「越中福野夜高祭」伝統の継承 ―夜高行燈に灯る復興の燈―
はじめに
富山県砺波平野の散居村には、神事としての夜高祭りと五穀豊穣・豊年満作を願った田祭りとしての夜高祭りがある。前者の夜高祭りは、福野神明社春季祭礼の一つで宵祭では神様をお迎えするために夜高行燈が練り廻わる。夜高行燈が文化資産としてどのように評価できるか考察する。
1.基本データ(資料1)
開催日と日程行事
5月1日 宵祭 神明社参拝と夜高行燈練り廻し、優美・勇壮夜高行燈コンクール
2日 宵祭 夜高行燈練り廻しと引き合い、しゃんしゃんの儀
3日 本祭 神輿御巡幸、4町曳山巡行
開催場所:南砺市福野神明社と市街地七町(図1,2)
運営組織:福野夜高祭連絡協議会、南砺市福野行政センター振興課
受賞履歴:2004年夜高祭「富山県無形民俗文化財」、4基曳山「富山県有形民俗文化財」に指定
2017年日本ユネスコ「プロジェクト未来遺産2017」に登録
2.歴史的背景
夜高行燈の起源は、慶安3年(1650年)加賀藩から町立てが許されたが、慶安5年大火で町が焼失してしまった。町の再建と安全を願って神明社を創建することとなり、氏神様として伊勢神宮から御分霊を勧請することとなる。御分霊を奉じた一行を倶利伽羅峠まで町民が手に燈火用行燈を持ってお迎えしたことが起源になったと伝えられている。
大火から町の復興を果たした歴史から福野夜高行燈が復興の燈として被災地を訪れるようになった。
3.夜高行燈とは (資料2)
行燈は、神明社の氏子である七町(新町、上町、七ツ屋、横町、浦町、辰巳町、御蔵町)が所有し、制作から練り廻し、引き合いを行う。
3-1夜高行燈の変化
最初は、田楽を持って歩くところから始まった。そして田楽を枠に乗せ傘鉾を立てた。やがて傘鉾の上に山車が付き、下に吊り物が付いて現在の形になった。大行燈は高さが約7Mあり、山車と前後の吊り物とのバランスも良く安定した美しい造形を成している。(図3,4)
コロナ渦においては災い終息を願って田楽と傘鉾だけの基本に立ち返った形での参拝となった。(写真1,2)
3-2行燈制作
神事の祭りという高い意識で制作される行燈は、昔ながらの作り方や伝統的な形、図柄を継承している。 (図5,6) 制作は若連中を中心に3月頃から始まる。作業は前年の引き合いで壊れた箇所を竹で形作り、豆電球を配線し、和紙を貼って下絵を描く。溶かした蝋で線模様を描き、赤を主とした染料で彩色していく。伝承の絵柄は細かくて色の種類も多い。染料の色は、赤とピンク(ぼかし)が多量で黄・緑・黄緑・青竹・青・紫・橙も使用する。行燈はこれらの技巧を凝らして出来上がっていく。
4.評価できる取り組み
文化人類学者のエドマンド・リーチ(1910-1989)*1は、人間の文化には、日常と非日常の時間があり、非日常の時間が通過儀礼にあたるとした。通過儀礼のプロセスは、日常の時間から「分離」して非日常の時間へ「移行・境界」する。そして再度日常の時間に「統合」すると述べた。各活動スタイルである「形式性」・「役割転倒・逆転」・「乱痴気騒ぎ」に基づき祭りの効果を評価する。
4-1.「形式性」
夜高祭りは復興の神に町の安寧と祭りの安全を祈願して奉納される。献灯式の火が祭りの御神燈となる。行燈の御神燈に火が灯り、笛や太鼓が鳴り響いて非日常の時間が始まる。
4-2.「役割転倒・逆転」 (資料3,4,5,6)
行燈を先導する笛や太鼓に拍子木が加わり祭りの音が響き渡る。子どもたちの「ヨイヤサ、ヨイヤサ」と一生懸命に行燈を引っ張るかけ声がする。小行燈、中行燈、そして大行燈と出発していく。まずは神明社に参拝し、練り廻しとなる。 (写真3,4)
2日目はこれに引き合い*2が行われる。上り行燈三町と下り行燈三町が上町通りですり替えを行う。天照大御神はけんかが激しいほど楽しまれると言われている。 (写真5,6) 今か今かと待ちわびる観客に笛や太鼓が祭りを盛り上げる。拍子木を鳴らすテンポもどんどん上がっていよいよ始まるぞと興奮する時間である。高い山車に上がっての引き合いは迫力がある。 (写真8,9)
引き合いが終る頃には、行燈はボロボロになる。練り廻しを終えてようやく地元に到着すると、祭りを名残惜しむかのようにゆっくりと拍子木が打ち鳴らされ、静かに夜高節*3を歌いながら町を一回りする。「お疲れさま、ようやった」とねぎらいの言葉が掛けられる。1年に1回の祭りが終ったと感じる瞬間である。
この後、中心四つ辻(通称銀行四つ角)では各町内の裁許が集合し、祭りが安全に滞りなく終えたことを報告すると「しゃんしゃんの儀」*4をもって神様を迎える宵祭が終る。(写真10、図7)
4-3.「乱痴気騒ぎ」 (資料7)
翌日は道路もきれいに片付けられ、静かで普段と変わらない光景になる。道路に清めの塩を撒きその中を神輿に乗った神様が通っていく。(写真11,12)同じ頃、神明社において四町の曳山巡行*5が行われる。(写真13,14) 祭りが終ると行燈に関係した人々で「山行き」と呼ばれる慰労会がある。これをもって町は再びもとの静けさを取り戻す。
神様を迎えるための優美な行燈制作、勇壮なパフォーマンス、祭りを盛り上げる笛や太鼓の演奏、法被姿の威勢のいい若連中と大勢の観客、そして静かに迎える本祭は、静から動へそして静へ戻っていく特別な時間のイベントであり文化資産として評価できる。
5.他事例と比較して特筆されること
「砺波夜高祭」*6と比較する。砺波は田祭りのため神事・伝統といったしきたりが無く、自由度が高い。行燈コンクールも技術やアイデアが審査されるため、新しいことに挑戦しやすい。龍の口から煙を吐いたり、LEDを使ったり、行燈の形まるごと変更する町内もあり、観客を楽しませている。砺波も二日目に「突き合わせ」というぶつけ合いが行われる。二つの町内の行燈が、数十メートル離れて向かい合い、裁許の笛を合図にぶつけ、押し合って後退した方が負けとなる。押し合うところが祭りの醍醐味である。また、祭りは旧住民だけでなく新しい住民、アパートの人にも参加を募って地域コミュニティーに取り組んでいる。
福野が特筆される点は、祭りを開催する道路の広さにある。砺波は砺波駅周辺の広い道路で行うため、数十メートル離れたところからスピードを付けてぶつけ合う喧嘩ができるが、観客と距離ができる。一方福野はすり替えを考慮して、中心商店街でも敢えて道幅を広げずに祭りに合わせてきた。祭りが近づくと各店先のガラスには、群衆が押されてガラスを割らないように板囲いを取り付ける。この時期だけの光景である。狭い通りなので笛や太鼓の響きが身体中に伝わり、威勢のいい行燈と観客が間近になる。観客も行燈の引き手も一緒に祭りの世界観に溶け込んでフロー体験に入れるところが特筆される点である。
6.今後の展望 (資料8)
夜高行燈は、これまで復興の燈として被災地の復興を願い国内外の祭り*7で行燈を練り廻し、人々を元気づけてきた。福島県相馬の子どもたちが法被をきて「ヨイヤサ、ヨイヤサ」と引っ張る元気な姿もあった。 (写真15)また、富山市の「ますの寿司ミュージアム」入り口には、寄贈した行燈が展示されている。1945年富山大空襲の戦火に耐えながら復興を果たした燈だと考察する。(写真16)町の安念の祈りから始まった行燈の燈は、今後も多くの人を元気づけていく燈となると考える。
これまで神事を理由に行燈制作や練り廻しは、氏子以外や女性は参加できなかった。*8しかし、平成12年「文久の大行燈」(写真17)*9と呼ばれる高さ12m以上の大行燈の復元展示が決まり、制作ボランティアの募集が行われて女性も初参加できた。今日の観光活動や復興活動によって福野全体の祭りとして盛り上がってきている。祭りに関わってみたい人を受け入れることでコミュニケーションが広がっていく。それが賑わいとなって町の活力につながっていくと考える。
7.まとめ
夜高祭りの「ヨイヤサ、ヨイヤサ」のかけ声は人を元気づけることが出来る。
地元の高校野球部が創立115年にして初の甲子園出場を果たした時、大応援団で駆けつけるも点差が広がっていった。どこからともなく「ヨイヤサ、ヨイヤサ」の大応援が湧き上がったとき、地元の心が一体となって福野魂をみた気がした。夜高祭りが人の心をつないでいく。夜高行燈の燈が継承され続けることを願ってやまない。
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【資料1】 地図「越中福野夜高祭」開催場所
福野市街地地図(神明社と七町の位置関係)『5月1日・2日夜高祭り 夜高行燈順路図』より筆者作成 2023年1月15日作成 -
【資料2】 夜高行燈の構成と流れ、神明社参拝の様子
七町の行燈紹介 デザインと図柄『夜高行燈・曳山』より筆者作成 2023年1月15日作成 - 【資料3】 夜高行燈 優美さを競うコンクールで最優秀賞、優秀賞を受賞した行燈
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【資料4】 2日目 引き合いに向けて7基勢揃い
上り行燈が待ち構えるところに下り行燈がすり抜ける際に引き合いが始まる - 【資料5】 夜高行燈の引き合い 相手の山車に飛び乗ったり、釣物を引っ張ったり壊したりする。横町は大黒様(山車)が壊されないようにしっかりガードする。
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【資料6】 しゃんしゃんの儀
ホームページ『南砺市文化芸術アーカイブス 文化遺産 福野夜高祭』より転載
https://culture-archives.city.nanto.toyama.jp/heritages/project0001/
2023年1月23日閲覧 - 【資料7】 本祭 神輿の神幸祭、庵屋台、曳山参拝
- 【資料8】 復興の燈、文久の大行燈
参考文献
【註】
*1. 『時間のデザイン-経験に埋め込まれた構造を読み解く』P23~24
*2.互いの行燈を激しく壊す勇壮な儀礼的喧嘩。
下り行燈(上町、七ツ屋、新町)と、上り行燈(横町、浦町、辰巳町)が喧嘩する。中立の御蔵町は喧嘩しない。浦町、辰巳町と、上町、七ツ屋は本家と分家の関係にあり喧嘩はしない。
*3.夜高節の歌詞には、古いものと新しいものがある。藩政時代以降今でも唄われているもの、詩人野口雨情来町時に作ったもの、戦後一般から応募したものがある。
また、唄には上り・下り・途中・待つ間に歌う唄それぞれに違いがある。上りの時は声を張り高い調子で歌うが、その他では低い調子で歌う。
*4.しゃんしゃんの儀とは、町の中心四つ辻(通称銀行四つ角)での手打ち式である。各町内の裁許と氏子総代、警察官も立ち会い、当番裁許のかけ声で、「しゃんしゃんしゃん、しゃしゃんしゃん」と手打ちを行う儀式。翌年の当番裁許を引き継ぎ、挨拶して宵祭は終了する。
*5.曳山は、上町・七ツ屋、新町、横町、浦町・辰巳町の4基の曳山がある。文政年間(1818~1830)に各町で曳山を作り、天保年間(1830~1844)には四町の曳山が揃って引き回されたと考えられている。
*6.毎年6月第2金曜、土曜夜に開催。祭りを繰り広げる町内は14町。突き合わせは突き合わせ表のスケジュールに合わせて「南北6町内」対「西3町内」、「南北6町内」対「東5町内」で戦う。
*7.1973年東京銀座、1989年名古屋市、1996年神戸市・京都市、2011年フランス・リヨン市「光の祭典」、2013年・2017年福島県相馬市「相馬野馬追前夜祭」などの遠征活動と保存継承活動が評価を受けた。
*8. 『七ツ屋誕生150周年記念誌』p29
*9.平成12年より「文久の大行燈」とよばれる高さ12mをこえるかつて最も大型だった頃の行燈が有志によって制作され、復元展示と練り廻しを行っている。
【参考文献】
1.中西紹一、早川克美編『時間のデザイン-経験に埋め込まれた構造を読み解く』京都造形芸術大学 東北芸術工科大學出版局 藝術学舎、2014年
2.福野町史編纂委員会編『福野町史 通史編』福野町役場、1991年
3.福野町史編纂委員会編『福野町史 写真・統計編』福野町役場、1991年
4.福野夜高保存会編『記念誌 万燈』福野夜高保存会 福野夜高350周年記念事業推進実行委員会、2003年
5.福野時の会編『ふくの町立て散歩』福野時の会、1996年
6.小冊子福野夜高祭連絡協議会『福野夜高行燈・曳山』発行年月記載無し
7.ホームページ『南砺市文化芸術アーカイブス 文化遺産 福野夜高祭』
https://culture-archives.city.nanto.toyama.jp/heritages/project0001/ (2023年1月23日閲覧)
8.富山新聞社報道局編『南砺 八魂一如 「一流の田舎」への挑戦』富山新聞社、2018年
9.阿南透、藤本武著『富山の祭り -町・人・季節輝く』桂書房、2018年
10.七ツ屋誕生150周年記念事業記念誌委員会『七ツ屋誕生150周年記念誌』七ツ屋誕生150周年記念事業実行委員会、2018年
11.宇野通著『加越能の曳山』能登印刷出版部、1997年
12.高橋秀雄、漆間元三編『祭礼行事・富山県』桜楓社、1991年
13.富山県教育委員会編『富山県の曳山』富山県郷土史会、1976年
14.富山県教育委員会文化財課編『富山県の祭り・行事 -富山県祭り・行事調査報告書-』富山県教育委員会、2002年
15.北日本新聞社出版部編『とやま祭りガイド』北日本新聞社、2004年
16.北日本放送編『県民カレッジテレビ放送講座 とやまに祭りありて』富山県民生涯学習カレッジ、1994年
17.今村浩明、浅川希洋志著『フロー理論の展開』世界思想社、2003年
18.和田充夫 他著『地域ブランド・マネジメント』有斐閣、2009年
19.広告『福野夜高祭』福野夜高保存会、『夜高祭 夜高行燈順路図』福野夜高祭連絡協議会 発行2022年
20.パンフレット 夜行会『砺波夜高祭解体新書』砺波夜高祭有志若衆 夜行会、2012年
21.砺波市教育委員会『砺波ライフスタイルブック 祭り編』ヨーズマー、ワールドリー・デザイン、2013年
22.パンフレット『となみ野田園空間博物館 となみ散居村ミュージアム』となみ散居村ミュージアム、発行年月記載無し
23.チューリップテレビ、ダイドーグループ日本の祭り『小さな燈 大きな一歩 ~福野夜高祭~』2021年12月31日放送(2021年12月31日視聴)
24.総合政策部情報政策課広報係編『広報 なんとvol.211 令和4年6月号』南砺市、2022年
【インタビュー】
・福野 市街地在住 裁許経験者 男性80代
・福野 市街地在住 裁許経験者 男性60代
・砺波 市内在住 女性30代