空間の編集と構成:桜色のメモリアル「全米日系米国人記念碑」

ウェディントン 千枝

はじめに

アメリカの首都ワシントンDCでは毎春、100年以上前に日本から友好の印として送られた桜が一帯を薄桃色に染め、多くの人々で賑わう(1)。そんな賑わいから少し離れたところに、若い桜に囲まれた「National Japanese American Memorial to Patriotism During World War II(日本語名:全米日系米国人記念碑)(以下NJAM)」という第二次世界大戦中の日系アメリカ人の愛国心に向けた小さなメモリアルがある。本稿ではNJAMを空間の編集と構成の観点から観察し、「ベトナム戦争戦没者慰霊碑」と比較しつつ、その空間デザインについて考察する。

歴史

第二次世界大戦中「敵性外国人」として西海岸在住の日系アメリカ人およそ12万人が、その6割がアメリカ人であったにも関わらず、強制収容された。全財産を残し自分で運べるだけの所持品の携帯を許され、砂漠地帯または沼地地帯に作られた10箇所の収容所へ送られた。収容所は有刺鉄線に囲まれ、武装兵士に監視されていた(2)。

この大戦では、日系アメリカ人部隊がヨーロッパ戦線で多くの戦死者を出しながらも大変重要な役割を果たし、その功績はアメリカ政府にも認められている。

戦後も根強い排日感情が残る中、多くの日系アメリカ人は生活を取り戻すため強制収容のことは語らず懸命に働いた。しかし、60年代アメリカ全土で公民運動が活発化し、日系アメリカ人の意識にも変化が起きた。政府による調査も開始され、当時の行為は間違いであったと結論付けられた。1987年には国立アメリカ歴史博物館で日系アメリカ人の展示会も開かれ、これがワシントンDCにメモリアルを作るきっかけとなった。1988年、ロナルド・レーガン大統領がアメリカ政府として正式に謝罪を行った(3)。

基本情報 (資料 1~4)

NJAMはユニオン駅とアメリカ合衆国議会議事堂の間の三角形の敷地にあり、大戦中に日系アメリカ人に起こった歴史などが記されている。

名称:National Japanese American Memorial to Patriotism During World War II
(日本語名:全米日系米国人記念碑)
所在:アメリカ合衆国ワシントンDC New Jersey Ave, Louisiana Ave, and D St
設立:2000年
敷地:3/4エーカー
意匠:Davis Buckley

比較対象:「ベトナム戦争戦没者慰霊碑」(資料 5)

ナショナル・モール内に位置し、年間およそ500万人が訪れる「ベトナム・ウォール」と呼ばれるこのメモリアルは、ベトナム戦争へ赴き生還して帰ってきた兵士、戦死または行方不明となっている兵士、その家族や友人の心を慰めたいという思いから起草され、戦争の傷が癒えていない終戦7年後の1982年に開設された。
「ベトナム・ウォール」は磨かれた黒い花崗岩に、約5万8千人の兵士の名前が刻まれた全長約75mの壁である。石壁は「くの字」を描くように徐々に深く地下に埋め込まれ(壁の一番深い所の壁の高さ約3m)中央から再び徐々に浅くなり地上に戻るデザインとなっている(4)。

評価点

空間の編集と構成 (資料 6)

ベトナム・ウォールが「兵士達を癒したい」というただ一つの目的のために、碑文もなく存在しているのに対し、NJAMには「強制収容・日系部隊の活躍・大統領の言葉・日系アメリカ人の言葉」などさまざまな情報が存在する。これらの情報は空間を緩やかに分けてまとめることにより整理されている。

南側アプローチには、花壇の一部を担った石にメモリアル名が表記されており、正式な入口という雰囲気がある。北側アプローチは「追悼の空間」または「兵士のための空間」として捉えることができる。リサウンディング・ベル(5)の横に日系部隊兵士戦死者およそ800名の名前と、トルーマン大統領からの日系部隊へ向けた称賛の言葉が彫られており、ベルは深い低音の響きを奏でるという。この音色は戦没者の魂を沈め、生きている者との境目を曖昧にし、生と死がインタラクトできる空間を作り出しているといえるのではないだろうか。

アプローチを進むと小さな円形の広場になる。ここは日系アメリカ人が歩んできた道のりとその精神、政府との対峙のための空間で「不屈の空間」もしくは「日系アメリカ人のための空間」と解釈できる。中央に設置された4m強の「黄金の鶴」の像(6)は、苦難の中でも屈しなかった彼らの精神を表すかのようであり、その後ろを囲うように収容所名・収容人数・州名が記された石壁が配されている。像の前の半円には、大統領の謝罪文が腰ほどの高さの石に大きめに彫られ(7)、その両脇に日系アメリカ人らの言葉と歴史的事実が記されている。この謝罪文が鶴の像と収容所名の壁に向き合う空間構成は、政府が日系アメリカ人全員に謝罪したことを表現しているようである。

紫牟田伸子は、編集とは言葉やイメージという手ががりを使い情報にまとまりと秩序を作り、編み上げることだとしている(8)が、このメモリアルでは「追悼の空間」と「不屈の空間」を緩やかに分け、それぞれに視覚・聴覚情報と文字情報が立体的に編み込まれた空間を作り上げている。

特筆点

空間の時代精神(資料 6)

川添善行は、デザインは作られた時代の雰囲気や価値観、美意識などの時代精神の中にいる(9)としている。ここで特筆されることは、両メモリアルとも開設当時の時間軸や精神の居場所がデザインに反映されていることである。

ベトナム・ウォールができた頃、兵士たちの多くはまだその痛みの中にいた。鋭く大地をえぐったようなこの黒い壁は、彼らの引き裂かれたままの傷を表しているようでもある。また全ての兵士の命の重さは等しいことを示すため人種などは記されていない。

一方、NJAMは世代も世間の価値観も変化した2000年の開設である。終戦後も続いた排日的な世の中で、日本的な部分を隠すように生きてきた日系アメリカ人が、再び日系であることを表に出し、政府の謝罪にまで漕ぎ着けた誇りがメモリアルのデザインにも表現されている。柔軟さのある円や曲線を用い、メモリアルを囲む花崗岩は希望の春を感じさせる桜色で、石は斜め上に傾斜が付けられて切られている。中心部に設置された空へ翼を広げた鶴と相まって、希望を感じ上昇する空間が作られている。

日系アメリカ人を表現 (資料 7)

NJAMにおいて「人種」は大きな意味を持つ。視覚表現に、鶴、枯山水を思わせる石の池、桜、紅葉などを用い、日本的な優雅で落ち着いた空間を作り出している。しかし、刻まれた日系アメリカ人らの言葉は異口同音に「アメリカ人としてこの国の民主主義に誇りを持ち、未来に希望を託す」といったアメリカ的精神に溢れており、メモリアル自体が「見た目は日本人、中身はアメリカ人」という日系アメリカ人を表現しているようである。

展望

NJAMは、賑わいから少し離れているため訪問者は多くない。偶然通りかかった人が立ち寄ることが多いのが現状だ。それと比例するように、彼らの歴史の認知度も高いとは言い難い。メモリアルとは過去を、現在と未来へ繋ぐ一つの装置だ。繋ぎ続けていくためには、その意を受け取る人間の存在が不可欠である。例えば、ロサンゼルスでは地域の子供達が全米日系博物館(10)を訪問する活動がなされているが、DC近辺の教育現場でもNJAMを訪問するプログラムの作成と実践ができないだろうか。「DCの小さなメモリアルを周る観光ツアー」というような企画も有効かもしれない。紙面やオンラインで知識を得るのみでなく、実際にメモリアル空間に身を置くことは、そこでしか感じることができないものがあるに違いない。

おわりに

世界中にあるメモリアルは、それぞれの想いとユニークなデザインで作られている。本稿で取り上げたベトナム・ウォールは「一つの目的のために、飾りなく創造された重鎮で寡黙さのある空間デザイン」、NJAMは「さまざまな情報が織り込まれた、繊細で上昇感のある空間デザイン」と表現できるのではないだろうか。
編集とは、結晶させ脳についた傷のように忘れられないものにすることだ(11)と、原研哉は述べている。静寂ながらひたむきな美しさとしなやかな強さを持つ「全米日系米国人記念碑」という空間は、彼らの歴史を示すと共に、その精神をも感じさせ、訪れる者たちの記憶に「傷」を刻み込むだろう。この一人一人についた傷たちが戦争や差別への考えを深めることに繋がることを切に願う。

  • 81191_011_32086014_1_1_00-%e6%89%89%e5%86%99%e7%9c%9f 満開の桜に囲まれるメモリアル(2022年3月26日筆者撮影)
  • 81191_011_32086014_1_2_01-%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%91%e3%80%80%e5%9f%ba%e6%9c%ac%e6%83%85%e5%a0%b1 資料1 基本情報(筆者作成)
  • 81191_011_32086014_1_3_02-%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%92%e3%80%80%e5%85%a8%e7%b1%b3%e6%97%a5%e7%b3%bb%e7%b1%b3%e5%9b%bd%e4%ba%ba%e8%a8%98%e5%bf%b5%e7%a2%91 資料2 全米日系米国人記念碑(筆者作成)
  • 81191_011_32086014_1_4_03-%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%93%e3%80%80%e3%83%a2%e3%83%81%e3%83%bc%e3%83%95%e3%81%a8%e3%83%86%ef%bc%9f%e3%82%b5%ef%bc%9f%e3%82%a4%e3%83%b3 資料3 モチーフとデザイン (筆者作成)
  • 81191_011_32086014_1_5_04-%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%94%e3%80%80%e3%83%a1%e3%83%a2%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%ab%e3%81%ab%e8%a8%98%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e8%a8%80%e8%91%89 資料4 メモリアルに記された言葉(筆者作成
  • 81191_011_32086014_1_6_05-%e8%b3%87%e6%96%99%ef%bc%95%e3%80%80%e3%83%98%ef%bc%9f%e3%83%88%e3%83%8a%e3%83%a0%e6%88%a6%e4%ba%89%e6%88%a6%e6%b2%a1%e8%80%85%e6%85%b0%e9%9c%8a%e7%a2%91 資料5 ベトナム戦争戦没者慰霊碑(筆者作成)
    ・歴史についてはVietnam Veterans Memorial Fund(https://www.vvmf.org)を参考に筆者が意訳。
  • %e6%88%90 資料6 空間の編集と構成(筆者作成)
  • %e7%8f%be 資料7 日系アメリカ人という表現(筆者作成)

参考文献

註・参考文献
【註】

(1) 1910年、最初に日本から送られた桜は害虫被害に遭い焼却処分となってしまった。しかし、その2年後、およそ3000本の桜が再びアメリカに届けられた。桜は無事ワシントンDCに植樹され、当時の大統領婦人タフト婦人らにより植樹祭が行われた。その後も歴史を通して日本からアメリカにソメイヨシノが送られ、アメリカからは日本へお礼にハナミズキが送られた。また、荒川の桜が消滅してしまった際、アメリカに渡った桜が日本へ「里帰り」した。現在、ワシントンDCでは毎年春に大規模な「全米さくらまつり」が数週間にわたり開催され、年中行事の一つとなっている。

National Park Service『History of the Cherry Trees』
https://www.nps.gov/subjects/cherryblossom/history-of-the-cherry-trees.htm
(最終閲覧2022年7月18日)

政府広報オンライン『アメリカと日本を結ぶ桜』
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202104/202104_04_jp.html
(最終閲覧2022年7月22日)


(2) 1941年12月7日、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し日系アメリカ人の立場は最悪のものとなった。それ以前から人種差別はあったが、この攻撃後、街には日系人を差別する看板が貼られ、新聞でも排日記事が掲載されるなどエスカレートした。真珠湾攻撃からおよそ2ヶ月後、ルーズベルト・フランクリン大統領は「大統領令9066号」を発令した。この大統領令は特定地域を軍の管理に置くことを許可し、結果的にハワイ、および西海岸在住の日系アメリカ人は住んでいる場所から立ち退くよう命令が出た。実際に対象になったのは西海岸の日系アメリカ人の約12万人であった。(大戦中に敵国であったイタリア人やドイツ人にはこの行為は行われることはなかった。)多くの日系アメリカ人たちは誇りを示すかのように身なりを整え毅然とした態度で命令に従った。家畜のように番号札が付けられ、競馬場に作られた馬の糞尿が残る小屋に集合させられ、後に人里離れた何もない収容所へ送られた。収容所ではプライバシーはほとんどなく、小屋の板の隙間から砂埃が入り、寒暖差も激しく厳しい生活環境だった。しかし畑を耕し野球場を作ったりと生活向上に努めた。

第二次世界大戦からメモリアル設立まで、関与のある大統領について:
・ルーズベルト・フランクリン(1882年1月30日〜1945年4月12日):第二次世界大戦中のアメリカ第32代大統領。「大統領令9066号」を発令。
・ハリー・トルーマン(1884年5月8日〜1972年12月26日):第二次世界大戦終戦直前に、フランクリン大統領が急死したため、副大統領から第33代大統領へ昇任。日系部隊に称賛の言葉を送った。
・ロナルド・レーガン (1911年2月6日〜2004年6月5日):第40代大統領。「市民の自由法」に署名し、日系アメリカ人に正式に謝罪をした。
・ジョージ・H・W・ブッシュ(1924年6月12日〜):第41代大統領。NJAMの設立を許可した。

「Executive Order 9066」に関するサイト:
National Archives
https://www.archives.gov/milestone-documents/executive-order-9066
(最終閲覧2022年7月18日)

Densho Encyclopedia
https://encyclopedia.densho.org/Executive_Order_9066/
(最終閲覧2022年7月18日)


(3) メモリアルが作られるようになるまでの歴史に関するサイト:
Densho Encyclopedia
https://encyclopedia.densho.org/National_Japanese_American_Memorial_to_Patriotism_During_World_War_II/
(最終閲覧2022年7月18日)


(4) ベトナム・ウォールの基本情報
名称:Vietnam Veterans Memorial
所在:アメリカ合衆国ワシントンDC 5 Henry Bacon Dr NW
設立:1982年
敷地:2 エーカー
意匠: Maya Lin

 Jan Scruggsというベトナム戦争から生還した一人の兵士のアイデアから始まった。ベトナム戦争は国内での批判が高く、兵士やその家族にとって戦争から無事に帰国しても歓迎されるどころか非難のされるなど辛いものであった。また兵士の多くは戦争のトラウマに苦しんでいた。共に戦った兵士たちとその家族・友人の気持ちを安らげたいとの思いからメモリアルの構想をスタートした。さまざまな困難を乗り越え、メモリアル設立の許可までたどり着いた。費用は全て個人や企業からの寄付で賄われ、税金は使われていない。デザインは当時としては珍しく一般コンペで募集し、4つ審査基準「深く考慮されていること」「周囲環境と調和していること」「政治的でないこと」「戦没者・行方不明者全ての名前が表記されていること」とし、1421点のデザインの中から、当時21歳のイェール大学生、中国系アメリカ人女性マヤ・イン・リン(1959年10月5日~)のデザインが選ばれた。当初、「黒い石であること、地上より低いこと、ミニマルなデザインであることがふさわしくない」などと批評され、ひいては「若い・中国系の・女性」が選ばれたことを非難するものもいた。

 現在では年間500万人の人が訪れる、リンカーン・メモリアルの次に訪問者が多いメモリアルだ。ボランティア活動も活発でメモリアルの清掃や案内なども常に行われている。

ベトナム・ウォールの歴史:
https://www.vvmf.org/About-The-Wall/history-of-the-vietnam-veterans-memorial/
(最終閲覧2022年7月22日)


(5) 「Resounding Bell」はPaul Matisse(1933〜)作で「Memorial Bell」とも呼ばれる。筆者が訪れた時は故障中で、その音色を聞くことはできなかったが低く深い音色だという。

Paul Matisseのホームページ
https://www.paulmatisse.com/meditation-bell (最終閲覧2022年7月19日)


(6) 「Golden Cranes」(日本語名「黄金の鶴」)は日系3世のアーティストNina Akamu(1955〜)によるものである。翼に希望を感じるであろう人類共通の感覚を大切にし、全ての人が自由に羽ばたけるよう願いを込めて作られた。

Nina Akamuのホームページ
http://www.studioequus.com/njam.html (最終閲覧2022年7月19日)


(7) 1988年、レーガン大統領は「Civil Liberties Act of 1988(市民の自由法)」に署名した。第二世界大戦中の日系アメリカ人の強制収容は不当であったことを認め、少額ながらも補償金を支払うことが決定し、正式にアメリカ政府として謝罪した。

Civil Liberties Act of 1988(市民の自由法)に関するサイト:
Densho Encyclopedia
https://encyclopedia.densho.org/Civil_Liberties_Act_of_1988/
(最終閲覧2022年7月18日)


(8) 紫牟田伸子著、早川克美編『私たちのデザイン4 編集学 ―つなげる思考・発見の技法』(芸術教養シリーズ20)、藝術学舎、2014年 p.59


(9) 川添善行著、早川克美編『私たちのデザイン3 空間にこめられた意思をたどる』(芸術教養シリーズ19)、藝術学舎、2014年 p.39


(10) ロサンゼルスには全米日系博物館があり教育活動を行っている。

全米日系博物館のホームページ
https://www.janm.org/ja(最終閲覧2022年7月20日)


(11) 紫牟田伸子著、早川克美編『私たちのデザイン4 編集学 ―つなげる思考・発見の技法』(芸術教養シリーズ20)、藝術学舎、2014年 p.63




【参考文献】

BBC News 『日系アメリカ人一家の秘密だった強制収容、物置で発見された着物から明らかに』、2022年3月1日
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-60506738 (最終閲覧2022年7月1日)

Vimeo『An American Hero: Frank Nishimura』
https://vimeo.com/189083245 (最終閲覧2022年7月19日)

Roger Catlin、『What’s Changed in the 30 Years Since the Smithsonian Opened an Exhibition on Japanese Internment』、Smithsonian Magazine、2017年2月27日
https://www.smithsonianmag.com/smithsonian-institution/marking-75th-anniversary-wrong-imprisonment-120000-japanese-americans-180962278/ (最終閲覧2022年7月20日)

National Park Service『Japanese American Memorial to Patriotism During World War II』https://www.nps.gov/places/japanese-american-memorial-to-patriotism-during-world-war-ii.htm
(最終閲覧2022年7月9日)

Lighthouse ロサンゼルス 『葛藤と苦悩の日系人・アメリカの歴史』
https://www.us-lighthouse.com/life/japanese-american/japanese-american-history.html
(最終閲覧2022年7月19日)

石井 修  『「リドレス」と「リメンムブランス」―日系米人社会の「歴史の記憶」』https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=573&file_id=18&file_no=1 (最終閲覧2022年7月8日)

TED Talk ジョージ・タケイ 『かつて自分を裏切った祖国を愛している訳』
https://www.ted.com/talks/george_takei_why_i_love_a_country_that_once_betrayed_me/transcript?language=ja (最終閲覧2022年7月8日)

TED-Ed 『忌まわしい歴史:日系アメリカ人強制収容所 ― Densho』
https://www.ted.com/talks/densho_ugly_history_japanese_american_incarceration_camps/transcript?language=ja (最終閲覧2022年7月5日)

『移民を授業する』、多文化社会米国理解教育研究会、2007年
https://www.janm.org/sites/default/files/2021-02/janm-japanese-lesson-plan.pdf (最終閲覧2022年6月29日)

National Japanese American Memorial Foundation
https://www.njamemorial.org/ (最終閲覧2022年7月19日)

Densho
https://densho.org/  (最終閲覧2022年7月19日)

Vietnam Veterans Memorial Fund
https://www.vvmf.org/  (最終閲覧2022年7月19日)

全米日系博物館のホームページ
https://www.janm.org/ja (最終閲覧2022年7月20日)

川手 晴雄 『NOーNO BOY 日系人強制収容と闘った父の記録』、角川書店、2018年

川添善行著、早川克美編『私たちのデザイン3 空間にこめられた意思をたどる』(芸術教養シリーズ19)、藝術学舎、2014年

紫牟田伸子著、早川克美編『私たちのデザイン4 編集学 ―つなげる思考・発見の技法』(芸術教養シリーズ20)、藝術学舎、2014年

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