宇部市渡辺翁記念会館を文化資産として再認識し、公共施設として存続の方向性を考える

姫路 紀

1.はじめに
山口県宇部市にある、宇部市渡辺翁記念会館は宇部市民館として親しまれてきた多目的ホールである。特に音響効果に優れていることから、著名な音楽家の演奏会が数多く開催されてきた。村野藤吾(註1)が戦前に設計した代表的な建築物である。現在も現役で使用している建物を文化資産として再認識することによって、公共施設として永続的に維持していくことを提唱するものである。

2.歴史的背景
明治維新以降寒村であった宇部村は炭鉱採掘によって栄え、いきなり宇部市になった町である。(註2)この地域に多大なる発展に寄与した、沖ノ山炭鉱創業者渡辺祐策(註3)を顕彰するために、宇部興産初代社長俵田 明(註4)が中心となり関連企業が出資して(註5)1937年に建設し、宇部市に宇部市民館として寄付をしたのが、渡辺翁記念会館である。

3.基本データ
①建物概要
構  造 鉄筋コンクリート(会堂部分は鉄骨鉄筋コンクリート)
基  礎 独立基礎
外  装 タイル貼りモルタル下地
屋  根 木造下地の上に銅板葺(改修後)
軒  高 18.8m
階  数 地上3階 地下1階
建築面積 2,629㎡(2,581㎡が重要文化財指定面積)
建築延面積 4,582㎡
敷地面積 8,910㎡(4,260㎡が重要文化財指定面積)
客席数 1階837席 2階516席 合計1,353席

②受賞歴
BELCA(ベルカ)賞受賞 1995年
国指定登録文化財 1997年
モダン・ムーヴメント20選選定 1999年
国指定重要文化財  2005年
近代化産業遺産認定 2007年
(宇部市文化創造財団制作パンフレットより)
4.村野藤吾の建築作品としての渡辺翁記念会館の特徴
①外観の特徴
建物の前面は、渡辺翁記念公園から一段高い基壇上に、湾曲を帯びた三層のファサードで構成されている(写真1)。
村野藤吾の特徴でもある外壁は、竣工当初は塩焼きタイルであったが現在は側壁に一部が残っているが、改修工事により類似色タイルで施工されている。(写真4)隣接する宇部市文化会館や近隣の宇部興産ビルの外壁タイルも同様であり、村野藤吾の建築の特徴をあらわしている(写真26、27)。
正面中央には石檀と左右3本ずつ6本の列柱(写真2・註6)がある。これは「渡辺翁記念事業委員会」の構成会社が建設費用を出資したことを表し、中央の石檀は渡辺祐策が創業した沖ノ山炭鉱を表すものである。
正面入り口の左右にレリーフがあり(写真3)、当時の炭鉱事業や関連企業に従事する人々の状況を表現している。
屋根は当初、つり屋根構造でいわゆる逆スラブの構造(写真19)でむき出した梁が板を並べたようなロシア構成主義を思わせるような外観であったが、後の改修工事で村野藤吾の指導のもと梁の上に鋼板葺の屋根を被せる構造となっており(写真22)、当時の姿を見ることは出来ない。
2階のテラスには3階に上がる螺旋階段があり、その形状はル・コルビジュエのサヴォワ邸の螺旋階段を意識したことがうかがえる(写真24、25)(註7)。

② 内装の特徴
竣工当時は会館を訪れる多くの人々は下駄を履いていたため、正面左側から直接地下1階の下足預かり所へ行き(写真11)、雪駄に履き替えてホールの中へ入ったのである。ロビー壁面装飾では地階へ降りる壁に人造大理石象嵌で未来の宇部市を予測する工業都市の絵が描かれ、腰壁は鋳鉄製の波を表したレリーフがある(写真12)。
1階ホワイエの床は市松模様の人造大理石(テラゾー)で施されてあり、低めの天井に山口県産の大理石で造られた太い丸柱が何本もあり、柱頭には青い色が塗られている。これは海底炭田の坑道の柱と坑道の上の海を表すものである(写真5)。
2階ホワイエへ上がる階段の壁はガラスブロックで自然光を取り入れており、吹き抜け天井にも採光を取り入れるための瓢箪型の天窓がある、大きさが異なり遠近感を取り入れているのである(写真7、8)。2階へ上がる石製手摺は会館全体が湾曲を帯びているのに伴い緩やかなカーブを描いており開放感のある空間を作り出している。
2階ホワイエも大理石の丸柱が林立し、外を見渡す一連の広い横窓はモダニズム建築を思わせる面もある(写真6、9)。
家具や照明器具も竣工当時のものが残っており(写真13,14,20)、貴賓室の椅子は通常より腰掛ける部分が長くなっており(写真15)、外国人や和服を着た人が利用しやすいデザインになっている。
音楽ホールの音響は非常に評価されており、バイオリニストのメニューインなど世界的な音楽奏者の評価は高い。村野は「宇部の中は硬くしようと思った」と述べており、自らの経験をもとに早稲田大学の佐藤武夫に習った事務所に所属している伴野の協力を得て出来上がったものである。(長谷川堯著、『村野藤吾の建築 昭和・戦前』より)
ステージの大臣柱には鷲のデザインの金具で装飾されており(写真21)、三国同盟の時代背景を思わせる面がある。
ホールの照明器具は村野独自のデザインによるものであり、発光源を見えないようにした間接照明である(写真17)。また両サイドに吊るされたペンダントから漏れ出る灯が壁面につるく影が効果的である(写真18)。

5.宇部市渡辺翁記念会館の評価と八幡市民会館の存続
① 宇部市渡辺翁記念会館の評価
宇部渡辺翁記念会館は1937年に建築され3度の大改修を経ているものの、竣工当時の大部分が、保存され現在も多目的ホールとして使用されている。このことは村野藤吾の作品である八幡市民会館と比較して特に評価できるものである。
建築としての評価は、村野藤吾は様式にとらわれることを否定し、モダニズムにも批判的であった。しかし、随所に当時の時代背景やロシア構成主義やル・コルビュジエなどのモダニズムの影響を受けつつも、村野独自の村野藤吾の建築スタイルを確立したものである。
折衷主義との批判もあったが、村野藤吾は様式や主義をとりいれたうえで、自分なりに咀嚼して新しい形を作り上げていったのである。

② 八幡市民会館の存続
宇部市渡辺翁記念会館と同様の事例として、福岡県北九州市に、1958年に村野藤吾が設計した八幡市民会館がある(『村野藤吾の建築案内』転載写真)。2016年に閉館したが、市民の強い要望により建物解体は免れた(八幡市民会館写真①、②、③)。
村野藤吾自身、幼少期を八幡で過ごしたこともある所縁の深いところから、旧八幡市政40周年
記念事業建設された。しかし、公共施設であるがゆえに維持費や改修費の問題があり、隣接する村野藤吾設計の八幡図書館はすでに解体されて記念碑を残すのみとなっている(八幡市民会館、写真⑤)。
八幡市民会館の外壁も塩焼きタイルで施されてあり、旧八幡市の戦後復興の象徴的建物であった。そのこともあって、2018年に建物の保存が決まり、八幡市民会館を埋蔵文化財センターとして改修する計画が進められているのである。

6.今後の展望
宇部市渡辺翁記念会館と八幡市民会館は、どちらも市営の施設であり大ホールのある会館である。建物の用途は類似しており、どちらも村野藤吾に所縁の深い地に存在し、市民のシンボル的な建物である。しかし、八幡市民会館は改修費用などの問題で用途変換という形で保存することになった。公共施設の運営や保存は、費用対効果や法律上の問題などで使用環境が変わることがある。今後の課題は、渡辺翁記念会館を現役の多目的ホールとして保存するために、市民の意識向上につとめたい。そのことが、多くの貴重な建築作品を評価し保存することに寄与できると考えるのである。

7.まとめ
身近な存在であった宇部市渡辺翁記念会館を調べてみて、改めて文化資産として評価できる建物であることがわかった。
なぜ現役で存在しているのか、その理由の一つに、「宇部モンロー主義」という造語があるが(註9)、渡辺祐策と宇部村民が一致団結して炭鉱事業を展開し発展を成し遂げた自負と誇りがある。その象徴的な建物が宇部市渡辺翁記念会館である。
貴重な建築作品を可能な限り保存し、都市の特徴を主張し魅力ある景観デザインをしていきたいものである。

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  • 2 八幡市民会館写真資料(写真①~⑤、筆者撮影)
  • 4 渡辺翁記念会館全景写真(2020年2月27日、筆者撮影)
  • 5 渡辺翁記念会館側面写真(2020年2月27日、筆者撮影)

参考文献

参考文献〉
長谷川堯著、『村野藤吾の建築 昭和・戦前』、鹿島出版会、2011年
村野藤吾著、『村野藤吾著作集』、鹿島出版会、2008年
村野藤吾研究会編、『村野藤吾建築案内』、TOTO出版、2009年
大村理恵子、宮内真理子、下田泰也、臺真理子編集、『村野藤吾 建築とインテリア ひとをつくる空間の美学』、株式会社アーキメディア、2008年
堀雅昭著、『村野藤吾と俵田明 革新の建築家と実業家』、弦書房、2021年
宇部市文化創造財団制作、『宇部市渡辺翁記念会館』
サイト名、『旧八幡市民会館の活用』、
https://www/city/kitakyushu/lg/jp/files/000850447.pdf
アクセス日、2022年1月11日
越後島研一著、『ル・コルビュジエを見る』、中央公論社、2007年
清水真一、蓑田ひろ子、三船康道、大和智編集、『歴史ある建物の活かし方 全国各地119の活用事例ガイド』、学芸出版社、1999年
内田鉄平著、『市制百年 宇部市の誕生』、宇部日報社、2020年

註1.村野藤吾(むらの とうご)
 1891年、佐賀県唐津市で出生。幼少時代を福岡県旧八幡市(現在の北九州市)で育つ。
 1918年、早稲田大学理工学部建築学科卒業後、渡辺節建築事務所へ入所。
 1929年、村野建築事務所を開設し、1930年には建築研究目的でアメリカ・ヨーロッパに
     行く。
 1937年、渡辺翁記念会館竣工。
 1955年、八幡図書館竣工。
 1958年、八幡市民会館竣工。
 1979年、宇部市文化会館竣工。
 1983年、宇部興産ビル(宇部全日空ホテル)竣工。
 1984年、93歳で死去。

註2.宇部市
 明治維中期より石炭採掘で急速に発展した宇部村は、1921年11月1日市制施行を行い、村からいきなり市になった。

註3.渡辺祐策(わたなべ すけさく)
 1864年、山口県厚狭郡宇部村で国吉恭輔の第二子として生まれる。
 1878年、父親が家督相続していた渡辺家の家督を相続する。
 1897年、沖ノ山炭鉱を創業する。
 1926年、新沖ノ山炭鉱を開鉱する。
 1934年、71歳で死去。
註4.俵田 明(たわらだ あきら)
 1884年、山口県厚狭郡宇部村で俵田勘兵衛の子として生まれる。
 1915年、渡辺祐策の要請で沖ノ山炭鉱に就職する。
 1934年、渡辺祐策の死去に伴い、「渡辺翁記念事業委員会」を設立する。
 1942年、宇部興産初代社長に就任する。
 1958年、74歳で死去。

註5.「渡辺翁記念事業委員会」の関連企業
渡辺翁記念会館建設にあたり、宇部窒素工業、宇部セメント製造、宇部鉄工所、宇部電気鉄道、新沖ノ山炭鉱、宇部紡績の6社が建設費用を出資した。

註6.6本の列柱
 渡辺翁記念会館建設に関わった関連企業を表すものであり、列柱の発想は「ドイツ労働組合同盟学校」の大講堂の列柱の影響を受けていると考えられる。(『村野藤吾の建築 昭和・戦前』、長谷川堯著より)

註7. 屋根
長谷川堯氏は、逆スラブの発想について、『村野藤吾の建築 昭和・戦前』(P443)で「イメージ・ソースの一つとして、誰でもすぐに思いつくのは1931年に行われた「ソヴィエト・パレス」をめぐる国際的な設計競技で、ル・コルビュジエが応募した計画案の構造である。ある意味で《ロシア構成主義》に対するル・コルビュジエらしいオマージュとも受け取れるそのデザインでは、構造的躯体とその他の建築的諸要素の徹底した〈文節と統合〉の手法が採用されており、」とあり、村野藤吾も影響を受けたものと考えられる。

註8.埋蔵文化財センターを旧八幡市民会館に移転する背景
 「北九州市埋蔵文化財センター基本計画(案) 旧八幡市民会館の活用」第1章計画の策定の1 計画策定の背景(2)の埋蔵文化財センターを旧八幡市民会館に移転する背景に、「旧八幡市民会館は、戦後復興事業と八幡市制40周年を記念して昭和33(1958)年に、本市にゆかりのある著名な建築家である、村野藤吾氏の設計で建築した建物です。施設の老朽化が進んだ市民会館を運営するには、多額の改修費用がかかることから、公共施設マネジメントの総量抑制の考え方などを踏まえ、平成28(2016)年3月で市民会館としての機能を廃ししました。
 機能の廃止後、市民や企業、大学、まちづくり団体等によって構成される「八幡市民会館リボーン委員会」で施設の利活用案について検討が行われましたが、具体的な活用方策の実現には至りませんでした。
 その後、北九州市は旧八幡市民会館を保存して欲しいとの市民の意見を踏まえ、既存施設の移転先としての利用できないか検討を重ねてきました。
 その結果、老朽化が進み早急に改修が必要である埋蔵文化財センターおよび収蔵庫として、旧八幡市民会館をコンバージョン(用途変換)して活用する方針を決定し、平成30(2018)年8月に発表しました。」とある。
(旧八幡市民会館の活用 https://www/city/kitakyushu/lg/jp/files/000850447.pdf)

註9.宇部モンロー主義
 内田鉄平著『市制百年 宇部市の誕生』(P76)に宇部モンロー主義について次のように述べている。
 「「宇部モンロー主義」という言葉がどのような歴史的経過を辿り誕生したのか。その背家には村民の一致団結で石炭採掘を発展させた要因が大きく、特に経営者に他村民を排除する、このような方法は村民の同意が前提で、そのため村内の「世論形成」をいかにして醸成させたのか。中略・・大正十年(1921)年、宇部村は石炭産業で栄え、各地より集住した抗夫で急激な人口増加が起こる。宇部村から宇部市に飛躍していく背景に「宇部モンロー主義」が醸成され浸透する経緯を見ると、独特な組織である宇部共同義会がどのようにして村民をまとめ、世論形成を行うのか考える必要がある。」とある。
 渡辺祐策によって起業された沖ノ山炭鉱と関連企業が宇部興産になり、今なお宇部市の中心的存在である。市制百年を迎えた宇部市において、辺祐策を顕彰する意識は現在も健在である。しかし、「宇部モンロー主義」という言葉や宇部市発展の経緯を知らない世代が多くなったのも事実である。

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