「雨引の里と彫刻」ー 景観の中の作品がもたらす作家と行政と住民の繋がり

高梨 裕理

1) はじめに

茨城県桜川市、旧大和村の地域は雨引の里[1]と呼ばれている。筑波山系の山々[2]から眺める景観は自然が豊かである(資料1)。月に一度、この地に訪れる理由は「雨引の里と彫刻」(資料2)という野外彫刻展に、作家として第5回展より参加しているためである。展覧会は1996年から2年又は3年に一度開催している。地域において「雨引の里における山際、安息空間に地域文化を育成する一助として現代彫刻を一定期間展示する展覧会を企画した[3]。」
これまでの展覧会や次回展の準備を進めるなか、雨引の里の景観に展示された作品を通して、どのように住民や行政との繋がりを維持してきたのか。また、同様の事例と比較することで今後の課題や展望を考察する。

2)-1 雨引の里の景観

2005年旧大和村は近隣の町[4]と合併し桜川市となる。首都圏から約80km圏内に位置する。この地域には歴史的、文化的な役割を担う筑波神社・加波山神社・雨引山楽法寺などがある。景観を作り出す台地は洪積台地[5]や沖積地[6](資料3・4・5)であり、平野部は水捌けの良い大地で農業が産業の一つとしてある[7]。地質は花崗岩[8]で形成されており、御影石[9]の産地として名が高く産業としてある。低い山であるため暖温帯植物[10]から冷温帯植物[11]まで自生している。山々は昔から山伏修験の霊山として信仰があるため、手付かずの自然が残る。登山道の入り口の地区に住む石井省三氏[12]は現在も山水を生活や農業に利用していると言う。水について子供の頃から教育され、その文化に誇りを持っていると語る[13](資料6・7・8)。1918年に筑波鉄道[14]が開通されたが、自動車の普及により1987年に廃線となった。廃線敷は「つくば霞ヶ浦りんりんロード[15]」として利用されている。

2)-2 「雨引の里と彫刻」の歴史的な背景

上記のような景観を持つ地域に、1980年代より制作に通う石彫家達は10年程通うと、大和村や住民に対し何も行動を起こしてこなかった事に気がつく。そして地域に馴染んでいない事の反省から、村の人々に作品を見てもらう事を考え始めた[16]。又、これまでの日本美術の状況[17]に対し「日本美術でまかり通っている様々な矛盾点について話し合い、我々作家が企画する以上それらの点を改善する方向に考えた[18]。」と立ち上げメンバーである菅原二郎氏は語る。
この作家企画の展覧会は、作家が主催者で実行委員であるため資金は自らが出資し、準備全般や展示場所の交渉も行った。そしてこれらの活動は地元出身の石彫家を頼りに地域との繋がりを持つのである。又、展覧会の開催時には地域の住民と関わりを持つために「いなかの会議[19]」などのイベントを第5回展まで企画した。

行政と住民の目線

村の人々は作家達を都会からやってきた人達と遠まきにその姿を見ていたと、当時大和村役場の企画課に勤めていた弓削和弘氏と石井氏は調査の中で答える[20]。作家自らがやって来て野外彫刻展を開催したいと自主企画を持ち込まれた事に驚いたと、同時に面白いと思い協力体制になったという。農村に作品を展示することや、作家企画の展覧会は当時では全国的にも珍しいことであった[21]。そのため多くの新聞やテレビなどにも取り上げられ、県内外から多くの観覧者が訪れた。記事を読んだ住民は、自分たちの日常生活をする環境が新聞に載ることや、多くの人々が来場することに驚くと共に興味を持ったとも語る。これらのことから作品を展示することで住民や行政との繋がりを待ち始めたのである。
そして現在も展覧会は継続されているが、作家・行政・住民の変化はどのように変わってきたのであろうか。

3) 「雨引の里と彫刻」と桜川市の繋がり

桜川市の中で合併した他の地域には特徴的なイベントがあり[22]、旧大和村には何もなかった。そのためこれまでの経緯もあり「雨引の里と彫刻」に目が向けられた。毎回40名ほどの作家で実行委員会を構成し、会議には桜川市役所の生涯学習課の担当者も出席する。近年には子供の頃に展覧会を見て育ったという担当者もいる。2015年には桜川市市政10周年記念のイベントとして開催することを市からのアプローチがあった。しかし作家達は主催者であることを大切にしているため、受け入れる事をしなかった。その後、会議を重ね熟慮した結果、桜川市と桜川市教育委員会との共催に繋がるのである。
桜川市(資料9)はこれまでの関わりの中で、自主企画の展覧会が共催として開催される事になったことを鑑みて、作家達の思いを尊重する関係を続けている。これらのことから考察することは、作品を景観に展示することが地域社会に受け入れられてきたと評価する(資料10)。

4)-1 問題点を探るために

回数を重ねてくると展覧会は、住民にも行政にも地域のイベントの一つとして知られる存在となった。これまでと同様に大掛かりな展覧会を実行委員会だけでやり続けることができるのであろうか。人手や更なる地域の深い知識も必要になる。これらの問題を考察するために、2000年から開催されている「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ[23]」と比較して考察する。

4)-2 「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ」との比較から見えてくること

新潟県で行われている「大地の芸術祭アートトリエンナーレ」は、越後妻有の過疎化をはじめ、様々な地方に起こる問題を解決できるようにランドスケープ・デザイン[24]の要素を含みつつ、自然豊かな風景の魅力を引き出す「町おこし」から始まった。総合ディレクターがおり実行委員会が主宰となる。芸術の祭典という大規模な展覧会となっており多くの企業から経済的な協力を受けているため、作家には制作費が支払われ、制作と地域の人々との交流に集中できる。そして、活動の手助けをするサポーター[25]がいる。地域を活用した芸術祭は、人の流れが活気を生み出し経済・雇用・現代の文化を取り入れることができた。
一方「雨引の里と彫刻」は、村おこしとしての始まりではないため経済的にまちが潤うこともなく、住民と共に盛り上げることもしてこなかった。そして閉幕後には作品を撤去するため(資料11・12)、地域には何が残るのであろうか。この比較から、住民との交流や経済・雇用をもたらしていないことが見えてきた。

4)-3 比較から学ぶ地域との繋がり

展覧会は、作家の思いから始まった。そのため村の人々は期待することがなかった。しかし、今回の調査で「子供の頃から生活している景観に作品が展示される事により、新たな発見があり付加価値がついたことに喜びを感じている」という住民の思いを確認することができた。展覧会の準備をしているとまちの人が声をかけてくることもある。反面に、商い気質を持つ町でもあるため、経済を求める人たちもいる。このような体験から地域の人たちに知られてきたことを実感する。
時間をかけて関わることで作家・行政・住民の繋がりは、気長に見守る住民と市役所の協力のもと、それぞれの距離感を保ちつつ開催できていることが見えてきた。しかし、これまでの作家と住民の関わり方が課題であると考える。住民や子供達との関わりを持つために、学校との連携やワークショップの開催を積極的に行うことが考えられる。そして、いつの日かその経験を生かし、地域に貢献できる事を展望とする。

5) まとめ

雨引の里の景観において作品を展示することが続く理由は、地域の風土による住民の気質・行政の協力・作家の行動により「地域文化の育成の一助」として実り始めた事にあるのではないか。そして「雨引の里と彫刻」は、地域により育てられていることを確認した。その地域社会に受け入れられることは、作家が地域の歴史的背景や風土を理解し、行政や住民と積極的に繋がって行くことであるのではないかと考察する。

  • 1 資料1 雨引山楽法寺からの景観 2021年07月18日 筆者撮影
  • 2 資料2 「雨引の里と彫刻」カタログ 2022年01月20日 筆者撮影 
  • %e8%b3%87%e6%96%993%e3%83%bb4%e3%83%bb5-%e6%96%b0-3a_page-0001 資料3 河岸段丘断面図 2020年08月27日 筆者作成・撮影 
       (「芸術教養演習1」の課題より)

    資料4 河岸段丘 2020年08月15日 筆者撮影

    資料5 神社より 2019年04月22日 筆者撮影(大槻孝之作品掲載承諾済)
  • %e8%b3%87%e6%96%996-%e6%96%b0-2a_page-0001 資料6 「雨引の里 景観図」2021年07月25日 筆者作成 2022年01月19日 筆者修正・撮影
       (「地域を探る」の課題より)
  • 5 資料7 田園と信仰 2021年07月18日 筆者撮影

    資料8 夕方の景観 2021年12月13日 筆者撮影
  • 6 資料9 桜川市役所 2021年07月18日 筆者撮影
  • 7 資料10 広報さくらがわ 2020年07月30日 筆者撮影
  • 8 資料11 「雨引の里と彫刻2008年」展示場所 2022年01月16日 筆者撮影

    資料12 作品と鑑賞者と農作業する人 2008年11月30日 筆者撮影

参考文献

【現地調査と実行日程】
 
 2017年10月「雨引の里と彫刻」に参加するため2002年より現地に通ってきたが、
「芸術教養研究1 」に取り上げ、その後の課題や卒業研究を意識し現地調査・実行を開始
 
 2017年12月03日[桜川市 大和中央公民館]
「雨引の里と彫刻2019」の開催のため、7月からの準備会を経て、
  第一回全体会議、実行委員会が発足。以後14回の会議を実施。
 
 2019年03月16日〜29日
 作品搬入・サイン設置などの設営の実施

 2019年04月01日 開幕、期間中全体会議を3回実施

 2019年06月09日 閉幕

 2019年06月10日〜16日
 サイン看板などの撤去や作品搬出、現状復帰の確認を実施

 2019年7月
 第18回全体会議 反省会、カタログ発送などの作業後、実行委員会を解散

 2020年08月15日 「芸術教養演習1」の課題により現地調査実施

 2021年01月 大和中央公民館+zoomによるオンライン併用の準備会を実施

 2021年07月18日〜19日
「地域を探る」の課題により現地調査を実施、翌日に電話での聞き取り調査実施

 2021年10月03日
 6回の準備会を経て、第1回全体会議を実施、以後3回の会議を実施

 2021年12月13日
 現地調査実施

 2022年01月09日
 卒業研究の為、関係者3名に電話で聞き取り調査を実施

 2022年01月16日
 第4回全体会議「雨引の里と彫刻」のこれからを考えるための話が行われた。
 現地調査、実行を引き続き行う

【註】

[1] 雨引の里の由来
  雨引山にある雨引楽法寺は、嵯峨天皇の引仁12年(821)の時代に干ばつが起き、この山で降雨
  を祈り、大雨に恵まれたことから雨引山と呼ばれるようになる。その山の麓の里である。
  安産子育祈願の寺、「雨水は万物を育てる」ということから商売繁昌の寺とも有名。
 (桜川市HP)

[2] 筑波山系 北の高峯・富谷山、東の雨引山・加波山・足尾山から南の筑波山に連なる山々。
  (桜川市HP)

[3] 雨引の里と彫刻HP  第1回展挨拶文より引用。

[4] 近隣の町
  旧岩瀬町は西の吉野、東の桜川と言われ、高峯山は山桜の名所として有名である。
 旧真壁町は真壁城下の街並みが残る。商業が発展した町である。ひな祭りが有名である。
  (桜川市HP)
[5] 洪積台地 
最終間氷期とそれ以降に形成された段丘のこと。河岸段丘、海岸段丘が分類される。 
   桜川市には一級河川の桜川に沿って形成された段丘がある。(桜川市HP 桜川市の今)

[6] 沖積地 
主に河川による堆積作用により形成される地形。主に礫、砂、泥から構成される。
  桜川流域一帯など。(桜川市HP 桜川市の今)

[7] 水利が良いため稲作や様々な農作物が収穫できる。(桜川市HP)

[8] 花崗岩 石英・長石・黒雲母からなる。地域により呼び名が変わる。
  この辺りでは真壁石と呼ばれる。 (桜川市HP 桜川市の今)

[9] 御影石 花崗岩が石材として御影石と呼ばれる。

[10]  暖温帯植物
   桜川市は様々な動植物の南限・北限をなす。常緑広葉樹のスダジイやシラカシが多くある。
   春は桜、秋は紅葉が美しい。(桜川市HP 桜川市の今)

[11] 冷温帯植物
   現在もブナ林が残っている。
   6000年ほど前の縄文海進の時代に温度が上昇して筑波山と加波山の山頂部だけに残った。
  (桜川市HP 桜川市の今 )

[12] 石井省三氏
   環境アドバイザーであり、旧大和村役場の企画課に勤めていた。以下[20]も同様人物。
   筆者電話聞き取り調査日2021年07月19日

[13] 岡村安久著『大曾根雑記ー山村生活の伝承ー』
   ふるさと文庫 筑波書林、1983年、p3、4、5、17、18、52、53。
   菅原二郎著「野外彫刻の可能性について(雨引の里と彫刻を通して)」、2000年。

[14] 筑波鉄道
   土浦駅と岩瀬駅の間を走っていた。石材を運搬する手段として有効であった。石材搬出用の
   駅もあった。地元の足として、又、観光鉄道でもあった。(桜川市HP)

[15] つくば霞ヶ浦りんりんロード
    旧筑波鉄道の廃線敷と霞ヶ浦を周回するサイクリングコース。
   「雨引の里と彫刻2015」では東飯田駅跡から雨引駅跡付近までの景観に作品を展示した。

[16] 「振り返ってみるとほこりとこっぱしか残さず、村の人々に作品を見てもらうことはなかっ
    た。」と、本人より受け取った論文の中で書いている。
   (菅原二郎著「野外彫刻の可能性について(雨引の里と彫刻を通して)」p3、4より引用。) 

[17] この場合、永久設置のかかえる問題(「彫刻公害」など)や企画展のあり方についていって
   いる。
   (菅原二郎著「野外彫刻の可能性について(雨引の里と彫刻を通して)」p3より。

[18]  筆者電話調査日2022年01月09日
    又、会議にてこれからの「雨引の里と彫刻」を考えるため、立ち上げ時の話があった。
    2022年01月16日
   (菅原二郎著「野外彫刻の可能性について(雨引の里と彫刻を通して)」p3より引用。

[19] 「いなかの会議」
    展覧会開催中に、作家が地元の人たちや鑑賞者との関わりを持つために開いた。

[20]  電話にて各自に調査を実施 2022年01月09日

[21] 「多くの展覧会には企画者がおり、作家は制作するだけでよかった。しかし、一つの方法と
    して自主運営をすることで、作家が直に社会との関わりを持つができるのではないか。」と
    いう考えがあった。
   (菅原二郎著「野外彫刻の可能性について(雨引の里と彫刻を通して)」p3、4より引用。

[22] [4]を参照。

[23] 「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」
    2022年名称「越後妻有 大地の芸術祭2022」
    アートフロントギャラリーの北川フラム氏がアドバイザーとして就任。地域活性事業の柱と
    して始める。2009年にはNPO法人越後妻有里山共同機構を立ち上げる。(大地の芸術祭HP)

[24] ランドスケープ・デザイン
   外部空間計画。造園。自然環境と人の生活の構築を目指す。
   (松本晴子著「現代美術用語辞典アートスケープ」)
    筆者は「雨引の里と彫刻」はこれにあたらないと考える。

[25] こへび隊と地元サポーター
   全国各地や世界から集まり活動。作品の管理や農作業など芸術祭に関わるほとんどの活動を
   サポート。(大地の芸術祭)

 【参考文献】

・岡村安久著『大曾根雑記 ー山村生活の伝承ー』
                    ふるさと文庫 筑波書林、1983年。

・真壁伝承館歴史資料館『石とくらしー真壁石物語ー』第62回企画展、
                   真壁伝承館歴史資料館、1996年。

・菅原二郎著「野外彫刻の可能性について(雨引の里と彫刻を通して)」2000年。

URL

・桜川市HP https://www.city.sakuragawa.lg.jp 閲覧日2022年01月14日。

・「雨引の里と彫刻」HP http://www.amabiki.org 閲覧日2022年01月14日。

・雨引山楽法寺HP http://www.amabiki.or.jp 閲覧日2022年01月14日。

・桜川市観光協会HP http://www.kankou-sakuragawa.jp 閲覧日2022年01月14日。

・つくば霞ヶ浦りんりんロードHP https://www.ringringroad.com/ 閲覧日2022年01月14日。

・「大地の芸術祭 越後妻有」HP https://www.echigo-tsumari.jp 閲覧日2022年01月15日。

・松本晴子著「アートワード ランドスケープ・デザイン」現代美術用語辞典アートスケープ
 https://artscape.jp  閲覧日2022年01月15日。

新聞記事・広報誌

・茨城新聞「農村バックに彫刻展」1996年05月03日。

・毎日新聞 菅原二郎著「風景のなかの展覧会」1996年06月06日。

・市長公室秘書広報課編『広報さくらがわ』No.327、桜川市、2019年。

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