川越「菓子屋横丁」ー文化資産としての考察と今後の展望ー
1. はじめに
「菓子屋横丁」とは、埼玉県の南西部に位置する川越市の観光名所の一つである(1)。重厚な蔵造りの町並みが続く「一番街」を過ぎ、「札の辻」交差点を曲がり、最初の角を入った先に存在する。全長200メートル程度の短い通りに昔ながらの菓子屋が並び、訪れた人にタイムスリップしたような懐かしさを感じさせる。筆者も幼少期から何度も足を運んでいるが、近年は観光地としての知名度が県外や海外にまで広がったと感じる。本稿では、菓子屋横丁の文化資産としての価値と今後の展望について、文献や現地調査をもとに考察する。
2. 基本データと歴史的背景
所在地:埼玉県川越市元町2丁目
組合名:川越菓子屋横丁会
店舗数:33店舗(うち10店舗は土日のみ営業)(2021年1月時点)
川越は江戸時代から城下町として、また、新河岸川の舟運によって江戸と繋がり、物資の集散地として商業を中心に発展してきた歴史を持つ。菓子屋横丁は、養寿院(2)門前で江戸時代に数人の菓子職人が集まり「江戸っ子好みの気取らない駄菓子」を製造したことをきっかけに、明治の始めからのれん分けによって横丁を形成した。大正12年(1923年)の関東大震災によって大きな被害を受けた東京に代わって駄菓子の製造・供給をしたことで、最盛期となる昭和初期には約70軒が軒を連ねたと言われている。
しかし、昭和20年代には第二次世界大戦の影響により激減し、昭和30年代は高度経済成長やベビーブームとともに盛り返したが、昭和40年代から大手メーカーによる大量生産や洋菓子の流行により衰退していった。昭和58年(1983年)に「一番街」で官民一体となった町並み保存活動が起こり、観光地化が進められたことを追い風に、昭和61年(1986年)に「菓子屋横丁会」が結成され、それまでの製造・卸売から小売へと業態を変化させた。
平成2年(1990年)には国土交通省の「歴みち」事業(3)によって歩道が石畳へと整備され、翌年には電柱地中化工事が行われた。平成13年(2001年)には、環境省の「かおり風景100選」(4)に選定されている。平成27年(2015年)に火災により5棟が全焼したが、義援金などを集い2年後には営業を再開している。
令和元年(2019年)には、川越市の観光客数が年間775万人と過去最高を更新し、市が行った観光アンケートでは、菓子屋横丁は蔵造りの町並みに次いで行きたい場所となった(5)。
3. 評価する点
3-1. 昔ながらの菓子
菓子屋横丁で名物とされるのは、飴、麩菓子、芋菓子、まんじゅう、だんごなどである。特に横丁は飴を中心に発展したと言える。筆者が訪れた日も「玉力製菓」の店舗奥にある作業場で飴作りを見学することができた[写真1]。気温によって煮詰め具合を変えるなど、一人前の飴職人になるまでには5年~10年の修行が必要だという。さまざまな種類がある飴の中でも、組飴には職人の技術の高さが伺える[写真2]。
「松陸製菓」も手作りにこだわった飴をはじめ、約20年前に販売された日本一長い麩菓子が人気となっている。飴や麩菓子などは江戸時代にはすでに大衆的な菓子となっており、横丁ではそのような商品を製造・販売する店舗が多いことが分かる。その一方で、製造からの転換や、昭和後期の新規参入によってできた、いわゆる「昭和の駄菓子屋」と言われる店舗も存在する。結果として、それぞれの時代の菓子をまとめて体験できる点も興味深い。
3-2. 懐かしさの残る景観
菓子屋横丁は、かつての城下町、つまり川越観光の最端に位置することからも、もともとが小売りのためではなく「職人の町」であったことがわかる。さらに、明治28年(1895年)の鉄道開発によって、中心市街地がはるか南に移動したことが昭和の衰退に繋がるものの、町並み保存活動が起こりはじめて以降、景観に関する条例が整備されたことで今の姿が残されている。
現地を観察すると、北側に接する県道以外は車通りもなく、生活道路として利用する人も少ない。タイムスリップと例えられるのはこのためである。建物の多くは町屋のような外観で、入り口は扉などの仕切りもなく通りに面して商品が並べられている。売り場の奥や二階を住居としている店舗が十数軒あることから、職住一体の暮らしが営まれている点も懐かしさを感じる要因だと考える。
3-3. 人によって繋がれた歴史
『駄菓子屋横丁の昭和史』によると、この場所で菓子屋を始めた鈴木藤左衛門(1841~1893年)やその後を継いだ職人が積極的に弟子を育て、のれん分けをするときはうまく菓子の種類を割り振っていた。それによって仲買人は効率的にさまざまな種類の菓子を購入することができ、大口の注文には協力して対応することもできたという(6)。
昭和初期にかけて発展した菓子屋横丁も、戦後の配給統制で砂糖が入手困難となり、多くの職人が廃業を余儀なくされた。しかし、現在も鈴木藤左衛門の直系で8代目となる「松陸製菓」、4代目となる「玉力製菓」などが技術を受け継いでいる。また、「稲葉屋本舗」の2代目は廃業する店主から製法を受け継ぎ「くずゆ」を製造・販売している[写真5]。人によって歴史が繋がれたことも特筆すべき点である。
4. 他事例との比較
「日本最古の駄菓子屋」と言われる「上川口屋」という店が、東京都雑司ヶ谷の鬼子母神堂境内に存在する。天明元年(1781年)に創業し、関東大震災や東京大空襲から奇跡的に免れ、現在は13代目が駄菓子の販売を行っている。先代までは江戸時代から続く飴を作っていたが、職人の急逝により技術の再現が困難となったという(7)。また、関東大震災によって失われた神田東龍閑町(現在の神田岩本町周辺)には400軒を超える「菓子屋街」があった。近年でも、平成16年(2004年)の日暮里駅前の再開発によって最盛期は100軒近くあったと言われる「駄菓子屋横丁」(8)も1軒を残して姿を消した。
これらの事例からも、震災・戦災地から離れていたこと、職人の継承が途絶えず、観光地化に成功したことが菓子屋横丁の特徴だと言える。
5. 今後の展望
菓子屋横丁が文化資産として継続するためには、今後どのような取り組みが必要だろうか。
観光地化が進む一方、各地の職人や駄菓子屋、商店街で言われているように、横丁でも高齢化や後継者不足が問題にあげられる。現地調査でも、貸店舗や後継者不在の店舗が確認された。これから先、集客を目的としたチェーン店に入れ替わるようであれば、本来の「職人の町」としてのあり方は失われかねない。
しかし、菓子屋横丁はこれまでもさまざまな社会の変化に対応してきた背景がある。つまり、新規出店は問題ではなく、この場所に根差した経営が必要だと考える。
6. まとめ
菓子屋横丁は、昔ながらの菓子、懐かしさの残る景観、人によって繋がれた歴史から、文化資産として評価できると結論づける。この場所で培われた文化が続くためには、次の世代がその価値を理解し守っていく必要があると言えるだろう。今後も、菓子屋横丁が継続されることを期待し見守っていきたい。
参考文献
【註】
(1)菓子屋横丁 | (公社)小江戸川越観光協会
https://www.koedo.or.jp/miru-asobu/115/
(2)養寿院(2020年12月20日閲覧)
https://yojuin.or.jp/
(3)国土交通省「歴みち(歴史的地区環境整備街路)事業」(2020年12月20日閲覧)
https://www.mlit.go.jp/singikai/infra/city_history/historic_climate/hozon/2/images/san01.pdf
(4)環境省「かおり風景100選」(2020年12月20日閲覧)
菓子屋横丁のハッカ飴、駄菓子、だんごのかおりが「伝えたいこのかおり、残したいこの風景」として選ばれた。
https://www.env.go.jp/air/kaori/index.htm
(5)川越市 令和元年度観光アンケート調査報告書 P.13(2020年12月20日閲覧)
https://www.city.kawagoe.saitama.jp/welcome/kankobenrijoho/kankotokeishiryo/surveyreport.files/R1.pdf
(6)松平 誠『駄菓子屋横丁の昭和史』、小学館、2005年 P.32、P.45
(7)上川口屋 電話インタビューより(2021年1月10日)
(8)懐かしの一枚|東京都(2020年12月20日閲覧)
https://www.koho.metro.tokyo.lg.jp/2017/04/calendar.html
【参考文献】
松平 誠『駄菓子屋横丁の昭和史』、小学館、2005年
山野清二郎・松尾鉄城 監修、寺島悦恩・小林範子 編集・企画『うつくしの街 川越ー小江戸成長物語』、一色出版、2019年
川越菓子屋横丁会
『菓子屋横丁味めぐり』(パンフレット)
『菓子屋横丁 火災からの復興の歩み』2017年(パンフレット)
山下 琢巳・髙橋珠州彦・田嶋 豊穂・小口 千明・古川 克「埼玉県川越市街における景観変化と観光化」2017年
https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-03866947-3501.pdf
【インタビュー】
菓子屋横丁会
松陸製菓
玉力製菓
稲葉屋本舗