「上野三碑」 未来への情報遺産

小林 律子

1、はじめに
上野三碑は1300年程前、群馬県(古代・上野国)高崎市南西部に半径約1.5kmの範囲に近接して建立された日本最古の石碑群である。現存する古代日本(646~1064)の石碑わずか18基のうちの3基であり、三碑は共に1954年、国の特別史跡に指定されている。これら山上碑・多胡碑・金井沢碑の建立が持つ意義を、古代高崎市周辺地域の歴史的背景を踏まえて考察する。【資料1・2】

2、三碑の概要

山上(やまのうえ)碑 (高崎市山名町字山神谷2104)
681年に放光寺の僧長利が、母の追善のために建立した供養碑である。高さ111cm、幅47cm、厚さ52cmの輝石安山岩の自然石を用い、平らな部分に4行53文字が隷書体の特色を持つ古い書体で刻字されている。漢字が日本語の語順で書かれた日本最古の和文体の石碑である。【資料3】

多胡碑(高崎市吉井町池1095)
711年に多胡郡が新設されたことを記念して建立された。吉井町南部で産出された牛伏砂岩の転石を成形し、笠石・碑身・台石から成る。高さは笠石中央から碑身底部まで156cm、笠石幅95cm、碑身幅69cmの方柱状で、台石は第二次世界大戦後コンクリート製に替えられた。6行80字が楷書で丸底彫りされ、和文調の文体で書かれている。2015年の発掘調査により多胡碑から約350m南に徴税された穀物を保管した郡衙の正倉跡が発見され、建碑の真正性が補強された。【資料4】

金井沢碑(高崎市山名町金井沢2334)
726年、山上碑を建立した長利僧と同族とされる三家氏が、仏教に帰依し先祖供養と一族の繁栄を祈願するために建立した。高さ110cm、幅70cm、厚さ65cmの輝石安山岩の自然石の平らな面に9行112字が刻字されている。書体は古い隷書体の特徴を持ち、文体は和文調である。群馬県の「羣馬」の文字の初出である。【資料5】

3、古代の高崎地域
関東平野北部に位置する高崎地域では、弥生時代中期に水田が大規模開発され、稲作生産が盛んになる。古墳時代にはその生産力を背景に強力な首長が現れ、4世紀末~5世紀初頭にかけて大型前方後円墳が造立された。〔註1〕
5世紀後半の剣崎長瀞遺跡で朝鮮半島系渡来人の定住痕跡が発掘され、当地域で早くから渡来人を受け入れ共存していた様子が明らかになった。それはこの地で大型前方後円墳を築いた豪族達が、朝鮮半島の先進技術を取り入れ生産力を高めるため、彼らを招聘したことによる。彼らにより伝えられたものは、馬の飼育・鉄器生産・窯業・漢字などの最先端技術や文化である。6世紀後半に造立された前方後円墳から出土した百済や新羅由来の副葬品は、当地域と朝鮮半島との密接な交流を物語っている。【資料6】

4、朝鮮半島系渡来人と上野三碑との関わり
朝鮮半島では7世紀後半百済と高句麗が相次いで滅亡し、その後新羅と唐が対立する。その政治情勢の劇的な変化により多くの半島諸国の人々が渡来し、ヤマト政権の政策により各地域に集団移住した。そのため移住地には、さらなる朝鮮半島諸国の技術や生活習慣、文化が根付くことになった。〔註2〕
墓碑・墓誌・顕彰・通達などの目的で石に文章を刻む石碑造立は、古代中国に始まり朝鮮半島から飛鳥時代に日本に伝えられた。中国では秦・漢代の200を超える石碑・石刻が伝えられている。朝鮮半島でも多くの石碑が建立されたが、統一新羅以前の石碑は中国には見られない自然石で造られている。山上碑・金井沢碑も同様に自然石を用いており、現存する日本最古級の石碑が山上碑であることから、古代日本の石碑の源流は朝鮮半島であるといえる。
多胡郡からは500点を超える紡錘車や、瓦を生産した窯跡などが発掘された。これは当地が朝鮮半島由来の高度な技術を用いた手工業生産の盛んな地域であることを示し、その技術を伝えた渡来人集団の関与が推測される。多胡碑建立当時、多胡郷・韓級郷・甘良郷など渡来人に関連する地名があり『続日本紀』巻第廿七「天平神護二(766)年五月壬戌 在上野国新羅人子午足等一百九十三人賜姓吉井連」とあることからも、この地に渡来人が居住していたことが確認できる。〔註3〕

5、上野三碑の評価
山上碑は佐野三家出身の母方と地方豪族であった父方が同等に書かれ、長利僧の母はその実父の墓である山上古墳に帰葬されている。このことは古代の家族の様相を知る手掛かりとなる。[註4] 放光寺は当時東国において最古・最大級の仏教寺院であった。建碑者である長利僧が、漢字を日本語の語順で使いこなす知識と学識を備え、石碑建立という先進の外来文化を理解していたこと、自身を含めた一族を顕彰する意図も読み取れることなど、短い碑文が持つ情報量は多い。
多胡碑は中央から下された新郡設立の命令文が、受けた側の立場に置き換えられて書かれている。建郡者であろう「羊」が誰を指すか郡民には自明であったことや、「石上尊」「藤原尊」と、神とも敬う敬称をつけ、建郡者と中央政府の繋がりを強調し告知する目的を持っての建碑であったことが考えられる。[註5] また多胡碑は、多賀城碑や那須国造碑と共に書道史上極めて貴重とされる「日本三古碑」の一基である。多胡碑の書体は中国の六朝時代や隋・唐代の完成した楷書に通じるといわれ、現在でも臨書して学ぶ書道愛好家は多い。江戸時代、朝鮮通信使と日本の書家との交流により拓本が朝鮮へ、さらに朝鮮から毎年清に派遣された国家使節である燕行使によって北京へと伝えられ、清の書家・文人に高く評価された。中国へ文化の里帰りを果たした訳である。[註6]【資料7】
金井沢碑は佐野三家の子孫によって山上碑から45年後に、願主とその妻、娘と孫達の6人と仏縁で結ばれた3人が一族の繁栄を願い建立された碑である。「現在侍家刀自」の表記や、他家に嫁いだ娘が子供達と共に実家の祭祀に参加しているなど(夫の名前が書かれていない)、山上碑と同様女性が氏族の結束に強い力を持っていたことが表されている。碑文に「知識」「七世父母」「誓願」など仏教的な語句と、「天地」の諸神に祈る姿勢が混在し、仏教の受容が先祖供養や現世利益の期待と共にあったことを示して興味深い。
このように三碑は、律令国家が成立していく過程や地方への仏教の浸透、家族の形態、東アジアとの密接な交流などを具体的な形で示す資料として貴重な歴史遺産である。

6、那須国造碑との比較
那須国造碑(栃木県大田原市湯津上429 笠石神社内)は、700年に亡くなった評督・那須直韋提を顕彰するため子である意斯麻呂らが建立した墓碑で、笠石神社の御神体として祀られている。碑は高さ(笠石から台座まで)148cm、幅50cm、厚さ40cmほどの花崗岩に8行152字が刻字されている。書体は中国・北魏522年「張猛龍碑」に似る。前半3行は和文調、後半の5行は格調高い漢文である。1952年に国宝指定された。【資料7】 上野三碑と比較すると、追善供養として山上碑に、顕彰者と中央政府との密接な繋がりを地域社会へ示していることでは多胡碑、一族の結束を表す点で金井沢碑に、また渡来人の影響、現在まで続く地元住民の崇敬、など共通点が多い。[註7]
上野三碑が漢文で綴られた那須国造碑と比べ特筆されることは、三碑の碑文に現在とほぼ同じ語順で読むことが可能な、ごく初期の「日本語文」を見ることができるということである。中国で生まれた漢字が日本にもたらされ、文字を持たなかった倭語から書く表現を編み出し、自分達の言葉として伝えた我々の祖先の努力と矜持を上野三碑は語る。

7、今後の展望について
上野三碑は2017年にユネスコ「世界の記憶」に登録され、世界的に重要な記録物として認定された。三碑の持つ特性が内外に認識されたことは、地域の人々の保存・啓発活動が結実したことであり喜ばしい。
「多胡郡」とは、新羅・高句麗など一国に限定されない渡来人の出身地を表しているとの説がある。[註8] 遥か昔日本の国が形づくられようとしていた時期に、政治の中心地ヤマトと遠く離れた地方で多くの渡来人を受け入れ、高度な技術を手にするだけでなく、漢字や仏教などの最先端の文化を学び共生した歴史を上野三碑に見ることができる。このことは我々日本人が将来を見据える上で大きな財産であり指針であるといえる。現在も上野三碑の研究による日中韓三か国の文化交流が行われているが、さらに東アジアの交流の歴史を互いに学び、隣国との深い繋がりを知ることによって相互理解を深め、友好的関係を築く努力を続けて行くことが切に望まれる。[註9]【資料8】

  • %e5%b0%8f%e6%9e%971 資料 1 《 上野三碑 》 関連年表・古代石碑リスト 
    (資料1~8は 筆者撮影写真及び参考資料画像を使用して作成)
  • %e5%b0%8f%e6%9e%972 資料 2 多胡郡推定範囲地図
    現在の地図の上に上野三碑建立関連の遺跡・地名を重ねて表示。画面中央にある辛科神社は、多胡郡総鎮守として8世紀初頭に渡来人によって創建されたと伝えられている。
  • %e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%93-%e5%b1%b1%e4%b8%8a%e7%a2%91-%e6%b7%bb%e4%bb%98%e3%80%80%e5%b7%ae%e3%81%97%e6%9b%bf%e3%81%88 資料 3 山上碑
    山上碑と山上古墳は高崎市南部の丘陵地帯の南斜面に建立された。現在は整備された石段を百数十段上った所に碑の覆屋と古墳が並立している。

    碑文の現代語訳:辛己(681)年十月三日に記す。佐野の屯倉をお定めになった健守命の子孫の黒賣刀自。これを新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である大児臣が娶って生まれた子である長利僧(私)が母の為に記し定めた文である。 放光寺の僧。
  • %e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%94%e3%80%80%e5%a4%9a%e8%83%a1%e7%a2%91%e3%80%80%e5%b7%ae%e3%81%97%e6%9b%bf%e3%81%88%e4%be%9d%e9%a0%bc 資料 4 多胡碑
    多胡碑の覆屋は「吉井いしぶみの里公園」内に設置されている。同敷地内の「多胡碑記念館」では、多胡碑・多胡郡・上野三碑・書や文字の歴史に関する資料が展示されている。『続日本紀』巻第六「和銅六(713)年五月甲子制畿内七道諸國郡郷名着好字」の好字令発布以前に、国名の二文字表記がされていたことが碑文の「上野國」は示す。毛野(けの)→上毛野(かみつけの)→上野(かみつけ・こうずけ)

    碑文の現代語訳:朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡にしなさい。和銅四(711)年三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣正二位藤原(不比等)尊。
  • %e5%b0%8f%e6%9e%975 資料 5 金井沢碑
    山上碑から北西に直線で約1.3kmのなだらかな丘陵地に覆屋が建てられている。
    江戸時代に近隣の農家で洗濯板にされていたという伝承がある。

    碑文の現代語訳:上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子■が(発願して)、祖先及び父母の為に、ただいま家刀自(主婦)の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次のヒヅメ刀自、次の若ヒヅメ刀自の合わせて6人、また既に仏の教えで結ばれた人たちである三家毛人、次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合わせて3人が、このように仏の教えによって(我が家と一族の繁栄を願って)お祈り申し上げる石文である。神亀三(726)年丙寅二月二九日
  • %e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%97%e3%80%80%e6%b5%b7%e3%82%92%e6%b8%a1%e3%82%8b%e3%80%81%e6%96%87%e5%8c%96%e4%ba%a4%e6%b5%81-%ef%bc%88%e9%9d%9e%e5%85%ac%e9%96%8b%e7%94%bb%e5%83%8f%e5%87%a6%e7%90%86%ef%bc%89 資料7 那須国造碑
    那須国造碑は多胡碑から北東に直線距離で約120kmの位置にある。北約30kmには東北の入口・当時の蝦夷地への最前線、白川関がある。多胡碑同様、朝廷との緊密な関係が読み取れる碑である。

    碑文の要約:那須国造であった那須直韋提は康子(700)年正月2日に死去した。そこで意斯麻呂らがその功を偲び石碑を建立した。故人の公は廣氏の尊い後胤であり国の指導者であった。一代のうちに那須国造として追大壱を賜り、重ねて評督となった栄光は公亡き後も再び甦るものである。私達は必ずこの恩に報いなければならない。その為に「曽子(孔子の高弟)の家には驕ったものがなく、孔子の一門には互いに罵る者がなかった」との故事を、孝行の子は教えとして変えることはない。治民・孝行を重んじた堯帝の心を記し、心を澄まし徳を照らすようにして故人に倣い徳を伸ばし、人々を治めて繁栄をもたらしたい。言葉を文字に表し、故人の遺徳は翼がなくても永劫に飛翔し、根がなくてもより堅固であることを明らかにする。

    海を渡る、文化交流
    江戸時代に朝鮮から清に伝えられた多胡碑の拓本は当地の書家に愛好され、明治に入ると逆に中国の書家によって日本に紹介された。(楊守敬 1840~1915、傳雲龍 1840~1901、など) 現在では、ユネスコ「世界の記憶」登録推進事業を通しての日中韓の学者によるシンポジウムや、学生の交流などが行われている。
  • %e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%98%e3%80%80%e4%b8%89%e7%a2%91%e3%81%ae%e4%bb%8a%e6%97%a5%e9%9d%9e%e5%85%ac%e9%96%8b%e7%94%bb%e5%83%8f%e5%87%a6%e7%90%86%ef%bc%89 資料8 三碑の今日 
    「山上碑・金井沢碑を愛する会」などのボランティア団体による、解説や保全など、碑を守る活動が行われている。郷土の歴史を学習する上で絶好の資料である「上野三碑」を啓発するための様々な取り組みが試行されている。

参考文献

黒板勝美・國史大系編修會 編集『改訂増補 国史大系 日本書紀後篇』吉川弘文館、1971年
黒板勝美・國史大系編修會 編集『改訂増補 国史大系 続日本紀前・後篇』吉川弘文館、1975年
『中国法書選22 北魏 鄭道昭 鄭義下碑 』二玄社、1988年
『中国法書選23 北魏 張猛龍碑 』二玄社、1988年
平野邦雄 監修、あたらしい古代史の会 編『東国石文の古代史』吉川弘文館、1999年
高崎市市史編さん委員会 編集『新編高崎市史 通史編1 原始・古代』高崎市、2003年
東野治之・佐藤信 編『古代多胡碑と東アジア』山川出版社、2005年
高橋蒼石 編『知られざる名品シリーズ第1期1多胡碑と日本古代の碑』天来書院、2006年
多胡碑記念館 編集・発行『第27回企画展 ―多胡碑の朝鮮・中国への流伝― 海を渡った多胡碑展』2006年
前沢和之 著『日本史リブレット72 古代東国の石碑』山川出版社、2008年
若狭徹 著『高崎千年物語』高崎市、2011年
多胡碑記念館 編集・発行『第35回企画展 ようこそ、建郡1300年の地へ 古代多胡郡展』2011年
土生田純之・高崎市 編『多胡碑が語る古代日本と渡来人』吉川弘文館、2012年
多胡碑記念館 編集・発行『平成25年度多胡碑記念館第37回企画展多胡碑の江戸時代』
熊倉浩靖 著『日本語誕生の時代』雄山閣、2014年
多胡碑記念館 編集・発行『特別展 多胡郡の郷と人々』2017年
多胡碑記念館 編集・発行『特別史跡 多胡碑のはなし』2017年
熊倉浩靖 著『増補版 上野三碑を読む』雄山閣、2017年
上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会『上野三碑 ユネスコ世界の記憶(国際登録)申請書(2016年5月30日提出)』2018年
高崎市観音塚資料館 編集・発行『開館30周年記念展 古墳時代群馬の渡来文化』2018年
小倉慈司・三上喜孝 編『国立民俗博物館研究叢書4 古代日本と朝鮮の石碑文化』朝倉書店、2018年

大田原市公式ホームページ httpwww.city.ohtawara.tochigi.jp
韓国蔚珍郡公式ホームページ http://www.uljin.go.kr/jp/index.uljin
韓国昌寧郡公式ホームページ http://www.cng.go.kr/jpn.web
한국민족문화대백과사전(韓国民族文化大百科事典) http://encykorea.aks.ac.kr/




[註1]
「水田開発」 高崎市日高町で、1976年の関越自動車道建設に伴う発掘調査を端緒に、弥生時代後期(1~2世紀前半)の水田跡や環濠集落が発見され、大規模な水田開発の様相が確認された。一帯は1989年に国の史跡に指定された。上野国の古名「毛野」は「実り豊かな土地」という意味を持つ。

「前方後円墳」 倉賀野、下佐野古墳群。中でも浅間山(せんげんやま)古墳は墳丘長172mと東日本の前方後円墳で3番目に大きく、墳丘の形状はヤマト政権の大王クラスのものと同じデザインであり、この地とヤマト政権との深い繋がりが推測できる。

[註2]一例として『続日本紀』巻第七「霊亀二(716)年五月辛夘 以駿河甲斐相摸上総下総常陸下野七國高麗人千七百九十九人遷于武藏國始置高麗郡焉」を挙げる。


[註3]「吉井地域から出土する紡錘車の多さや、上野国分寺の瓦を生産・供給した窯跡群が物語る、上野国有数の手工業地域としての多胡郡の様相は、土地の利点を踏まえての周到な建郡であったことをうかがわせます。」(『特別史跡 多胡碑のはなし』11ページ)とある。

[註4]
「多胡郡の範囲は現在の高崎市吉井地区から山名町一帯とみられるが、そこはかつて緑野屯倉や佐野屯倉(三家)など、ヤマト政権の直轄地 (経済・軍事上の要地に設置した支配拠点)が設定されていた領域であり、古くから朝廷との関わりが深い土地であった。そのため、奈良・平安時代には、上野国有数の一大手工業地帯(窯業・布生産)となる。建郡にあたっては、その経済力に期待する中央の意思があったと推定される。当時の朝廷は東北地方の蝦夷計略を進めており、その財源にあてられたとも考えられる。」(前橋市・高崎市教育委員会主催:平成28年度 前橋・高崎連携事業文化財展「東国千年の都 いまなおひかり放ちて」パンフレット抜粋)

屯倉とは「大化以前の大和朝廷の直轄地、大化改新によって廃止された(ブリタニカ国際大百科事典)」経済・軍事上の要地に設置した支配拠点であり、佐野屯倉(三家)は多胡郡の範囲と重なる。佐野屯倉は646年停廃。

放光寺(山王廃寺)は前橋市総社町に7世紀後半に創建された。四方を約80mの回廊で囲まれ、法隆寺式とは逆に南から見て金堂と塔が左右に並び、北側に講堂が配置された法起寺式伽藍配置を持つ、東国では最古・最大級の寺院であった。山上碑からは北に直線距離で約14kmの所に位置する。山王廃寺の発掘調査で「放光寺」銘の瓦が発掘されたことから、山王廃寺が放光寺であったことが判明した。

山上古墳は7世紀前半から中頃に築造された直径15mの円墳である。この古墳に隣接して山上碑が建立されている。築造時期は山上碑が建立された681年より数十年早いため、もとは長利僧の祖父の墓として造られ、後に黒賣刀自が追葬されたと考えられている。

[註5]
『続日本紀』巻第五「和銅四年三月辛亥 割上野國甘良郡織裳韓級矢田大家緑野郡武美片岡郡山等六郷別置多胡郡」とあり、多胡碑文の内容と一致する。

「羊」 『東国石文の古代史』(332~339ページ)に、人名としての羊・比都自・比津自の一覧があり、全国に94例を数える。特に珍しい名前ではなかったようである。「羊」は地元では土地の豪族が朝廷に謀反を疑われ攻め滅ぼされてしまう伝説の人物“お羊さま”“羊太夫”とされ、今に語り継がれている。多胡碑の近隣住民の話によれば、戦前は出征兵士が碑に拝礼して出立したり、花嫁が碑に挨拶をしてから嫁いで行ったりしたそうである。現在も毎年3月9日前後には「多胡碑祭り」が開催されるなど、地元の人々によって大切に守られている。

「建郡」 『東国石文の古代史』(324、325ページ)七・八世紀の建郡(評)記事一覧によると、多胡碑を含め49の新郡設立が数えられる。中央政権の支配体制確立(徴税、徴兵など)のための地域再編であろう。

[註6]
多胡碑の書風は、中国・南北朝時代北魏の書家である鄭道昭(?~516)の書体に通じるとされている。

多胡碑を朝鮮通信使に伝えるきっかけとなった高橋道斎(1718~1794)は、現在の群馬県甘楽郡下仁田町に在住した漢学者・俳人・書家である。彼の友人である江戸の書家・沢田東光(1732~1796)が、1763年に来日した朝鮮通信使と交流を持ち、多胡碑の拓本を手渡したことにより、朝鮮に多胡碑の文字が伝えられた。(『第27回企画展 ―多胡碑の朝鮮・中国への流伝― 海を渡った多胡碑展』)

[註7]『日本書紀』に「持統三年夏癸未朔四月庚寅 以投化新羅人居于下毛野」「同四年八月乙卯以帰化新羅人等居于下毛野國」とあり、持統3年は689年であることから、下毛野地域へ移住した新羅人が建碑に多大な影響を与えたことは想像に難くない。

[註8]『多胡碑が語る古代日本と渡来人』44ページ

[註9]上野三碑 日中韓国際シンポジウムが2017年12月9日(土)、10日(日)
高崎市吉井文化会館と東京国際交流会館で開催された。

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