け継ぐ努力は並大抵ではないだろう。千年の都・京都に比べ、いわき市は合併してからまもなく60年である。1949年創業の「みよし」は、いわきの伝統芸能からふる里の味「じゃんがら」を発売し、市民に愛され百年に向かっている。お菓子には郷土の歴史や偉人を伝える大きな役割がある。現在終売となっている「六段最中」は、八橋検校を思い出す為にも復活を願う。
(30)【資料4】

4 今後の展望について
沖縄県立博物館、九州国立博物館、奈良国立博物館で「袋中上人」の企画展が開催された。(20)聖護院からは「八ッ橋のひみつ」という漫画が出版され、どの冒頭にも「いわき市」が出てくることに驚く。袋中が生まれた「いわき」でこそ、このような企画の開催を望むが、問題は資金だろう。漫画もいいアイデアだ。東日本大震災後、沖縄からの招待で能満寺子供じゃんがらと沖縄子供エイサーの交流が始まり、首里城火災時にはいわきから支援金を送るなど温かい交流が続いている。しかしイベント交流継続には経済的に厳しい状況だという。(31)例えば、50年前に編集された『いわき市史』の素晴らしさに感心するが、ここでも予算その他の制約で限られた紙面で編集せざるを得なかった先人たちのご苦労が感じられる。『磐城が生んだ袋中上人・八橋検校展』の開催を期待したい。

5 まとめ
「空也上人」が踊り念仏を始めた平安時代も、「袋中上人」が生きた江戸時代も、疫病、戦乱、自然災害に見舞われ人々は不安を抱えていた。科学が発達し文明が進む中、ウイルス、戦争、人間の手による自然破壊が災害をさらに増大させている。中国から仏教と雅楽が入ってきた奈良時代から、人間の心のよりどころは祈りと音楽なのかもしれない。(32)袋中上人が、いく先々で帰依を受け創建してきたこと、八橋検校の墓参りをする人が途絶えなかったことは、尊敬され愛され人を幸せにする魅力があったのだろう。「伝統を再考し、あたりまえを疑い、無意識を意識化する」という本学の学びでここまで辿り着いた。何よりもいわき市民がこの偉大なる人物を讃えること、いわきの歴史を記録にとどめ努力してきた先人達の存在と、今またそれを引き継ごうとしている人がいることを忘れてはならない。後世への保存と伝承をいかにすべきか、大きな課題であろう。

  • 資料1 資料1:「袋中上人」と「八橋検校」
  • 資料2-1 資料2−1
    取材Map:いわき遍

    12 如来寺:1322年開山。名越派の檀林寺として僧侶の教育の場としたため、修行僧が各地に寺を開き、奥州総本山として栄えた。その一人、名越四世の良天上人は折木に成徳寺を、良就上人は専称寺を開山した。良天上人の門弟・良栄上人は大沢の円通寺を開山するなど、最盛期には末寺34ケ寺を持つ巨莉であった。袋中は16歳の時に、この寺院で学問に励んだ。(いわき市平山崎)
    7 成徳寺:1330年良天上人により開山。諸国を巡り、学問・修行を積み重ねた袋中は29歳の時に強い招きを受け、住職となる。(福島県双葉郡広野町)
    11 専称寺:1395年良蹴上人により開山。薬王寺といわきを二分する力をもち、浄土宗名越派奥州本山として朱印地70万石、近遠末寺136を有した寺院であった。20歳になった袋中はなお一層学問に打ち込む。(いわき市平山崎)
    14 八橋検校顕彰碑:1964年(昭和39)生誕350周年を記念し、小太郎町公園内に建立された。
    ◉『いわきの始まり』
     奈良・平安時代の陸奥国磐城郡の郡役所跡「根岸遺跡」(いわき市平下大越)に臨接する古代寺院「夏井廃寺跡」から、建物跡や区画施設が発見され寺院の伽藍配置が明らかになった。(昭和33年、福島県指定史跡となる。)
  • 資料2-2 資料2−2
    取材Map:京都・ハワイ遍
  • 資料3-1 資料3−1
    袋中上人布教の遍歴
    1 1552年 磐城(いわき市)生誕の地。14歳のとき、能満寺で出家し僧侶となる。
    2 1571年 大沢・円通寺(栃木県益子町)修学受戒をとげる。
    3 1571年 比叡山延暦寺 坂本来迎寺で受戒。
    4 1576年 武蔵国増上寺。
    5 奥州会津 円性に天台密教を学ぶ。易・暦・天文・地理・兵法を学ぶ。
    1 1599年 磐城に戻り、成徳寺第13世住職、48歳・菩提院袋中寺建立。
    6 1602年 厳島光明院(現・広島県宮島)に住む兄・以八上人を訪ねる。
    7 1602年 平戸より貿易船に乗って明国に入るが上陸を許可されなかった。
    8 1603年 フィリピンを経て琉球に渡る。琉球国・尚寧王の帰依で桂林寺建立。
    9 1606年 琉球より平戸に戻り善導寺を参詣。
    11 1606年 良忠寺を参詣し、温泉津薬師堂で『琉球神童記』の草稿に専念。
    15 1611年 京都・檀王法林寺建立。
    17 1622年 奈良・念仏寺建立。
  • 資料3-2 資料3−2
    能満寺:1566年・袋中上人14歳で出家。
    菩提院:1600年・袋中上人建立。
    檀王法林寺:1611年・袋中上人建立。
  • 資料4 資料4
    「京都銘菓・八ッ橋」と「いわき銘菓・じゃんがら」

参考文献

【註】
(1)福島県は浜通り・中通り・会津の3地域に分けられ、いわき市は太平洋沿岸の浜通り地方になる。昭和41年10月1日に5市4町5村が合併しまさに日本一の広域都市「いわき市」が誕生した。【資料2−1】
(2)市の無形文化財に指定されている郷土芸能で、鉦、太鼓を打ち鳴らしながら、8月13日から15日までの3日間、新盆を迎えた家を供養して回る念仏踊りの一種である。1624年〜1644年の頃に始まった葛西の人たちが踊った泡斎念仏踊り(葛西念仏踊り)が江戸からいわきに伝えられ、1656年に初めていわきの地で踊られ急速な広がりをみせた。【引用:芸術教養講義7】
(3)浄土宗総本山・知恩院は、2024年開宗850年を迎える。【資料2−2⑥】
金戒光明寺は浄土宗七大本山の一つで最初の寺院。1175年法然上人が比叡山での修行を終え、この地で初めて念仏をされ、京都左京区黒谷町にあり通称「黒谷さん」と呼ばれている。京都守護職という役目の会津藩主のもとに組織された「新撰組」が本陣をおいた場所である。広大なくろ谷墓地には春日局をはじめ会津藩士など歴史上有名な人物の墓がある。【資料2−2④】
(4)出身は諸説あるのだが、1779年に山田松黒が記した『箏曲大意抄』によると、いわき市が定説とされている。筑紫流の師「玄恕」に師事。筑紫流の箏は雅楽の箏を寺院歌謡に合わせて伴奏するなど上流階級の人々や僧侶たちに親しまれていたが誰にでも弾けるように作り上げ、新しい調弦法や形式を創案した。金戒光明寺に、やつはし寺があり、1644年に常光院と改めている。【資料2−2④】
(5)袋中上人(たいちゅうしょうにん)・【上人】とは僧侶の敬称。八橋検校(やつはしけんぎょう)・【検校】とは盲人の役人として最高の位のこと。【資料1】
(6)「エイサー」は本土の盆踊りにあたる沖縄の伝統芸能の一つで、沖縄本島および周辺離島で旧盆に若者が主体となって行う、先祖供養の念仏踊りである。踊りながら念仏を唱える布教と教えに国王はじめ民衆は教化された。いわきのじゃんがら念仏踊りを伝え、それがエイサーに発展したという説もあるが、(9)の理由からそれは間違いであることがわかっている。
(7)近世封建社会の磐城領は、岩﨑・磐城・菊田・楢葉の四群にまたがる領域で、現いわき市以上の広さをもっていた。岩城氏の支配が実質上、佐竹氏の支配となって「磐城平藩」が成立した。以後、鳥居、内藤、井上、安藤の各氏が治めたが、いずれも徳川将軍家の側近であった。明治4年(1871)の廃藩置県によって消滅したのである。
(8)人々に古くから食されてきたお米、それを作るのに欠かせないのが「水」。いわき地方ではこの水路を古くから「江筋(えすじ)」と呼んだ。1641年、平藩主内藤忠興の命により新田開発に取り組み完成させた。切腹を命じられた理由は、「無断で土地を除地したことが忠興の御意に触れたから」と伝えられている。全長、小川町関場にある取水口から四倉に至るまでの約30キロメートルにおよび、主に夏井川の左岸側の水田を潤している。【「2023年3月10日発行水道局広報誌いわき」より】勘兵衛死後、1674年三森治右衛門により愛谷江筋が開削された。【資料2−1⑤⑩⑬】
いわき伝承郷にて館長・夏井氏による「愛谷江筋と流域の歴史」解説会《2023/08/05》
(9)かつては祐天上人[1637〜1718年。いわき市生まれ、増上寺第36世御法主。受けた布施は廃寺の復興にあて奈良の大仏殿、鎌倉の大仏の補修は著名。東京目黒に祐天寺。]起源説が語り継がれていたが、江戸で大流行した「泡斎念仏踊り」が始まりと明らかになった。1856年、勘兵衛の死を偲び、いわき市上平窪にある利安寺【資料2−1①】で踊られたのが始まりである。近年の調査研究により発見された磐城平藩家老職・穂高家に伝わる『御内用故実書』に記述されている。1876年、農業従事者からは最大の恩人と称えられ、平下神谷岸前に「澤村神社」が建立され祀られている。【資料2−1⑨】400年も前に作られた疏水が今でも現代人の上水、農業用水として使われているのだ。いわき地域学者・夏井芳徳氏は「チャンカチャンカ」という鉦の音の響きから「ぢゃんがら」と表現しているという。【2023年12月3日取材】
同名の念仏踊りに長崎県平戸の「ジャンガラ」がある。こちらはカタカナで表記している。
(10)「芸術教養講義7」の調査で2023年3月7日、いわき市立図書館で『西郷子供じゃんがらの会』の本を手に取る。2015年、那覇市に招待を受け、地域文化交流会があったと知り能満寺を訪ねた。震災後2013年9月に、能満寺にて「西郷町子供じゃんがら念仏踊りの会」と「沖縄エイサー」が共演し、これを機に、交流が始まっている。【資料3−2②】2024年1月21日、能満寺での「大般若祭」に参加し、厄除けと疫病退散を祈願した。地域の子供たちも多く参加し、伝統行事を大切に考える機会としているそうである。(副住職談)袋中良定上人は、1552年、いわき市西郷町に生まれ、7歳で叔父の能満寺良要上人のもとで浄土宗を学び、14歳で出家、如来寺、専称寺、円通寺、増上寺、足利学校などで学び、29歳で浄土宗名越派本山成徳寺に第13代として入山する。【資料2−1/3−1】
(11)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名で袋中上人が48歳の時に開基。2023年10月21日に20年ぶりに晋山式(住職が交代する時に行う式)が行われた。前住職の桐原芳照氏に代わり、副住職の霜村真康氏の新住職就任を祝った。大正時代まで菩提院があった平廿三夜尊堂から平一町目まで「お練り行列」を行い、じゃんがら念仏踊りや稚児の衣装を着た子供の行列が続いた。(福島民報2023年10月23日記事より)毎年お盆の8月13日、6月23日の沖縄慰霊の日に「じゃんがら念仏踊り」を奉納している。【資料3−2】
(12)日本人は最新の知識や技術を学ぶため、中国に憧れ、中国を模倣してきた。袋中も中国僧から直接教えを受け日本にはない経典などを持ちかえりたいという強い夢があった。以八上人(1539〜1614)は広島県安芸の宮島、「光明院」開山。町家の人達を教化する目的で来島し、島内に念仏信仰を広めた。また法然上人(1133〜1212)のご生誕地、岡山県の「誕生寺」を復興された御方でもある。
(13)平戸は、古代には遣唐使船の寄港地となり、古くから中国や朝鮮と深いつながりがあった。1550年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島から平戸に来るとこれ以後、平戸は海外貿易の一大拠点となる。徳川幕府が海外貿易の拠点を長崎出島に制限するまでのおよそ90年間、ヨーロッパ諸国と親密な交渉が続いた。平戸から仏教先進国である中国を目指したが、豊臣秀吉による朝鮮出兵で、足止めとなり琉球にたどり着いたのである。
(14)1611年、開創。袋中が選んだ三条の地は、西に、東に、人の往来が絶えず、夢破れた人に励ましを、さらには三条河原で刑を受けた人を葬送するなど、民衆の思いに心を寄せ袋中の共に生きる念仏実践のお心を生かす事ができる地であったのだ。また、宗祖法然上人の教えがすぐそこに溢れている華頂山の頂を眺める位置にあることもお心にあったと思われる。「南無阿弥陀仏」と称えればみな平等に救われる…ここに浄土宗が開かれた。政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに、地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にいた。民衆とともに歩む念仏信仰を中心とした布教活動は歴代住職に受け継がれ、第26世良文上人が取り組まれた児童福祉活動こそ、袋中上人の教化活動の基本理念であり慈悲のお心なのだ。400年の時を過ぎても光を失うことはない。【資料2−2②】
(15)最晩年に活動の舞台としたのが南都や南山城で、拠点の一つが「念仏寺」である。木津川流域の山々は俗姓を離れた聖地として山岳修験の拠点とされ、江戸時代には袋中がこの地域に足跡を残すなど、南山城は文字通り日本仏教の聖地であり続けたのである。この時期、徳川家康の異父弟・松平定勝はじめ多くの信者の帰依を得て、各地に寺院を開創している。【資料3−1】
(16)古墳時代の埴輪に「琴を弾く男子」があることから、琴と呼ばれる楽器はすでにあった。【芸術史日本1】 
箏は、奈良時代に中国から伝わり、宮中で演奏される雅楽で使われ、最高の地位にあるものとされてきた。検校は筑紫流箏曲を学び歴史を変えるほどの大改革をしたといえる。いわき市においては1964年(昭和39)生誕350周年を記念し「八橋検校顕彰碑」が健立され、1984年(昭和59)には記念式典を挙行、記念誌が発行されている。当時は夕暮れ時になると、街中に「六段の調」が流れたそうである。【菩提院住職談】
(17)いつの世も芸術家と時の権力者はパトロン関係にあり、磐城平藩七万石領主・内藤風虎は最大のスポンサーであった。検校まで昇るための莫大な費用も賄ってもらっていたのだが、当時は父、忠興が藩主であり財政再建の為に切ったと言われている。【いわき市史第二巻】金戒光明寺にはたくさんのお寺が集まり、その中にある常光院を「八はしでら」と呼ぶ。京都市内を一望できる見晴らしの良い場所にある検校のお墓の前に立ち、歴史に残る人も多いこの墓地で、この場所に眠るということはいかに社会的地位が高かったのか納得した。しかし、釣屋真弓著『八橋検校十三の謎』の中で、常光院住職・梶田大介氏が「本当の墓は別にあり、1934年(昭和9)に箏曲の祖であり、お菓子の名前のもとになった八橋を顕彰する意味で現在の位置に移された』と語っておられるのだ。無縁仏になってしまいそうだったお墓を高台に移し、現在も「八橋忌」を執り行っていただけるのも人徳であろう。
(18)最も長い伝統があり、親しまれてきたお菓子は、箏の形をしていて歯応えがあり、ニッキ(シナモン)の味とかおりがする。ニッキはお菓子の香料の他に、漢方薬の健胃剤や生薬として用いられる。検校さんの遺徳を偲んでつくられたお菓子に、名前をそのままつけるのはおそれ多いということで『ッ』を入れ『八ッ橋』とした。包装紙にある「聖」の文字は、篆書体という始皇帝時代の文字で、本店には明治から大正時代に活躍した画家・富岡鉄斎の見事な書による看板が揚げられ、老舗の風格を感じさせる。【資料4−②】
(19)1609年の薩摩からの侵攻、明との交流中止という板挟みで悩んでいた国王は、袋中に帰依、松山(那覇市)に建立し袋中を招請した。1609年、琉球は薩摩の侵攻を受け日本への従属を強いられ、尚寧王は徳川家康・秀忠への拝謁のため来日。その帰路、檀王法林寺に袋中を訪ねた。
(20)京都袋中庵所蔵の重要文化財である。
京都府の最南端、奈良市に隣接する地域は旧国名の山城国にちなみ「南山城」と呼ばれている。仏教伝来後、7世紀には寺院の建立が始まった。木津川流域の山々は俗世を離れた聖地として山岳修験の拠点とされ袋中上人がこの地に足跡を残すなど日本仏教の聖地であり続けたのだ。【資料3−1】
   ・浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念特別展『聖地 南山城』袋中上人坐像
    奈良国立博物館 2023年7月8日〜9月3日
   ・特別展『京都・南山城の仏像』
    東京国立博物館 2023年9月16日〜11月12日  10月21日筆者観賞
(21)1995年第26世信ヶ原良文が『念ずれば花ひらく・だん王の福祉と教育の活動50年を回顧して』を出版。歴史的な敗戦、米軍進駐という、未だかつて経験したことのない激動を契機に、民主主義の時代を開いていかなければならなかった都心の寺院としてのご苦労は計り知れない。アネモメトリ59の中で、京都の繁華街、木屋町にあった立誠小学校が1992年に閉校し、その跡地を「出町座」として活用する話しを読む。その小学校の子供たちがお世話になった保育園こそが「だんのうさん」であると繋がった。現在、第27世信ヶ原雅文さんは、沖縄文化の発信地として「沖縄フェスタ」を開催するなどさらに強く深くご縁を繋いでおられる。【資料3−2】
(22)1905年(明治38)創立された浄土宗寺院で、ハワイ浄土宗の総本部である。現在の本堂は仏教のルーツ、インドのモスク様式を取り入れた建物である。現在、若い開教使のもと文化活動始め、教化活動を盛んに行なっている。開教誌の中に、「京都檀王法林寺」・「奈良念仏寺」の名を見つけた時には、いわきから沖縄〜京都〜奈良、ハワイへと続く袋中さんの祈りのお心が見えた瞬間であった。【資料2−2】
(23)1885年明治政府が認めた菅約移民が到着してから15年後の1900年、沖縄から初の移民が到着(26名)。砂糖産業が盛んに行われていたワイピオ地区が最初の入植者が働いた場所だ。1951年ハワイ沖縄連合会ができ、毎年9月初めの週末カピオラニ公園で「沖縄フェスティバル」が開催される。もはや日本語を話す事のない若者の間でもエイサーの稽古に励む姿を見かけるという。日系2世たちが定着させたBON・DANCE(盆ダンス)は、先祖供養と同時に祖国への想いが込められているのだろう。現在は、日系4世、5世の時代であるが、日本人よりも日本文化を大切にし誇りを持っていると話す。【楢柴ゆかり開教助院談】
ホノルル福島県人会は2023年100周年を迎えた。(福島民報2023年10月22日)
(24)《検校没=バッハ誕》このことは改めて、中国の歴史の深さと日本独自の文化の発展に驚かされる。有田焼は、1616年日本で初めてつくられた陶磁器である。【芸術教養研究3】ドイツのマイセン=1709年、イギリスのウエッジウッド=1759年、デンマークのロイヤルコペンハーゲン=1775年なのだから、日本の陶芸や検校の音楽は世界に誇れる文化であろう。
(25)951年、空也上人が「西光寺」を創建。977年、規模を増大して天台別院・「六波羅蜜寺」と改める。1183年、兵火により本堂を除いて焼失、1363年に現在の本堂が修営された。1595年、真言宗智積院の末寺となり現在に至る。
(26)六波羅蜜寺のある地域は平安京の外にあり、すぐ東は鳥辺野という葬送の地である。そのため冥界への入り口と考えられていた。あの世とこの世の別れ道は16時という。【2023/8/23副住職談】2023年12月13日16時から行われた『空也踊躍念仏厳』に参列する。川崎純性住職ら僧侶三人が体を揺らして本堂内の内陣をぐるぐる回り「モーダーナンマイトー」と唱え、一年の罪業消滅と明るい新年を願った。弾圧当時の名残を示すようにわずか15分で終えた。(京都新聞12月14日)【資料2−2①】
(27)964年、福島県会津に「八葉寺」を建立。毎年8月5日に開山堂の前で空也念仏踊りが行われ継承されている。現在は、会津若松市にある「金剛寺」(真言宗豊山派)が管理している。中世以降の伝承を千年前の空也の直接の巡錫の跡とすることはできないが、この地方には空也の時代に継続する仏教伝導の歴史が残されていることも事実と考えられる。 【資料2−1】
(28)毎月の六斎日に精神潔斎(身を清めること)として始まり、空也上人の踊り念仏が起源と言われている。空也堂系は芸能的色彩を帯びていくのが特徴である。出町柳にある「千菜寺(ほしなざん)」(光福寺)は空也堂と共に六斎念仏の本山であるが、江戸時代に六斎念仏が芸能化していく中で、光福寺は念仏としての行事を守ろうとしたため衰退したという。訪ねてみたが確かに総本寺とは思えずひっそりとしていた。【資料2−2③】
(29)色々なお菓子を開発しているが、どれも原料に米粉を使い、ニッキ(シナモン)が入っている。【資料4】
(30)終戦まもない1949年に店を構え、1951年から「じゃんがら」の販売を始める。当時の箱のデザインは郷土の版画家・坂本勇氏による「じゃんがら念仏踊り」の作品である。【資料4ー⑤】いわき駅前にあった「平凡」という菓子店が昭和30年〜40年代に、八橋検校にちなみお琴の形をした最中を「六段最中」と名付け販売していた。廃業後の平成6年からみよしが引き継ぎ販売していたが、製造担当職人の引退と、最中の皮の型が経年劣化により製造が継続困難となり令和4年7月に終了となる。(2024年1月20日取材)【資料4】
(31)いわき市常磐西郷子供じゃんがらの会会長・鈴木正道氏は、「少子化で子供じゃんがらの維持は大変。沖縄との交流は子供達にとっても大きな励みとなるのだが資金の問題が…」と頭を悩ませている。【鈴木氏談】那覇市よりいわき市に復興願いにと「大型シーサー像」が贈られる。いわき芸術文化交流館アリオスで《涙がこぼれないように》と天を見上げ、市民を見守っている。【資料3−2④】
(32)儒教の教えでは音楽は人間にとってきわめて重要であり「礼楽思想」とよぶ。音楽は人間社会における調和の原理としての役割を果たすと語られる。【芸術史講義アジア3】

【参考文献】
・いわき市発行『いわき市史第二巻 近世』 1975年(昭和50)312頁
・いわき市発行『いわき市史第六巻 文化』 1978年(昭和53)231頁〜262頁
・いわき市発行『いわき市史第七巻 民俗』 1972年(昭和47)438頁〜445頁
・いわきの寺刊行会『いわきの寺』     1981年(昭和56)
・里見庫男著『いわきの歴史』       1999年 138頁〜139頁
・夏井芳徳著『ぢゃんがらぢゃんがら』 発行者:塩儀幸 2009年
・夏井芳徳著『澤村勘兵衛とぢゃんがら』いわき市立総合図書館 2014年
・夏井芳徳著『ぢゃんがらの国』 発行者:阿部隆一 2012年
・信ヶ原雅文・石川登志雄著『檀王法林寺 だん王』発行者:納屋嘉人 2011年
・信ヶ原良文著『袋中上人』 発行:だん王法林寺 昭和63年改訂再販
・信ヶ原良文著『念ずれば花ひらく』 発行:檀王法林寺・だん王子供の家 1995年
・若林 清発行『袋中上人と山の寺念仏寺』 2022年
・九州国立博物館/沖縄県立博物館・美術館 編集・発行
 京都・檀王法林寺開創400年記念『琉球と袋中上人展』 2011年
・佛教大学宗教文化ミュージアム発行
 『海を渡った祈りと踊り〜袋中上人とエイサー〜」 2015年
・いわき市と那覇市の子ども交流事業『西郷子供じゃんがらの会』 2015年
・磐﨑地区民族資料保存会発行『われらが郷土 磐﨑』 1976年(昭和51)
・没後300年祭『いわきが生んだ近世箏曲の大家 八橋検校』 1984年(昭和59年)
・『季利邦楽42号《特集》八橋検校没後満三百年』 1985年(昭和60年)
・釣谷真弓著『八橋検校十三の謎』 発行者:鈴木茂・木村元 2008年
・学研パブリッシング発行『八ッ橋のひみつ』 2010年
 (2023年8月30日・聖護院八ッ橋総本店にて取材時にいただく)
・千葉優子著『箏曲の歴史入門』 発行者:目黒惇 1999年
・石井義長著『空也』 ミネルヴァ書房 2009年
・若林忠宏著『日本の伝統楽器』 発行者:杉田啓三 2019年

・企画・編集・発行『六波羅蜜寺』 2017年(平成29)
・パンフレット『六波羅蜜寺』 2023年8月29日
・パンフレット『聖地南山城』 奈良国立博物館 2023年7月8日〜9月3日
・パンフレット『京都・南山城の仏像』 東京国立博物館 2023年9月16日〜11月12日

【対面取材】
・いわき 「能満寺」住職・大庄司秀應氏       2023/04/29
・いわき  西郷子供じゃんがらの会会長・鈴木正道氏  2023/04/29 05/18
                          2024/01/15 01/24 01/26
・いわき 「菩提院」住職・霜村真康氏        2023/05/14・09/02 ・ 2024/01/24
・いわき  伝承郷企画展「愛谷江筋と流域の歴史」夏井芳徳氏の解説会 2023/08/05 
・京都   六波羅蜜寺 「空也踊躍念仏」厳修     2023/08/29・12/13
・京都   檀王法林寺住職・信ヶ原雅文氏       2023/08/30・11/19
・京都   聖護院八ッ橋総本店様           2023/08/30 
・ハワイ浄土宗別院:開教師・田邊孝顕氏 開教助員・楢柴ゆかり氏  2023/09/30
・いわき地域学会代表幹事・夏井芳徳氏        2023/12/03
・いわき 宝徳院  副住職・生駒智佑氏        2023/12/12


【資料提供】
・小宅幸一氏(いわき地域学者):『潮流』第47報・別冊
・鈴木正道氏(西郷子供じゃんがらの会会長):『いわき市と那覇市の子供じゃんがらの会』
                      『われらが郷土・岩﨑』 昭和51年12月
・箱崎博光氏(愛谷堰土地改良区理事長):三森治右衛門の功績を偲んで『一集功徳潤万世』2014
・聖護院八ッ橋総本店様:『八ッ橋のひみつ』 発行:学研パブリック 2010年
・菩提院住職・霜村真康氏:『琉球と袋中上人展』九州国立博物館/沖縄建立博物館 2011年
             『海を渡った祈りと踊り』佛教大学ミュージアム 2015年
             『袋中上人と念仏寺』発行:若林 清 2022年
・檀王法林寺住職・信ヶ原雅文氏:『袋中上人』著者:信ヶ原良文 昭和63年
                『念ずれば花ひらく』著者:信ヶ原良文 1995年

【メールでの取材】
・お菓子のみよし様 2024/01/15  ・ 01/16  ・ 01/20 ・ 01/21

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