加子母歌舞伎〜地歌舞伎から伝統を考察する〜
加子母歌舞伎〜地歌舞伎から伝統を考察する〜
中山道と並走する中央本線を中津川で降り、そこから北北西に位置する温泉で有名な下呂に向かう途中に加子母という地域がある。檜などの良質な木材が取れることから江戸時代には尾張藩領とされ、平成の大合併で中津川市と合併し、現在は約3,000人が生活している。
ここ加子母には、明治27年に建てられた明治座という芝居小屋がある。また、この地域では、古くから地歌舞伎(註1)が演じられてきた。平成27年、明治座は大改修され、11月に第43回加子母歌舞伎が開催された。今も加子母では地域の人によって歌舞伎が演じられ、年間行事として地域の人に楽しまれている。本論では、加子母歌舞伎に見られる伝統を考察し今後について展望する。
1.かしも明治座と加子母歌舞伎について
1−1.かしも明治座
加子母歌舞伎は、かしも明治座の存在を抜きには語れない。明治座は、劇場形式の農村舞台で明治27年に旧加子母村の有志によって建てられた。金銭、木材、大工、左官など、建設に係る費用、労力は全て寄付によって賄われた。廻り舞台やスッポン、両花道を持つ本格的な芝居小屋で、創建当時に力仕事を手伝えない娘達が寄贈した「娘引き幕」と呼ばれる各屋の屋号と名前が書かれた幕が、創建後120年を迎えた現在でも現役で使用されている。
明治座のある下半郷地域には、明治座以前にも万賀の天王社(註2)の境内に芝居小屋があり、村芝居が演じられていたようである。また、加子母には、豊年座、永楽座、宮本座、神明座、大正軒、万賀の舞台(註3)の6つの舞台があったが、現在は明治座1つが残る。
明治の杮落としでは、犬山の中村新十郎一座の買芝居が行われるとともに、日清戦争中という時勢も踏まえ、地芝居として「世界朝日国旗」が上演された。その後は、地芝居、買芝居のみならず、浄瑠璃、手品、幻燈(註4)などの興行のほか、村の祝賀会、式典、青年団の各種集会などが行われた。大正期には無声映画が公演される一方、地芝居は明治末期からの興行法の取締りが全国的に厳しくなり衰退の傾向にあったのと同様、加子母でも衰退していった。昭和になってから、歌舞伎以外の芝居やトーキー映画が催され、太平洋戦争中は、軍事物資の倉庫として利用された。終戦後、演劇、浪曲等の興行のほか、青年団や公共団体の資金作りのための興行映画に活用されたが、昭和30年代後半になると、テレビの普及や小中学校に新たな施設が建てられたこともあり、次第に使われなくなった。
その後、昭和47年に明治座が岐阜県の重要有形民俗文化財の指定を受けたことをきっかけに歌舞伎愛好会が結成され、昭和48年に第一回の公演が行われた。以降、毎年地域の人による歌舞伎が毎年公演されるほか、クラシックコンサートや18代目中村勘三郎襲名披露公演にも使われたほか、映画の上映、結婚披露宴、市の行事や地域住民が利用している。また、昨年の改修後は、ツアー旅行の団体客が連日見学に訪れている。
1−2.加子母歌舞伎
加子母でいつから地芝居が行われようになったかは、資料が残っていないため明らかではない。しかし、「隣接の苗木藩領の村むらでも享保以前から祭礼狂言が行われていたと推定されるのであるから、尾張藩領の加子母村をはじめとする、現付知町や川上村などの裏木曽の村々(註5)でも、祭礼と結びついてかなり古くからおこわわれてきたにちがいない」(景山 1990:488)、「古老によると、明治座建設前後のころは村内のどこかの部落で、毎年のように地芝居が上演されていたらしく、明治座建設以前の掛小屋で地芝居が演じられていたころのほうが、むしろ盛んだったのではないか」(前述)と推論されているように、この地域における地芝居はその起源を江戸時代にまで遡れると考えれる。
近代になってからの地芝居は、明治座建設前後の明治30年前後がひとつの盛行期で、昭和になってからはそう多くは上演されていなかったようだ。戦時下では青年団の演劇は行われていたが歌舞伎が取り上げられることはほとんどなく、戦後も歌舞伎は行われたが、明治座ではなく、別の会場で開催された。
再び明治座で歌舞伎が演じられるようになったのは、前述の通り昭和48年のことであり、翌年愛好会が「加子母歌舞伎保存会」と改称し、毎年9月に定期公演を行っている。
保存会は主に加子母在住の方で構成されており、市役所や森林組合の職員、自営業、会社員のほか、他地域から転入した小中学校の教諭、郵便局長、警察官、小・中学生などで、約40名弱からなる。年齢構成は、小・中学生を除けば24〜74歳で、各々の入会のきっかけは、歌舞伎をやってみたい、他地域だが加子母で活動したい、Uターン後で再開したいなどだ。毎月定例会で集まり、毎年3月頃から外題(演目)や配役を決め、4月に子供役の小・中学生を募集し、6月中旬から練習を開始する。舞台の大道具や当日の会場案内は、加子母地域の方や武蔵野美術大生が協力して行っている。
9月の定期公演は入場料が無料で、地域住民も多く足を運んでいるが、ここ数年、ツアーなどの団体客、新聞報道などによる地域外からの観客が増え、加子母の住民よりも地域外からの観客の方が多い傾向にある。
2.歌舞伎の歴史と地芝居について
加子母歌舞伎の伝統を考察する前に、都市で発展した歌舞伎と地歌舞伎の歴史を振り返ることにする。
カブキは、豊臣の時代、出雲のお国のカブキ踊りがその起源と言われている。江戸時代初頭に一旦は禁じられたが、その後まもなく「狂言尽し」に姿を変え、物語性を帯びた劇「歌舞伎」として再発足した。近世の都市においては興行が日常化し、歌舞伎は浄瑠璃から物語を取り歌舞伎として昇華させたり、独自の作品を演じたりすることで、舞台芸術として極められた。貨幣と引き換えに消費される芸能として発達した。
一方、地歌舞伎は、17世紀以降発達した貨幣経済により大きく発展したと考えられる。経済の変化により都市と地方との交流が盛んになり、芸団もまた地方を行き交った。このような流れの中で、人々は芝居を見るだけでなく、古来から行われていた祝祭的儀礼的行事の芸能に都市の芝居を移植することで、祝祭性と娯楽性とを備えた新たな芸能として地域内で発展させていったと考えられる。
3.加子母歌舞伎に見られる伝統とは
大歌舞伎それ自体は伝統芸能であることは一般的にも認められていることであり、舞台芸術としての美の極地であることはいうまでもない。一度は行ってみたいという、観光地化された芸能という色が濃くなっていると思われる。
一方、加子母歌舞伎の特徴は、建築物としての明治座の希少性だけでなく、先祖が築いた芝居小屋で、地のものが演じて楽しみ、地のものが観て楽しむという、生活に根ざした年中行事という点にある。大歌舞伎のように需要と供給のなかに伝統が生きるのではなく、伝統をその地域の生活者で作る共同体のなかで育み、共同体のなかで後世に伝えようとしている点に大きな特徴が見出せる。時代の変化に飲まれ一度は衰退したが、文化財への登録を契機に今日まで加子母歌舞伎が毎年公演されているのは、歌舞伎が加子母で生活している人のアイデンティティとして昔から脈々と受け継がれているからだと考える。「芝居の上手下手を超越して、商業劇場では味わいえない独自なもの」(景山 1990:500)であり、「日常生活に弾みをつける糧」(景山 1990:549)であったからこそだ。この点が、地域活性化の原点であり、後世に残すための要点となるだろう。
4.今後の展望
ここ数年、団体客や宣伝による個人客が地元の観客を上回っている。聞き取り調査では、後継者の育成の重要性が挙げられていたが、同じくらい重要なことに加子母在住者の増加があると考える。
一過性の観客は不安定な観客であり、加子母歌舞伎の持つ演者と観客が溶け合う楽しさの担い手にはなりにくい。現に、昨年の公演では、1幕終えたらバスの時間だと帰る客を大勢目の当たりにした。
加子母は少子高齢化が進んでいる。進学とともに転出する人口が増えている(註6)。また、他の地域と同じように、生活の多様化により、個々の時間の使い方が自由な広がりを見せている。
しかし、こんな時代だからこそ、歌舞伎が地域共同体の個々を結びつける役割を果たすことが出来ないだろうか。加子母に育ったという原体験を歌舞伎により創出し、味わったものでしかわからない心象で、その地域と人とを繋ぎ、古くから伝わるものを次の世代に引き継いでいく。「芝居が無くっちゃ」。多くの人がこう口に出す限り、加子母歌舞伎は受け継がれ続けると考える。
参考文献
【注釈】
註1:江戸、大坂、京都といった大都市で発展した歌舞伎に対し、地方の農村などで素人が演じたものをいう。
註2:現在は明治座の奥にある下郷神社に合祀されている。
註3:万賀の舞台は明治9年に焼失。「その後再建の気運とならずに歳月が過ぎ、明治26年の暮ちかくになって、ようやく舞台再建の声が上がっ」てできたのが明治座である。
註4:ガラスに絵を描き白幕に投影し物語る、紙芝居のようなもの。
註5:裏木曽三ヶ村とは、旧川上村、旧付知村、旧加子母村をいう。檜を中心に良質の木材に恵まれたこと、木曽川に近く材木の搬出がしやすかったこと、手つかずの山林資源が残っていたこと、などの理由により、木曽の他の村(28ヶ村)とは区別され尾張藩領として組み込まれ、裏木曽三ヶ村は直接国家老の支配を受けていた。
註6:現在の高校生の数は100名程、中学生が81名、小学生が166名、保育園児が59名、未就学児が110名で、18歳以下の各年齢には20〜30人程度、高校・大学進学に連れ加子母を離れ、各年代の7割は転出している。
【参考文献】
今尾哲也(2000)『歌舞伎の歴史』岩波新書
大崎紀夫(1995)『農村歌舞伎』朝文社
景山正隆(1990)『愛すべき小屋 ー村芝居と舞台の民族誌』冬樹社
ドナルド・キーン(2001)『能・文楽・歌舞伎』(吉田健一・松宮史朗訳)講談社学術文庫
服部幸雄(2007)『歌舞伎の原郷 ー地芝居と都市の芝居小屋』吉川弘文館
安田文吉・安田徳子(2009)『ひだ・みの地芝居の魅力』岐阜新聞社
加子母村誌編纂委員会(1972)『加子母村誌』加子母村
加子母村文化財保護審議会編集(1990)『加子母村の歴史と伝承 ー続編』加子母村教育委員会
杉村啓治編(1997)『加子母村の歴史と伝承 ー第三編』加子母村教育委員会
加子母村教育委員会(1993)『明治座100周年記念 加子母の農村舞台 ー明治座の建築と沿革』加子母村教育委員会
【聞き取り調査への協力】
加子母歌舞伎保存会 丹羽氏
加子母総合事務所 梅村氏
かしも明治座 案内の方3名