「聴竹居」自然エネルギーを生かした環境共生住宅の魅力
はじめに
「聴竹居」は京都帝国大学教授・建築家の藤井厚二(1888~1938)の5回目の自邸として建てられた。天下分け目の合戦で有名な天王山を背後に桂・宇治・木津の三川が合流し淀川となる雄大な景観が望める大阪府との境に位置する京都府大山崎町の天王山の麓に竣工90年を経た現在も当時と変わらず佇んでいる。大山崎町には千利休の茶室で国宝の妙喜庵「待庵」、安藤忠雄が増築・改修設計をしたアサヒビール大山崎山荘美術館、重要文化財の宝積寺などの近世・近現代建築が多数存在する。そして「聴竹居」は2017年7月に昭和の住宅として初めて国の重要文化財に指定された。パッシブハウスの先駆けとしての「聴竹居」の魅力を探る。
1. 基本データ
所在地 :京都府乙訓郡大山崎町大山崎谷田
設計者 :藤井厚二
竣 工 :1928年
構造規模:木造平屋建て
敷地面積:約33,000㎡
建築面積:173.0㎡(本屋のみ)
延床面積:173.0㎡(本屋のみ)
2.評価すべきところ
「聴竹居」は藤井厚二の第5回実験住宅として全体で約1万坪ある敷地内のいちばん見晴らしの良い場所を選んで建てられている。1回から4回までの実験住宅において、2階建てと平屋建ての居住経験を通じ、生活の能率性の高さから、平らな場所が少ない敷地にもかかわらず平屋建てを選択している。それは大正12年(1923)9月に起った関東大震災を目の当たりにした藤井は地震に強い住宅は平屋建てが最良であると考えてのことである。
建物は南北に細長く雁行したプランをもつ居室を中心に、客室、食事室、調理室、縁側、読書室等が配置され、その奥の中廊下に面して私的な寝室、浴室、便所、納戸等がある。南北に細長く雁行させている理由の一つは西風の多いこの土地の特徴において、風通しを良くするためである。
科学的アプローチを駆使したパッシブな(自然エネルギーを生かした)造りで外壁の負荷軽減、明るさを取り入れつつ熱負荷を減らす工夫「一屋一室」の考えに基づく良好な通風・換気重視を旨として設計されている。
椅子座と床座を融合させた「小上がり」という三畳の座敷を設け椅子に座った人と畳に座った人の目線を合わせるために畳の床を30cm高く設定している。居室周辺の読書室、客間、縁側は戸を開ければひと続きの空間になり、風が吹き抜け、常に新鮮な空気で満たされている。同一空間の中に和と洋が共存している。
そこには高温多湿な日本の夏を快適に過ごすための工夫がなされているのである。木造軸組みの屋根には銅板葺は軽すぎるため、断熱性能にも優れ適度な重さのある瓦葺きを棟部分に配している。妻面には通風窓を設け、夏季に高温になる屋根裏の換気や室内の汚れた空気の排気に利用している。天井には屋根裏に通じる排気口が縁側、廊下、調理室に設けられている。調理室と廊下の間に隠された通風筒は、床下と屋根裏の温度差を利用して空気を流動させ、屋根裏の熱負荷を軽減しようとしたものである。天井は杉杢板、杉柾板、杉へぎ板の網代、竹皮の網代、鳥の子紙など多くの材料を様々な形で使い分けて自然系材料も積極的に採用している。
また接客のために設けられた床の間のある椅子式の客室(応接室)は、わずか10.5㎡の広さではあるが、「聴竹居」の中で最もデザイン密度が高く、和と洋の要素が凝縮された空間といえる。使われている材料は木、竹、紙という日本の伝統的な材料でありながら、様式としては椅子式の洋風、床の間という和の空間要素、それらが絶妙のバランスで融合されている。
床の間は椅子式に対応し目線を意識した高さが採用されている。玄関から引戸を開けて入った時に目にとまる位置にある腰掛横の小さな床と、腰掛や椅子に座った時に眺める大きな床の二つが組み合わされている。腰掛と小さな床との間に設けられたスクリーンは目の美しい杉板柾目と腰掛からの目線を遮らない位置に設けられた細い竹のたて子そして竹の床柱で構成されている。床の間の向かい側には縦ストライプ模様の布張りの両引戸と、その上部には換気を目的とした桐板と障子で構成された弧のデザインが美しい欄間がある。
そして南側にゆったりと流れる淀川を望む縁側はパノラマを得るために、嵌殺しのガラスが付き合わされるコーナー部分は、室内からの視線を妨げないような断面になっている。次に、柱をなくすために軒をはね木でもたせている。この部分の屋根の材料には軽くするためにも、また、勾配を緩くするためにも銅板葺が用いられている。さらに、ガラスの種類についても工夫が見らえる。嵌殺しの窓の上枠と引違窓の障子の高さをそろえて、床から600~1,700mmの部分のみを透明ガラスにし、残りの部分をすりガラスにしている。室内から余分なものを見せない視線操作をしているのである。
また縁側は室内気候の向上のためのものでもある。夏季は隣室への直射日光が防がれ、冬季はガラスを嵌めて風雨を防げれば暖房器具が要らないほど温くなる工夫がなされている。
3.歴史的背景
明治維新以来の欧化政策により欧米の模倣と日本の伝統とがただ雑然と混交している生活様式。そうした時代に藤井厚二は京都帝国大学教授として自らがはじめた環境工学の知見を生かし、真に日本の気候風土と日本人のライフスタイルや趣向に適合させた「日本の住宅」を日本で最初に志向した建築家である。
1910年第六高等学校を卒業、東京帝国大学工科大学建築科へと進む。大学では「法隆寺建築論」を発表した日本初の建築史家であり、「平安神宮」や「築地本願寺」を設計した建築家、伊藤忠太に教わっている。西洋化一辺倒から脱し日本独自の洋式建築を追い求めた伊藤の思想に大きく影響を受けている。1913年最初の帝大卒の設計課員として竹中工務店に入社。大阪朝日新聞社および村山龍平邸(和館)、橋本汽船ビルなどを担当。その後退社し建築に関する諸設備及び住宅研究のため欧米視察をする。1920年武田五一により創設された京都帝国大学工学部に講師として招かれ翌年、助教授にとなる。この年、大山崎町に第2回藤井自邸、第3回1922年、第4回1924年、と次々と実験住宅を建て最終到達点として第5回(聴竹居)を1928年に完成する。
4.他の事例と比較して
比較事例として「聴竹居」から数百メートルはなれたところにある「大山崎山荘」を取り上げる。
大正から昭和にかけて建設された英国風の建物で大阪の実業家・加賀正太郎の別荘であった。趣のある英国風の建物は1917年に木造の洋館を建設し、その後増築のすえ、1932年に鉄筋コンクリート造で英国チューダー様式の大邸宅と庭園を完成させた。
藤井厚二と「大山崎山荘」を建築した加賀正太郎は1888年の同じ年に生まれて同時代に全く違ったコンセプトで住宅を建築している。加賀は英国の重厚な建築様式を志向し完璧な洋館を作り上げている。一方、藤井はモダニズム建築を志向しながらも欧米一辺倒な考え方を廃し日本独自の気候風土に合った住宅を模索しているところは藤井の特筆すべきところだと考える。
おわりに
近代以降、化石燃料を使用した機械による物理的な環境制御が出現した。電灯、ヒーター、エアコン、換気扇といったデバイスが考案され、同時にそれらのエネルギー源となる電気やガスの供給システムが整備され普及した。光、熱、空気を人工的にコントロールすることが可能となったのである。
これらの機器が普及し、機械制御を手軽にできるようになると、住まいづくりにおける自然エネルギーを受け入れる位置づけが相対的に低くなっている。なぜならこれらの機械による環境制御は強力だからだ。
ところが21世紀に入って地球温暖化、都市部におけるヒートアイランド現象などが顕在化するとCO2排出量の抑制なども唱えられてきている。今後は環境保全の観点からも「聴竹居」のような自然エネルギーを積極的に取り入れる住宅が主流になることが必要ではないかと考える。
参考文献
竹中工務店設計部 編著 『環境と共生する住宅「聴竹居」実測図 増補版』 (株)彰国社 2018年
松隈 章 『「聴竹居」藤井厚二の木造モダニズム建築』 (株)平凡社 2015年
松隈 章 『木造モダニズム建築の傑作 聴竹居 発見と再生の22年』 ぴあ(株)関西支社 2018年
小泉 雅生 『環境のイエ フィジックスと住空間デザイン』 (株)学芸出版社 2010年
「聴竹居」パンフレット
「聴竹居」と藤井厚二展 パンフレット 大阪くらしの今昔館 2010年