有田焼、次の100年をつくる地域ネットワークについて
はじめに
有田は、佐賀県西部に位置する、言わずと知れた焼物の町である。有田焼の歴史は400年に及ぶ。磁器生産が本格化した江戸時代以降、有田千軒と呼ばれる町並みが形成され、有田焼とともに繁栄してきた。町の一角にトンバイ壁(図1)がある。耐用年数が経過して壊された登窯の廃材を使って築かれている。登窯の薪には松が使われていたのであるが、その松の油が飛んでつやが出ているレンガや、焼成の過程で使われる工具など、トンバイ壁には有田焼の歴史が刻まれている。こういった歴史的町並みが現在も残っており、1991年には重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
図2は、有田焼の原料である陶石が発見された泉山磁石場である。もともとは山でふさがれていたのだが、400年かけて上から掘り下げられてきたため、現在の奇観となった。しかし、消費者のライフスタイルの変化と情報の流通によって、産地の独自性を示すことが難しくなっており、有田焼の生産量は最盛期の6分の1まで減少し、泉山磁石場も1992年に採掘を終了している。。有田の人口も、1985年をピークに減少の一路を辿っており、進学のタイミングでの県外転出や少子高齢化に歯止めをかけることが出来ていない。
本レポートでは、有田焼の生産システムを考察し、次の100年を紡ぐ礎となる地域ネットワークについて考えたい。
1.歴史的背景
有田焼は、1616年に朝鮮人陶工が李修平らによって、鉄などの有色の金属元素が少ない陶石が泉山で発見され、日本で初めて白い磁器焼成に成功したことによって誕生した。1640年代になると、中国人技術者によって色絵の技法が伝わり、以降、古伊万里様式、 柿右衛門様式や鍋島様式といった伝統技法基本類型が確立した。青の染付、赤や金を用いた上絵付けによる多彩な色使い、精巧な文様と余白の優美さが有田焼の特徴である。転機は1644年、それまでヨーロッパへの輸出の中心であった中国の景徳鎮で内乱が起きたことから、オランダの東インド会社から大量注文が入り、生産が増大したことで有田の産地構造が発展した。ヨーロッパからの大量注文と質の要求にこたえるという資本主義的環境で、技術的にも芸術的にも有田焼が一層発展した。有田焼の生産体制は、佐賀藩による厳しい統制と保護のもと、徹底した分業制であった。とりわけ赤絵付の技術は門外不出とされ、登録許可をえた赤絵付け業者だけが指定された場所で営業することができた。技術をもつ職工も、その生活が厳しく監視され、閉鎖的な体制であった。1800年に入ると、大阪商人の台頭に伴って、日本国内でも陶磁器の流通が及ぶようになったが、佐賀藩が流通を一手に担う陶磁器専売制度によって統制されていた。
しかし、明治時代に入ると、廃藩置県によって急激な自由化と競争にさらされることになる。佐賀藩によって統制されていた生産システムが崩壊し、有田焼生産への参入が相次いだことで質が劣化、大阪に依存した販売網も壊れた。このような状況下で生き残るため、1875年に香蘭社、1911年には深川製磁といった会社組織が設立され、新たな産地システムが構築された。その後、焼成窯は、薪から石炭、重油、ガス、電気へと進化。1965年以降は機械化を取り入れ、生産増大の道を選択した。このようにして、有田焼は、時代の変化と技術の進化を積極的に取り入れながら、400年の歴史を紡いできた。
2.産地デザインの比較
有田の産地デザインを考える上で、具体的な事例として、『伝統産地の経営学-陶磁器産地の協働の仕組みと企業家活動』(山田幸三、2013年)で取り上げられているシリコンバレーと比較したい。シリコンバレーは、アメリカ西海岸のサンフランシスコ南に位置する、グーグル、アップル、アマゾン、フェイスブック、ネットスケープなどに代表されるIT企業の一大拠点である。シリコンバレーの特徴は、技術コミュニティを基盤としたオープンな地域ネットワークである。起業を志す人には海外から渡航してきた人も多く、投資家、弁護士、シリコンバレー発企業の社員が相談にのるなど、会社組織の枠を越えた協力関係がある。オープンなネットワークがあるからこそ競争と協力が生まれ、すばやい技術革新が生み出され、結果として内外から人が集まる地域となっている。
明治以降の有田の産地デザインは、二重構造である。香蘭社や深川製磁といった会社組織は、有田の量産体制、陶磁器技術の継承において中心的役割を担った。会社内で育成した職人が独立することも厭わず、自由競争の中で独自のデザイン・コンセプトや技法の開発に繋がっている。一方、柿右衛門窯や今右衛門窯といった窯元は、先代から承継されたデザイン・コンセプトに基づいて一点物や高級品を生産してきた。各工程に特化した職人の分業体制によって生産されており、職人は終身雇用が前提であるため、人材が流出することはほとんどない。このようにして、窯元独自の技能の伝承と追及を図ってきた。会社組織と窯元が共存してきたことで、生産のすみ分けによって窯元内と窯元間の競争、当代と先代の競争、産地間の競争といった重層的な競争が生まれ、人材育成の仕組みの違いによって協働の仕組みが出来ている。
3.今後の展望について
有田焼は、時代の変化と技術の進化に対応することで紡がれてきた。これからの100年を築くためには、より早く消費者のニーズを汲み入れるオープンな地域デザインが求められる。元来、有田焼の販売を担ってきた問屋は、窯元とデパート・専門店をつなぐ物流的役割であった。高度経済成長期以降、有田焼は問屋に頼った販売体制であったため、窯元はマーケットから遠く、消費者のニーズの変化に対応することができなかった。問屋も同様で、販売網を強化することができなかった。消費者のニーズの変化を汲み入れていくためには、使い手とつくり手をつなぐ、デザイナーと窯元をつなぐ、窯元同士をつなぐといった価値共創を可能にする橋渡し的役割が必要である。この役割を担うのが、問屋やデザイナーである。
クリエイティブデザイナーである柳原照弘氏が率いる1616 / arita japanは、有田焼の伝統を踏襲しながらも、海外アーティストとコラボレーションをすることで、従来にはないデザインアプローチを試みている。新しい試みには最先端の技術が必要であるが、『有田焼創業400年と技術革新』(一ノ瀬弘道、2017年)には、佐賀県窯業技術センターで開発された高精度磁器原料が用いられ、焼成変形がほとんどない直線性のフォルムを実現した1616 / arita japan standard seriesの角プレートが例示されている。
シリコンバレーにいる人は、企業に属しているというより、企業を越えたオープンな地域ネットワークに属していると言う。有田は、焼物とともに生きてきた。時代の変化とともに、数多くの技術革新や組織変更を繰り返しながら400年の歴史をつないできた。次の100年を築くために、産地全体をいかにデザインし変わっていくかが問われている。消費者のニーズを汲み入れながら変化するために、問屋やデザイナーによってコラボレーションと技術革新が促進されることで、産地内外から有田という地域ネットワークに属したいという人が集まり、これからの歴史が重ねられていくことを期待したい。
参考文献
一ノ瀬弘道『有田焼創業400年と技術革新』、表面科学Vol.38、2017年
山田幸三『伝統産地の経営学-陶磁器産地の協働の仕組みと企業家活動』、有斐閣、2013年
釜堀文孝『九州における「地域振興とデザイン」』、デザイン学研究特集号、1994年
下平尾勲『現代伝統産業の研究 最近の有田焼の経済構造分析』、新評論、1978年
深川正『世界の中の有田 私の東西交渉史』、西日本新聞社、1975年
下平尾勲『経済成長と地場産業 最近の有田焼の経済構造分析』、新評論、1973年