「樽ヶ橋エリア」の越後胎内観音像 ー込められた思いー

手塚 正男

はじめに
新潟県胎内市に住み26年目になるが、なぜ観音像があるのかさえ分からなかった。そして、仕事で何度も通っているにもかかわらず、その存在すら気にもかけない自分自身の反省を込めて、ここに文化資産評価報告書として著した次第である。

1、越後胎内観音像のある樽ヶ橋エリアについて
樽ヶ橋エリアは、JR中条駅より北東方向約5キロメートルのところの鳥坂山(標高438.5m)の麓にある(図1)。この樽ヶ橋エリアには、「越後胎内観音像」のほかに、仁王殿・帰林殿・薬師堂・そして鐘撞堂がある。そのほかに、クアハウスという建物は、温泉施設にプールやトレーニングルームが付設されにぎわっている。動物園と遊園地が合体した樽ヶ橋遊園や胎内市美術館、黒川郷土文化伝習館、里山食堂などがコンパクトに500m以内に収まっている(図2)。
樽ヶ橋エリア内で際立っているのが鳥坂山2合目付近に立つ越後胎内観音像である。胎内市商工観光課や観光協会、生涯学習課の伊東さんから取材させていただいた。ここに越後胎内観音像の特色と樽ヶ橋エリアにおける効果について考察し、記載したものである。

2、樽ヶ橋エリアの歴史的背景
2-1 「樽ヶ橋」の由来
胎内市の地形は、飯豊山系から流れ来る胎内川がもたらした多くの土砂によってできた扇状地である。この扇のかなめにあたる部分が樽ヶ橋エリアであり、日本海側を背にして右側に鳥坂山、左側に高坪山、その間を流れる胎内川が遠くは飯豊山系の水を流し続けている。鳥坂山には、800年以上前の平安時代末期に、平家の流れをくむ城氏が建てた鳥坂城があった。
1185年壇ノ浦の戦い以降、平家滅亡の道を歩み、鳥坂城は1201年陥落の憂き目を見ることとなった。この時に板額御前が弓の名手として女性ながらも参戦した話は有名である。そして、板額御前の甥である城太郎資盛(じょうたろうすけもり)が逃げる際に渡った橋が樽ヶ橋なのである。
2-2 越後胎内観音像建立の由来
樽ヶ橋は1816年に書かれた「越後輿地全図」(資料1)によると、胎内川を渡っていくための唯一の橋であったことがわかる。また、1877(明治10)年鈴田平蔵が著した『越後摘誌』(資料2)によると、交通の要所としての樽ヶ橋、藤の花やアユのやな場としての樽ヶ橋が錦絵で紹介されている。
観音像建立の契機となったのは、昭和42年の羽越水害である。胎内市は平成17年9月に旧中条町と旧黒川村が合併してできたのであるが、水害当時の樽ヶ橋は黒川村であった。村内の死者は31名となり、1年前の大雨による犠牲者1名を共に合祀し、32名のみたまを弔うべく胎内観音像と慰霊碑が建立された。

3、樽ヶ橋エリアの観音像の立ち位置
3-1 越後観音像の視線
結論から述べると、樽ヶ橋エリアのへそは樽ヶ橋そのものであるということに気がついた。そこに気付くまでにかなりの時間を要した。幾度となく観音像の前に立ち、見上げていると、徐々に違和感を感じるようになった。筆者が像の正面に立ち、両手を合わせて、指先から上方へ視線をずらし、観音像の顔を見上げると、像の合掌した指先と観音像の鼻から額にかけて一直線にならず、ずれているのである(写真1)。
製作者は明治45年に新潟市竜ヶ島に生まれた彫刻家早川亜美である。胎内観音像は昭和45年に完成した。それまでに多くの彫刻を手掛けてきたアーチストである。観音像は何を見ているのかその視線の先を探るために、像の正面に立ち、回れ右をして見てみると、そこにまっすぐに伸びた樽ヶ橋があったのである。
橋が完成したのは昭和44年であり、その翌年に観音像が作られた経緯がある。水害の犠牲者を慰霊すると同時に、樽ヶ橋が昔から交通の要所として、製作者早川亜美が橋の重要性を認識し、観音像の視線の伸びた先が橋の中央線とまさにぴたりと合うようにしたのだろうか。                                3-2 越後七浦観音像との比較
早川亜美が制作したもう一つの観音像を見に、昨年の11月12日に新潟市西蒲区間瀬の夕日パークを訪れた際に撮影した観音像があることに気がつき、今回二つの観音像の写真を並べて、しばらく眺めてみた(写真2)。二つの観音像を比べてみると、そこに答えが隠されていたのである。なんと、2体とも合掌の両手と顔面がずれているのである。考えられることは、意図的にずらして、顔を拝めるようにしたということである。正面で合掌した観音像を下から見上げた場合、訪れた人には観音様の顔が見えない。そこに配慮してわざわざずらしたと考えれば、そこには矛盾がない。さらには、越後胎内観音像においては橋とのコラボレーションが絶妙で、祈りを終えてさらにその後の思いをも残すように、心配そうに見守り続ける姿を醸し出している(写真3)。                                                3-3 高崎白衣観音像との比較
ここで、群馬県の高崎白衣観音像と比較考証してその違いを明らかにしたい。高崎白衣観音像は標高190mの山の頂に立つコンクリート造りの観音像である。高さが41.8mと巨大であり、内部は空洞で階段を上って、上まで行くことができるようになっている。この観音像は山頂において街を見下ろし、左手に経典を持ち右手で左手を抑え下におろした姿で立っているが、その意図は、世の中の多くの人々に慈悲の心をもって貧富・善悪の別なく救済することが目的である。それは、あたかも救世主のごとく大きな力をもって、人々を支配するかのような偉大さがある。ここに参観に訪れる人々は、道の途中で立ち寄るという日常的スタイルではなく、あくまでも礼拝・観光である。いわば、観音像目当てで訪れるのであり、主役としての存在感が際立っている。
それに対して、越後胎内観音像は、交通の要所における行き交う人々を側から見ているわき役的存在である。早川亜美は、その点をも考慮して、庶民が行うような合掌という形で像を完成させたことがうかがえるのである。そこには、人々のそばに常にたたずみ祈り続けているという心配り、精神的な支えのための入念な姿勢へのこだわりが感じられるのである。さらには、鳥坂山の2合目付近に立つ姿は、里山の化身として姿を現したような優しい表情にあふれている。後方の山、四方の山々が四季の変化で様変わりするに伴って、観音像もさまざまな顔を見せてくれるような自然に逆らわない表情がそこに見て取れる。観音像というとお寺の中で大事に拝まれ、安全丁寧に保存されているイメージが強いが、越後胎内観音像は外気に触れ、春夏秋冬を共にすることで、人々の暮らしの中に溶け込んでいるのである(写真4)。
3-4 波乗り観音
特筆される点として、観音像が立っている足元が際立っている。水害で押し流された殉難者を救うべく大波の中に立つ観音像を視覚的に表現している。さらには、今後の水害が発生しないように祈る姿であり、動と静が端的に表されている。別名「波乗り観音」と称されるのはこの形容によるものである(写真4)。

4、今後の展望について
この地を幾度となく訪問し、あたり一面を見渡してみると、たどり着くのはやはり『越後摘誌』の中の錦絵である。絵の中の藤の花は山全体を飾ってくれている。時代は変わっても樽ヶ橋エリアにおける空間、それは、祖先の人々が感動した景色、眺めを紐解くことにより出現可能となる。そして越後胎内観音像の姿が新たなる世界を作り、記憶に残る景勝地が確実に築かれるのではないだろうか。

5、おわりに
昭和55年、「平和の塔」を製作中だった早川亜美は病気により68歳で亡くなられたという。「みちびきの像」・「希望と感謝の像」・「やすらぎの塔」などの作品の数々に、平和を愛してやまない作者の人柄が感じられる。世界に誇れる新潟生まれの芸術家の存在をこのたびの卒業研究を通して知りえたことが、最大の収穫であったと思うのである。

  • 1 図1、胎内市の地図〈JR中条駅から樽ヶ橋エリアまで〉参照 (筆者作)
  • 2 図2、樽ヶ橋エリア図(筆者作)
  • 資料1、「越後輿地全図」観光交流センター等の取材時に頂いたもの(公にパンフとして展示あり)(非公開)
  • 資料2、『越後摘誌』(1877年)鈴田平造著を紹介した生涯学習課のパンフレット
     この書籍により、「樽ヶ橋」が昔から藤の名所として、かつ、交通の要所でもあったことが理解できる。(非公開)
  • 5 写真1、 台座から上に直線を引くと合掌部がずれているのがわかる。(筆者撮影)
         *正面側と後方から撮影・・・背中の傾きがよくわかる。
  • 6 写真2、 早川亜美の作品 「越後胎内観音像」と「越後七浦観音像」を並べて比較すると、似ているところと違うところが一目でわかる。ともに青銅製である。高さや祈る姿勢が似通っている。(筆者撮影)
    二つの像が右方向に中心線をずらし、観音像の顔が拝めるように工夫されている。拝観者の視線を考慮した形にしてある。
     越後胎内観音像については蓮華台から、ある程度の方位角が計算できた(写真3-1参照)。
  • 7 写真3-1 像の顔と手を合わせた場合
    写真3-2 橋方向からの写真    (筆者撮影)
  • 8 写真4、季節とともに変化する観音像と
        足元の大波 (筆者撮影)。この大波の上に立っていることで「波乗り観音」とも言われている。

参考文献

*伊藤孝二郎著『先憂後楽』、新潟日報事業社、2003年

*『胎内川の恵み』、胎内川沿岸土地改良区、2002年

*鈴木郁夫著『中条町の自然』、2004年発行『中条町史』通史編抜刷

*『8.28水害(羽越水害)とはー新潟県ホームページ』
www.pref.niigata.lg.jp/shibata-seibi/1206378083692.html 2017.9.3アクセス

*吉岡忍著『奇跡を起こした村のはなし』、筑摩書房、2005年

*『胎内川ダム〔新潟県〕-ダム便覧』
 damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0768   2017.9.9アクセス

*『黒川村誌 民族二』、黒川村、1990年

*『黒川村のあゆみ 開村記念誌』、黒川村、2005年

*『羽越水害被災部落復興誌 -部落集団移転の記録ー』、新潟県、1970年

*PDF宮越敏夫著『彫刻家・早川亜美に関する一考察』
www.n-seiryo.ac.jp/library/kiyo/tkiyo/08pdf/t0815.pdf     2017.11.12アクセス

*パンフレット『板額御前歴史めぐり』、板額会事務局作成、2008年

*『武家家伝 越後城氏ー播磨屋Pert2』
 www2.harimaya.com/sengoku/html/etigo-jo.html 2017.9.3アクセス

*上村啓・長谷川正也著『にいがた歴史紀行3新発田市・北蒲原郡』、新潟日報事業社、1994年

*『図解 にいがた歴史散歩 新発田北蒲原2』、新潟日報事業者出版部、1985年

*『樽ヶ橋エリア活性化基本計画・実施計画』、胎内市、2015年(2017年変更)

*パンフレット『道の駅 胎内 たるがはし 名所探訪』、胎内市観光協会、発行年不明

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