紀州東照宮 和歌祭の装束

黒田街子

【紀州東照宮 和歌祭の装束】

紀州東照宮は、徳川頼宜が和歌山市和歌浦雑賀山に造営、1621年に完成した。境内には、本殿・拝殿・本地堂・護摩堂・開山堂・三重塔があったが、明治5年の神仏分離令によって取り壊され、現在は本殿・拝殿・楼門・回廊・唐門が残るのみである。社殿は権現造で、漆塗の極彩色で彩られ、各所に細密な彫刻がほどこされており、豪華絢爛な江戸時代初期の建造物として、現在では国宝に指定されている。和歌浦の海辺に建造された理由について、古より和歌浦一帯が聖地であったからとされる。
和歌祭は、徳川家康の命日(旧暦4月17日)に行われていたもので、東照宮完成の翌年(1622年)から東照宮大祭として始まり、390年に及ぶ歴史と伝統を持っている。祭の当日は、氏子たちの手によって、神輿が侍坂(正面の石段)を下山することから始められる。藩政時代は、ここから出島を経て市内の州崎(片男波海岸)にある御旅所に渡御することを通例とした大行列であった(「東照宮縁起」尊純法親王筆、住吉広通画)が、現代では諸々の事情から株組織で口承していた伝統が、消滅の危機に波及している株も少なからず存在している。
私が和歌祭に興味を持ったきっかけは、「和歌祭」(市立博物館の学芸員が「この本が最も詳しいです。」と説明された)を著された故・米田頼司氏に、出版に至る詳しい経緯を伺う機会があったからである。特に、ニューヨークのパブリックライブラリーで写真に収めて来られた「和歌御祭礼渡り物之内餅搗踊之図」について熱く語られた。又、「和歌祭」の発行元である帯伊書店(「紀州名所図会」発行)の先代の故・高市績氏(高市家13代当主、本中1950年代の和歌祭写真提供)ご夫妻と懇意にさせて頂いていた関係で、幾度となく和歌祭の今昔の違いや様子についての話を聞かせて頂いた。
今回、その和歌祭の装束について調べることとした。それは、7年位前に東京神田古書街にて「紀州東照宮の染織品」(神谷榮子著)を見つけて購入したが、その中に和歌祭舞楽装束が紹介されており、素晴らしい染織品が祭に用いられていたのだということに驚き感動した事にもよる。又名刹の西国二番札所である粉河寺より、「古くなった法被を使って欲しいのですが。」と声をかけて頂き、譲り受けて昨年の名古屋で開催された、百貨店開業400年記念事業のパッチワーク展示会に、キルト作家としてその古布を使ったパッチワークキルトを創り展示した。その際ギャラリートークの依頼を受け、メインの布は江戸期に流行った藍染の縞模様の布を用いていること、外回りのボーダーには粉河寺の古布の法被を用いたこと等の話をした。その後、和歌祭の装束はどこに納められているのか、古くなったものの修復はされているのか、装束はどのくらい残っているのか等々の疑問が沸いてきたので調査を始めた。
まず、和歌山県立博物館で2011年に開催された「華麗なる紀州の装い」展を企画された安永拓世(現東京文化財研究所学芸員)氏に話を伺い、紀州東照宮より県立博物館に寄託された染織品を手続きして見せて貰うこととのアドバイスを頂き、その他の染織品に関しては個人蔵となるので、その方面に詳しい方を紹介して頂いた。その方が、和歌山県庁文化遺産課の蘇理剛志氏で、殆どの和歌祭の装束は東照宮の祭蔵にしまわれており、膨大な量なので祭の際にしか開けて見ることは出来ないとの話だった。蘇理氏が餅搗踊りを伝承している寺本ともこさんに連絡してくれ、寺本さん自身も幼児の頃に着て祭りに参加し、現在は三人の女児に着付けをしているという装束を見せて頂くことが出来た。
株組織で各家庭が伝承している風流踊りの中の餠搗踊を寺元家が伝承、寺本さんのお祖母様が京都に発注して装束を作られた際の値段が、一人分で300万円かかったとの話だった。劣化した絹地の修復は高価なため、現在の装束は絹ではなく化繊に元々付いていた刺繍を付け替えたものとの説明を受ける。その刺繍の伝承者も少なくなっており、直径5センチ位の小さなものでも一つが3万円するとの話で、劣化した刺繍を修復するのは金銭的に難しいので、できるだけ大切に保存していきたいとの話だった。「和歌祭」を著された米田頼司氏に風流の踊りについて伺った際に、「風流について描かれた絵図を繙いてみると、餠搗踊の臼の中に餠が見えるものがあるので、実際に餠をついていたのではないかと思います。」と話されていたが、寺本さんにその点について訊ねると、「そうです。実際に餠をついて皆さんに配ったと祖母が話していました。」との事だった。初期の時代の行列は巫女の方が一人おられる以外は、全て男性であったとの話だが、現在の餅搗踊では女児と女性が参加することになっているので、寺本家に二人しかいない女性を何とか繋ぎ役にして、伝統を受け継がせたいとの話だった。
紀州東照宮の西川宮司の承諾書を頂き、県立博物館に寄託されている装束を見せて頂いた。図録に掲載されている装束を、間近で見る事が出来た感動は大きい。常装束の「袍」「下襲」「半臂」「表袴」の4点を詳細に見た。これらは全て、「和歌祭祭礼所用具」として和歌山県指定文化財となっている。所々劣化した部分を修復してあり、その針目が緻密でない部分もあり驚いたが、応急処置のままということなのだろうか。「袍」の刺繍花紋の微妙な色の組み合わせと配置、剥ぎ合わせ部分の色糸の変化、裏から見た刺繍の針の運び、それらの一つ一つが鮮やかな緑色をより一層のものとしていた。又、刺繍と友禅染が組み合わされた「下襲」の装束は、各所に傷みも見られたが、組み紐を用いて縁取り(技術的に難しい)がなされ、松喰い鳥は友禅染に松の折枝と鳥の脚が刺繍されているという高度なテクニックを要したもので、最も印象深かった。これらの行列がお旅所へ到着し、神事の後に舞楽が奉納されたが、儀式や法会を荘厳するという和歌祭における重要な役割を担っていた舞楽の装束としての高貴さを目前にし、歴史の重さを感じると共に改めて残し伝えることの大切さを痛感した。
図録に掲載された舞楽装束以外に餠花であろうかとされた木綿の装束も見せて頂く。木綿に関しては、昨年郡山美術館で館長の佐治ゆかり氏が収集されている江戸時代の木綿の数々を見せていただいた。木綿の布は、劣化していない部分を用いてパッチワークし、別のものに生まれ変わらせることも多い。丁寧に包まれた舞楽装束とは違って、段ボールに入れられていた風流の装束は、今後もっと研究され保存についての検証がなされるべき価値あるものであろう。紀州東照宮の祭用蔵にある染織品の中にも、数多くの価値ある染織品があるに違いない。
「袍」「下襲」「半臂」「靴」「糸鞋」「鳥甲」「石帯」これらの総数23点については、「東照宮の染織品」の著者神谷榮子氏が、元和7年(1621)の東照宮建立当初の装束や補填裂ではないかと思われると書かれている。古い時代の染織品が残されて伝えられていくためには、多くの人たちの苦労や努力、信仰の力、その時々の権力も必要で、時には偶然の力によって奇跡的に守られて来たのであろう。今後文化遺産として価値あるものとなるであろう数々の染織品が、どのように受け継ぎ守られていけば良いのかを考える時、一人でも多くの市民・県民・国民にその価値を認識してもらうべく、声をあげ続けることが大切ではないだろうか。
今回実際に目の前でその詳細を見る事が叶った二種類の装束は、古さに大きな違いがあり使われる場も違っているが、「新しい年が始まると、5月17日に合わせて身体が反応するのです。祭りが終わると、まるで一年のお役目が果たせてしまったかのようで、ほっと安心します。祖母から受け継いだものをまずは孫に着実に伝えようと思います。それが私の一番のお役目だと信じています。」そう話された餅搗踊を継承する寺本さんを、来月の会(月一回の集まりを古民家で開催)に招き、装束の説明と着付けを披露して頂くことにした。又、この4月から全国展開される(公財)日本手芸普及協会の学習会を担当する際にも、実際に間近で見た時空を超えて語りかけてきた染や織、そして一針の運びについて伝えて行きたいと思っている。いつの時代にも針を持つ感覚には、共通する思いがあるに違いないと思う。

  • 「紀州東照宮縁起」和歌祭全体図右半分(非公開)

    「紀州東照宮縁起」和歌祭全体図左半分(非公開)

    「袍」(舞楽装束)(非公開)

    「下襲」(舞楽装束)(非公開)

    「半臂」(舞楽装束)(非公開)
  • 987383_d0767dcfcace4ea2a06c6e8bfca946d8 餅搗踊装束(3歳女児)
  • 987383_281771878da54a4195fe36877d6d246a 餠搗装束
  • 987383_f4ee821b5afe42ae9d24883e788969c0 餠搗装束刺繍

参考文献

米田頼次著『和歌祭』帯伊書店 2010年
神谷榮子著『紀州東照宮の染織品』芸艸堂1980年
田中敬忠著『和歌祭の話』 1979年
荊木淳己著『郷土のまつり』和歌山民族学会
『華麗なる紀州の装い -かみ・ひと・ほとけをつなぐー』和歌山県立博物館 2011年
『和歌祭 ー祭を支えた人々、祭に込めた思いー』和歌山県立博物館 2006年