生根神社の「だいがく祭り」 ー未来へ繋げていくためにー
1 はじめに 〜所在地と概要〜
大阪難波から南に行った、大阪市西成区玉出という場所に生根神社がある。この辺りはマンション、住宅、商店街などがある場所だ。生根神社は木が生い茂る大きい神社ではなく、この町に溶け込んだやや小さめの神社である〔写真①〕。このような生根神社で毎年7月24日、25日の夏祭りに高さ約17m、重さ約4tの「だいがく」という、巨大な「建て物」が境内に現れるのである。この「だいがく」は昭和47年に「玉出のだいがく」として大阪府指定有形民俗文化財第1号の指定をうけている。
かつては大阪の他の場所にも「だいがく」が複数存在し、生根神社氏地の「だいがく」も5,6基あった。1基に80~100人の人数で舁いて練り歩いていたそうだが、明治、大正には舁かれなくなり、「だいがく」を見ることもなくなっていった。「だいがく」は戦後一基だけになったのである。
現在は夏祭りの夜に、神殿の横に建てられた「だいがく」側で音頭取り〔註⑴〕がだいがく音頭を歌い、「だいがく」上では太鼓が叩かれ、揺らしたり、提灯の付いた心棒を勢いよく回したりするのである。そして、揺らされるたびに「だいがく」の上に付いている鈴がシャンシャンと音をならし、祭りの雰囲気を華やかにしている〔写真②〕。
近年になり、氏子達の舁きたいとの希望から、文化財とは別に小ぶりの「だいがく 」が近所の公園で舁かれている〔写真③〕。この2日間はたくさんの人々が「だいがく」を鑑賞しながら、夏祭りを楽しんでいるのである。一度は見なくなった「だいがく」が復活し、再び消えないために取り組まれていることを調査し、同じように祭が復活した大阪市浪速区の「難波八阪神社」と比較し考察したい。
2 「だいがく」とは
「だいがく」の起源は平安時代の初期といわれている。この頃難波一帯が旱魃の災害に遭い、地域の人が降雨祈願をした。その時に御神燈と鈴を付けた約50メートルもの櫓を建てて降雨を祈ったところ、大雨が降った。この感謝の意を表して祈願の時に用いた櫓を台に取付け舁いて練り歩いたのが「だいがく」のはじまりといわれている。その後、雨乞いの時、喜びごとの時などにこれを舁いたのである。
毎年7月になると「だいがく」の準備が始まる。倉庫にある「だいがく」の心棒やヒゲコなどを出し洗う〔写真④〕。そのヒゲコに赤と黒の紙を貼り、鈴を付けていく〔写真⑤〕。祭りの2日前には心棒の最先端にダシをつけ、榊と御幣、ホコをつけ、その下に鈴を付けたヒゲコ、提灯を組み、立て起こすのである〔写真⑥〕。〔「だいがく」の各部分の名称は資料①を参照〕
3 祭の廃止と復活
平安時代に始まった「だいがく」は形を変えながらも、舁かれてきた。平野区の杭全神社でも「だいがく」が舁かれていた。江戸時代末には玉出・難波・木津の三地域に各6基、計18基あり、盛大に舁かれていたが、明治時代には6基になっていた〔註⑵〕。さらに、電柱が立ち電線が張り巡らされ、背の高い「だいがく」は舁き歩けなくり、費用がかかることから廃止の方向へと向かった。そして、戦争による自粛、人手不足により姿を消し、さらに戦火により大阪の「だいがく」は燃えてしまったのである。
「だいがく」が復活したのは、生根神社の「だいがく」が奇跡的に1基だけ残ったからである〔註⑶〕。昭和27年に岡山で保管されていた「だいがく」が生根神社に戻ってきた。これにより、氏子の人達が集まり、「だいがく」を復活させたのである。
4 現在の保存活動と問題点
「だいがく」はヒゲコに貼る紙の数、貼り方、紐のくくり方などすべてにおいて決まりがあり、若手の氏子は「1年経ったら忘れるなー」と今年も教えを受けていた。平日の作業も多く、仕事のある若手の参加は少なく、高齢の方が多いようである。若い世代はお祭当日の舁き手、太鼓には中学生ぐらいの子が見られた。「だいがく」を組み立て、祭当日に「だいがく」を盛り上げる。両方が継続されてこそ伝統が守られる。関係が少なかった、玉神会、舁き手、だいがく音頭の音頭取り、青年会の横のつながりを持つために、近年、各会の代表者達が集まりだいがく保存会が結成された。年齢の違いがあり、考え方が違うため結束するのには時間がかかりそうである。
そして、男、女、子どもだいがくの十分な舁き手の人数確保のために、学校や各種団体に声をかけるなどの取り組みを行っている〔註⑷〕。若い時から祭に関わることは、地域や祭への愛着が生まれるであろう。また夏祭りだけでなく、冬至の「こつま南瓜祭り」も昭和61年に神事として復活し地域の人との交流を増やしている〔註⑸〕。
「だいがく」は人手も資金も必要な祭りである。「だいがく」の中心の心棒はまっすぐな二十メートル以上の檜が必要で新調する時は何年も前から準備し、高額な資金がかかるそうだ。また、大阪府指定有形民俗文化財第1号でありながら、大阪府民で知らない人も多い。
5 復活した難波八阪神社の船渡御
「玉出のだいがく」のように一度消えたが復活した祭りは日本の他の地域でも多々ある。大阪の難波八阪神社ではかつて北の天神、南の八阪といわれるぐらいの船渡御が行われていたが、江戸時代に船渡御中の事件で奉行により渡御が廃止された。大正6年に船渡御を除いた渡御が復活し、平成に入り、その当時の宮司さんをはじめ、氏子や商店街の復活させたいという思いを受けて、平成13年230年ぶりに復活した。当初は船の数も少なかったが、年を追うごとに船の数も増え賑やかになっていった。
共通点
一度途絶えたが、氏子の思いによって復活した。大阪南部地域で市内にあり、外国人の住人が増えている。両方ともだいがく保存会や船渡御保存会を設立し、存続に強い意志を感じる。
相違点
「だいがく」のような建て物がない。船渡御は道頓堀など華やかな場所でおこなわれ、知名度が高くなる。企業や店舗が多いため団体の支援が多く人が集まりやすい。近年、難波八阪神社の境内にある獅子殿がSNSで有名になり、若者、外国人の参拝が多数見られる。〔註⑹〕
6 継続していくために
人手、資金を維持するには「だいがく」の知名度を上げ、氏子以外、過去に氏子であった人、関わりのあった人など「だいがく」の保存に協力してくれる人を集める活動が必要である。また、知名度を上げるためにSNSの活用も必要であろう。実際に参加する人手を増やすことも必要である。最近は町内会に入っている人が減っている。そのことでつながりが減り、誘いの連絡も伝わりにくい。町内会に入っていなくても、誘い合える環境が必要であろう。
今回、組み立てに外国の方が参加していた。ベテランの人がその外国の方に祭り用語などを説明していた。少子高齢化、多様化する社会では、色々な人が参加、協力できることが大事である。また、難波八阪神社のように知名度、団体の協力などが増えていくことも必要である。
「だいがく」が事故なく行われることも大事である。祭当日、準備をしていた工務店の人が「異常がないか見てるんです」と言いながら、「だいがく」の近くで見守っていた。その規模を考えると、異常は大事故につながることが想像できる。事故などで祭りが消えることも防がなければならない。
7 まとめ
祭りの片付けの時、玉神会の人が宮司さんに「舁き手が文化財の「だいがく」を舁つぎたいといってましたわー」と話すと、宮司さんは「そんな言うて、どんだけ大変かわかってるかー」と言いながら顔がほころんでいたのが印象的であった。祭への想いが地元の人に続く限り、年齢の差を超え協力し継続するための改善をするだろう。未来、電線が地中化になった時、文化財の「だいがく」が舁かれる日がくるかもしれない。伝統を守りながら、時代に合わせた改善こそが存続へとつながるであろう。
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資料①
だいがくの各種名称 2023年1月15日筆者作成
1.ダシ・・・神楽鈴、心棒の最先端に取り付け、神霊の依り来るところ
2.藁を束ねたもの・・・藁を軽く握って一握りにした物を一束とし、これを心棒に等間隔で三箇
所に巻き付け、真ん中のみ方向を逆にして、長さ20センチほど出して切り
揃える
3.榊と御幣・・・神霊を招くためのヨリシロ
4.ホコ・・・赤地の木綿に梅鉢と巴の紋を縫いつけたものを円錐状にして心棒に取り付けた
もの
5.ヒゲコ・・・竹ひごを使用した円形状のものに、黒と赤の紙を貼り付けたものをヒゲコという
6.鈴・・・ヒゲコの周りに上段の大きいヒゲコは一周鈴を付け、下段の小さいヒゲコには外と内に一周
ずつ鈴を付ける
7.額行燈・・・大小のヒゲコの間にある。額行燈には「天下泰平、無病息災、商売繁盛、
交通安全」と書かれている
8.金縁額・・・ヒゲコの下に付けられる金色の紙で縁どられたひし形の額。真ん中に「生根
神社」と書かれている
9.御神燈・・・提灯に「御神燈」と書かれている
10.御神燈78個・・・78個の赤地の提灯で、表に「梅鉢紋」、裏に「巴紋」を白抜きした
もの
11.心棒・・・長さ約10間(14.05m)北側で育った檜の丸太。中心の柱
12.太鼓・・・台の上に据え付ける。祭りの日に太鼓がうたれる
13.舁ぎ棒・・・台に並べ麻縄でしっかり結ぶ。組立て方、縄掛けも代々受け継がれたやり
方で行われている
14.台・・・台の中心に心棒を差し込んで据え付け、舁き棒を付け、太鼓を据え付ける
心棒は回せるようになっている -
写真①
生根神社
2022年7月20日筆者撮影 -
写真②
7月24日祭り当日 だいがく音頭に合わせて太鼓が叩かれ、心棒を回したり、だいがくを揺らすたびに鈴の音が響いている。時々ヒゲコに貼られた黒と赤の紙が降ってくるのである。この紙を拾って持っているとご利益があるそうだ。
2022年7日24日筆者撮影 -
写真③
男だいがく、女だいがく(子供だいがくはコロナの影響で中止)
玉出西公園にて祭りの日、男だいかく(中だいがく)、女だいがくが舁かれている。だいがくの台の上には太鼓叩きの人と心棒を回し、揺らす人が乗っている。近くで歌うだいがく音頭の掛け声に合わせて鈴を揺らすため「シャンシャン」と鈴の音が聞こえてくるのである。
2022年7月24日筆者撮影 -
写真④
神社の近くの倉庫から「だいがく」の心棒やヒゲコの竹ひごなどを神社に運んでいく。
2022年7月15日筆者撮影 -
写真⑤
紙を貼って乾かしたヒゲコに昔ながらの男結びで鈴を付ける。鈴は落下防止ネットにワイヤーと落下しないための安全対策が、施されている。
2022年7月17日筆者撮影 -
写真⑥
すべて取り付けが終わった「だいがく」を立て起こす。
2022年7月22日筆者撮影
参考文献
註
⑴ だいがく音頭の音頭取りは歌を歌いたい方の希望者でできており、定期的に練習をしてい
る。祭りの日は「だいがく」の側で交代で歌われている。
⑵ かつて大阪府の南部地域で「だいがく」は例大祭や夏祭りなどで舁かれていたそうだ。
人形浄瑠璃や歌舞伎の演目のひとつ「夏祭浪花鑑」にだいがくが登場する。浪速区の敷津
松之宮の木津だいがくの10分の1の模型が大阪歴史博物館に寄託され、平野区の杭全神社に
は今川地区の「だいがく」を描いた額などが保存されている。参考文献1)、2)
⑶ 戦時中、岡山の飛行場建設に生根神社の地元の建設会社が請け負うこととなり、飛行場完
成の落成式に生根神社の「だいがく」を1基持っていき、舁いたのである。
⑷ コロナの影響で、学校や各種団体の参加ができていない状況である。
⑸ こつま南瓜は大阪市西成区玉出町(旧勝間村)で生まれた伝統品種。小さいが味が良く、綿と
共にこの村の特産だった。昔、飢餓がおきたとき、保存していたこつま南瓜を食べ飢えを
しのいだ。その感謝の意から生根神社に「かぼちゃ石」というのがあり、神事が行われて
いたが、戦災や工事により撤去され、こつま南瓜も栽培されなくなり神事もなくなった。
昭和61年冬至に「こつま南瓜祭」が神事として復活し、「こつま南瓜塚」も建立された。
祭り当日は平穏無事、無病息災を願って、境内で蒸したかぼちゃが配られている。
⑹ 筆者は年に数回、難波八阪神社に参拝している。また、船渡御の様子を過去に数回拝見し
たことがある。
聞き取りをした方々と日にち
祭り準備の7月15日、17日、22日準備に参加して聞き取り。
祭り当日24日、片付け26日聞き取り。
8月20日 3.4に聞き取り。
1.生根神社・吉見友伸 宮司
2.生根神社職員の方々
3.玉神会・長井会長
4.玉神会の会員の方々
5.組み立てを行っている水野工務店さんの方々
6.生根神社氏子の方々
7.だいがく保存会の方々
聞き取りにご協力いただきました方々にこの場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。
参考文献
1)大阪府指定有形民俗文化財第一号 玉出のだいがく 生根神社「だいがく祭り」調査報告書
生根神社、2003年
2)日本の祭り 第6巻 [近畿Ⅱ]、加藤勝久、講談社、1983年 図版19 P133-19
3)日本の祭と神賑 京都・摂河泉の祭具から読み解く祈りのかたち、森田玲、創元社、
2015年 P68〜P75 P202
4)大阪の祭 旅行ペンクラブ編 今東成人 東方出版 2005年 P85、86、99、100
5)朝日新聞 朝刊 ミナミやねん!
2005年9月4日 32ページ
6)朝日新聞 夕刊 関西遺産
2018年9月19日 2ページ
7)芸術教養演習1 レポート
参考ウェブサイト
5)上の天神 生根神社 公式ホームページ
www.ikune.net 2023年1月16日最終閲覧
6)難波八阪神社公式ホームページ 夏祭 船渡御
https://nambayasaka.jp/?page_id=144
2023年1月17日最終閲覧
7)大阪市 住民基本台帳人口・外国人人口 ページ番号6893
https://www.city.osaka.lg.jp/shimin/page/0000006893.html
2023年1月17日最終閲覧