粟嶋神社から知る宮座の形成とその変遷

寺本 和永

はじめに

和歌山県海南市下津町は県下にある7つの国宝建造物のうち実に4つ(長保寺・興福寺)が集中している古く歴史がある町で(長保寺は平安時代中期の長保2年(1000年)に創建され大門、本堂、多宝塔がそれぞれ国宝であり、これは全国で奈良県にある法隆寺と下津町の長保寺だけである)、方(かた)地区の粟嶋の森に鎮座している「粟嶋神社」も古く、社伝によると第12代景行天皇2年(72)に 少名毘古那神が硯浦に漂着し21戸の村民がこれを近くの森に鎮祭したのが始まりとされている。
この21戸の子孫が代々祭祀を継承し後世、明神講「大頭講」という宮座を形成して現在まで守り継いでいる。

『芸術教養講義10・人や地域をつなぐ文化的交流のさまざまなありかたやその歴史』の中の「第3章:祭祀集団-村落における祭祀集団-宮座、頭屋制など」で学んだ宮座という形態に興味を持ち、また家内の実家がこの粟嶋神社の明神講21戸の1戸であることから、地域における宮座の歴史的背景も含め粟嶋神社の由緒を宮司の宮本和典氏にお話を伺いながら自分なりに考察してみた。

基本データと歴史的背景

粟嶋神社 和歌山県海南市下津町方1101番地
祭神(主祭神)少名毘古那神
(配祀神)應神天皇 事代神主 天照皇大神 祇園天神 倉稲魂神 嵩徳天皇 猿田彦命
市杵島姫命

御神徳
粟嶋大明神、少名毘古那神は出雲の国へ粟種を持って君臨し、大国主神と共に、山川国土を造営し、万葉の昔から農業や海上の守り神として、また医薬や縁結びの神として霊験ありと参拝される人が多い。

由緒
社伝によると当時の粟嶋は海中に在り、「潮満たばいかにせむとか 方便海の 神戸渡る 海末通女ども」(1216年 境内に歌碑あり)と万葉集にも詠まれ今に伝えられている。

昔、神功皇后が三韓征伐の折に産気づき、凱旋するまで出産がないようにと当社に勅使を派遣して祈願しようとしたが、その時は風浪のため渡島できずに遠くから奉幣せざるをえなかったという。

(神社の前方、山麓の古道に沿って「弊使の隅」という古跡があり、この場所から祈願したのであろうと伝承されている。このことからも今とは違い鎮座地は硯浜の海中にあり、当時の人々は干潮時に干潟を渡って参拝していたことを窺い知ることができる。)

征伐なった神功皇后は凱旋中に船内で誉田別尊(応神天皇)を無事に出産し、それを祝って自ら矢の根で 少名典毘那神と大国主神の神像を刻み、帰国後にお礼参りとして「陣太鼓」と「神像彫刻船板」及び御召衣の「綾の舞衣」が奉納され現在も宝物殿に保存されている。

粟嶋大明神の海路を守る御神徳は、全国にまで広がり、中世以降はさらに信仰を集めたとされる。証左として粟嶋神社には古くから金属製の御幣が三本あり「宝永4年(1707)肥後の国はいで浦、かし浦、竹の浦、はとこ村小左エ門」と刻まれている。
奉納者の住所は現在の大分県南海部郡米水津村で、この場所に鎮座している同名の粟嶋神社の縁起についての同村史を抜粋すると、「粟嶋神社は戦前郷社にて遠近の尊崇あつし、縁起によれば正平の昔征西将軍懐良新王九国にくだるの際台風おこり御舟くつがえらんとす。供奉の士、渡辺左衛門尉紀州の粟嶋神社に、御舟をつつがなく岸によせ給らば一宇を建立すべしと願かけす。しかるに天気おさまり舟小浦の浜につく。よって渡辺左衛門尉粟嶋明神の分霊を勧請す」とある。
南北朝時代、九州に渡った征西将軍懐良新王が粟嶋神社に祈願して海難を乗り切ったことから大分県米水津村に粟嶋大明神を勧請し、同名の神社を建立したのである。

粟嶋大明神の神徳が遠くは関東にも及んでいたという証左として残るものに昭和50年に海南市文化財の指定を受けた石造神橋がある。
この神橋には「上州山田郡願主次郎助寛政九丁己八月」と刻まれていて、現在の群馬県桐生市の篤志家から寛政九年(1797)に粟嶋神社へ寄進されたものである。

事例の積極的評価点

神社に属するもので特定の株持ちによる祭祀への参画、その組織として宮座がある。
宮座の仕事は村役人、神宮寺の別当などと提携しながら神社の祭礼、修繕、遷宮、維持全般にわたっていて共同体の政治的経済にも中枢を占めているなど村の中でも重い役割を担う構成であった。
粟嶋神社においては景行天皇2年に21人の村民により創祀されたと社伝にあることから今も21戸が宮座を守り継いでいる。
毎年10月午の日(旧暦)に行う「大頭祭・明神講祭」は全員が裃・袴着用で奉幣・神饌(供え物)の供御や氏子による神輿や舞、頭屋交代の儀式があり、次に神体を迎え入れる頭屋の家には直会(なおらい)といわれる宮座の人数分の膳が開かれその座には女人は姿を見せてはいけない習わしとなっている。
今は時代とともに簡易的になってしまったようだが、古式さながらに行われていた頃の儀式では新藁で作った筒のなかへ新米を包み込み、その上に菊の花などの季節の花を添えた「新米の供御」はそれは美しかったと聞く。

今日なお守り継がれている他地区の宮座との比較

下津町に塩津地区という漁村があり塩津蛭子神社に元和5年(1619年)に記された『宮座由来伝記』がある。これによると楠木正成が湊川の戦いで足利軍に敗れてから南朝方が紀伊(和歌山)に落ち延び「北面某という者一両人など加茂の庄(古く下津町は豪族・加茂氏の名前より加茂の郷ともいわれた)より漸く塩津州の磯辺に茅家をしつらい云々」と塩津に住みついたことを記している。
「その由緒を求め浪人など追々この所に落ちて来りて住居す、その子孫枝葉繁茂して今巳に四拾八軒に及べり云々」と、南朝関係の武士の土着人をもって48軒の宮座構成員ができたとしている。
塩津浦は漁村であり最も深い「えびすさま」を祀った蛭子神社を中心にして、村内の有力者達で宮座株を持ち神社の祭祀を頭屋(輪番制)で司っていた。
粟嶋神社宮司の宮本氏の話によると粟嶋の宮座形成も蛭子神社の南北朝動乱期と時を同じくするのではないかとのこと(残念ながら詳しい資料は戦火で焼失)

今後の展望

宮本氏の話では京都の仁和時に残る古文書のなかに文永年間(約750年前)亀山天皇の時代に当時の浜中荘領主(仁和寺)より広い社用地を寄進され風波の激しい硯浦の宮居から現在の宮の谷へ荘厳を整え祀ったことが記されているとのことである。
中世以降の神社信仰を廃仏棄釈の大変革期まで支えてきた粟嶋宮座の力は大きく明治になって宮座の中から神官の専任制が生まれ現在、宮司を務める宮本家も元は21戸の宮座の一つであったという。
(天保10年(1839)に紀州藩が完成した『紀伊続風土記』のなかに当時の神主は宮本氏であると記している処あり)
また、他地区の講では時代とともに後継者である若者離れ等、宮座の使命も希薄化する中、粟嶋神社では正月や農閑期の卯の日には講仲間が神社に参拝し直会をして親睦を温め合っているから何とか宮座は守り続けられてきているのだという。地域性もあるのだろうが今後、祭祀を執り行う組織編成を他地区と切り離すのではなく広く大きな共同コミュニティーとして組み立てることが出来れば町の活性化にもつながるのではと考える。

まとめ

今回は大学の履修テキストの学びから、普段は意識もせず当たり前のように鎮座している粟嶋神社の由来や神社の祭祀にかかわる宮座、頭屋制に興味を持ち宮司の宮本氏にも直接お話を伺うことができ、初めて地域における神社の歴史や文化、伝統の継承を学ぶことができた。
宮座に関しては中世以降、近畿地方を中心として見られる地域構造の一つで神社を中心とした村落の形成には重要な位置を占めていたと知る。少子高齢化もあり世襲制でもある宮座は今後伝承も制限されていくかもしれないが古くから伝わる伝統ある風習は守り続けて欲しいと心より願う。

参考文献

参考文献

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野村朋弘編『伝統を読みなおす5 人と文化をつなぐもの―コミュニティー・旅・学びの歴史』
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小川直之・服部比呂美・野村朋弘編『伝統を読みなおす2 暮らしに息づく伝承文化』
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『地域学集録 祭り』  昭和61年3月19日 下津第二中学校 編集・発行 19頁~21頁 参考

芝村 勉 著『紀伊國 海南Ⅱ名所図会を歩く(下津)』 2020年 79頁~80頁 参考

芝村 勉 著『紀伊國 海南Ⅱ名所図会を歩く(下津)』 2020年 89頁~91頁 参考

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『下津町史 史料編・下』昭和49年7月発行 下津町史編集委員会 863頁~876頁 参考

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粟嶋神社社務所資料秋遷座七百年記念号(小冊子)昭和51年発行 『あわしま』 参考
『少名昆那神と粟嶋神社』藤田祐三 著 平成二年秋遷座祭記念 粟嶋神社社務所発行 参考

長保寺/海南市 (kainan.lg.jp)  元気・ふれあい・安心の町 海南市(2022 12月24日回覧)

閑古鳥旅行社 - 善福院釈迦堂 (kankodori.net)  (2022 12月24日回覧)

和歌山県神社庁-粟嶋神社 あわしまじんじゃ- (wakayama-jinjacho.or.jp)
                 和歌山県神社庁 (2022 12月24日回覧)
和歌山県神社庁-蛭子神社 ひるこじんじゃ- (wakayama-jinjacho.or.jp)
                 和歌山県神社庁 (2022 1月14日回覧)

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