十八代目中村勘三郎を伝説として
はじめに
2012年12月27日、ファンを含めて約1万2千人が築地本願寺に参集して18代目中村勘三郎の葬儀が行われた。まだ57歳だった。盟友の10代目坂東三津五郎が、「肉体の芸術はそのすべてが消えて辛いね。」と弔辞を読んだ。
1-1 勘九郎のデータ
波野哲明は尾上菊五郎と中村歌六の孫で、17代目勘三郎が46歳の時に長男として誕生。4歳で中村勘九郎として初舞台。映画やテレビドラマにも出演し、「勘九郎ちゃん」として人気者であった。25歳で7代目中村芝翫の次女、好江と結婚。長男雅行(勘太郎)、次男隆行(七之助)が産まれた。17代目と同じように立役、女形、敵役、道化役などを演じられる「兼ねる役者」であり、舞踊家だ。
1-2 勘九郎の待ち時代
1988年4月勘九郎33歳の時、父17代目勘三郎が亡くなると歌舞伎座への出演が少なくなった。若者の間では人気があったが、未だ歌舞伎座で主役をはる時期には来ていなかった。この当時8月には歌舞伎は行われていず、若手を中心にした座組でと松竹を説得し、三津五郎とともにケレン味の強い早替わりや本水使用などの作品を選んで、1990年より「納涼花形歌舞伎」を始め人気が出た。年間を通じて多くの初役を演じ、歌舞伎座での自主公演、大阪中座での浪花言葉の主役など、努力の日々であった。
1-3 勘九郎の全盛期
シアターコクーンの芸術監督である串田和美と知己になり、1994年コクーン歌舞伎が生れた。ここから勘九郎の全盛期が始まる。2000年には平成中村座の座元になった。19歳の時、唐十郎のテント小屋を見てそれに憧れていて、初代勘三郎に習って座元になったのだ。仮設スタイルであるが、客席785席の江戸風歌舞伎公演のできる芝居小屋だ。その後友人の「野田版歌舞伎」を歌舞伎座で公演、2004年には中村座をニューヨークに移設、「夏祭浪花鑑」を公演して大評判になった。
1-4 勘三郎の襲名
2005年には、十八代目勘三郎の襲名興行が歌舞伎座で3ヵ月にわたり行われ、この後全国巡業興行し、地方の古い芝居小屋もまわった。襲名公演の売上は36億円であった。2007年に、東京国税局より総額7000万円の申告漏れを指摘され、追徴税額3000万円を払った。貰った祝儀袋を鏡の引出しなどに入れ、仲間達との飲食などに使っていた。アリゾナに別荘を買いゴルフ三昧。妻と二人で世界旅行を楽しみ、最高級のアマンホテルに泊まるアマン・ジャックであった。人気は凄くいつもチケットは売り切れ、経済的には安定していた。
1-5 勘三郎の疲弊
勘三郎は忙しかった。六代目菊五郎の芸の後継者であるが、新しい作品もプロジュースし、自分もそれを演じる。2008年5月ドイツとルーマニアで「夏祭浪花鑑」を公演し、8月納涼歌舞伎で「野田版 愛陀姫」を公演。9月には赤坂大歌舞伎も始まった。2009年12月流行作家宮藤官九郎脚本の「大江戸りびんぐでっと」を歌舞伎座で上演したが、小劇場スタイルと歌舞伎の合体はむつかしいと批判された。2010年4月には歌舞伎座がついにその幕を閉じた。
2011年、海外旅行中に激しい耳鳴りが発症し、しばらく休演することになった。2月に男の子の孫が産まれ、7月には息子の勘太郎の勘九郎襲名が決定。9月には体は少し良くなり公演に参加、2012年2月新橋演舞場勘九郎襲名公演、中村座ロングラン公演にも参加できた。だが、6月食道癌が発覚、7月の手術が決まった。
2 中村勘三郎(勘九郎)を積極的に評価している点
こんぴら歌舞伎出演中の勘九郎をシアターコクーンの芸術監督串田和義が訪ねてきて、公演中の「夏祭浪花鑑」のような歌舞伎をしたいと熱望。シアターコクーンを見た勘九郎は自分も出ると「東海道四谷怪談」を提案。大劇場と違って、花道もない劇場ではあるが、客席と舞台が近い小劇場スタイルで、いつもとは違った芝居ができおもしろいのではないかと乗り気になり、1994年開始。2回目より串田の演出などで趣向を凝らした歌舞伎公演は、まだ続いている。
2000年には自分の芝居小屋で、串田和美演出「法界坊」を出した。座頭が演出も兼ねる歌舞伎の世界に、全面的に演出家を入れるのはかなり実験的である。また現代の作家に歌舞伎の台本を書いてもらおうと、まず野田秀樹のワークショップに木村錦花作「研辰の討たれ」を持って参加。勘九郎にとって新しい歌舞伎とは、歌舞伎座で公演できてこそだ。「野田版 研辰の討たれ」として書き換え、2001年納涼歌舞伎に出し、スタンディングオベーションが起きた。第1回朝日舞台芸術賞グランプリに選ばれ、歌舞伎座にとってはかなり実験的な試みだが成功した。2003年「野田版 鼠小僧」が出されたがこれも評判はよく、カーテンコールが起きた。この後2004年ニューヨーク、メトロポリタン劇場の脇に平成中村座を設営し、「夏祭浪花鑑」を公演、この時のスタンディングオベーションは演者たちにはうれしかった。
2005年に勘三郎を襲名し、2007年にはニューヨークリンカンセンターで「隅田川続俤」と「連獅子」を公演。法界坊では英語の台詞も入れた。2008年にはドイツ・ルーマニアにも出かけ、世話物でも海外で公演できると自信を持った。勘三郎は若い人や海外の人の前で歌舞伎を演じることによって、歌舞伎の面白さを伝えることができたのだ。新しい作品は歌舞伎映画として映画化され全国で公開、DVDとして販売もされている。
3.三代目猿之助の仕事と比較して特筆している点
三代目市川猿之助の「スーパー歌舞伎」1作目は哲学者梅原猛作「ヤマトタケル」で、1986年新橋演舞場で初演。早変わり、宙乗りなどのケレン味を増強。作劇術も転換法も新しく、また照明・音響などの最新の技術も導入、衣裳も斬新であり、2年間で380回公演した。猿之助はまわりに反対されることなく自分の道に進み、全ての演出を自分で指示、自分の造った世界を自分の名前で演劇界に9作品残した。
勘九郎は猿之助の宙乗りに感動する父を見て、芸の継承にがんじがらめになっている自分が情けなく、ねたましかった。だから父が亡くなった時に猿之助から力を貸そうと言われたのにはねのけた。新しい歌舞伎、現代に通じる歌舞伎をめざし、今生きている感覚を大切にしようと演出家や、脚本家も仲間にした。猿之助のように自分が全てを指示するのではなく、みんなを仲間として盛り上げていく点が優れていて、それが大きな力となり、各地で町を挙げて応援してもらえるようになっていったのだ。
4.今後の提案について
癌手術は成功したが、肺を痛め亡くなった。人より肺が小さかったのだ。18代目勘三郎に、もう今後はない。
息子の勘九郎は、勘三郎の孫の勘太郎を役者として教育し、中村家伝来の「連獅子」を2021年2月歌舞伎座で披露した。最年少9歳の子獅子だ。こうして代替わりして、その芸は繋がっていく。大名題の息子達は小さい頃より多々のお稽古事をし、それを肉体に染み込ませていく。勘九郎30歳、七之助28歳で父が亡くなり、それから10年。今二人は立派な歌舞伎役者だ。
5.まとめ
勘三郎は明るい性格と思われていたが、登場前は怖くて震えていて、さよならと言えず朝まで飲んでしまう寂しがりやだ。古い脚本もよく読み、古い音源もよく聴いて勉強していた。歌舞伎で3分のしゃべりも野田秀樹・宮藤官九郎の芝居では1分で終わる。だから心も体も疲れる。勘三郎は役によって音色を使い分けず、自分の声としてはっきりと決めてしまうべきであった。
勘三郎の舞台映像は、後輩達に先達の芸として残る。古典に帰るのを待っていたファンには、短い勘三郎時代であり、新しい歌舞伎座で新時代を始める直前の死は残念であった。今ではすべてが伝説だ。
18代目中村勘三郎はスター歌舞伎役者であり、被災地へのボランティア行動など社会人としても立派であった。
参考文献
中村勘九郎他著『中村屋三代記 小日向の家』、株式会社集英社、1995年
中村勘三郎著『襲名18代』、株式会社小学館、2005年
串田和美著『串田戯場』、株式会社ブロンズ新社、2007年
野田秀樹著『野田版歌舞伎』、株式会社新潮社、2008年
波野好江著『中村勘三郎 最後の131日』、株式会社集英社、2013年
小松成美著『勘三郎、荒ぶる』、株式会社幻冬舎、2012年
中川右介編著者『十八代目中村勘三郎 全軌跡』、朝日新聞出版、2013年
山本吉之助著『十八代目中村勘三郎の芸』、株式会社アルファベータ、2013年
荒井修著『浅草の勘三郎』、株式会社小学館、2015年
関容子著『勘三郎伝説』、株式会社文藝春秋、2015年
長谷部浩著『天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎』、株式会社文藝春秋、2016年
中川右介著『玉三郎 勘三郎 海老蔵 平成歌舞伎三十年史』、文春新書、2019年
武智鐡二著『武智歌舞伎』、文藝春秋新社、1955年