「桐生祇園祭」における「四丁目鉾」について

伊藤 真妃

1 はじめに
本稿では、群馬県桐生市の「桐生祇園祭」にて巡行する「四丁目鉾」が、現代の環境下においてどのような経緯で再び巡行することになったのか。また、現代にどのように作用しているのか、を論じている。

2「四丁目鉾」基本データ【写1】
明治8年(1875)完成。本町四丁目で買継商を営んでいた磯部庄七(1824〜1896)が、祭事の際の財力顕示の為に、スポンサーとなり自らの趣向と設計により制作されたものである。
①構造・大きさ
木造。幅2.76m 、奥行き3.765m 、高さ8.955m(人形頭頂部)〜9.2m(刀先)、重量不明。
土台の上に屋根付き舞台があり、その上に上下2台の露台が設置され、上露台には生人形の素戔嗚尊が載る。赤地四方幕は、桐生織の布を用いている。巡行中の回転時は、上露台と人形が下がり重心を下げ、床下の10㎝角の心棒一本で全重量を支え回転する。
②制作
・彫刻:岸亦八(1791〜1877)
正面二本の龍柱には、昇龍と降龍、下座には獅子、牡丹、栗鼠、葡萄、鶴などの彫刻が施され、大小100個の部材で組み立てられている。
・生人形:松本喜三郎(1825〜1891)(1)
人形素材:桐、彩色:胡粉、顔料。
最上部に鎮座する素戔嗚尊は、松本喜三郎の50歳のときの作品である。眼光は鋭く「歌舞伎の大見栄のようなポージング」と一般に言われている。
また、某TV番組の鑑定において、蓮直孝氏(四丁目町会長)が依頼し、大熊敏之氏が鑑定。「松本喜三郎の傑作」と鑑定され、3500万円の評価額がついた(2)。

3 歴史的背景【図1】
①「桐生祇園祭」の発端から「四丁目鉾」制作まで
桐生市は、徳川家康の関東転封に伴い、農産物、絹織物の集散地として、天正19年(1591)から慶長11年(1606)に桐生天満宮(北端)から浄運寺(南端)を一丁目から六丁目と町割りした。明暦2年(1656)本町三丁目の衆生院(牛頭天王社併設)の境内で、本場京都の祇園会に倣い牛頭天王を祀った疫病退散祈願の「子供の手踊り」が「桐生祇園祭」の起源とされる。
桐生新町の商家の人々により衆生院の隣接地に市神社が造営され、衆生院内に神輿蔵が建設、祭典時に屋台、山車も登場した。また、一丁目から六丁目までの輪番制度が導入され、現在も年番制が継続されている。祭典の幹事と町会は「天王町」と呼ばれる。
安永8年(1779)天王社の祭りと市神社の祭典が合同開催されると、飾り物や屋台で行われる狂言などが年々華やかになっていった。四丁目が屋台を大型化すると各町競い合い大型屋台を新造した。現在も「動く歌舞伎座」と言われる最大級の屋台が各町会に残っている(3)【写2】。また、屋台の大型化に飽き足らず、三丁目が、文久2年(1862)「翁鉾」を、四丁目が明治8年(1875)に「四丁目鉾」を制作し、明治26年(1893)まで、巡行を続けていた。
②102年ぶりに動いた「四丁目鉾」【写3】【図2】
明治26年以降、町内を巡行する事のなかった「四丁目鉾」が平成7年(1995)8月5日、102年ぶりに巡行した。
高さ9.2mの威容が禍いし、通りの電線が障害となり、天王番の時だけの飾り物になっていた。さらに戦後の経済状況の悪化、産業の衰退は、それさえも稀であった。「桐生八木節まつり」は、五丁目、六丁目の「八木節」ばかりが賑わい、三丁目、四丁目の「桐生祇園祭」は、閑散としていた。
時代は流れ、電柱が地中化されると、当時、天王番の四丁目行司は「空が開いている。鉾が動ける」と考えた。それから、氏子総代、町会長、町内会の重鎮たちを説き伏せ、準備にかかった。
しかし、102年ぶりの鉾の巡行である、当時を知るものはいない。初日の回転時、心棒の囲いの破損から、回転不能となり後ろ向きで戻った。翌日、材木が支給され窮地を凌ぐも、102年ぶりの巡行は課題を残した。

4 比較と特筆
①三丁目「翁鉾」(4)と「四丁目鉾」の比較
「翁鉾」の完成は、文久2年(1862)である。「四丁目鉾」は、それから13年後の明治8年(1875)に完成した。この13年は激動の時代であり、それは、「翁鉾」と「四丁目鉾」にも違いが反映されている。
「江戸天下祭り」では、二社の山車群が江戸城に入ることを許されていた。城門をくぐる際の高さ制限から、二層式で高さ7.5m位であった。関東の山車は、江戸から流出しており、「翁鉾」もおよそこの規模である。一方、幕末の廃仏運動や、文明開化、神仏分離令を経て、これまでの「牛頭天王」の神号を改め、「素戔嗚尊」を神号とし、「天王祭礼」から「八坂祭典」と改められた時代の「四丁目鉾」は、頂点に素戔嗚尊を有し、高さ9.2mと北関東でも特筆する高さである。
②京都「祇園祭」の山鉾と「四丁目鉾」の比較【図3】
関東地方では、その多くを「山車(だし)」と呼んでいる。しかし、京文化の影響が強い桐生では、それを「鉾」と明記する。その影響を受けているとはいうものの「四丁目鉾」と京都「祇園祭」の山鉾とは違った設計である【引用1】。
京都の山鉾の大型車輪(φ2m)に比べ、桐生の鉾の車輪(φ1.352m)は小さい。車輪は鉾の台座の内側に位置し、その高さに対しやや不安定である。京都の山鉾の「辻廻し」は、青竹を敷き詰め、水をかけ車輪を滑らせ90度回転させる。一方、桐生の鉾は、当時の町建の道路に関係し、折返して180度回転させ往復する【図4】。本町通り10mの狭い道幅に加え、側道には当時水路もあり、勾配もあった。狭い道幅で180度の回転は、車輪が大きくては不可能である。桐生の町建と鉾の車輪は、密接な関係を示唆する。狭い道幅にて、最小回転半径で回る設計は、特筆すべき点といえる。

5 近年の評価
鉾の「曳き違い」本町三丁目【写4】
102年ぶりに「四丁目鉾」が動いてから5年後、当番長に当たる三丁目町会長は、「何をしたらいいだろうか」と苦悩の末、「翁鉾」の巡行を考えた。しかし、それだけでは四丁目の二番煎じである。そこで、2台の鉾の「曳き違い」を発案した。江戸末期に作られた「翁鉾」と明治初期に作られた「四丁目鉾」は、これまで2台揃っての巡行はなかった。
しかし着手するも、「翁鉾」は、固定式の車輪であることや、鉾を曳く綱の調達に骨を折った。町鳶頭の提案でジャッキを使い回転させ、町内の小学校の綱引きの綱を調達し、それらを解消した。その甲斐あり見事「曳き違い」に成功、観客を魅了し「桐生祇園祭」のイベントとして認知され、評価されている。

6 今後の展望
①行政の支援
昭和39年(1964)に、三つの祭り(5)が統合され「桐生祭り」となり、昭和63年(1988)には、「桐生八木節まつり」と改称された。「四丁目鉾」の102年ぶりの復活巡行、三丁目、四丁目の鉾の初めての「曳き違い」が誘因し、その後全町会で屋台の組立設置や、大旗の掲揚が順次行われた。これにより「桐生八木節まつり」を観光の看板とし、行政はPRを行っている。
また、「四丁目鉾」の保存と祭り以外でも広く知れ渡るよう「あーとほーる鉾座」(6)を建設し、鉾の展示やイベントを企画している。
平成28年には「桐生祇園祭保存会」を設立。それにより祭典事業補助金の大幅増額を実現した。
②人材確保
市街地の空洞化、少子化が一層進む中、年番長制の継続が将来も可能か、担い手や資金不足のにどう対応するかなどの課題が浮上している。保護継続に際して、これまでの祭規則を見直し、町内会、鳶連だけではなく、市内の学生に参加を呼びかけ歴史文化を教育方面へ促すなど、また、鉾の遠征(7)や近隣の山車を招聘し、その交流を考えている。
③展望
将来は、「「四丁目鉾」の大英博物館展示」とも。桐生祇園祭保存委員会会長は、「イギリスは日本と同じ島国であること、王室と皇室、騎士道と武士道、文化やマナーが日本と似ている。産業革命により手織り工場から近代工場に発展した桐生の文化だから、きっと受容れ易い。思い切って、博物館に写真を送ってみたい」と大いに夢を語る。

7 まとめ
三百有余年の伝統の「桐生祇園祭」は、桐生の産業や商人と共に伝わってきた。産業は衰退したが、進取の気風と商人の意気が伝統の祭りを再構築させた。発展と衰退を融合させ生まれた「鉾の曳き違い」は、桐生商人の心意気を示したものである。過去の人々の文化の営みによって生まれた鉾は、ただその伝統を継承するばかりでなく、新しい文化と共に葛藤し、新しい形を生み出している。それらは先人たちから、後世に向けた「学ぶべき素材」の提供だと考える。

  • 81191_011_32183075_1_1_%e3%80%8c%e5%9b%9b%e4%b8%81%e7%9b%ae%e9%89%be%e3%80%8d 【写真1】:「四丁目鉾」
    人形、彫刻のバランスがとれ、白木の重厚感とその高さは圧倒的な存在感を放つ。
    本町四丁目「あーとほーる鉾座」内。
    (2023年1月17日、筆者撮影)
  • 81191_011_32183075_1_2_%e7%a5%87%e5%9c%92%e5%b1%8b%e5%8f%b0 【写真2】:本町四丁目屋台
    安政元年(1854)完成、桐生最古の屋台。「四丁目鉾」と同じ磯部庄七がスポンサーである。
    彫刻:岸亦八、大工:鈴木嘉七、扁額:田口江邨「楽郷華観」。
    襖絵:清水東谷 表「鶴と秋草之図」、裏「扇子はめ込み」12枚
    表「芭蕉の図」、裏「鶴の図」12枚。二種類の構成がある。
    本町四丁目「あーとほーる鉾座」内。
    (2023年1月17日、筆者撮影)
  • image4 【写真3】:素戔嗚尊を設置する鳶
    保存の際は、鉾の頂点にレプリカの素戔嗚尊が設置されているが、祭り当日は、本物の松本喜三郎制作の素戔嗚尊を設置する。
    (2019年8月5日、筆者撮影)
  • image5 【写真4】:鉾の「曳き違い」
    「桐生祇園祭」のメインイベント「翁鉾」と「四丁目鉾」の「曳き違い」は、道幅10mをいっぱいに使い観るものを圧倒する。
    (2019年8月5日、筆者撮影)
  • 81191_011_32183075_1_5_%e5%90%8d%e7%a7%b0%e6%9c%aa%e8%a8%ad%e5%ae%9a%e3%81%ae%e6%9b%b8%e9%a1%9e 【図1】:「桐生祇園祭」略式年表1
    1590年(天正18年)〜1963年(昭和38年)まで。
    (筆者作成)
  • %e3%80%80%e6%a1%90%e7%94%9f%e7%a5%87%e5%9c%92%e7%a5%ad 【図2】:「桐生祇園祭」略式年表2
    1989年(平成元年)〜2022年(令和4年)まで。
    (筆者作成)
  • 81191_011_32183075_1_7_%e9%89%be%e6%af%94%e8%bc%83%e7%94%bb%e5%83%8f 【図3】:京都「祇園祭」における「鷹山」鉾と「桐生祇園祭」における「四丁目鉾」のイメージ図
    車輪直径、ホイルベース、トレッド、寸法比較と鉾の外観比較【引用1】。
    (筆者作成)
  • 81191_011_32183075_1_8_%e6%a1%90%e7%94%9f%e5%b8%82%e6%9b%b3%e3%81%8d%e9%81%95%e3%81%84%e5%9c%b0%e5%9b%b3 【図4】:「桐生祇園祭」における鉾「曳き違い」巡行ルート。
    「翁鉾」と「四丁目鉾」が本町通りを約500m巡行する。2回の曳き違いポイントでは、お囃子対決が行われ、毎年その勝敗を争う。
    【引用2】桐生市道路台帳附図。
    (筆者作成)

参考文献

註釈
(1)松本喜三郎(1825〜1891)、生人形師。
 熊本生まれ。大阪から江戸にきて新門辰五郎のもと評判をとる。明治4年(1871)代表作となる「西国三十三ヶ所観音霊験記」にて観音の化身33体、人物130体、五年間という長期興行を行なった。リアルで写実的な作風が特徴で、東校(現在の東京大学医学部)の依頼で人体模型を制作する。その解剖学的リアルさと、人間味を加味した人形師である。江戸時代後期から明治にかけて地方巡行の際に、「四丁目鉾」の上段に鎮座する生人形の素戔嗚尊は制作された。現在残っている生人形は、「四丁目鉾」の素戔嗚尊を含め数十点にすぎない。
作品:「谷汲観音・西国三十三ヶ所観音霊験記」熊本市浄国寺蔵、「カニ」熊本市島田美術館、「池之坊・西国三十三ヶ所観音霊験記」大阪歴史博物館、「貴族男子像」ワシントンD.C.スミソニアン自然博物館等。
(2)「開運 なんでも鑑定団」、テレビ東京系列制作、1994年〜現在。
 依頼人:蓮直孝氏、鑑定:大熊敏之、ジャンル:日本人形、2019年4月30日放送。
 明治から伝わる鉾の上に載る人形。20年程前、電線が地中化され、巡行が復活、蔵を整理していたところ「国宝に匹敵するものだから大切にするように」と書かれた書状が出てきたため鑑定依頼に至った。高評価額の付いた鑑定後は、素戔嗚尊の生人形レプリカを載せ保存管理を行なっている。
(3)屋台 桐生祇園屋台
 制作:江戸時代4台、明治1台、昭和1台、計6台が現存する。
 両袖開口:約7.5m、2階建高さ:約6.6m、奥行き:約6.4m(四丁目屋台)。
 これらは「舞屋台」、「巨大屋台」とも言われ、歌舞伎や狂言の芝居が上演されていた。美しい彫刻、豪華な襖絵、扁額の書など「動く祭礼建築」「動く歌舞伎座」として評価が高い。鉾のみならず年番町が屋台を出し芸能を披露している。全国に例をみない桐生の祇園屋台は、組み立てに4・5日を要する。
(4)本町三丁目「翁鉾」基本データ
 木造、二層式、文久2年(1862)制作。
 舞台部:幅2.947m 、奥行3.835m 、上露部:幅1.429m 、奥行1.429m 、
 最高高さ:7.8m。
 江戸型山車の原型で最もシンプルなものである。三味線胴の彫物は、桐生では珍しい金塗りで、生人形は源頼朝が翁の面をつけているため「翁鉾」と呼ばれている。
棟梁:不明、彫刻:石原常八、生人形:和泉屋勝五郎。
「翁蔵」は、「翁鉾」を納める県内初の展示型の蔵として、平成18年に、本町三丁目・同商店街振興組合・桐生市・群馬県の支援を受け建設。
所在地:群馬県桐生市本町三丁目4−11。
(5)三つの祭り:「桐生祇園祭」、「七夕祭り」、「商工祭り」。
(6)「あーとほーる鉾座」
 平成12年設立、本町四丁目・同商店街振興組合が所有。明治初期に作られた「四丁目鉾」や祇園屋台、生人形(素戔嗚尊)が展示。イベントホールとして、ミニコンサートや芝居なども行われている。
所在地:群馬県桐生市本町四丁目328。
(7)「四丁目鉾」の遠征
平成15年6月 東京国立科学博物館、同15年11月 渋谷たばこと塩の博物館、
平成17年9月 千代田区「天下祭り」、平成18年6月 熊本現代美術館、
平成19年9月 千代田区「天下祭り」平成22年10月から11月 古代出雲歴史博物館、
平成26年10月から11月 足利市美術館、平成27年4月 函館美術館、
平成22年6月から7月 成田芸術文化センター、合計10回。

引用
【引用1】「桐生の歴史的建造物の調査報告書 桐生祇園祭関連建造物編」、
実測図面 P 124,125,126、佐々木建築事務社、2021年11月報告。
公益財団法人祇園祭山鉾連合会ホームページ、www.gionmatsuri .or.jp、祇園祭「鷹山」基本設計案 P4,5(正面図、側面図)、平成30年6月21日報告。2023年1月16日閲覧。
【引用2】桐生市道路台帳附図、桐生地区、20-25-2,21-16-1,21-16-3、2023年1月。

参考資料
「桐生の歴史的建造物の調査報告書 桐生祇園祭関連建造物編」、佐々木建築事務社、2021年11月報告。
「桐生市天神町一丁目、本町一・二丁目地区 伝統建造物群保存対策調査報告書」、長岡造形大学建築・環境デザイン学科 木村研究室監修、桐生市総合政策部伝建群推進室、平成21年3月発行。
公益財団法人祇園祭山鉾連合会ホームページ、www.gionmatsuri .or.jp、祇園祭「鷹山」基本設計案、平成30年6月21日報告。
2023年1月16日閲覧。
「令和元年版 桐生祇園祭」、桐生祇園保存会、令和元年12月31日発行。
「季刊旅ムック.com」、https://kumamoto.tabimook.com/、偉人伝>松本喜三郎、
2023年1月16日閲覧。
「TV TOKYO」、https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20190430/06.html、2023年1月16日閲覧。
桐生市ホームページ、https://www.city.kiryu.lg.jp/、2023年1月16日閲覧。
香取市ホームページ、https://www.city.katori.lg.jp/culture_sport/bunkazai/bunkazai_news/dasijissoku.html、2023年1月16日閲覧。
桐生八木節まつりホームページ、http://www.kiryu-maturi.net/gion.html、2023年1月26日閲覧。

参考文献
月刊『京都』、通巻840号、白川書院、2021年7月1日発行。
黒田日出男著、『江戸図屏風の謎を解く』、角川学芸出版、平成22年6月発行。、

取材
四丁目町会長、桐生祇園祭保存委員会会長 蓮 直孝
四丁目副会長 津久井 正
四丁目町鳶頭 小堀 智行
2023年1月取材。

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