地中美術館ー究極までに完成された思考体験の場
はじめに
地中美術館は、福武總一郎が構想したベネッセアートサイト直島の心臓にあたるような美術館であり、“Benesse(よく生きる)”を体感する場所として2004年に開館した。瀬戸内海の美しい景色の中でアートと向き合う体験は他の美術館と一線を画している。今回は福武財団へのインタビューを通してその歴史と今後の展望に迫るとともに、デンマークのルイジアナ美術館と比較しながら、日本におけるアートの可能性についても考察する。
1.基本データと歴史的背景
1.1 基本データ
名称:地中美術館
所在地:香川県香川郡直島町3449-1
開館:2004年7月
地中美術館は「自然と人間を考える場所」として2004年に設立された。建築は安藤忠雄の設計であり、瀬戸内の美しい景観を損なわないようにと建物の大半が地下に埋設されている。館内にはクロード・モネ、ジェームズ・タレル、ウォルター・デ・マリアの作品が恒久展示されており、自然光の中で鑑賞される作品とその空間は、一日を通して、また四季を通して刻々と表情を変えるのが特徴である。
1.2 歴史的背景
地中美術館を含むベネッセアートサイト直島に繋がる原点ともいえる直島国際キャンプ場の事業は、1985年当時の直島町長三宅親連と福武書店創業者福武哲彦の出会いに端を発する。福武哲彦の急逝により後継者となった福武總一郎がその意志を引き継ぎ、安藤忠雄との出会いを経て1989年に直島国際キャンプ場をオープン。現代社会について考えたり、地域固有の風景や文化に気づくきっかけとして現代美術を扱うべく、1992年には直島コンテンポラリーアートミュージアムという名称で企画展を中心としたアート活動を始めるが、1994年のOut of Bounds展をきっかけにサイトスペシフィック・ワークへと方向転換していく。1998年に始まった家プロジェクトを経て、サイトスペシフィック・ワークの集大成として2004年に地中美術館が開館した。
2.積極的に評価する点
2.1 思考体験を重視する場
まずはじめに、地中美術館が単なるアート鑑賞の場ではなく、アートを通じて行う思考体験の場であることに着目したい。施主である福武總一郎はアーティストではなく「作品」を選ぶ人だという。「作品」はその意味や歴史的文脈、美術分野における評価とは関係なく、福武個人の解釈によりあるメッセージ性を持ってその場所に置かれている。これは私設美術館だからこそできる仕掛けであり、地中美術館が「自然と人間を考える場所」として、その場における思考体験を重視していることを意味している。多くの美術館がアート自体を見せることを目的にしているのに対して、福武はアートを通してその人の“Benesse(よく生きる)”を見つめ直し、アートがその人がこれからやるべきことを考えるきっかけになると信じていた。これはアートを通して事業の方針転換を行うことになった福武自身の成功体験が軸になっている。
また、地中美術館には決められた鑑賞順序はなく、展示室にはキャプションもない。人によって解釈は違うということが前提にあるので、美術館としての一つの解釈を提示することに意味がなく、鑑賞者自身の見方で体感して欲しいという意図があるからだ。一方、展示室には必ずスタッフが配置されている。作品情報については答えるが、作品の意味や解釈については鑑賞者の思考を促す働きかけを行うようにしているそうだ。主体的な鑑賞ができる人に対しては気配を消し、何かを求めている人にはヒントを手渡す。訪れる鑑賞者に対して、その人自らの“Benesse”を実現するために必要な働きかけをするというミッションはどこまでも徹底されている。
2.2 究極までに完成された空間
次に、こうした思考体験を実現させている地中美術館の作品と建築に着目したい。地中美術館は元々クロード・モネの「睡蓮の池」を飾るための場所という構想から始まっている。福武は「ボストン美術館でこの絵に呼ばれた気がした」という経験を語っているが[註1]、直感的にモネの自然の美しさに向き合う姿勢、光の表現といった作品観に共鳴したのだろう。モネに敬意を払いつつも、直島でしか体験できないサイトスペシフィック・ワークが実現しており、自然光の下での鑑賞体験の瞬間性はモネが描いた一瞬の光の美しさともリンクする。さらにはジェームズ・タレル、ウォルター・デ・マリアの作品も、光を切り口にしつつも少し違った角度から「自然と人間の関係性」を考えさせる。さらには2人がランド・アーティストであることが作品の境界線を曖昧にし、鑑賞空間への没入感をより高めている。
安藤忠雄による建築も、あえて直島という場所や自然に対して開きながら入る仕掛けが施されている。チケットセンターを遠くに配置し、その日の直島の天候や自然、鑑賞する人のコンディションに向き合うために設けられた余白。地中の庭を通り、美術館の入り口まで歩くこと、作品と作品の通路を歩くことも含めて一つの体験なのである。そして最後に辿り着くカフェで日本の原風景が残る瀬戸内海を見て、鑑賞者はありのままの自然の美しさを再認識させられる。「誤差ゼロ」を合言葉に、試行錯誤のなか完成した空間は緊張感に満ちているが、その空気感さえもなお鑑賞者の思考体験を深めるように思えてならない。
3.国内外の事例との比較
ここでは比較事例として、デンマークのルイジアナ美術館を取り上げる。「世界一美しい美術館」とも称されるこの美術館は、作品と建築と自然のコントラストを重視している点に加え、新館増築の際も景観を損ねないよう地下に展示室を設けたり、芝生と海が一望できるカフェ、またビジネスパーソンがつくった私設美術館という点でも共通点が多い。実際に福武自身もあるインタビューで「自然と現代美術が調和したところ」として、同美術館の名前を挙げている[註2]。
ルイジアナ美術館の創設者であるクヌート W. ジェンセンは「みんなの近代美術館」を理想としていたそうだ。人々がリラックスして自由に鑑賞し、移り変わる自然の中で作品に出会う。そうした経験を通してアートへの関心を芽生えさせ、それぞれの美的経験を多くの人と分かちあう。1958年に個人邸宅を改装して誕生し、今も時代に合わせて変化し続ける美術館は、まだ芸術にあまり馴染みのなかったデンマーク人に芸術を愛することを教えた場所であった。
ルイジアナ美術館が素晴らしい美術館であることに変わりはないが、2000年代に日本で誕生した地中美術館はまた別の目的を持ってそこに存在している。そして特筆すべき点は、やはり上記に述べたその場における思考体験と空間の完成度であろう。地中美術館の作品数は全部で9点、すべて恒久展示である。作品が少ないことで鑑賞者は集中して一つの作品と深く向き合うことができる。何度訪れても作品が変わらないことで、自らの変化や周囲の自然の変化により敏感になれる。「100年持つ建築」を想定してつくられ、この先もおそらく変わることのない鑑賞空間は、移り変わる人間と自然の姿をより一層浮き彫りにする。
4.今後の展望について
現代アートに馴染みがある人にとって、地中美術館は思考体験を促す「きっかけ」が多い場所と言える。一方で日本人はまだまだ自力で鑑賞する力がない人も多く、誰かの解釈を元にした解説を聞き、作品の評価を知り、作品の意味を理解することがアート鑑賞だと思っている人も多い。しかし福武の言うように、自らの生き方を考え、自らの哲学を考えさせることがアートの一つの役割であるとすれば、他人の鑑賞体験をいくらなぞっても目の前のアートからは遠ざかるばかりだ。そのため、福武財団では主体的な鑑賞をめざすステップとして、対話型鑑賞を広げるアプローチも行っている。
ここ数年、学校教育や企業研修の受注が増えていると言う。直島を訪れたビジネスパーソンの多くが、アートに向き合うことで、日常会議の心持ちや仕事への向き合い方、家族とのコミュニケーションにまで変化が起きたという。また、中学生向けの対話型鑑賞では「不登校が治った」「夢が持てた」という感想が見られたという。はじめは単語の羅列だった「感想」が、文章の「意見」になっていく。自分の個性を良さとして捉え、他人の考えの素晴らしさを素直に認められるようになる。アートの教育が美術を味わうためだけのものではなく、人間力を育む効果があるということを広く伝えるべく、今まさに実証実験が進行中だそうだ。人間としての考え方を養う場所として、さらには進路や人間関係に悩む子どもたちをアートが救えるのならば、それは直島の一つの使命なのだそうだ。
5.まとめ
地中美術館はアートが作用して「よく生きる」を考える場所である。福武がかつて、地中美術館の建物が地中にあるように、人間にとって大切な心や思考というものは目に見えないと語っていたそうだが[註3]、この場所での感動や思考体験はそういう目に見えないものを浮き彫りにしてくれるように思う。美術館が必ずしもアート鑑賞の場だけである必要性もなければ、アートもまた美術館や芸術分野の枠組みに縛られることはない。直島コンテンポラリーミュージアムからはじまった直島でのアート活動がOut of Bounds展をきっかけに屋外へと広がったように、地中美術館からアートを通じた思考体験が美術館の外へと広がり、自らの手でより「よく生きられる」人が増えることを願ってやまない。
参考文献
[註1]福武總一郎、安藤忠雄ほか著『直島 瀬戸内アートの楽園』、新潮社、2011年、P.6
[註2]堺屋太一『【対話】芸術のある国と暮らし』、実業之日本社、2008年、P.77
[註3]地下に埋まった美術館――「地中美術館」の建設プロセス:https://benesse-artsite.jp/story/20211207-2198.html(2023年1月28日閲覧)
◆参考文献
秋元雄史、安井裕雄解説『地中ハンドブック』、福武財団、2005年
福武總一郎、安藤忠雄ほか著『直島 瀬戸内アートの楽園』、新潮社、2011年
福武總一郎+北川フラム著『直島から瀬戸内国際芸術祭へー美術が地域を変えた』現代企画室、2016年
岡本一宣プロデュース『直島インサイトガイド 直島を知る50のキーワード』、講談社、2013年
菅原教夫著『現代アートとは何か』、丸善株式会社、1994年
堺屋太一『【対話】芸術のある国と暮らし』、実業之日本社、2008年
島崎信著『デンマーク デザインの国 豊かな暮らしを創る人と造形』、学芸出版社、2003年
川添善行著、早川克美編『私たちのデザイン3 空間にこめられた意思をたどる』(芸術教養シリーズ19)、藝術学舎、2014年
地中美術館公式Webサイト:https://benesse-artsite.jp/art/chichu.html(2023年1月28日閲覧)
ルイジアナ美術館公式Webサイト:https://louisiana.dk/en/(2023年1月28日閲覧)
“世界一美しい美術館” と評される本当の理由——ルイジアナ近代美術館のスタッフに聞く:
https://hillslife.jp/art/2022/08/01/sense-of-place/(2023年1月28日閲覧)
ベネッセアートサイト直島「オンライン対話型鑑賞プログラム」の中学・高校向け実証研究を開始:https://blog.benesse.ne.jp/bh/ja/news/education/2022/09/07_5861.html(2023年1月28日閲覧)
◆補足資料
公益財団法人 福武財団 エデュケーション部門 藤原綾乃氏 Zoomインタビュー(2023年1月21日)