「観る」だけでなく「見せる」舞台芸術 ―能とインプロ―

片岡 峰子

1. 能の歴史と概要
能は、室町時代、世阿弥により芸能として大成した。時の権力者に庇護され、江戸時代には幕府の式楽となり、特権階級である武士の嗜みとなった。
命を懸けて戦う武士の精神や身体の鍛錬、互いの気(息)を合わせるために活用された[1]。将軍の前で謡い、舞うのに、どれほどの緊張があったろうか。失敗は許されない故に、常に優れた表現を再現できる「型」ができ、「絶対にしてはならないこと」が決まっていった。
一方、当時の人口の九割以上を占める庶民には、能の一部である「謡」だけが許され、祝の席では「高砂」「鶴亀」などの小謡が謡われた。また、謡本には、古典が数多く引用されていることもあり、寺子屋での教育にも使われた[2]。

2. 近代以降の能
明治に入り、幕府や武家の後ろ盾を失い、断絶の危機に晒されるも、岩倉具視が外交に活用したことで能はその息を吹き返す[3]。1957年に国の重要無形文化財(芸能)指定、2008年にはユネスコ無形文化遺産保護条約「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載され、未来へ繋げるべき古典芸能として確固たる地位を確立した。
現在、興行を定期的に継続している点において、能は古典芸能の中で最も長い歴史を有するものであり、日本全国で公演が催される[4]。

3.「観る」ではなく「見せる」舞台芸術
筆者は、自社の社員教育として、宝生流シテ方佐野登氏に師事し7年が経つ。稽古を始めるまでは能には全く縁がなく、最初は、習わ「されて」いたが、その魅力に開眼し、自分なりに能に向き合い始めたのは、恥ずかしながらごく最近のことである。
そのきっかけは「観る」だけでなく「見せる」側に立ったことにある。
年に二度、能楽堂で発表会がある。筆者は、毎回の「謡」「仕舞」以外に、幸運なことに自社の代表が演能するに乗じて「ツレ」として2015年と2021年の二度、「能」の舞台に立たせていただいた[図1、2、3]。
そこで、650年続く日本の古典芸能を対岸から眺めて論じるのではなく、自らがこちら側の岸に立つ実感に基づき考察したい。その際、やはり自ら実践するインプロ(即興劇)と比較しながら議論を進めていく。

4. 即興でつくり出されるインプロ
インプロとは、事前の打合せも台本もなく、その場の即興でストーリーを紡ぐ演劇である[5]。古代ギリシアの道化劇がその起源であり、16世紀頃からヨーロッパで盛んになる。20世紀に入り世界中に広まり[6]、日本には1990年代に上陸した[7]。舞台芸術としての歴史は浅いが、そのエッセンスは「応用インプロ」として医療や教育の現場でも活用されている。
その名の通り即興で紡ぎ出されるストーリーには、何が起こるかわからないワクワク感がある。ときに役者が困り果てるその姿すら面白い。これは一見すると、失敗の許されない能とは対極にあり、「型」のように予見可能なものを排除した芸能のように見える。

5. 学ぶ芸能としての能とインプロ
次に、筆者のような一般人が舞台に立つという視点で見てみよう。

能の稽古はマンツーマンで行われる[図4]。謡も仕舞も、ひたすら師匠の真似をし、型を覚える。謡本には音の上げ下げなどの記号が付されており、それが読めると初見で謡えるようになる[図5]。
仕舞には、シカケ、ヒラキなど動きの「型」に加え、姿勢や立つ位置、身体や足の向き、どちらの足から出るかなど、先達の智慧が詰まった細かい定まりがある。こうした理に適った動きは、美しく見せるためにも必須のものである[図6]。

インプロのトレーニングは、1クラス3〜10名ほどで、1コース10回で構成され、10回目が発表会である。発表会ごとに次のステップ(クラス)に昇格していく仕組みで、通うほどにレベルの高いゲームに取り組む。一定のクラスまで修了すると、ショーへの出演が許される[図7、8]。
毎週のクラスでは、いくつかのゲームに取り組む。二度と同じシーンはつくれず、その場限りの100%オリジナルな作品が生み出される。エクステンド、アドバンスといった概念や、感情を使う、ステイタスを変える、関係性をつくるなど、インプロで欠かせない要素をゲームに取り組むことを通じて身体に染み込ませる。

二つの芸能の最も異なる点は、能は「型」を何度も反復することで上達をめざし、インプロは一回限りの一発勝負を積み重ねることで技量を上げていくところだ。
故に自ずと、舞台に立つ前の緊張感の中身も全く異なる。「間違えないように」と心配するか、「瞬時にアイデアが浮かばなかったらどうしよう」と心配するか。この緊張感の違いが、観客には異なる魅力として伝わる。

6. 能とインプロの共通点
このように、能とインプロは歴史的背景も観客へのインパクトも異なり、一見遠く離れた芸能に見えるが、実は意外にも共通点が多い。

・即応性
能は、失敗が許されないが故に、あらゆるトラブルに対応できるよう設計されている。後見の存在はそのひとつである。万が一、シテが能を続けられなくなったときに、後見がその代理を果たす。舞台を取り巻く環境も毎回同じではない中、何が起こっても自由自在に対処できることが求められる。全員が揃う事前の練習もなく、一度きりの申し合わせを経てほぼぶっつけ本番で行われることも、そうした対応力を必要とする要因となる。この即応性は、インプロと変わらない。
能の「型」は、このような不測の事態に対応するためのものである。一方、インプロは、それを「イエス・アンド」という原理原則によって実現しようとする。誰が何の役で出て、物語がどう展開するか誰にもわからない中、手探りでシーンをつくり物語を紡ぐには、今、その場で起こっていること全てを「イエス」と受け入れ、そこに自分のアイデアを加える(アンド)しかない。役者全員のイエス・アンドの積み重ねによってのみ舞台は成立する。

・エゴを手放す
即興でシーンをつくるには、自分勝手は許されない。面白いことを言ってやろうと思った途端に左脳が動き出し、忽ちシーンの輝きが失われる。「何の役で出るか」ではなく、「このシーンに何があったら面白いか」という視点で見る。考えるより先に身体が動いていることもしばしばである。
能の舞台に立つときも同じである。正しい姿勢で立つと、肩の力が抜け重心が下がって腹が据わる。すると、自分が謡い、舞うのではなく、いわば650年の間、舞台に立ってきた先達にお任せする境地に入るのだ。
頭で考えずに、身体に任せ、自分ではない何かに委ねることで拓かれる未来がここにある。

・想像力
観客もまた舞台上の状況の変化に巻き込まれる。観客は自身の想像力でイメージを描き、役者はその想像力を援助する。古くは本物の動物や牛車などを登場させていた能がそうした装置を排除していったのは、観客の想像力を引き出すためであったといえよう。同じく舞台装置のないインプロでは、観客はもちろん、役者間で瞬時に意思疎通ができるよう、互いの想像力を掻き立てる。

・「始めたらやめない」
能では、80代のお弟子さんも珍しくない。何十年も稽古に通われる諸先輩方は、矍鑠として品があり、こちらに無礼があるとやんわりと窘められる。そこにいると自然と背筋が伸びる場所を持つことが人生にハリと緊張感を与えるのだ。
インプロも自然な形で次のステップが用意されていることもあり、長く続ける人が多い。ショーを観たときの「なぜ、即興なのにそこまでできるのか」という驚きと感動が次に向かわせる原動力となる。できない自分と対峙し、仲間とイエス・アンドしあい、さらに細やかにイエスと受け取る感性を磨きたくなる。続けざるを得ないのだ。
「見せる」側に立つと、緩く長く居続けられるコミュニティをも手に入れられるのだ。

7. 消費されるものにしない
自らも謡を嗜むいとうせいこうは「歌う人と見る人とに分断されてから音楽が消費されるものになってしまった。能も同じではないか」と言ったが[8]、今、能が筆者にその魅力を見せてくれるのは、筆者がまさにこの分断を超えようとしているからではないか。
師匠の佐野登氏は言う。「この活動は、未来に繋がる道である」と。伝統を守るだけではなく次の世に継いでいく媒介に、我々一般人も、稽古を続けて舞台に立つ、というその一点で小さなひとかけらになれるはずだ。
2021年、自社の代表と共に、オンライン謡稽古の提供を始めた。師匠の解説や見本を動画に収め、それを使って我々が案内役となる。受講者は初めて謡に触れる人がほとんどだ。共に学ぶ者として、ひとかけらをめざし精進していく。

  • 115969_4 [図4]2022年1月21日 お稽古場にて
    謡のお稽古の様子。佐野登先生と筆者。オウム返しでの稽古が終わると、ひとりで謡本を見ながら謡う。必ず正座し、姿勢を正し、腹から声を出す。謡には迫力のある声が必要だ。基本は大きな声で、うまく謡おうとするのではなく、先生の謡のとおりにひたすら真似をする。真似をすること自体が難しく、自分では真似をしているつもりだが、先生の謡とは程遠いのが現実だ。この日の謡は「田村」。
    (撮影:フォトグラファー 小山龍介)
  • 115969_5 [図5]「田村」謡本。文字の横に打たれた点や記号が謡うときの道標となる。謡本は、能の台本でもあり、上部には、謡う際の注意事項が書かれている。(2022年1月28日 筆者撮影)
    著作者 寶生九郎、『寶生流謡本 内一巻ノ二 田村』、わんや書店、昭和29年12月、2ページ
  • 115969_6 [図6]2022年1月21日 お稽古場にて
    仕舞のお稽古の様子。佐野登先生と筆者。お稽古の場でも、舞台の上では必ず白足袋を着用、時計、眼鏡等金属類は外す。扇の持ち方、上げる角度、足の運び、少し前で同時に舞ってくださる先生の所作を真似る。「真似る」とは言うは易し行うは難しで、知らずしらず、自分の癖が出てしまう。真似をするには何をおいても、よく「見る」こと、と教わる。この日の仕舞は「班女」。
    ※仕舞:能の一部を、謡だけに合わせて舞う
    (撮影:フォトグラファー 小山龍介)
  • 115969_7 [図7]2016年11月20日 プーク人形劇場にて「インプロミニフェスティバル」シアタースポーツ
    ショーの一場面。シアタースポーツという形式で、チーム対抗勝ち抜き戦での一コマ。初めて出たこのショーで、われわれAXISは優勝を飾った。筆者がインプロのトレーニングを始めたのが2013年。ショー出演までの道のりは3年ほどだった。
    (撮影:インプロジャパン)
  • 115969_8 [図8]2017年7月2日 プーク人形劇場にて「インプロジャパンプロジェクト」マエストロ
    ショーの一場面。マエストロという個人対抗戦での一コマ。個人対抗であっても、インプロはひとりで演じることはほとんどなく、くじ引きで数名ずつが選ばれ、短いシーンをつくる。ゼッケン1番はこのときの優勝者であり、5番が筆者である。
    (撮影:インプロジャパン)

参考文献

【註釈】
[1]安田登著『能 650年続いた仕掛けとは』、新潮社、2017年、176ページ
[2]安田登著『能 650年続いた仕掛けとは』、新潮社、2017年、54ページ
[3]安田登著『能 650年続いた仕掛けとは』、新潮社、2017年、58ページ
[4]伝統芸能の現状調査、日本財団 35ページ、41ページ 
https://www.geidankyo.or.jp/img/issue/dentou.pdf (2022年1月26日)
[5]インプロを即興での演奏をさすこともあるが、ここでは、即興劇をインプロとして扱う。
[6]インプロワークスホームページ https://www.impro-works.info/what-s-impro/ (2021年12月30日)
[7]園部 友里恵、福田 寛之著 日本における「インプロ」の導入と展開 ―1990年代を中心として―https://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2018/04/32_1.pdf(2022年1月23日)
[8]安田登著『能 650年続いた仕掛けとは』、新潮社、2017年、73ページ

【参考文献】
林和利編『能・狂言を学ぶ人のために』、世界思想社、2012年
原田香織著『現代芸術としての能』、世界思想社、2014年
白洲正子・吉越立雄著『お能の見方』、新潮社、1993年
梅原猛著『梅原猛の授業 能を観る』、朝日新聞出版、2012年
津村禮次郎著『能がわかる100のキーワード』、小学館、2001年
梅若基徳・河野智聖著『能に観る日本人力』、BABジャパン、2008年
土屋惠一郎・中沢新一著『知の橋懸り 能と教育をめぐって』、明治大学出版会、2017年
ビジネス+IT「今、能を上演することに意味はあるのか」https://www.sbbit.jp/article/cont1/36180(2022年1月26日)
キース・ジョンストン著/三輪えり花訳『インプロ 自由自在な行動表現』、而立書房、2012年
池上奈生美・秋山桃里著『インプロで「あなたも本番に強い人」になれる』、フォレスト出版、2005年
パトリシア・ライアン・マドソン著/野津智子訳『スタンフォード・インプロバイザー 一歩を踏み出すための実践スキル』、東洋経済新報社、2011年
ケリー・レオナルド/トム・ヨートン著『なぜ一流の経営者は即興コメディを学ぶのか?』、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015年
株式会社インプロジャパン https://www.improjapan.co.jp/workshop/ (2022年1月26日)
ココカラー 衣川友梨インタビュー記事 https://cococolor.jp/noline08 (2022年1月23日)
佐藤郁哉著『フィールドワーク増訂版 書を持って街へ出よう』、新曜社、2006年

【取材協力】
宝生流シテ方 佐野登氏
株式会社インプロジャパン 池上奈生美氏
インプロジャパン クラスメンバー

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