大阪金剛簾にみる簾の魅力と、現代で形成される伝統

高村 竜一郎

1.はじめに
簾は、伝統的工芸品である一方、工業生産品として現代建築のインテリアデザインとしても利用される。社殿などでは今も欠かせない。しかし一方で、マンションを始めとした家屋構造の変化、そしてエアコン、カーテンなどの普及により、その効用は忘れられつつもある。
今回、富田林・河内長野地区での伝統的簾産業を紹介し、四季ある日本の風土や、歴史的背景から、簾の持つ魅力と現代の簾事情を考察する。

2.大阪金剛簾の歴史
大阪府下では、富田林・河内長野・大阪市浪速区の3地域に簾業者が集中し、前2地域は竹製すだれ、浪速区では葦すだれが製造される。比較的伝統的な範囲内で高級化が図られている事と、竹製製品のような新しい製品分野を開拓したことが特徴である。
1960年頃に簾産業は全盛期を迎え、1985年に「大阪の伝統工芸品」の指定を受け、大阪府知事認可「大阪簾工業協同組合」を1994年に設立、1996年に経済産業大臣より「伝統的工芸品」の指定を受けている。
富田林・河内長野地域の共通する背景としては、金剛山の麓が良質な真竹の産地であることが挙げられる。
しかし、製造の経緯は両地区で異なる。富田林の竹細工は1700年頃に武士が籠などを作り、村人に伝えたのが起源と言われるが定かでは無い。竹簾の起源は、明治10年頃に富田林市新堂の杉田音吉氏(杉田製簾商会の祖)が京簾の技術を京都伏見地方に見習いに出掛け、帰郷後始めたものとされている。伏見の職人を雇って始めたとの説もある。つまり、富田林の簾は籠を主とした竹細工の技術を基盤に京簾の製法を取り入れたものといえる。
これに対し河内長野では、竹籠や京簾などとは全く別に、始めに爪楊枝制作が盛んに行われていた背景がある。竹簾業は、この爪楊枝の製造過程としての原材からヒゴ抜きを行う作業からヒゴ簾へと転業されたものが多い。
富田林では、竹籠の素材である割竹を使っての割竹簾が手作業を主体にした零細企業群を形成したのに対し、河内長野地区では爪楊枝の素材であるヒゴを材料としたことからヒゴ簾の発生となった事と、当初よりヒゴ抜き機を備えていたなどから、ある程度企業化がされていた違いがある。大阪簾の特産地としては、富田林で大正末期から昭和初期、河内長野のヒゴ簾も明治末期に生まれ、ともに昭和初期には集団形成したとみられる。

3.簾の魅力
『現代工芸論』によると、いいもの条件として、用(はたらき)があること、「長く使って愉しめる、もの」であること、「美しいもの」であること、「くつろぎを感じさせるもの」であること、が挙げられている。簾は、上記のいずれも兼ね備えていると考える。また四季の風情を感じられると考える。

4.簾の歴史と文化
簾は、中国を発端として日本へ伝来した可能性が高いと推測されている。『漢書』に簾の記述がある。
日本で「簾」という言葉が最初に登場するのは、『万葉集』である。そして『日本書紀』に天武7年(673年)12月の冬に大嘗祭が始められたとの記録がある。大嘗宮には、表側には葦簾が、裏側には蓆障子が張り巡らされた。また竹は、古代より神聖な植物の象徴とされたと考えられた。また、南九州から畿内に移住してきた「隼人」と呼ばれる、宮中での守護や、朝廷で用いる竹細工の生産を命じられた人達がいた。竹細工の中には、簾も存在したと考えられている。こうして宮中などで使用される簾は、神聖な室内装飾として登場したと推測されている。
簾の製法は、菰桁という道具を使ったと考えられている。弥生・古墳時代から、菰桁は使用されていたと考えられているが、簾を織り上げたかについては定かではない。
簾の名の由来は、「蔶垂れ」からの説と、住むところの「巣」の出入り口に垂れ下げて風雨邪気を避けたことからの説がある。祟神天皇の時代には、簾があったと伝えられている。当時疫病が流行し、神床の周辺に簾が掛けられたのではと推測されている。他では、弥生前期に魚を捕る道具「筌」が使われていた事が山賀遺跡(河内)から出土したことより知られている。「筌」はその製造技術が「簾」と酷似している。簾は建物の障壁用具として、また、王権の聖なる空間を維持するのに欠かせない調度品だった。
そして平安時代の「寝殿造」、室町時代の「書院造」などの建築様式に伴い、御簾が登場した。 御簾は室内から外の庭と一体化した空間を演出し、外部からの侵入を拒む心理的距離をおく作用も併せ持ち、 また神と人、高貴と庶民を隔てる屏障具として用いられていたと考えられる。平安貴族には精神的安らぎをもたらす空間だったと推測される。このような簾と共にある心性を、清少納言が「枕草子」で、紫式部も「源氏物語」で述べた。簾は四季折々の風情に応じて室内を演出した。その美的空間は絵巻物にも描かれた。「源氏物語絵巻」には、簾の特性である、暗い室内から明るい外がよく見える事を利用して、平安期の貴族が男女とも簾越しに異性を観察する情景が描かれている。また御簾は空間用のみならず牛車や輿の窓にも掛けられた。さらに「鶴岡放生会職人歌合」で、12 世紀末の京都に「御簾編」という社寺権門との結び付きの強い簾職人が発生した当時の様子が描かれ、「駒競行幸絵巻」で、 貴族達の建物に多くの御簾が使用されていた様子が描かれている。
鎌倉時代、室町時代、応永期では、大和の萱簾を京都に大量に移出する際に「奈良座」が組織された。鎌倉時代でも、神社・寺院には立派な御簾が掛けられたように、簾は中世まで、神と人・高貴と庶民を隔てる用具として使用された。
それが江戸時代になり転機を迎える。庶民も簾の使用が許され、簾のもつ風合いが美的感覚として捉えられ、涼風と彩光効果からも、暮らしの中に簾がとり入れられるようになった。天保8年(1837年)には、大谷小仲太が『簾考』を著し、簾の製法をまとめ上げた。この著作の概念は現代においても生き続け、簾の仕様を詳細に記録した資料としては最古である。
やがて、明治末に機械化が始まった。昭和29年頃には、動力式編み機が多く導入されたが、紡績と異なり原料が竹であるため歪みのあるものもあって、能率はむしろ低下、再び足踏み式に戻った変わった経過がある。

5.制作工程(ヒゴすだれ)
1 節剥ぎ
2 皮剥ぎ
3 印入れと等分割
4 荒割り
5 剥ぎ
6 梳き(すき)
7 ヒゴ作り
8 編み上げ
9 縁付け
10 仕上げ

6.今後の展望とまとめ
簾を編み物と考えた場合、横糸が材料、縦糸は、織糸という部分と、工程は材料作りと織り上げ作業と考えられる。現代の簾では、江戸時代の文脈は感じにくくなっているが、現在でも人間の手は、節を揃えたりなどの様々な工程で欠かせない。また個人としての腕の見せ所は、完成までの全体過程の随所にあるという。後継者は、竹材料の手割作業、手織りの簾織作業などを、伝授する形で行われている。カビ発生や、産業としての作業工賃の低下があった時代には、廃業の危機もあったというが、現在での様々なシーンで、例えばビル内のレストランでも簾を、用・美を兼ね備えたインテリアとしての使用例がある。現在での競合品としては、屋外であればオーニングなど、屋内なら、カーテンやロールスクリーンなどが考えられるが、伝統的な簾などの製作以外に、近代的なデザインを取り入れた製品なども開発されている。
2004年には、大阪府河内長野市に、後世に簾を伝承するため「すだれ資料館」が設立された。今回「すだれ資料館」を訪問し、簾の歴史と現代の簾事情について、井上スダレ株式会社、企画・営業部の前田淑子氏にお話を伺った。
当地区の簾産業も、製法を始めとした伝統が継がれつつも、時代に合わせた改善、用途の提案など、現代において新たな伝統が形成、伝承されている。
簾文化を知り、簾を利用する事で、再び日本の四季を屋内に呼び戻し、現代での豊かな心性と日常を演出できるのではないかと考える。

  • 製造工程(ヒゴすだれ) 製造工程(ヒゴすだれ)
  • 江戸時代の再現 江戸時代の再現
  • 現代の簾の一例 現代の簾の一例
  • すだれ資料館 すだれ資料館

参考文献

森田康夫著『簾の歴史より』 1994年
北村功著 竹内正己 監修『地域経済と中小企業集団の構造-第五揖 富田林・河内長野市の竹すだれ工業-』大阪府立商工経済研究所 1959年
「大阪の地場産業-その2 業種別の実態-」大阪府立商工経済研究所
『河内長野市史 第三巻 本文編 近現代』
笹山央 著 市川文江編 『現代工芸論』 蒼天社出版 2014年
すだれ資料館 展示資料
すだれ資料館 パンフレット
大阪金剛簾パンフレット 大阪簾工業協同組合