柴崎村と柴崎分水のなりたち

野口 佳子

東京都立川市に流れる柴崎分水[01]は江戸時代に33あったとされる玉川上水[02]の分水のひとつである[A]。柴崎分水は立川市指定史跡として1980年3月に登録された。分水を利用していた主な地域は今の立川市富士見町、柴崎町、錦町にあたるが、柴崎村の中心部であった箇所を東西に分割するようにJR中央線が走っている。奥多摩街道は陸橋で東西を繋いでおり、その陸橋の側に柴崎分水を東西に渡す水路橋がある[B05,C05]。小さな水路を中央線が横切る不思議な光景になっている。
柴崎村は811年諏訪神社建立あたりまで遡ることができる村である[01]。柴崎分水は新田開発のため何度か灌漑用の水で周辺の村と訴訟問題になり水を引くことに失敗している[D3]。柴崎村は多摩川の崖線に近く、地形上「はけ上」を住居にし田畑は湧き水や多摩川が利用できる「はけ下」に置くというすみ分けをしていたので水に不足はないと判断されたと推察する[D2]。1737年、飲料水に使用するため許された。
その後分水は動力としても活用され1920年代まで脱穀、精米、撚糸の水車があった[B-青●印]。水は普通なら高いところから低いところへ流れるが、場所によっては遡って流れており村にくまなく水を配るため工事にはさまざまな工夫がなされたようだ[E1]。

砂川分水との比較

同じ立川市に柴崎分水とは対照的な成り立ちの砂川分水がある[A,E3-④]。砂川村は1627年頃より新田開発によって開かれた[D2]。からっ風のため家の中にも赤土の砂がたまり「神棚にごぼうの種をまけば作物が育つ」と言われる地域である。
砂川分水は1657年開設、玉川上水開設の4年後である。地形的に山や谷といった障害となるものがなく計画的に区割りをした町づくりのため、水も道なりにまっすぐ流れており1876年頃は約6390mの距離があった。土地割りは川幅約1.2mの砂川分水を軸にして南北に短冊のように連なっている。敷地内は道沿いにケヤキの屋敷森、作業のための広い庭、宅地、奥に畑、その後方に植林といった形式が一般的であった。
砂川分水で開渠がみられる箇所は立川市内では玉川上水付近のほんの一部で[D1 写真中]、五日市街道沿いは道路拡幅のため1960年代には歩道になり暗渠化、ほぼ水路を見ることができなくなっている。
柴崎分水は砂川分水から80年も遅れて引水されている。家から家へ配水するため、水路にクランクやカーブが多く[B,C,E2]、名主クラスの家には敷地の中へ水を引いている箇所もある。時代が下ると井戸が深く掘れるようになり、井戸水を飲み水に、分水の水を米や野菜、食器洗い、洗顔や風呂水、洗濯に使用していたところは共通している。

甲府鉄道開通

立川市の発展に大きな影響を与えたのは甲府鉄道(現JR中央線)開通時の水問題である。甲府鉄道はまず1889年4月に新宿-立川間27.2km、8月に多摩川の鉄橋が竣工し八王子まで前線開通した。当初は終点だったため機関車の給水、車体洗浄の水は大量に必要であり、用水使用の依頼があった。最初、停車場の位置は南口にある諏訪神社付近が適当とされ誘致が進んでいた。しかし分水から供給される水量はもともと少なく飲料水が確保できるかの不安と、機関車から出る火の粉による火災を恐れ、南側の柴崎からは反対の声があがった。その間砂川村が先に鉄道に水の利用を許可し、北向きに駅舎を作ることに成功した。砂川村は養蚕を中心に桑苗販売・製糸業・織物業が成立しており、交通の便を必要としていたためである。
周辺地域に比べ宿場町でもない立川が鉄道誘致、交通結節点になることで近代は大きく発展する。しかし駅の北口側が主に発展し、南口側は1998年11月多摩モノレール開通までゆっくりとした開発であった。そのため柴崎分水支流が長く開渠を保つ要因になった可能性がある。
鉄道の架設工事は、はけ下の多摩川鉄橋の高さを基準とし立川駅から普済寺の横まで高さを合わせはけ上部分を掘った。そのため取り残された水路は線路を跨ぐように流すことにしたのである。分水の本流にはめがね橋、支流は木製の水橋を作った。分水の本流は流されなくなった時点でめがね橋の水橋はなくなっている。
分水支流の方は1935-37年頃、現JRの立川-豊田間複線化工事により旧山中陸橋が取り壊され、2017年まで鋼材製の橋を架け開渠になっていた。しかし老朽化のため鋼管に替わり中央線の上を水が流れる光景は見られなくなった[C05-2,05-3]。

1964年東京オリンピック以前の水路

現在暗渠になっている富士見町4丁目付近にお住まいの方に子供の頃の分水の思い出を伺った。1986-7年に小学3-4年生で、幅120cmの水路を川幅と同じくらいの背丈の子供達が水路を飛び越える遊びをやったり、笹舟を流し誰が早いか競争していた。
近隣の名主の家にある門の周囲は木が鬱蒼としており、侍が出てきそうな時代を超えた雰囲気があったそうだ。今も門はあるが植栽は綺麗に手入れされている。分水の下流に近い方はタニシがいたとのこと。
家に井戸があり分水は飲み水ではなかった。大人が大きな柄杓で打ち水をしたり、洗い場[E4]で友達のお母さんが野菜や芋などを洗う風景が印象に残っているそうだ。はけ下にある甲州街道は東京オリンピックでロードレース会場にするため整備され、それを境に街道沿いの田畑が宅地に変わっていった。家の近くの分水もその頃蓋をして暗渠になってしまったので、分水の思い出はそこまでという。

暗渠と開渠の水路について

2007年立川市都市整備部調べでは現在使用されている支流が7800mであった。支流について保存管理基準としてa,b,cの3つの地区にカテゴリー分けしている。aは開渠で比較的保存状況が良く昔の形を残している、史跡。bはaとcの中間、cは暗渠で保護ができない地域。2003年でc地区は5割程度だったが、現在では6割程に増えてきている。現代の生活では往来に車も多く蓋をしておいた方が安全な上ゴミも入らず、全て開渠がいいとも言えない。しかし暗渠になってしまうと水に触れるきっかけがなくなり、水路自体が地域の人達に忘れ去られてしまう恐れがある。
東京では江戸時代からの開渠や水路橋が残る場所は少なく、今後はさらに減少していくであろう。JR「水道橋」の名は神田上水の「懸樋」からであったが無くなって久しい[E1]。柴崎分水も暗渠が増加傾向にあり、現在水の利用は学習用田圃のみである[C16]。

武蔵野台地に一番必要だった「水」

関東の武蔵野台地は1700年頃まで自然の湧泉がほとんどない乏水性の洪積台地で、表土の下の砂礫層の堆積が厚く、開発不能地域と考えられていた。そこに玉川上水を引き江戸市中の飲料水を確保したため、水路周辺の土地にも分水され新田開発村が成立していった。現在、各分水は暗渠化、通水を停止している箇所もある[A]。しかし町の成立と密接に繋がり、先人が通水に工夫を重ねた証が独自の景観を生み出している遺産である。
「玉川上水・分水網の保全活用プロジェクト」が未来遺産2016に登録された。2020年東京オリンピック・パラリンピックまでに各流域の区市と連携しながら日本遺産登録を、さらには世界遺産を目指す取り組みも行われている[04]。世界遺産の登録基準 2「建築や技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展において、ある期間または世界の文化圏内での重要な価値観の交流を示すもの」に該当する可能性がある[05]。評価はどうなるか、今後を見守っていきたい。

生活を支えた水路から水辺の景観保全へ

柴崎分水が開設して280年、せせらぎの音は変わらない。川風が運ぶ清涼感はかけがえのないものである。訪れる人々が四季折々の変化を体で感じたり水生の動植物と触れ合うことで情操部分が養われる。景観として植栽や水辺の空間に安らぎを感じることができる。維持管理する組織に関わることで地域住民としての連帯意識が生まれる、など分水は多くの領域で町の文化に貢献してきた。
柴崎分水を史跡として守ることが地域に暮らす者達の役目であり誇りにもなるだろう。先人の工夫に習い、できる限り開渠部分を残しながら住民の生活に沿った形で分水を活かしていくことが今後は重要である。

参考文献

【 参考文献 】
01) 柴崎分水・砂川分水について

※柴崎分水を「立川分水」と紹介している文献もある。

『市内歴史散歩 柴崎分水を歩く-JR西立川駅からモノレール柴崎体育館駅-(2019年3月17日実施)』 小坂克信 立川市歴史民俗資料館 編

『立川市史 下』1978 立川市史編纂委員会 編 立川市

『資料館だより 21号』2017.3 /『資料館だより 22号』2018.3
立川市歴史民俗資料館 編


02) 玉川上水について

『写真集 水路の造形美-水の恵みをうける日本の原風景を求めて-』2006.10 渡部一二 著 東海大学出版会

『玉川上水-親と子の歴史散歩-』1991 肥留間博 著 たましん地域文化財団

『玉川上水と分水 新訂増補版』1995.5 小坂 克信 著 新人物往来社

「東京都水道局HP」玉川上水の歴史
https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/kouhou/pr/tamagawa/rekishi.html
2019年7月14日閲覧

『立川市水道史』1985年 立川市水道部

※玉川上水は1653年4月の着工から8か月後には羽村-四谷大木戸間の約43kmが完成する。2003年開渠部分約30.5kmが国指定史跡に、東京都水道局が2007年3月「史跡玉川上水保存管理計画」、2009年8月「史跡玉川上水整備活用計画」を策定、東京都環境局は樹林地が残る立川崖線を緑地保全地域として指定している。


03) 立川市 立川市の歴史(1700年代まで)
更新日:2016年12月5日
https://www.city.tachikawa.lg.jp/koho/shise/gaiyo/shokai/rekishi/1700.html
2019年7月14日閲覧


04) 「玉川上水ネット」(柴俊男代表)の世界遺産を目指す活動、各地域における活動について
「玉川上水ネット」
http://www.ngo-npo.org/josui/index.html


05) 『「世界遺産」20年の旅』2016.12 高城 千昭 著 河出書房新社


【 図版使用 】
A
『写真集 水路の造形美-水の恵みをうける日本の原風景を求めて-』2006.10 渡部一二 著 東海大学出版会

パワポでデザイン(東京都地図利用)
https://power-point-design.com/ppt-design/tokyo-for-powerpoint/
2019年7月17日閲覧


B
※柴崎分水の本流(赤線部)は支流に比べ7対3の割合で多く水が流れていたが暗渠になっている。ほぼ名残としては残っていないが、周囲の道に比べ曲がりくねっていたり幅にばらつきがあったりする。土地の高低差は体感的に無い。

『市内歴史散歩 柴崎分水を歩く-JR西立川駅からモノレール柴崎体育館駅-(2019年3月17日実施)』 小坂克信 立川市歴史民俗資料館 編

『市指定史跡 柴崎分水を歩く-秋の歴史散歩・(2002年10月12日実施)-』鈴木功 立川市歴史民俗資料館 編

『資料館だより 21号』2017.3 立川市歴史民俗資料館 編

標高がわかるWeb地図 - 国土地理院
https://saigai.gsi.go.jp/2012demwork/checkheight/index.html
2019年7月14日閲覧


D
1 多摩のあゆみ Vol.4 1976.8 多摩中央信用金庫 グラビア・水の道 玉川上水より

2 『日本の上水』増補改訂1995 堀越正雄 著 新人物往来社

3 『立川の文化財』2000.7 立川市教育委員会


E
1 多摩のあゆみ Vol.4 1976.8 多摩中央信用金庫 グラビア・水の道 玉川上水より

1 『玉川上水-親と子の歴史散歩-』1991 肥留間博 著 たましん地域文化財団

3 『写真集 水路の造形美-水の恵みをうける日本の原風景を求めて-』2006.10 渡部一二 著 東海大学出版会

4 『玉川上水と分水 新訂増補版』1995.5 小坂 克信 著 新人物往来社


※本レポートの制作において立川市歴史民俗資料館の皆様に、多くのご教示をいただき感謝申しあげます。

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