岩山から生まれた聖俗真逆の空間デザイン 鋸山の古と今、そして、其の先へ
はじめに
鋸山は千葉県の富津市と鋸南町に跨り、かつては上総と安房の国境があった。その空間は富津市側の北麓が房州石採石の産業遺構、鋸南町側の南麓は日本寺という聖俗(1)真逆の構成を取る。本稿では両麓の空間に刻まれた歴史を辿り、空間性・時間性ともに優れたデザインであることを評価する。そして、両麓の融合に向けた新たな動きも考察する。
1.基本データ
名称:鋸山(のこぎりやま)
東西の稜線が鋸の刃に例えられ、名付けられたとされる(2)
所在:富津市金谷地区(上総)/鋸南町元名地区(安房)(資料1)
標高:329m(関東百名山、日本百低山、房州低名山)
周辺の山が低いことや切り立った岩肌が、見る人に高い印象を与える(3)
地層:海底火山の噴火物が堆積した竹岡層、萩生層、稲子沢層から成る(資料2)
植生:北麓はコナラなど冷温帯性落葉広葉樹林
南麓はスタジイやアラカシ、バクチノキなど暖温帯性常緑広葉樹林
尚、空間構成は資料3にまとめた。
2.歴史的背景
鋸山の空間が変化したのは、両麓ともに江戸後期(4)だ。
北麓では採石が大規模に行われ、鋸山で採れた房州石(5)は日本の近代化を支えた。とりわけ頂上部の竹岡層の石質が良く(6/資料4)、市場で高く評価される。そのため石屋はこぞって採石を展開し、地域の男も女も働いた(7)。最盛期は明治後期から大正初期で、地域住民の8割が従事した。尚、房州石は台場や横浜港、皇居の造営に用いられた。
一方、南麓では日本寺和尚・愚伝(8)が南麓全体を仏教に親しむ場として再構築する。日本寺は725年、聖武天皇詔勅と光明皇后の命旨を受け、行基が開創した関東最古の勅願所とされるが、その経営は元禄地震などを受け、厳しい状況が続いた(9)。愚伝は江戸の羅漢ブームと旅ブームに着目し、1780年、自ら発願して、石工・大野甚五郎(10)に五百羅漢(11)を彫らせる。そして、山腹に点在する岩窟に配置し、参拝者が山を登りながら鑑賞できる「シークエンス景観」(12)を形成した(13)。結果、羅漢寺(14)の異名を取るほど、五百羅漢は人気を博し、江戸から多くの人が訪れた。中には文化人もいて、鋸山を題材にした芸術作品も生まれる。
尚、両麓の歴史と芸術は資料5と6にまとめた。
3.評価
現在の空間性と、その空間体験から生じる時間性を、川添善行の空間に関する論考(15)や中西紹一の時間に関する論考(16)を軸に考察する。
1)「『できる』空間」(17/資料7-①)と「『つくる』空間」(18/資料8)
北麓で高く評価すべきは、頂上部に点在する巨大採石跡と考える。採石跡の高さは最大で96mあり、その多くは幾何学的な形を成す。これには、鋸山の採石方法が起因する。採石には「平切り」(19)と「縦切り」(20)があり、職人がこれを組み合わせた。即ち、飽くなき職人たちが良質な石を追い求めた足跡だ。川添の言葉を借りるならば、意図せず、長い時間をかけて「『できる』空間」と言えよう。
また、筆者は本空間を俗なる空間と定義したが、現代では採石跡から美や神秘性を感じ、畏敬の念を抱く人は少なくない(21)。理由としては日本古来の石への信奉(22)や採石跡の圧倒的な大きさ(23)、採石の歴史性(24)などがあるが、いずれにせよ、巨大採石跡は俗なる空間ながら、聖なる空間要素も持ち合わせると考察する。
一方、南麓は川添の言う「『つくる』空間」と言えよう。南麓全体で聖なる空間を創出する。昭和期に造営された百尺観音は採石跡に彫られたもので、地獄のぞきも上総・安房の国境と言われ、採石跡だった。日本寺は俗なる空間をも聖なる空間に再構築した。
このような「つくる」力(25)の背景には廃仏毀釈や日本軍の管理下、寺焼失など苦難の歴史から復興を遂げようという、住職の強い意思があった(26)。尚、この力は江戸後期の愚伝を発端とするため、彼の功績を高く評価する。
2)登山/参詣の体験から生まれる時間のデザイン
北麓でも地域住民が「つくる」力を発揮し、現在は産業遺構に特化した観光登山の場として再構築される(27)。具体的には、登山道がかつての石材搬出路だ(資料7-②)。その道は頂上の採石場から麓の港までを最短距離で結ぶため、急勾配である。登山時は仰角で「主対象」(28)の巨大採石跡を目指す「シークエンス景観」が形成され、採石に関わる遺構が山を登りながら見られる(資料9)。また、山腹に放置された石材や石の屑「ズリ」(29)には美しい苔が生え、採石後の時間性も感受できる。
これら空間体験を通して生じる時間性は、エドマンド・リーチ(30)の通過儀礼論と一致する(資料10)。具体的には登山口から森へ入ることで日常の時間から「分離」し、登山道では当時の営みや事後の時間性を感じることで登る行為に儀礼的な「形式性」が生じる。頂上部に到着すると、巨大採石跡が現れて非日常の時間に「移行」し、前述した聖なる空間要素も働いて「逆転・役割転倒」(31)が生じる。聖なる時間の創出だ。下山後は祭事後の直会に値する「統合の儀礼」(32)として麓の店(33)で飲食し、日常の時間に「統合」して帰っていく。
一方、南麓も前述したように「シークエンス景観」が形成される(資料11)。鋸南町立歴史資料館館長・笹生浩樹によると、愚伝は南麓の再構築を手掛けた際、参拝者を西国浄土へといざなう(34)、物語性のある景観を構成したと考えられ、今もそれは継がれる。しかし、その一方で首の無い羅漢像が数多く見られる。明治・大正期の参拝者が迷信を信じ、首を持ち帰ったものだ。俗なる行為だが、謝罪の碑もあり、その物語性も感受できる。
このように聖俗の物語性を併せ持つ空間を歩くことで生じる時間性も、リーチの儀礼論と一致する(資料12)。
3)復興活動から生まれる時間のデザイン(資料13)
2019年、台風15号の被害を受け、北麓では金谷ストーンコミュニティー(35)が復興プロジェクトを立ち上げる。活動は月1回(36)、登山道の整備や景観の保全を行い、毎回、地域内外から30人程度が参加する。本活動は倒木伐採など危険な作業も多いが、森が蘇る姿をつぶさに見ることができる。その上、山中には埋もれた産業遺構が多い。本活動でも石のストックヤード跡や猫丁場が発見・整備され、一般公開された。即ち、本活動は空間を「つくる」行為と言えよう。しかも、没頭して活動できるため、そこで生じる時間性はミハイ・チクセントミハイ(37)の言う「フロー状態」にあり、持続可能な活動に繋がる。
4.特筆
鋸山は2021年、日本遺産の候補地域に選出される。富津市と鋸南町が日本遺産に立候補した際、手本とした宇都宮市の大谷石文化(38/以下、大谷)と比較すると、空間構成、動線、周縁との関係性の相違から、鋸山の「全体性」(39)が浮かび上がる。樋口忠彦の景観に関する論考(40)などを軸に考察する。
尚、大谷のデータや比較は資料14と15にまとめた。
1)山ということ
明治の文豪・夏目漱石は漢詩で「鋸山 鋸のごとく 碧 崔嵬(さいかい)たり」(41)と詠み、山の豪気さを評価する。
反面、樋口によると、古来、日本人にとって自然は「母性的」(42)で、森は「人を囲むもの、包むもの」(43)であった。鋸山の植生は常緑樹が多く(44)、いずれの季節も緑豊かだ。故に、その森は訪れる人をいつも母のように包み込むと言えよう。
また、山を登る行為についても、樋口は山の持ち合わせる「垂直方向の意志力」(45)を習得することだとし、「山頂に立った時、山のもつ全ての意志力を自分の身に引き受け、大きな力をもったような気持になれる」(46)と論じる。しかも、鋸山は優れた空間性を持つため、その山を登る意味は大きい(47)。
加えて、眺望も特筆する。鋸山からは房総や三浦の自然、東京などの都市空間の他、富士山も見ることができる(48/資料16)。富士山は江戸時代、鋸山を紹介する絵図(49)にも記された。
2)海との親和性
漱石が訪れた保田海岸(50)が周辺地域にあるように、鋸山は近現代、海とセットで観光化された(51)。正岡子規(52)が「岩も皆 鋸山や 安房の海」と鋸山の広大さを詠んだように、海を含めて鋸山と捉えることもできよう。
5.今後の展望
鋸山が両麓で分かれるのは、空間だけではない。自治体が異なるため、情報編集、継承、交通においても同様だ(53)。しかし、日本遺産認定を向けた活動を機に、富津市と鋸南町が両麓の融合を図る(54)。筆者は鋸山と周縁を一体化し、津川康雄の言う「地域アイデンティティを醸成・表象する」(55)シンボル「ランドマーク・マウンテン」(56)とする情報編集とその継承、そして人が自由に行き交い、「からまりしろ」(57)も生む交通整備を期待する。
まとめ
鋸山の空間性と時間性、全体性を評価した結果、鋸山は江戸時代と同様、都会の人が旅し、英気を養う場になり得ると考える。加えて今は、復興活動に参加することで地域と関わりを持つことができる(58)。
地域の人口が減少する中(59)、継承の担い手は地域住民に限らない。地域創生に関係人口拡大が謳われる今、地域の境も外し、鋸山を愛する皆の「つくる力」で次世代へ継ぐ。温故知新の態度で聖俗も止揚する価値空間の協創を提起する。
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鋸山【聖俗の空間】
左:北麓(産業遺構)/右:南麓(日本寺)
画像左:公益財団法人鋸山美術館所蔵
画像右:2022年2月17日筆者撮影 -
【資料1】鋸山の所在
(1)富津市HP「鋸山」
https://www.city.futtsu.lg.jp/0000000317.html(最終閲覧日2022/7/23)
地図:地理院地図Vectorの地図に筆者が加筆して作成
<出典>
国土地理院
https://www.gsi.go.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
富津市
https://www.city.futtsu.lg.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
【資料2】鋸山の誕生
図解:『千葉県の自然誌』(別冊1)p21「鋸山形成概念」など参考文献をもとに筆者作成
<出典>
千葉県史料研究財団編『千葉県の自然誌』別冊1、千葉県、2005年
高梨正「鋸山と房州石」、『房州石の歴史を探る』第1号、金谷 石のまちシンポジウム実行委員会、2009年
高橋直樹「房州石の地質学的・岩石学的特徴」、『房州石の歴史を探る』第6号、金谷 石のまちシンポジウム実行委員会、2015年
沼田有紀『海いこ山いこ のこぎり山』、千葉日報社、2012年 -
【資料3】鋸山の空間構成
①鋸山全体
地図:国土地理院の地図やGoogle Earth、千葉県の関東ふれあいの道・東京湾を望むみちコースマップ、鋸山マップ、鋸山エリアマップなど参考文献をもとに筆者作成
図解:ケヴィン・リンチ『都市のイメージ』をもとに筆者作成
②北麓
地図:鋸山マップをもとに筆者作成
③南麓
地図:日本寺HPの「境内案内」をもとに筆者作成
<出典>
ケヴィン・リンチ『都市のイメージ』新装版、丹下健三・富田玲子訳、岩波書店、2007年
『鋸南町史』、鋸南町、1969年
国土地理院
https://www.gsi.go.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
Google Earth
https://www.google.co.jp/intl/ja/earth/ (最終閲覧日2022/7/23)
関東ふれあいの道コースマップ(千葉県)
鋸山マップ(鋸山復興プロジェクト)
鋸山エリアマップ(鋸山ロープウェー)
日本寺
http://www.nihonji.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
【資料4】房州石
①房州石の種類
画像:公益財団法人鋸山美術館所蔵
②房州石の使用例
鋸山資料館全景の画像:公益財団法人鋸山美術館所蔵
この他の画像:筆者撮影。撮影日は以下の通り
鋸山資料館:2022年7月10日
靖国神社と山下公園:2022年7月4日
汐止橋:2022年4月23日
<出典>
千葉県史料研究財団編『千葉県の自然誌』別冊1、千葉県、2005年
鈴木士朗「房州石切出し実話」、『房州石の歴史を探る』第1号、金谷 石のまちシンポジウム実行委員会、2009年
高梨正「鋸山と房州石」、『房州石の歴史を探る』第1号、金谷 石のまちシンポジウム実行委員会、2009年
高橋直樹「房州石の地質学的・岩石学的特徴」、『房州石の歴史を探る』第6号、金谷 石のまちシンポジウム実行委員会、2015年
木嶋房由記「石の可能性―房州石消費地から見えてくるもの―」、『房州石の歴史を探る』第4号、金谷 石のまちシンポジウム実行委員会、2013年
金谷ストーンコミュニティー編『図録 房州石の歴史を探る』、2013年
土木学会 選奨土木遺産 汐止橋
https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/506(最終閲覧日2022/7/23) -
【資料5】鋸山の歴史
①近代以前
②近現代
<出典>
富津市史編さん委員会編『富津市史 通史』、富津市、1982年
富津市史編さん委員会編『富津市史 史料集2』、富津市、1980年
『鋸南町史』、鋸南町、1969年
鋸南町史編さん委員会編『鋸南町史 通史編』改訂版、鋸南町教育委員会、1995年
鋸南町史編さん委員会編『鋸南町史 現代編』、鋸南町教育委員会、1991年
「鈴木(士)家文書(富津市)」、(千葉)県史収集複製資料近世58
「岩﨑家文書(鋸南町元名)」、(千葉)県史収集複製資料近世60
岩﨑家文書「裁許状并裏絵図(本名村と日本寺の山論)」、鋸南町立歴史資料館所蔵
『金谷村誌』、金谷村誌刊行委員会、199-年
『きょなん歴史資料館』、鋸南町立歴史民俗資料館、2003年
金谷 石のまちシンポジウム実行委員会『房州石の歴史を探る』第1~12号、2009~2021年
金谷ストーンコミュニティー編『図録 房州石の歴史を探る』、2013年
愚伝「安房國鋸山薬師如来略縁起」安永九年(1780)版行、『諸国寺社諸縁起』、国立国会図書館所蔵
麻谷老愚編「房州鋸山石仏一件」、『祠曹雑識』50巻、1834年、国立公文書館所蔵
「千葉県産建築石材試験報文」、『地質調査所報告』第44号、商工省、1913年、国立国会図書館所蔵
玉泉大梁「乾坤山日本寺に就いて」、千葉県立千葉中学校編『千葉中学鋸山乃夏期生活』、千葉県立千葉中学校校友会、1920年
千葉県立公園審會・與世里盛春編『鋸山公園の栞』千葉県立公園資料第1輯、千葉県、1951年
大野太平『安房人国記 続』、房総人社、1967年
『鋸山』創刊号、日本寺後援会、1964年
斎藤夏之助『安房志』、中島書店、1972年
安田克己 文責『鋸山』、鋸山資料保存会、19--年(インタビュー記事から1982年と推察できる)
房総石造文化財研究会『房総の石仏百選』、たけしま出版、1999年
藤原拓人「鋸山日本寺縁起考-付・翻刻-」、『伝承文学研究』第41号、三弥井書店、1993年
清水信明「安房国三十四ヶ所・八十八ヶ所の開創時期について」、館山市文化財保護協会編『館山と文化財』会報第50号、2017年
宮坂新「安房国日本寺における大仏造立とその背景」、館山市文化財保護協会編『館山と文化財』会報第51号、2018年
竹内誠編『日本の近世 (14) 文化の大衆化』、中央公論社、1993年
道端良秀『羅漢信仰史 (大東名著選 (3)』、大東出版社、1983年
佐久間達夫編・著『伊能忠敬測量日記 本州東海岸測量篇』、伊能忠敬記念館、1988年
高柳真三・石井良助編『御触書天保集成』下、岩波書店、 1989年
関宏夫『漱石の夏休み帳』、崙書房出版、2009年
鋸山
https://nokogiriyama.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
日本寺
http://www.nihonji.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
日本寺住職・藤井元超、鋸南町立歴史資料館館長・笹生浩樹、公益財団法人鋸山美術館館長・鈴木裕士に対する聞き取り調査
【資料6】鋸山から生まれた芸術
漱石の漢詩の書き下し文(関宏夫『漱石の夏休み帳』参照)
「鋸山(きょざん) 鋸のごとく 碧(みどり) 崔嵬(さいかい)たり
上(かみ)に伽藍の曲隈(きょくわい)に倚(よ)れる有り
山僧日高くして 猶お未だ起きず
落葉掃(はら)わず 白雲堆(うずたか)し
吾は是れ北より来たりし帝京の客(かく)
登臨して此の日 往昔(おうせき)を懐(おも)う
咨嗟(しさ)す 一千五百年
十ニ僧院 空しく迹(あと)無し
只だ古仏の磅磄(ほうとう)に坐せる有りて
雨蝕(むしば)み苔蒸して 桑滄(そうそう)を閲(けみ)す
浮世(ふせい)栄枯の事を嗤うに似て
冷眼下(くだ)し瞰(み)る 太平洋」
<出典>
歌川広重《不二三十六景 安房鋸山》、1853年版行、館山市立博物館所蔵
上記作品の添付画像:鋸南町立歴史資料館館長・笹生浩樹撮影
谷文晁《鋸山》、『日本名山図会.天』、東陽堂、1903年、国会図書館デジタルコレクションより転載
上記作品の添付画像:2022年2月17日筆者撮影
夏目漱石『木屑録』、出版者・岩波茂雄、1932年、国立国会図書館所蔵
関宏夫『漱石の夏休み帳』、崙書房出版、2009年
松山市立子規記念博物館
https://shiki-museum.com/ (最終閲覧日2022/7/23) -
【資料7】鋸山北麓における空間の変遷
①頂上付近
「石の切り出し法」
図解:沼田有紀『海いこ山いこ のこぎり山』p64に筆者加筆
画像:2022年6月20日筆者撮影。吹抜洞窟内は立ち入り禁止だが、鋸山ガイドの安全管理下で撮影した
「採石過程」
図解:冨田和気夫、西田郁乃「ここまでわかった鋸山石切場跡―現地調査報告2―」、『房州石の歴史を探る』第9号、金谷 石のまちシンポジウム実行委員会、2018年、p20を参照
「採石の文様」
画像左:鋸山復興プロジェクトYouTubeチャンネル「岩舞台」を参照
画像右:2021年12月18日筆者撮影
②石材運搬道➡登山道
「運搬の変遷」
図解:鈴木士朗「房州石切出し実話」、『房州石の歴史を探る』第1号、金谷 石のまちシンポジウム実行委員会、2009年、p42~43に筆者加筆
「地図で見る変遷」
地図:同p36に筆者加筆
「高低差」
図解:冨田和気夫、西田郁乃「ここまでわかった鋸山石切場跡―現地調査報告2―」、『房州石の歴史を探る』第9号、金谷 石のまちシンポジウム実行委員会、2018年、p7を参照
「車力道」
画像左:公益財団法人鋸山美術館所蔵
画像右:2021年12月18日筆者知人撮影
「関東ふれあいの道」
「上総国天羽郡金谷村石山略図(部分トレース)」:冨田和気夫、西田郁乃「明治17年金谷村石山図と皇居造営丁場跡の現状」、『房州石の歴史を探る』第5号、金谷 石のまちシンポジウム実行委員会、2014年、p20を参照
<出典>
公益財団法人鋸山美術館館長・鈴木裕士に対する聞き取り調査
金谷 石のまちシンポジウム実行委員会『房州石の歴史を探る』第1~12号、2009~2021年
金谷ストーンコミュニティー編『図録 房州石の歴史を探る』、2013年
沼田有紀『海いこ山いこ のこぎり山』、千葉日報社、2012年
鋸山復興プロジェクト YouTube
https://www.youtube.com/channel/UCuOaUjhBK-MAsk_8GnSvRMg (最終閲覧日2022/7/23)
【資料8】鋸山南麓における空間の変遷
①近世
(1)十返舎一九『十返舎一九の房総道中記』、鶴岡節雄/校注、千秋社、1984年、p34
画像❶~❸:岩﨑家文書「裁許状并裏絵図(本名村と日本寺の山論)」(1715年、鋸南町立歴史資料館所蔵)に筆者加筆
地図❹:地理院地図Vectorの地図に筆者が加筆して作成
画像❺:《安房国鋸山日本禅寺真景方角図絵》(1829年版行、東京大学総合図書館所蔵)に筆者加筆
画像❻:歌川広重(二代目)《諸国名所百景 房州鋸山日本寺》(1859年版行、館山市立博物館所蔵)に筆者加筆
②近・現代
(1)篠原修『新体系土木工学〈59〉土木景観計画』、社団法人土木学会編、技報堂出版、1982年、p23~25
画像❼:2022年5月15日筆者撮影
画像❽:《房州鋸山乾坤山日本襌寺眞圖》(1917年、船橋市西図書館所蔵)に筆者加筆
画像❾:2022年2月17日筆者撮影画像に筆者加筆
画像❿と⓮:鋸南町ガイド・山本晴敬所蔵
画像⓫と⓭:公益財団法人鋸山美術館所蔵
画像⓬⓮⓰:2021年12月18日筆者撮影
<出典>
『鋸南町史』、鋸南町、1969年
鋸南町史編さん委員会編『鋸南町史 通史編』改訂版、鋸南町教育委員会、1995年
鋸南町史編さん委員会編『鋸南町史 現代編』、鋸南町教育委員会、1991年
「岩﨑家文書(鋸南町元名)」、(千葉)県史収集複製資料近世60
岩﨑家文書「裁許状并裏絵図(本名村と日本寺の山論)」、1715年、鋸南町立歴史資料館所蔵
『きょなん歴史資料館』、鋸南町立歴史民俗資料館、2003年
十返舎一九『諸国道中金の草鞋』18、嵩山堂、国立国会図書館所蔵
十返舎一九『十返舎一九の房総道中記』、鶴岡節雄/校注、千秋社、1984年
愚伝「安房國鋸山薬師如来略縁起」安永九年(1780)版行、『諸国寺社諸縁起』、国立国会図書館所蔵
麻谷老愚編「房州鋸山石仏一件」、『祠曹雑識』50巻、1834年、国立公文書館所蔵
玉泉大梁「乾坤山日本寺に就いて」、千葉県立千葉中学校編『千葉中学鋸山乃夏期生活』、千葉県立千葉中学校校友会、1920年
大野太平『安房人国記 続』、房総人社、1967年
『鋸山』創刊号、日本寺後援会、1964年
斎藤夏之助『安房志』、中島書店、1972年
藤原拓人「鋸山日本寺縁起考-付・翻刻-」、『伝承文学研究』第41号、三弥井書店、1993年
清水信明「安房国三十四ヶ所・八十八ヶ所の開創時期について」、館山市文化財保護協会編『館山と文化財』会報第50号、2017年
宮坂新「安房国日本寺における大仏造立とその背景」、館山市文化財保護協会編『館山と文化財』会報第51号、2018年
金谷ストーンコミュニティー編『図録 房州石の歴史を探る』、2013年
国土地理院
https://www.gsi.go.jp/ (最終閲覧日2022/7/23) -
【資料9】北麓の「シークエンス景観」
①登山口と中腹
②頂上エリア
(いずれの産業遺構にも案内板が設置され、当時のことを学びながら登山できる)
地図:いずれも鋸山マップをもとに筆者作成
霜の降りた「石のストックヤード跡」画像:公益財団法人鋸山美術館所蔵
この他の画像:筆者撮影。撮影日は以下の通り
登山口から見た頂上エリア、富士山、切通し跡、岩舞台と重機画像:2021年12月18日
登山口:2022年4月23日
上記以外:2022年6月20日
<出典>
篠原修『新体系土木工学〈59〉土木景観計画』、社団法人土木学会編、技報堂出版、1982年
鋸山マップ(鋸山復興プロジェクト)
【資料10】通過儀礼論に即した登山する人に生じる時間性
図解:中西紹一・早川克美編『時間のデザイン―経験に埋め込まれた構造を読み解く』とエドマンド・リーチ『文化とコミュニケーション―構造人類学入門』をもとに筆者作成
地図:鋸山マップをもとに筆者作成
画像:筆者撮影。撮影日は以下の通り
車力道跡、関東ふれあいの道:2021年12月18日
登山口:2022年4月23日
上記以外:2022年6月20日
<出典>
中西紹一・早川克美編『時間のデザイン―経験に埋め込まれた構造を読み解く』、藝術学舎、2014年
エドマンド・リーチ著、青木保・宮坂敬三訳、『文化とコミュニケーション―構造人類学入門』、紀伊國屋書店、1981年
鋸山マップ(鋸山復興プロジェクト)
【資料11】南麓の「シークエンス景観」
表参道~頂上エリア
地図:日本寺HPの「境内案内」をもとに筆者作成
十二神将「安羅大将像」画像:鋸南町立歴史資料館館長・笹生浩樹撮影
この他の画像は筆者撮影。撮影日は以下の通り
地獄のぞき:2021年12月18日
薜蘿洞周辺、百尺観音:2022年5月14日
大仏広場:2022年6月18日
上記以外:2022年2月17日
<出典>
篠原修『新体系土木工学〈59〉土木景観計画』、社団法人土木学会編、技報堂出版、1982年
『鋸南町史』、鋸南町、1969年
房総石造文化財研究会『房総の石仏百選』、たけしま出版、1999年
日本寺
http://www.nihonji.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
【資料12】通過儀礼論に即した表参道から参詣する人の時間性
図解:中西紹一・早川克美編『時間のデザイン―経験に埋め込まれた構造を読み解く』とエドマンド・リーチ『文化とコミュニケーション―構造人類学入門』をもとに筆者作成
地図:日本寺HPの「境内案内」をもとに筆者作成
画像:筆者撮影。撮影日は以下の通り
地獄のぞき:2021年12月18日
千五百羅漢道:2022年2月17日
仁王門:2022年5月14日
<出典>
中西紹一・早川克美編『時間のデザイン―経験に埋め込まれた構造を読み解く』、藝術学舎、2014年
エドマンド・リーチ『文化とコミュニケーション―構造人類学入門』、青木保・宮坂敬三訳、紀伊國屋書店、1981年
日本寺
http://www.nihonji.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
【資料13】鋸山復興プロジェクトの活動
画像①、②、③沢の整備画像:鋸山HP「鋸山復興日記」
③沢と④の画像:2022年6月20日筆者撮影
<出典>
鋸山
https://nokogiriyama.jp/ -
【資料14】大谷石文化
①基本データ
②歴史
③特筆すべき空間
地図:地理院地図Vectorの地図に筆者が加筆して作成
イラストの地図:宇都宮市の「2魅力あふれる宇都宮(中学校版副読本)」p71の「大谷地域マップ」を参考に筆者作成
大谷石画像:「2魅力あふれる宇都宮(中学校版副読本)」p68-③大谷石
帝国ホテル 画像提供:博物館 明治村
KANEHON採石場画像:「大谷石のKANEHON」https://www.kanehon.jp/
上記以外は2022年3月12日筆者撮影
<出典>
宇都宮市史編さん委員会編『宇都宮市史 第6巻 (近世通史編)』、宇都宮市、1982年
宇都宮市史編さん委員会編『宇都宮市史 第7巻 (近・現代編 1)』、宇都宮市、1980年
宇都宮市史編さん委員会編『宇都宮市史 別巻 (年表・補遺)』、宇都宮市、1981年
宇都宮美術館編『石の街 うつのみや 大谷石をめぐる近代建築と地域文化』改訂版、宇都宮美術館、2018年
小泉隆『大谷採石場不思議な地下空間』、随想舎、 2010年
井上祐一・小野吉彦『ライト式建築』、柏書房、2017年
国土地理院
https://www.gsi.go.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
大谷寺
http://www.ooyaji.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
宇都宮市
https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/index.html (最終閲覧日2022/7/23)
2魅力あふれる宇都宮(中学校版副読本)
https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/023/188/chu2miryoku1.pdf (最終閲覧日2022/7/23)
宇都宮の歴史と文化財
古代から現代まで大谷石がつくり繋いだ石のまちうつのみや
https://utsunomiya-8story.jp/story/story4/ (最終閲覧日2022/7/23)
大谷石資料館
http://www.oya909.co.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
大石石材協同組合
https://ooya-stone.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
大谷石のKANEHON
https://www.kanehon.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
無印良品「ローカルニッポン」
深澤明子「再び大谷エリアに活気を。ひとりの想いからはじまった復活ストーリー。」、2022年4月1日配信
https://localnippon.muji.com/6815/ (最終閲覧日2022/7/23)
帝国ホテル
https://www.imperialhotel.co.jp/j/index.html (最終閲覧日2022/7/23)
【資料15】大谷との比較
いずれの地図も地理院地図Vectorの地図に筆者が加筆して作成
<出典>
川添善行著、早川克美編『空間にこめられた意思をたどる』、藝術学舎、2014年
国土地理院
https://www.gsi.go.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
大石石材協同組合
https://ooya-stone.jp/ (最終閲覧日2022/7/23) -
【資料16】鋸山からの眺望
地図:国土地理院の地図やGoogle Earth、千葉県の関東ふれあいの道・東京湾を望むみちコースマップ、鋸山マップ、鋸山エリアマップなど参考文献をもとに筆者作成。扇形のマークは撮影ポイント
眺望図:鋸山立体マップなど参考文献をもとに筆者作成
画像:筆者撮影。撮影日は以下の通り
①~③:2021年12月17日
⑤⑥:2022年4月24日
<出典>
安田克己 文責『鋸山』、鋸山資料保存会、19--年(インタビュー記事から1982年と推察できる)
国土地理院
https://www.gsi.go.jp/ (最終閲覧日2022/7/23)
Google Earth
https://www.google.co.jp/intl/ja/earth/ (最終閲覧日2022/7/23)
関東ふれあいの道コースマップ(千葉県)
鋸山マップ(鋸山復興プロジェクト)
鋸山エリアマップ(鋸山ロープウェー)鋸山立体マップ(鋸南町)
参考文献
【聞き取り調査】
公益財団法人鋸山美術館館長・鈴木裕士
2022年2月13、20日、6月25日 zoomで実施
鋸山復興プロジェクト事務局・星野宏子
2022年2月13、17日、6月20日 zoomや鋸山で実施
鋸山復興プロジェクト 参加者の皆さん
2022年7月10日 活動に参加
日本寺住職・藤井元超
2022年6月18日 日本寺で実施
鋸南町立歴史資料館館長・笹生浩樹
2022年6月20日 鋸南町立歴史資料館で実施
鋸南町ガイド・山本晴敬
2022年5月14日 日本寺と元名地区で実施
【註釈】
(1)本稿では、聖俗の空間を以下の通り定義した。
・聖なる空間:宗教的・信仰的な体験ができる空間
・俗なる空間:宗教以外の営為が体験できる空間
オギュスタン・ベルク『風土の日本』(筑摩書房、1992年)p83の「自然=文化の関係の空間構成(Ⅰ)」によると、「自然」の時間や空間を「聖」、「文化」の時間や空間を「俗」と定義づけるように、自然を聖なる空間という捉え方もあるが、本稿ではオットーをはじめとする宗教学の考え方を用いて「宗教的な体験ができる空間」を聖なる空間、「宗教以外の人の営みが体験できる空間」を俗なる空間と定義する。そして、ヴァッハの『宗教の比較研究』(法蔵館、1999年)第2章「宗教経験の本性」から聖なる空間の特性を「浄化」「祓い」「聖化」、そこで沸き起こる感情を「畏敬」とする。
(2)明治の文豪・夏目漱石も漢文紀行文『木屑録』(出版者・岩波茂雄、1932年)で「鋸の刃の碧空に向かって列なれるがごとし。名づけて鋸山と曰う」と述べる。
漱石は1889年の執筆当時、第一高等中学校の学生で、友人とともに鋸山と海水浴を楽しみ、『木屑録』を綴った。尚、本稿の『木屑録』の書き下し文は関宏夫『漱石の夏休み帳』(崙書房出版、2009年)を参照した。
鋸山の他、地名由来の「上総山」「元名山」「明金山」「保田山」、日本寺と関連する「薬師山」、国境にあったことに由来する「境山」「限り山」といった呼称があった。
また、富津市の一部地域と神奈川県からは丸く見え、「丸山」と呼ばれた。この丸みを帯びた山の形は、歌川広重の《不二三十六景 安房鋸山》(資料6)で確認できる。広重が1852年、房総を旅した日記(内田實『廣重』、岩波書店、1978年、p180~183)を鋸南町立歴史資料館館長・笹生浩樹が辿ったところ、富津市で丸みのある鋸山を見つけた(資料6)。安房から見たとされるが、丸みの帯びた鋸山が歌重の心に残ったと考察もできる。
(3)漱石は『木屑録』で「東北に一脈蜿蜒(えんえん)として房総を横截(おうせつ)せる者、最も高く最も峻(けわ)しく」)と述べ、鋸山が高く見えると評価する。鋸山は聖俗だけでなく、鋭さと丸みの外観、低山ながらも高い印象、後述の植生など、相反する要素で構成される。鋸山の一興と言えよう。
(4)本稿は江戸時代を初期/創世:初代家康(1603)~三代家光(1650)、中期/安定:四代家綱(1651)~八代吉宗(1744)、後期/変革:九代家重(1745)~十二代家慶(1852)、末期/崩壊:十三代家定(1853)~十五代慶喜(1867)という将軍の在位と政情で区分した。
(5)鋸山で採石された石の総称。呼称は明治時代に統一されたもので、以前は房州石の他、金谷石、元名石、保田石、明鐘石、売津石など石屋が属する地域の名で呼ばれた。
(6)当時、石質は耐火性の高さ、水はけの良さ、加工しやすさ、見た目で評価された。房州石の特徴は火山堆積物による凝灰岩で、耐火性に優れ、水切りが良く、加工しやすい。房州石の種類、房州石による構造物は資料4にまとめた。
(7)具体的には、男が朝から山に登って頂上部の採石場へ出勤する。そこでツルハシで石を切り出し、その場で尺三サイズ(上辺26cm下辺29cm×高さ26cm×奥行82cm/重量80㎏)などの石材に商品化する。
これら石材は頂上部から樋道と呼ばれる滑り台を使い、山腹へ下ろされた。樋道では石を滑りやすくするため竹の皮を敷く。スピード調整には職人技が必要で、この作業は竹ひご打ちと呼ばれた。
山腹まで下ろされた石材は、女がねこ車と呼ばれる荷車に3本ずつ載せて麓の港まで搬出する。その道は車力道と呼ばれた。
船へはカルコと呼ばれる男が石材を1本ずつ背負い、一枚板の橋を弾むように渡って積み込んだ。
(8)1729~1812年。安房国本織村(現・南房総市)出身で日本寺中興の僧。曹洞宗延命寺(現・南房総市)で修業した後、1771年、日本寺の和尚となる。当時、修験場(奥の院)として用いていた鋸山南麓全体を、1774年から参拝者が仏教を親しむ場(清水信明は「一大仏教テーマパーク」と表現)として再構築した。また、略縁起を自ら執筆して情報発信をしたり、蔵前の札差を後援者に獲得したりするなど、プロデュース力が高かったとされる。
しかし、『祠曹雑識』「房州鋸山石仏一件」によると、仏像造営にあたって寺社奉行などに無届けだったため、1799年、吹上公事上聴(将軍も立ち会う裁判)で大仏の破壊命令とともに愚伝(当時は隠居)にも逼塞50日という判決が下された。
(9)この他、困窮した理由に日本寺は徳川将軍家から15石の寺領を認められたものの、その境を巡って1715~1719年、元名村と裁判で争ったこと、檀家が少なかったことなどが挙げられる。
(10)上総国桜井村(現・木更津市)出身。日本寺の仏像制作には弟子27人とともに当たった。墓は千五百羅漢道沿いにある。
(11)羅漢像の大きさは60cm~2mで、1000体以上制作されたと伝えられる。「鋸山と羅漢石像群」を名勝に指定する千葉県によると1553体ある。浸食に強い小松石を使用。
(12)篠原修『土木景観計画』(技報堂出版、1982年)p22。「視点を移動させながら(中略)次々と移り変わるシーンを継起的に体験していく」景観を言う。
五百羅漢の景観については漱石も『木屑録』で「遊ぶ者も亦た歩に随って観を改め、其の勝の意表に出づるを喜ぶなり」(山を歩くと羅漢像が意表について現れ、旅人が楽しめる意)と高く評価した。
また、江戸期の俳人・小林一茶も「阿羅漢の鉢の中より雲雀かな」と詠む。
(13)愚伝はこの他、百躰観音や百躰地蔵を造営し、南麓全体に配置した。また、愚伝が設置したかは定かではないが、1829年版行《安房国鋸山日本禅寺真景方角図絵》を見ると、頂上には展望台とされる「十州一覧」もあった。
(14)この呼称は(2)で取り上げた広重が1852年、房総を旅した日記(『廣重』p182)でも用いる。
(15)川添善行著、早川克美編『空間にこめられた意思をたどる』、藝術学舎、2014年。
(16)中西紹一・早川克美編『時間のデザイン―経験に埋め込まれた構造を読み解く』、藝術学舎、2014年。
(17)(15)p170~172。
(18)(17)と同じ。同著では「『できる』空間」に大谷石地下採掘場跡(宇都宮市)、「『つくる』空間」に東大寺南大門を提示し、その特徴を「出現」と「構築」と抽象化した。鋸山の採石跡も「出現」、日本寺の南麓も「構築」と、その歴史性から抽象化されると考える。
(19)山頂から地面をスライスするように切り出す方法。
(20)良質な石を探して山の奥へと切り込む方法。難しく、熟練工の仕事だった。
(21)芸術教養演習2拙稿で「巨大採石跡に美を感じるか」というアンケートを行った(「はい」78人、「いいえ」38人)。その回答を精査すると、採石跡の「神秘性」や「壮大さ」に言及する声が多く上がった。また、「少し怖い」という声も聞かれた。「怖い」という感情は、聖なる空間を前にした感情「畏敬」にも通じると考察する。
(22)折口信夫は「石に出で入るもの」(『折口信夫全集(19)石に出で入るもの・生活の古典としての民俗』、 中央公論社、1996年)で、人は「石の形を通じて神を見てゐる」p39、また、石は「総ての芸術の源」p38と述べる。鎌田東二も『聖なる場所の記憶』(講談社、1996年)で折口の他、『日本書紀』や宮沢賢治の作品を例に挙げ、古来、日本人が岩や石に神性や神秘性を感受したことを論じる。
(23)(21)に拠る。
(24)(21)で「古代遺跡のようだ」「当時の石工の職人魂を感じる」という回答があった。ランドルフ・T・へスターは『エコロジカル・デモクラシー』(鹿島出版会、2018年)p128~129で、アイデンティティや歴史を具現化する場には神秘性や聖性が生じるという論考を示す。
(25)この力は紫牟田伸子の言う「編集力」(紫牟田伸子著、早川克美編『編集学―つなげる思考・発見の技法』、藝術学舎、2014年)に通じる。既存にあるものをどのように編集するのか。人の動向を観察して思考を巡らす、早川克美の言う「ユーザー中心主義によるデザイン思考」(『デザインへのまなざし―豊かに生きるための思考術』、藝術学舎、2014年)も働かせたと考える。
(26)先代住職・藤井徳禅は『鋸山』(鋸山後援会、1964年)p3で「捨身以て復興の大業を成就せんとす」と訴えた。
(27)昭和後期の採石終了後、北麓は放置されたが、2000年代、富津市観光協会が車力道を掘り起こすなど、産業遺構に特化した観光登山の場として再構築した。
(28)篠原修『土木景観計画』p32~33に拠る。「対象場の中から、得られている景観の性格を規定し、他の対象を景観的(特に視覚的)に支配している対象(群)」を言う。
(29)石の屑「ズリ」は商品にならなかった石の砂状のものであり、山腹に堆積する。また、山中には切り損なった石で組んだ石垣もある。この他、頂上部の採石場から落下した「転石」も点在する。これら石にも苔が生え、採石後の時間性が感受できる。
(30)1910~89年。イギリスの文化人類学者。中西紹一は(16)第2章でリーチの通過儀礼論に着目し、通過儀礼の行程が時間のデザインとして優れると図解する。後述の「分離」「形式性」「移行」「逆転・役割転倒」「統合」も(16)第2章を参照。
(31)この場合の「役割転倒」は「石」と「人」の関係性であると考える。日常、人が目にする石は小さく、取るに足らない存在である。しかし、ここでは巨大採石跡の大きさに人は圧倒され、自身の存在が小さく見えると考察する。
(32)エドマンド・リーチ『文化とコミュニケーション』(紀伊國屋書店、1981年)p160。
(33)海沿いの麓には海の幸に特化した飲食店が建ち並び、休日には長い行列ができる。
(34)愚伝は当時、人気の羅漢像の間に、麓から空海(当時の誰もが知る日本の僧)が護摩焚き修業をしたとされる護摩窟、大乗仏教経典の一つ『維摩経』の維摩(インドの在家信者ながらも、菩薩の道を実践した釈迦の弟子)を祀った維摩窟、釈迦を祀る奥の院、汗かき不動、百躰観音、西国観音を配置し、参拝者を俗なる世界から仏教の世界へ、そして、極楽浄土へといざなう景観を構築したと考えられる。
(35)2007年発足の地域コミュニティ。「石と芸術のまち」というコンセプトの下、地域の活性化を目指す。発足の背景には、石の専門家が地域の独特な景観を形成する「石」に着目したことなどがあった。
(36)夏期は熱中症予防のため活動休止。
(37)1943~2021年。ハンガリー出身でアメリカの心理学者。中西は(16)第9、10章でエコイベントを組み立てる際、チクセントミハイの「フロー体験」を重要視する論考を示す。後述の「フロー状態」も(16)第9章を参照。
(38)大谷地区は鋸山と同様、古代、海底にあり、火山噴火で良質な石層を形成した。平安時代には大谷寺が建立され、江戸時代には巡礼の地として発展する。採石は江戸時代から始まり、日本の近代化に貢献した。
(39)(15)p22~25。
(40)樋口忠彦『日本の景観』(筑摩書房、1993年)『景観の構造』(技報堂出版 、1975年)。
(41)『木屑録』に綴られた漢詩の冒頭(資料6)。
(42)樋口忠彦『日本の景観』p31。
(43)(42)p30。
(44)北麓は落葉樹が主と先述したが、常緑樹のモチノキやウラジロガシも生育する。
(45)(42)p147。尚、樋口は「『国見山型』景観」において本論考を示す。鋸山は連なった山々の中にあるが、行基(縁起に拠る)や漱石が認めた存在感から、樋口の『景観の構造』p149の図-69「国見山型空間の構造と空間構成」に通じると考える。
(46)(42)と同頁。
(47)さりとて逆説的に考えると、鋸山が真逆の空間構成でありながらも儀礼的な時間を同じく創出するのは、山という空間であることが素因とも言えよう。
後述する眺望に関し、数ある鋸山の展望台でも高く評価するのは地獄のぞきだ。地上の世界を大きな俯角で見下ろせる展望で、儀礼論では非日常の時間を創出し、「逆転・役割転倒」が生じる。この場合の「役割転倒」は「日常と非日常の世界」と「人」の関係性と考える。日常では天界は見上げるもので、日常を見下ろすことはできない。しかも、地獄のぞきは聖なる空間で天界を意味し、その天界から俗なる世界を見下ろすことができる。
即ち、山と聖俗の空間性が連関し、儀礼的な時間性がデザインされたと考察する。
(48)鋸山(360°パノラマビュー)では
https://www.town.kyonan.chiba.jp/img/360/santyo/_html5/index.html
山頂展望台(資料3-③)の眺望が見える。
尚、それ以外の場所からの眺望は資料16にまとめた。
(49)資料8《安房国鋸山日本禅寺真景方角図絵》を参照。富士山人気にあやかって描かれたと推察する。
(50)「房州海水浴発祥の地」とされる。漱石が訪れた海水浴場で、『木屑録』にも記され、小説『こころ』にも登場する。
(51)両地域は避暑地として重宝され、東京都や企業の保養所が建てられた。現在は、釣り客を対象にした観光も行う。
(52)明治期の俳人・歌人。子規は友人の漱石に触発され、1891年に来訪した。『木屑録』は漱石が子規を意識して執筆したもので、文学に目覚めた契機とする論考もある。
(53)鋸山の歴史は富津市が北麓側を、鋸南町が南麓側を各々編んで自治体史を発行する。観光案内も同様で、交通案内も管轄する行政や民間が案内板を各々設置する。また、麓の入口を結ぶ地域バスはない。故に人流も南北で分かれる。頂上部でも両麓の行来は少ない(芸術教養演習1拙稿参照)。継承においても、各々の歴史が各々の地域の学校で教えられた。結果、相手の地域のことは知らない。
(54)具体的には地図の制作、両地域の学校における鋸山教育がある。
尚、今回の日本遺産認定活動では鋸山美術館館長・鈴木裕士が千五百羅漢道の実測調査を行った際、自身の先祖が羅漢像を寄進したことが判明した。本活動は地域交流の歴史を発見する作業にもなっている。
(55)津川康雄『ランドマーク』(古今書院、2018年)p1。
(56)(55)第3章。ケヴィン・リンチが定義する「ランドマーク」と異なり、意味性を持つ。
(57)平田晃久『建築とは〈からまりしろ〉をつくることである』(INAXo、 2011年)。平田は2017年配信のWEB記事で「人工/自然の区分を超えて、生態系につながるような建築の概念」と解説し、「何かがからまる余地をつくること」とする。鋸山にも聖俗が「からまる余地」のある交通整備を期待する。
(58)日本寺でも羅漢像の首つなぎ作業を地域内外の人で行うなど、新たな場づくりを期待する。藤井元超住職は「宗教離れが進む中、仏教を親しむ場として仏教を下支えしたい」と述べる。
(59)千葉県によると、1991年の人口は金谷地区2147人、元名地区590人、2021年の人口は金谷地区1236人、元名地区457人。
【参考文献】
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千葉県史料研究財団編『千葉県の自然誌』別冊1、千葉県、2005年
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長谷川浩己『風景にさわる ランドスケープデザインの思考法』丸善出版、2017年
津川康雄『ランドマーク 地域アイデンティティの表象』古今書院、 2018年
津川康雄『地域とランドマーク 象徴性・記号性・場所性』古今書院、 2003年
平田晃久著、メディア・デザイン研究所編『建築とは〈からまりしろ〉をつくることである』日本語版、INAXo、 2011年
ランドルフ・T・へスター『エコロジカル・デモクラシー まちづくりと生態的多様性をつなぐデザイン』、土肥真人訳、鹿島出版会、2018年
ルードルフ・オットー『聖なるもの』、華園聰麿訳、創元社、2005年
ミルチャ・エリアーデ『聖と俗 〈新装版〉 宗教的なるものの本質について』、風間敏夫訳、法政大学出版局、2014年
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宇都宮市史編さん委員会編『宇都宮市史 別巻 (年表・補遺)』、宇都宮市、1981年
小泉隆『大谷採石場不思議な地下空間』、随想舎、 2010年
田中輝美『関係人口の社会学―人口減少時代の地域再生』、大阪大学出版会、2021年
歌川広重《不二三十六景 安房鋸山》、1853年版行、館山市立博物館所蔵
《安房国鋸山日本禅寺真景方角図絵》、1829年版行、東京大学総合図書館所蔵
十返舎一九『諸国道中金の草鞋』18、嵩山堂、国立国会図書館所蔵
千葉県
https://www.pref.chiba.lg.jp/index.html
富津市
https://www.city.futtsu.lg.jp/
鋸南町
https://www.town.kyonan.chiba.jp/
鋸山
https://nokogiriyama.jp/
日本寺
http://www.nihonji.jp/
宇都宮市
https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/index.html
Oya, Stone City
https://oya-official.jp/
大谷寺
http://www.ooyaji.jp/
文化庁 日本遺産ポータルサイト
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/
総務省 関係人口ポータルサイト
https://www.soumu.go.jp/kankeijinkou/
10+1website
平田晃久「巨樹のほうへ 〈からまりしろ〉とは建築をつくることである」、2017年2月
https://www.10plus1.jp/monthly/2017/02/issue-02.php
WEB最終閲覧日はいずれも2022年7月26日
字数に制限があるため一括表記
芸術教養演習1拙稿「鋸山の景観を再編集する~台風被害からの復興と日本遺産認定へ向けて~」、2021年度冬期
芸術教養演習2拙稿「希望の空間 鋸山における『ユーザー中心』の空間デザイン」、2022年度春期