《絹彩画》の文化資産評価報告書
《絹彩画》の文化資産評価報告書
はじめに
本レポートは筆者である前野節と、前野の創始した『絹彩画(きぬさいが)』について特徴を説明し、現在までの活動報告をする。また類似の技法『押絵』と比較することで絹彩画のオリジナル性について評価を行う。さらに絹彩画の地域社会での役割につき考察し、今後の活動の可能性を述べる。
一、基本データ
絹彩画の技法詳細は画像(2〜4)とともに説明する。
前野節の画歴詳細は参照画像1の中で紹介する。
1.絹彩画の誕生から初個展まで
a.創造のきっかけ
前野節は1961年名古屋市に生まれる。広告代理店のグラフィックデザイナーを経てイラストレーターとして独立する。クレイイラストで人気を博していた林恭三氏に触発され個性的な技法を模索し、1987年「木目込み人形」をヒントに新技法のイラスト(画1-4)を創造して制作を始める。
b.初個展と命名
最初の作品が線画家の橋本浩一氏の目に止まり支援を受け、1989年と1991年玄光社の『イラストレーション』誌で作品が特集された。1993年、同誌編集長片桐淳一氏から「ワコール銀座アートスペース」を紹介され初個展を開催する。その際一水会所属の叔父より『絹彩画』の技法名を授かった。「水彩絵具で描けば水彩画、油絵具で描けば油彩画というように、絹で描くから『絹彩画』である」という画家らしい絵画への想いが込められた命名であった。前後してアートディレクターの浅葉克己氏に独創的な表現方法を評価され、イラストとしての呼称『シルクレーション』を授かっている。浅葉氏は「絹彩画は和の風景が似合う」と評し、これ以降現在まで前野は画題を「日本の古い町並」に定めて描くことになる。
2.画家への転身
1997年国立近代美術館主任研究員(当時)の千葉成夫氏の尽力で伊勢丹本店画廊にて個展を開催した(画5)。本展において日貿出版社の編集者、鈴木尚氏と出会い1999年、作品集『絹彩画』を刊行している(参1)。個展後に浅葉氏から「制作に時間が掛る絹彩画はスパンの短い広告業界では力を発揮しにくい」と助言され画家への転身を決意する。
二、絹彩画のあゆみ
1.転換期
前野は伊勢丹展以降、発表の拠点を主要百貨店の画廊に置き活動してきた。新技法である絹彩画が広く認知されるためには展開場所として相応しいとの考えからである。しかし2013年を最後に慣れ合い等による負の条件が重なり、ホームグラウンドとなっていた名古屋三越での展開を失なうことになる。
2.マンネリズムからの脱皮
時代と共に百貨店内での画廊の位置づけは文化的空間から販売空間へと変遷していく。暗黙の空気の中前野も売れ筋の作品を制作せざるを得なくなっていた。ホームグラウンドの消失は打撃であったがマンネリ化していた環境から図らずも解放されることとなる。
同じ年、前野は京都造形芸術大学芸術教養学科へ編入学する。ここで芸術史や芸術思想を学び、自身の作風に対し漠然とした迷い〈抽象と具象、芸術における絹彩画のポジショ二ング〉を多角的に捉えることができ自信に繋げていく。学びはマンネリズムからの脱皮に勇気と推進力を与える事となった。
3.絹彩画元年
絹彩画と言えば「懐かしい日本の町並」というイメージが定着している。ファンはその世界を期待し、前野もそれを裏切ることなく描き続けてきた。しかし技法の成熟とモチーフのワンパターン化は作家自身も作風の停滞を認めることとなるのである。
2015年、前野は百貨店の縛りが無くなったこの年を「絹彩画元年」と位置付け、新たなモチーフに挑戦する試みを始めようとしている。
三.今後の創作活動
1.社会の中で生かされる絹彩画
a.社会還元
2014年チャリティー展(註1)への初参加で前野は多くの支援を得、創作する意味の一つを発見する機会を持った。
「画家は画家になるのではなく画家として産まれてくる。作品は必然であり頓着は無い。」長く前野はそう捉えていた。しかし本展をきっかけに、自らの作品に頓着し活かすことで社会還元を果たせると気づくのである。
b.地域と絹彩画
前野は26年に渡り各地を取材し、古い街並みを描き続けてきた。大学では景観保存地区における諸問題と行政やNPOの働きついて学びを進め、個々の特徴的な取組みについて関心を持つようになる。このことは前野の活動に変化を及ぼすことになった。
具体的には展覧会会場でトークや実演を行い、また地域活性化を模索するNPO企画のワークショップ開催に協力(註2,画6)し保存活動の一助として積極的に動き出している。
今後の展望として有松鳴海絞り、知多木綿、近江の麻など地場の布を用いて各地域で体験講座を開き素材の面白さを伝え、魅力発見に一役買うなどの活動を考えている。
四、絹彩画の独自性についての評価
1.創作画法としてのこだわり
素材と道具、制作手順については画像2-4とともに説明する。
2.技法の独自性の評価
彫刻家の萩原英雄(1913-2007)は絹彩画作品集の冒頭でこう評している。
「不思議なリアリズムー布を使ってよくもこんなにリアルな表現が出きるものだと驚いた印象を忘れない。その現実感は現世とは全く異質のあたかも白昼夢を見ているような不思議な世界である。線画では得られない独特の表現で、新しい二次元の世界を展開している。人のやらなかった世界を開拓するのは容易なことではない。(概略)」(1999)(註3)
美術評論家千葉成夫氏は松坂屋展の際朝日新聞に「数多くの芸術家が新しい表現を模索する中、彼女は独自の表現方法を切り開いた。完成度が高く独自性がある(中略)。主題が明確で、布を使う表現方法と古い町並みという題材もマッチしている。」(2004)と寄稿している。
技法の独自性と芸術性に対する両氏の評価は前野が考える以上に高く、特筆出来ることである。
五、類似の事例との比較し特筆されること
1.布絵のひとつ《押絵》と比較する。
a.押絵と、絹彩画の着想源である木目込み人形の歴史
いずれもその歴史は古く、押絵(参1,画7)は奈良時代、木目込み人形(参2,画8)は江戸中期に記録を残している。
b.押絵と、絹彩画の特質の比較
絹彩画は創始から26年と活動期間が短い。絵画志向が強く習い事としての発展も限定的である事に対し、押絵は明治時代女学校で指導科目に加えられ、婦人向け出版物に押絵細工が掲載されるなど近年は女性の習い事として発展してきた。現在も手芸の要素が強く主婦層を中心にすそ野が広がっている(参3)。
2.押絵と比較し特筆されること
a.技法的差異
木目込み人形は立体であるが絹彩画は平面である。ここに前野独自の発見と創造があり、技法を踏襲している押絵との最も大きな違いがある。
また素材である布への関心にも差異がある。絹彩画が布を絵具代わりと捉えていることに対し、押絵は布の選択が作品の完成度の高さに直結するため布の質へのこだわりが強い。
b.区分のこだわりと今後の課題
絹彩画は絵画に押絵は手芸・工芸に区分される。
絹彩画は布を使うため手芸の領域に区分されがちである。そのため前野はメディア取材においては常に絵画としての取り上げを要請している。
出版社からの〈易しいモチーフで身近な実用書として出版する提案〉にも手芸への区分を嫌い固辞しているが、このような区分にこだわる頑なな姿勢が絹彩画が習い事として拡散しない最大の原因であるといえる。
〈芸術へのこだわりと技法の拡散〉が前野の中で折衷不可能である限り、絹彩画は継続性の無い一代限りの技法で終わる。今後の課題である。
おわりに
「無駄の塊こそ芸術の正体である」そう前野は考える。
絹彩画は制作に時間を要する技法である。一本の線を引くとする。筆であれば0.数秒で済むところを数分、時には十数分を要する。画面全体においてそれが隅から隅まで成されるのである。これほどまでに時間を要しそれが価値を創出しているか?と問われれば作家的にはNOである。前野は制作時間の長さに〈価値の創出〉をおいていない。
無駄の塊が結果としてカタチになった物が芸術であるが「創作の過程においては〈どんな表現形態であれど〉一切の無駄は無い」ー前野の創作における信念である。
書き終えて
画業を振り返ると〈オリジナルであるが故に〉技法を乗り越えることと常に戦い、それが重石のようにのしかかっていた26年であった。今回先人達の言葉を読み返し、技法に抗わず素直によりかかり創作してもよいのではないかとの気づきを得ることができた。
その機会を与えてくれた大学と、前野節と絹彩画に四半世紀に渡り賜った多くの支援に対し、感謝とともにこのレポートを終える。
- 画像1:絹彩画「中山道の立場茶屋と枝垂桜」岐阜県中津川市・馬籠峠 (270mm×440mm) カレンダーのためのオリジナル作品。2014年作。 以下、前野節の画歴 画歴 前野 節 (まえの せつ)JAGDA会員 1961 名古屋生れ 1981 嵯峨美術短期大学デザイン科(vd.)卒業 1987 絹彩画©(きぬさいが)創始 1997 ~ アトリエにて絹彩画教室開設 1998 ~ 朝日カルチャーセンター講師 2000~02 NHK文化センター講師 2008~12 名古屋学芸大学外部講師 個展 1993 ワコール銀座アートスペース 1995,6 中部電力電気ビル ギャラリー 1997 伊勢丹本店(ポスターデザイン浅葉克己) 1998 阪急宝塚店 特設会場 1999 銀座5丁目ニューメルサ 特別会場 1999 三越日本橋本店(出版記念展) 2000~03 名古屋三越栄本店 2004 松坂屋本店 美術画廊 2004 三越松山店 特設会場 2005 三越名古屋栄本店 2007 中部国際空港 ギャラリー 2007 赤坂プリンスホテル・和の祭典 2008~ ハイアットリージェンシー大阪 ロビーギャラリー 2011 丸善日本橋店 2008~13 名古屋栄三越 2013 丸善丸の内本店(グループ展) 2014 阪急うめだ本店 (他多数) 著書1999 「絹彩画」日貿出版社 作品収録1993 「立体イラストレーション」グラフ社 複製版画2008〜「トツグラフ©版画 」版元:(株)伊藤美藝社製版所 賞暦1998「3DIllustrators Awards Show」(NY)金賞、2000 銀賞 企業カレンダー採用 東京相和銀行・㈱中部電力・㈱豊島・成田山新勝寺・㈱丸紅・㈱デュポン(米国)他 その他 村下孝蔵シングルCDカバーイラスト描き下ろし 「この国に生まれてよかった」 「一粒の砂」 ソニーレコード演歌ヒット集CD①~④カバーイラスト採用 (他多数) メディア NHK(生放送)、東海テレビ、中京テレビ、CBCテレビ、TV愛知 テレビ愛媛(生放送)、あいテレビ、東海ラジオ(生放送)、CBCラジオ等にて放送・収録 中日、朝日、読売、毎日、中部経済新聞等にて個展取材掲載・特集記事 サライ誌にてワコール個展、伊勢丹個展紹介 イラストレーション誌(玄光社)にて紹介・特集 (他、専門誌・情報紙等取材掲載多数) HP www.kinusaiga.com
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画像2:取材、スケッチを元に下絵を描き版下を起こす。 土台(スチレンボード)にスプレー糊でトレスした版下を貼る。版下の線に沿ってナイフで切り込みをいれる。鉄筆は布を押し込みやすくするために溝を付けるために使用する。 ツイザー、スプレー糊、スチレンボード、鉄筆、トランサーなど、道具の多くはデザイナー時代に使用していたものが多い。
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画像3:画面のアップと、使用している絞りの絹布と道具。 左から、小型はさみ、加工したスパチュラ、押込み用トランサー、溝をつける鉄筆。 下絵より少し大きく切った布を専用のスパチュラで溝に木目込む。スパチュラは彫金用のものやアートナイフを、使い易い形に加工している。 ほつれ留用の糊は螺鈿作家から調達し時が経ても染みが出ないように気遣っている。 その他いずれの道具も前野のアイデアで調達されている。(参考文献1,p.64)
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画像4:画材である古布の買い付け風景。名古屋市中区の大須観音蚤の市において。(2010)撮影栗田格(ガンマ通信) 着物地はひとつの色柄のために一反購入することも稀ではなく、蚤の市や古布店で探す。 色柄、素材、用途別にはぎれにしてストックし、染色は行わない。特別な場合を除き正絹のみを使用する。着物地は表と裏と両面使用する。風合いや色目が変わり、特に裏面は柄がぼけていることが多く使いやすい。以下は絹地の使用に関する留意点の一例である。 古い絹地は光を吸収する性質があるので色目が現代の絹地と似ていても、輝かせたい空や、水面には使えない。キメ込む場所により新旧を使い分けている。
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画5:伊勢丹展のポスター(1997)デザイン浅葉克己 浅葉克己氏は自らデザインしたポスターの中で 「絹の肌ざわり、その感覚はあなたを遠い記憶の世界へ連れて行く」 とメッセージをよせている。
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画6:NPO法人「四条京町家」においてワークショップを開催した。(2014) 京町家で1日を過ごし、その味わいを体感してもらおうという企画のひとつとして絹彩画一日体験教室を共同で提案、募集はNPOがネットとチラシで、作家は同時期に開催中であった阪急梅田店での絹彩画展会場で呼びかけた。参加人数は14名。年齢は小学1年生から70代まで。男性は1名でコスタリカの芸大教授が飛び入り参加している。制作時間は5〜6時間、小作品の完成を目指す。
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画像7:押絵は正倉院宝物の『人勝残欠雑帳』にまで遡るという説もある。 江戸初期、二代将軍秀忠の娘で後水尾天皇の中宮、東福院和子(1607-78)の押絵が日本最古の押絵として知られている(参考文献2:p.128-129)。元禄年間(1688-1704)に宮中の女性の間で栄え、やがて元文年間(1736-41)に入ると庶民にも広まったいった。「押絵」という言葉は文政年間に入ってから一般化し、押絵雛や押絵羽子板が作られるようになっていった。押絵羽子板は現在も作られ酉の市での販売は時節の風習としてよく知られるところである。(参考文献3,p.110-112) 画像は前野節作の押絵初作品で、団扇面の金魚。丸善展においてチャリティー販売のため制作した。
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画像8:絹彩画のヒントになった加茂人形(江戸時代中期・画像は参考文献4より) 現在一般的に木目込み人形と呼ばれているものは加茂人形が元とされている。 江戸時代中期の元文年間(1736〜41)、京都賀茂神社の雑掌高橋忠重が祭に使う神具の余材で作ったと伝承され、木彫の人形の木目に古裂を押し込んだ素朴なものであった。そのほとんどが5、6センチほどの大きさの小ぶりの人形である。(参考文献3,p.43) 1970年代に東京の二代目金林真多呂が木目込み技法を教える人形学院を設立し、講師を育て全国的に教室を展開したことにより、趣味の習い事として主婦層を中心に木目込み人形(真多呂人形)が広く知れ渡った。
参考文献
参考文献1:前野節著(1999)『絹彩画』日貿出版社
参考文献2:西山鴻月・西山和宏共著(2007)『江戸の技と華 押絵と羽子板』日貿出版社 p.128-129
参考文献3:きのしたまもる(2004)「押絵の歴史」『布あそび──押絵の世界』 別冊太陽 平凡社 p.110
参考文献4:竹日忠芳(1997)『人形今昔』北辰堂 p.48
参考文献5:是澤博昭監修(2008)『日本の人形の美──伝統から近代まで、浅原コレクションの世界 』淡交社
註1:『犯罪被害者支援のためのチャリティー作品展』主催/公益社団法人被害者サポートあいち
後援/愛知県・名古屋市・愛知県警察・中日新聞・中日新聞社会事業団・東愛知新聞社
註2:NPO法人企画のワークショップに参加。2014年4月3-4日に開催。四条通りに現存する最後の京町家である「四条京町家」が企画。『町家で過ごそう!…町家で楽しむ絹彩画』参加人数14名
註3:1999年前野節著『絹彩画』の序文として寄稿
註4:2014年4月1-2日 阪急梅田店展覧会会場において実演パフォーマンスを行なった。