大崎下島「黄金の島」再生プロジェクトが見せる芸予諸島の未来について
1.基本データと歴史的背景
大崎下島は芸予諸島(瀬戸内海、広島県と愛媛県との間に、多数の島々が散らばる地域のことを指す)にある。資料①参照。この地域は、古くから瀬戸内海の主要な航路や港を掌握した一大勢力である村上水軍とも呼ばれる海賊が本拠としたことでも知られ、瀬戸内の水路の要衝として栄えた。江戸時代には朝鮮王国(朝鮮通信使)との交流によって、日本文化の独自性を認識し、豊かな経済的地盤の上に、上方文化をはじめ各地との交流によって芸予諸島の町人・民衆文化が隆盛したと言われている。有人島は約50島、合計約17万人。(2010年)本土から橋がかかり陸路でつながったことにより東部は瀬戸内しまなみ海道(瀬戸大橋)として広く知られ、西部は安芸灘とびしま海道(安芸灘大橋)として観光スポットとして県も力を入れている地域である。
本地域における果実栽培の歴史は長く、島の一つ、大崎上島の大長という地域はその昔国策としてみかんの栽培を推進した地域であり、「大長みかん」というブランドで広島県内の柑橘類市場をけん引してきた。しかし近年みかんは市場価値が下がり、この地域の島々はレモンの栽培をいち早く手掛けることで国産レモンのブランディングに成功している。
みかん栽培は昭和初期が最盛期で、島々の段々畑には整然と植えられたみかんの木にたわわに実がなり、島民の暮らしを担う財宝さながらの「黄金の実」の様を呈していた。近年はみかんに変わって台頭したレモンがさらに経済的な恵みをもたらし、まさに「黄金の島」と呼ばれる所以である。しかし過疎化に伴う島民の高齢化や、後継者不足から農家を廃業するケースも多く、山となった耕作放棄地である段々畑には、毎年誰も食べない、収穫しないみかんやレモンがなり続けている。
かつて柑橘栽培100年以上の歴史を誇り、日本一の収穫量を誇るレモンの生産地として、「黄金の島」と呼ばれていた大崎下島でも現在は全盛期の3分の1程度しか農家が稼働していない。今回は消えゆく伝統の灯火を絶やさぬよう活動している「黄金の島」再生プロジェクトについて述べる。
2.「黄金の島」再生プロジェクトの概要
このプロジェクトは一般社団法人とびしま柑橘倶楽部(註1)代表の秦利宏さんが始めたものである。そもそものきっかけは秦さんが郷里(豊島)近くで経営する洋菓子店に大崎下島の農家の方がいわゆる規格外のレモンを置いていったことから始まっている。このレモンは味や中身は全く遜色ないものであるが規格外のため出荷できない。ということは利益が“0”ということである。農家の方々が時間と手間をかけた果実をなんとか世に出せないかという思いから始まったプロジェクトである。
このプロジェクトには大きくわけて二つの枠組みがある。一点目は国産である「広島レモン」のブランディングである。
そして二点目は、耕作地を継続して確保していく枠組み作りである。例えば農家が手放した耕作放棄地を借り上げ、プロジェクトに参加希望のボランティア、学生などに貸し出し、畑として再生させそこで収穫ができるようにすること。また山での重労働ではなく農家の庭先での栽培を可能にし一定の収穫量を確保していくことである。
一点目の国産レモンのブランディングについては多くの広島レモンを使用した商品開発が進み、販路拡大の一環として地域のイベントや県外の都市部(東京・大阪)などにも出店してオリジナル製品をPRしている。また柑橘類が従来はいわゆるミカン箱とよばれる段ボールに詰めただけであったものに比して商品の多様性やパッケージデザイン性も高く評価され「れもんげ」という商品は2017年におもてなしセレクション(註2)で金賞を受賞している。従来ニーズのあった家族のスタイル向けではなく、新しい世代のスタイルに適した商品開発がなされている。カフェも併設されており(現在は休店中)情報発信の場としても固定点があるのは非常に有効である。農家が相互に情報交換できる場があるだけではなく、ボランティアで穫の人や地域おこしなどの参加者を行政とも連携をはかり巻き込めるため、関係者が循環していく仕組みをうまく構築している。小さな島々で誰がどのようなことをしているというのが見える関係性の中で、厚い信頼関係が育まれているのがわかる。
二点目の耕作地の確保については地道な技術指導のもと、第三者の力を巻き込んだ手法が功を奏している。従来の山での作業は重労働も多いため、若手のボランティアなど農家以外の手も上手く借りて収穫ツァー等体験型のイベント仕立てにしたり、スキルや経験をいかし庭先でも一定の収穫を確保できるようにするなど多様化させている。また販路先の新たな開拓(クラウドファンディングやHPによるネット通販)なども生産者の顔や商品の変遷が可視化され消費者へのメッセージ性が高くなり消費者のニーズと合致している。
3.国内外の他の同様の事例と比較して何が特筆されるのか
現在、市民農園のような農地の貸し出しというのはどこにでも多くあるし、地域オリジナル製品の開発というのも各地で盛んにおこなわれている。このプロジェクトの場合は双方が連動していくことに大きな意味がある。自分で育て収穫したものがどのように製品となって流通していくかというプロセスを実際にそばで見ることができるようになっているため、生産者や参加者が自分ごととして共感できる点が高く評価できる点である。
作った果実がどのように姿を変え、消費者の手に届くのか、従来生産者自身も出荷した後の姿を知らずにいたことから考えると生産者の近くで生産者と共に企画をする画期的な取り組みであると言える。
4.今後の展望について
今後ますます高齢化が進むと懸念される地域であるが故に継続する仕組みづくりが必要となってくる。その為には行政とのより緊密な連携が望まれる。呉市として広島県として地域の未来をどう考えるのか、過疎化に向けてどのような手段を講じていくのか。地域おこし協力隊で若手の移住を促進する活動は現在も実施されているが、まだまだ人数規模としては少なく、偏った地域に限られている。移住者募集の周知もあまり大々的になされているようには見えないし支援の期間も区切られている。長らく海で隔てられていた島しょ地区は本土に比べて排他的とも言われる風土が根強い。外からの新しい風を受け入れる態勢作りは公的な機関との緊密な連携が望まれる。例えばルーツを島に持つものが協力していける手段や仕組みづくり(故郷留学、故郷就労、故郷納税など)を持つことでより強固な体制が可能となる。今後この取り組みを継続して循環させていくためには土地に愛着を持つ新たな人材の確保が必要となってくる。
5.まとめ
高齢化した農家がいったん手放した畑はあっという間に雑草が生い茂り、木々が好き放題に伸び、山となってしまう。耕作放棄地が山になっていく様は景観を損ねるばかりでなく、そこに暮らす人々に一種の諦念にも似た心情を植え付けてしまう。自分の住んでいる島の風景、長年丹精をこめて手入れをした場所が2度と人が入れない場所になってしまう様を日々目にする事は、その土地で暮らす人々にとっては寂しいだけではなく未来への希望をも奪ってしまう。また外から観光に来る人にとっては車窓からみるだけの通過するだけの場所になってしまう。穏やかな気候の暖かな日差しや海の青、潮の匂いのもと、段々畑が整備され、種々の柑橘類がたわわになっていれば、まさにそこは日本の原風景と言える。新しい未来を見せてくれる数々の取り組みは地元に暮らす人々にとって未来への橋を架けてくれた素晴らしいプロジェクトと言える。この「黄金の島」再生プロジェクトは各地域において世代を紡いで創り続ける日本の原風景を守っていくこと、人々の生活と生きる力を支えることを担っていけるのだと改めて気づかせてくれるものである。
参考文献
註1 とびしま柑橘俱楽部
とびしま柑橘工房 (tobishima.hiroshima.jp)
註2 おもてなしセレクション(れもんげ)日本
れもんげシリーズ | おもてなしセレクション(OMOTENASHI Selection) (omotenashinippon.jp)
安芸灘諸島連絡架橋 | 広島県 (hiroshima.lg.jp)
日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島|日本遺産ポータルサイト (bunka.go.jp)
安芸灘諸島連絡架橋 | 広島県 (hiroshima.lg.jp)