鷲宮催馬楽神楽にみる持続可能な郷土芸能伝承のあり方
埼玉県久喜市に鷲宮神社という古い神社がある。この神社には神社の祭礼に合わせて、鷲宮催馬楽神楽が奉納される伝統芸能が、今日も続けられている。平安時代の歌謡の一種である催馬楽が取り込まれている神楽、幾百年も継承できているのは「何故」だろうか。
鷲宮催馬楽神楽の変遷を調査し、持続可能な郷土芸能伝承のあり方について考察する。
1.基本データと歴史的背景
鷲宮催馬楽神楽は、古くは鎌倉時代に神楽の記録がある。鷲宮神社と鷲宮催馬楽神楽が文献としてでてくるのは、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』の中、建長3年(1251)4月22日に記述がある。その後、鷲宮催馬楽神楽は廃れてしまう。廃れた後、江戸時代に大内國久が神楽復興に取り組み、宝永5年(1708)にそれまで36座あった神楽を12座に再編成、また、大内家奥秘から家臣の神楽役集団へ伝授した。これらの記録が残っている。
享保11年(1726)に鷲宮神社の宮司大内國久が著したとされる『土師一流催馬楽神楽実録』が残されており、神楽の中で歌われる催馬楽などの歌詞や、神楽で使われる衣装・採物等が詳細に書かれている。また、天保年間(1830~1843)に記された『鷲宮古式神楽正録』の写本には、神社の由来や神楽の記録が残されている。
明治初期、大内家の神主世襲制が認められなくなり、社家や神楽役の家臣は暇を出されたが、神楽師は世襲で続いた。
昭和に入り、太平洋戦争後、伝承者の数が減少、昭和20年代に入ると、神楽師は白石國蔵氏、唯1人となった。昭和30年(1955)NHKの全国放送で紹介され、これを機会に町内の若者十数人が集まり、復興会が結成された。これを神楽師として残っていた白石氏が指導し、鷲宮催馬楽神楽は復興した。その後、鷲宮催馬楽神楽保存会へと名称を変えて継承された。昭和51年(1976)に重要無形民俗文化財に指定され、鷲宮催馬楽神楽は、保存会・学校・行政が連携を取り、地域関係者が協力して伝統芸能を継承する取り組みが続いている。
2.評価する点
鎌倉時代から伝承されてきた鷲宮催馬楽神楽は、過去に二度の消滅危機があった。伝統芸能消滅の危機に際し、これまでの伝承形態から新しい時代に対応した伝承方法に改革され、更に、伝承する対象者を広げることで、今日まで継承している。そこには、郷土伝統芸能を伝承しょうとする者と受け継ごうとする者たちの郷土と伝統芸能への愛と熱意が感じられる。
鷲宮催馬楽神楽の場合、昭和55年(1980)鷲宮中学校に郷土芸能クラブが誕生し、現在は郷土芸能部となり、男女の区別なく神楽の指導が行われている。また、久喜市は鷲宮催馬楽神楽の動画を活用した広報活動をしている。このような学校と地域が一体となって、伝統芸能の継承に取り組む仕組みは、評価するべきことだと考えている。
3.他の事例と比較して特筆されること
鷲宮神社に隣接する地域で、玉敷神社(現加須市)に伝えられている玉敷神社神楽がある。延喜式内社の古社である玉敷神社に伝えられる玉敷神社神楽も、出雲流を残している神楽で、鷲宮催馬楽神楽と同じく、江戸里神楽の源流といわれている。
玉敷神社神楽は玉敷神社が抱えている神楽であるが、その発生の時期は不明である。玉敷神社は鷲宮神社よりも規模が小さかったためか、明治時代初期の統制をまぬがれ、社家が継承され、神主による舞が続けられる環境にあった。このため、伝承の方法は玉敷神社と神楽師集団を中心にした世襲制が続いた。
しかし、玉敷神社神楽も、時代の流れで、これまでの神楽集団による父子相伝や地域氏子での後継者育成では限界が生じ、昭和52年(1977)に神楽保存会を正能地域で組織した。平成10年(1998)には、正能地域だけでなく周辺地域に広げ、女性にも開放し、神楽師の後継者を地域全域に求めるように変わっている。
先に、世襲制以外に後継者を求めた鷲宮催馬楽神楽は、今日では、神楽の保存・伝承を学校・官・民が連携した取り組みで、神楽の伝承者を育成している。このような学校や地域ぐるみで次世代を担う若者へ伝統芸能を継承する取り組みは特筆すべき点であると、考えている。
4.今後の展望
鷲宮催馬楽神楽の伝統芸能の伝承は、神社と神楽師集団から保存会という現代的な組織集団へ変遷してきた。今後、少子高齢化社会の下で、持続可能な伝統芸能を継承していくには、後継者の間口をより広くする広報活動の一方、経済面からの継続的な支援体制が必要と考える。
このことは、佐藤ひろみ 氏が、同様な見解を『神楽に視る祓いと祈願』の論文の中で述べられている。
「(前略)将来の神楽伝承を考えるとき、神楽の担い手への国レベルでの経済的支援や維持するための精神的支援はもとより、大学や研修者など、教育研究機関の果たす役割も緊急に必要なものと思われる。(注1)(後略)」
5.まとめ
鷲宮催馬楽神楽伝承の変遷を整理すると、変化したものと、変化しなかったもの、ある意味、捨てたものと新たに身に着けたものに分けられる。
(1).変化してきたもの
① 鷲宮催馬楽神楽伝承の組織と技能伝承方法
領主大内家 ⇒ 領主と神楽役集団 ⇒ 神社と神楽師集団 ⇒ 神社と保存会と行政
大内家世襲 ⇒ 神楽役世襲 ⇒ 神楽師世襲 ⇒ 復興会 ⇒ 保存会による技能伝承
② 江戸期と昭和期の復興後の関係者の意識と伝承方法
江戸期は36座から12座への再編と大内家の奥秘から神楽役への伝承方法の変化。
昭和期は神楽役の世襲制が消滅、昭和55年(1980)鷲宮中学校に郷土芸能クラブが誕生、学校と地域が一体となって伝統芸能の継承に取り組み、現在は郷土芸能部となり、男女の区別なく神楽を指導。昭和61年(1986)県の中国山西省への民俗芸能派遣を機に謡が拍子方兼務から独立、昭和63年(1988)国庫補助による民俗文化財地域伝承活動事業を開始。現在は郷土芸能部の卒業生が保存会に入り、次の世代への育成者になっている人もいる。
(2).江戸期復興以降、変わらないもの
① 演目12座と神楽の構成
演奏の構成は笛、大拍子、大太鼓、小太鼓の4つの楽器と謡。舞は、「出端」・「舞掛
り」)・「引込み」の三部構成
② 鷲宮催馬楽神楽を残したいという、地域の人々の熱意
時代とともに鷲宮催馬楽神楽の伝承方法は変化してきた。国庫補助による支援もされるようになった。だが、この先も伝承していけるといえるだろうか?
今後とも世代を超えて伝統芸能を持続し、伝承していくには、何が重要なことか、鷲宮催馬楽神楽保存会の前々会長・針谷重威氏は、次のように述べられている。
「(前略)世襲が途絶えた今は『誇りに燃える』ということ以外にはないのです。だから誇りを持てるように仕向けていく人も重要ですね。(中略)世代継承には、やはりね、周りといい関係を持つというのがまず大切なんですよ。大体、組織というのは、横と縦でできているんですから、よく上下ばかりに気を遣うけど、本当は横がうまくいっていないとダメなんですよ。(注2)」
針谷氏のいう横とは、保存会を取り巻く地域の人々のこと。うまくいくとは、神楽への理解だという。地域の人々の理解が深まれば、伝承芸能を受け継ぐことに「誇りを持つようになる」、この「誇り」が継承する力になる、という。
鷲宮中学校郷土芸能部では男女均等に神楽を学んでいる。彼らの中から、既に、次世代の伝承者が生まれている。保存会に聞いたところ、現在、男3名・女2名のOBがいるとの事。
伝統芸能を継承する地域社会の環境は都市化と共に大きく変化してきた。市町村合併で、かっては村単位であった地域は、町・市へと変化した。郷土芸能の伝統は、郷土を愛する人の心が引き継いでいくものであると思う。それゆえ、郷土愛を育み、伝統芸能を「誇り」として持てる地域社会を育んでいく事が重要になる。
郷土伝統芸能は町・市に住む人々の横の理解を広げ、郷土を愛する人の心とともに伝承されていかなくては続かない。「横がうまくいかないとダメ、『誇り』が継承する力になる。」針谷氏の言葉は、郷土芸能継承に対する至言である、と思う。
鷲宮催馬楽神楽は、久喜市鷲宮という地域に限定されてはいるが、中学生からの参加で、次世代の地域を担う子供たちを中心に、学校・地域・町・市・行政が、一緒になって取り組んでいる。それ故、次世代の担い手が、やがて育成者になり、また次の世代へとつなげるという循環が生まれている。この循環は、郷土芸能を守るという「誇り」を醸成しているようだ。
このような仕組みは持続可能な郷土芸能伝承のあり方の一つである、と考えている。
参考文献
久喜市立郷土資料館 『神楽の世界と久喜の歴史・文化―常設展示図録-』平成26年2月28日 久喜市立郷土資料館 発行
(注1) 佐藤ひろみ(文教大学人間科学部生活科学研究所助手)『神楽に視る祓いと祈願』文教大学2018年3月30日発行の論文 P20
(注2) Workus Institute 編集人 高津尚志『Works92-不況に負けない人事を』2009.02-3
発行 ㈱リクルートワークス研究所 p2 組織の奥義 今回のお題 「郷土芸能に学ぶ、世代世襲」』2009) (https://www.works-i.com 2021年1月4日閲覧)
埼玉県民俗芸能調査報告書 第15集『鷲宮催馬楽神楽』平成14年3月15日 発行 埼玉県民俗文化センター
埼玉県民俗芸能調査報告書 第16集『玉敷神社神楽』平成16年3月25日 発行 埼玉県民俗文化センター
久喜市教育委員会文化財保護課 編集『久喜市の歴史と文化財② 鷲宮神社』久喜市教育委員会発行 令和3年3月29日