無言館 ~今を生きる私たちへの課題~

大八木 亮

長野県上田市郊外。小高い丘の上に建つ「無言館」(図1)は1997年に開館した。太平洋戦争などで亡くなった画学生の作品を展示した美術館であり窪島誠一郎(1941-)の私設美術館である。

1-1. 基本データ
正式名称・一般財団法人戦没画学生慰霊美術館無言館
所在地・長野県上田市古安曽山王山3462
館主、設計・窪島誠一郎
竣工・1997年5月
展示品・戦没画学生の作品である絵画、彫刻、絵具、手紙、写真など常時80点ほど展示

1-2. 歴史的背景
無言館設立の背景は、1977年の野見山暁治(1920-)らの著書「祈りの画集 戦没画学生の記録」(註1)の刊行にまで遡る。この画集は、1974年のテレビ番組「祈りの画集」で野見山氏自身も卒業した東京美術学校の戦死した同級生の作品を探しに行く企画の延長線上で作られたものであり、全国の遺族を尋ね、その作品を発掘する内容となっている。

1995年、窪島氏は自身の運営する「信濃デッサン館」(現・KAITA EPITAPH 残照館)にて毎年開催していた公演に野見山氏を招いた。この出会いを契機に画集のみではなく、戦没画学生の遺品を収集し、保管、そして展示を行うという計画を模索した。

この活動に協力的な遺族、感謝する遺族、懐疑的な遺族、否定的な遺族、その反応は様々であった。しかし、開始間もなくして、当初は信濃デッサン館の傍らのスペースで展示しようとしていた計画が崩れてしまうほど、戦没画学生の作品が多く集まりはじめていた。
ここで新たな美術館の設立を計画するが、資金や用地などの目途が立たず、明確な展望はないまま、ひとまず新美術館設立の基金を募る活動を並行して行った。
やがて、この募金活動により、戦没画学生の作品収集活動が注目を浴び、広く報道されるようになった結果、募金活動は着実に実を結びはじめた。さらには、この活動が周知されるとそれに感銘を受けた団体も多く賛同するようになり、足りない資金は地元銀行から大口の融資を受けられることが決定し、用地は信濃デッサン館の近隣に市から公用地が提供された。これらにより、1995年から約1年半の歳月をかけ、約30近くの遺族の元を尋ねた作品収集の間に計画された、空想に近い新美術館設立計画は瞬く間に現実となったのである。

こうして、無言館は戦没画学生の作品収集開始から2年後の1997年に開館した。
窪島氏はこの活動における自身を「私は野見山先生たちが50年間沸かし続けてきたお湯で、インスタントラーメンみたいにたった3年間で美術館をつくろうとしている人間なのです」(註2)と著書に記している。

2. 評価
2023年現在、まもなく戦後80年を迎えようとしている。野見山氏が祈りの画集における活動を起こした時点で戦後約30年、無言館設立の戦没画学生の作品収集活動時点で戦後約50年であった(資1)。
戦没画学生の作品において、どの時点でも遺族から言われていたことは、“もう少し早ければまだ手元に作品があった”ということである。戦後10年でも20年でも、この活動が早ければ早いほど守られる作品は多く、遅ければ遅いほど失われた作品が多いということがいえる。
現に祈りの画集の活動から無言館の活動の間の20年間でも、多くの作品が失われていた。戦後50年時点で残っている作品においても、劣化が激しく、修復が必要な作品が殆どであった。
油絵においてはその寿命は凡そ100年と言われるが、戦没画学生の作品においては、その作品を守る遺族の寿命や環境というものを考慮しなければならないのである。

窪島氏が行動を起こした戦後50年は、遺族だけで作品を守ることができる限界に近い時期であったといえよう。この時期は作者の両親の多くは他界し、受け継いだ兄弟も高齢であった。また、子どもに受け継がれても保管場所がないなどの理由から、作品を守る術がなくなり、多くの作品が失われつつあった。この時点でも、遅いくらいであったこの活動を諦めず、さらには修復、保管し、美術館で展示するという行為は、その作品の保全、そして後世にその作品を繋いだといった点で評価でき、再び戦没画学生に命を宿した活動であるといえる。

2008年には、無言館開館以降も寄せられる戦没画学生の作品をより多く展示するため、新たに「第二展示館 傷ついた画布のドーム オリーヴの読書館」(図2)をオープンし、2014年からは国外の同様な戦没画家の作品収集を始め、その活動の幅を広げていることもまた評価できる。

3. 特筆される点
国内外に美術館は数多くある。戦没画学生の作品を扱う美術館もいくつかはあるのだが、期間や人物が限定された展示であるなど、全国的に戦没画学生の作品を常時扱う美術館は無言館だけである(註3)。

他の美術館のように著名な作者の作品やコンクールで受賞した作品が展示されているわけではない。無言館に展示されている作品はすべて無名の戦没画学生の作品である。
学生である彼らは作品を作ることで学び、そして戦争が悪化するに伴い、作品を作ることで自身を表現し、生きる証を残したのである。そこには一点として、功名心や売名心で描かれた絵などは一切ない。
彼らはただ、その作品の完成だけを生きる希望として、残すものへのメッセージとして、そして生命の糧として完成させた。無言館はそのような作品が展示されている美術館なのである。

無言館の命名の由来は、窪島氏も明言していない。ただ、「戦没画家の作品は無言で語りかけてくるものがあり、私たちはその語りかけとの対話で無言になってしまうことがある。」(註4)と語っている。
現に私が訪れた際も、学芸員の説明はなく、退館時に閲覧料を支払うというシステムから入館時の案内もなかった。ただ入口の軋む木の扉を開けると、コンクリートの薄暗い建物の中に作品が展示された空間が眼前に広がり、観覧者のすすり泣く声やため息がかすかに聞こえた(図3)。美術館としては他には類を見ない空間であった。

一般的に無言館は美術館とされているが、美術館としてはあまりにも特異であり、窪島氏自身も美術館として無言館が在るのかの答えを導き出せていない。
無言館は美術館か、資料館か、はたまた慰霊施設なのか。展示されているものは作品か遺品か。その存在価値が観覧者の意思に委ねられている美術館は特異であり、他の美術館と一線を画していることも特筆すべき点である。

4. 今後の展望
無言館の名が広まることに比例して集まった、抱えきれない戦没画学生の作品を収容するため、2000年に収蔵庫として「時の蔵」(図4)を建設した。その8年後には無言館の第二展示館を開館しており、現在も戦没画学生の作品が無言館に集まり続けている。
しかし、今は作品の収集、保全が最優先事項であっても、あと数十年もすれば無言館に新たな作品が届くことは稀になるであろう。それは先にも述べた通り作品がその寿命を静かに迎え、日の目を見ることなく失われる日がいずれ来るからである。
無言館としての新たな展望が問われる時期は、ここからであると私は考える。無言館が収集という役割を失ったとき、今ある作品をどう残し、後世に伝えていくのかが、無言館の今後の課題となる。

歴史的背景からも鑑みられるように、無言館の発端は全国に眠っているこのままでは失われてしまう戦没画学生作品の救出である。それは同時に、戦没画学生の作品を後世に残すという役割を担う。そして、それが後者の役割のみとなったとき、それをどう残すかに真価が問われはじめるのである。
先にも述べた通り、無言館はその役割を見出せていない。戦没画学生の作品を美術品として捉えるか、史料として捉えるか、遺品として捉えるか。それは後世に残された私たちが無言館を訪れ、その作品に触れて、今後の無言館の展望を決定しなければならないのではないだろうか。

5. まとめ
無言館に展示されている戦没画学生の作品は、絵画においては人物画や風景画が多く、ましてや画学生の作品であるから、いわば何ら変哲もない普通の作品なのである。決して戦争や平和にまつわる作品ではない。
人物画に至っては、家族や恋人、自画像などを描き、風景画に至っても、自身の住む町や自宅の庭、近所のあぜ道や道端の花を描いている。彫刻作品も少女の像や母の手など、身近なものである。
ただ、これを描いた時は戦争の影が色濃くなり、いつ戦地に駆り出されるかわからない状況下で、召集令状を受け取り出兵するまでの間や、戦地で描かれたものであるなど、その心境は決して普通ではなかった。

窪島氏は無言館を「反戦のプロパガンダには用いたくない」(註5)と語る。それは戦没画学生である彼らは決して反戦意思で作品を手掛けた訳ではないからである。
そのような彼らの作品にはどんな著名画家にも負けない、絵を描くこと、作品を作ることへの愛情がある。その心の声が、私たちの心を揺さぶり、深い感動を与える。
世界的な名画家の作品にも劣らない、戦没画学生の作品を今後どのように守り続けていくのか。それは無言館のみならず、今を生きる私たちにも委ねられている。

  • 81191_011_31681013_1_1_%e5%9b%b31%e3%80%80%e7%84%a1%e8%a8%80%e9%a4%a8%e3%80%80%e6%9c%ac%e9%a4%a8 [図1]無言館 本館の入り口(2023.1.7 筆者撮影)
    信州の鎌倉と呼ばれる塩田平に建つ無言館。春には桜が咲き、無機質なコンクリートの建物とのコントラストが美しい景色となる。
  • 81191_011_31681013_1_2_%e5%9b%b32%e3%80%80%e7%84%a1%e8%a8%80%e9%a4%a8%e3%80%80%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%b1%95%e7%a4%ba%e9%a4%a8 [図2]無言館 第二展示館 傷ついた画布のドーム オリーヴの読書館(2023.1.7 筆者撮影)
    一見、雪のように見える地面には、太平洋戦争末期に激戦地となった沖縄県糸満市の摩文仁の丘の砂利が敷いてある。
  • SONY DSC [図3]無言館 本館館内(無言館ホームページより、https://mugonkan.jp/mending/ 2023.1.9閲覧)
    実際の館内はこの写真よりもっと暗く、作品だけが浮き上がっているように見える。
  • 81191_011_31681013_1_4_%e5%9b%b34%e3%80%80%e7%84%a1%e8%a8%80%e9%a4%a8%e3%80%80%e6%99%82%e3%81%ae%e8%94%b5 [図4]無言館 時の蔵(2023.1.7 筆者撮影)
    無言館出口の裏側に時の蔵はひっそりと建っている。館内に展示されていない作品や修繕を待つ作品が約600点収蔵されている。
  • 81191_011_31681013_1_5_%e5%9b%b36%e3%80%80%e7%84%a1%e8%a8%80%e9%a4%a8%e3%80%80%e8%a8%98%e6%86%b6%e3%81%ae%e3%83%91%e3%83%ac%e3%83%83%e3%83%88 [図5]無言館 記憶のパレット(2023.1.7 筆者撮影)
    無言館の敷地内に記憶のパレットがある。戦時中の東京美術学校の授業風景の下に、戦没画学生約400名の名前が刻まれている。その中には作品が残っていない戦没画学生の名もあり、ここに刻まれた名前が画学生として生きた証となっている。
  • 81191_011_31681013_1_6_%e5%9b%b37%e3%80%80%e4%bc%8a%e6%be%a4%e6%b4%8b%e3%80%80%e5%ae%b6%e6%97%8f [図6]無言館収蔵品 家族(伊澤洋 1917-1943、無言館ホームページより、https://mugonkan.jp/collections/ 2023.1.9閲覧)
    奥で絵を描いている青年が伊澤洋自身である。実際の風景を描いたわけではなく、理想の家族風景を描いた空想画である。
  • 81191_011_31681013_1_7_%e5%9b%b37%e3%80%80%e5%92%8c%e5%ad%90%e3%81%ae%e5%83%8f [図7]無言館収蔵品 和子の像(太田章 1922-1944、無言館ホームページより、https://mugonkan.jp/collections/ 2023.1.9閲覧)
    太田章氏の妹の姿である。妹は疲れてしまい、弱音を吐くたびに叱られながら、このポーズを維持したという。
  • _page-0001 [資1]無言館の活動と遺族の年齢の対比表(2023.1.9 筆者作成)
    無言館の活動時期と遺族(両親・兄弟・子)の年齢を比較した表。

参考文献

註1 野見山暁治ほか著『祈りの画集 戦没画学生の記録』、日本放送出版協会、1977年

註2 窪島誠一郎著『「無言館」への旅 戦没画学生巡礼記』、白水社、2002年(P.233)

註3 SBC信越放送制作『無言館・レクイエムから明日へ』、SBC信越放送、2007年

註4 窪島誠一郎著『「無言館」ものがたり』、講談社、1998年(P.26)

註5 窪島誠一郎著『「無言館」の青春』、講談社、2006年(P.82)

窪島誠一郎著『わたしたちの「無言館」』、アリス館、2012年

窪島誠一郎著『「無言館」にいらっしゃい』、筑摩書房、2006年

NBS長野放送制作『「生きゝる」ということ ~無言館を創った男 窪島誠一郎~』、NBS長野放送、2023年

無言館ホームページ
https://mugonkan.jp/(2023.1.9閲覧)

年月と地域
タグ: