ワルシャワの街並み~不屈の熱意~

奥野 亜衣

1、はじめに
ワルシャワの歴史地区、旧市街は、一九八〇年にユネスコの世界遺産に登録された。この旧市街は一般的なヨーロッパのそれとは異なり、中世に建築された街並みがそのまま残っているのではなく第二次世界大戦後に再建されたものだ。ワルシャワの街は第二次世界大戦後期に起こったワルシャワ蜂起後、その八〇パーセント以上が壊滅状態になり、戦後に市民の手によって再建された。

2、ワルシャワ蜂起と街の破壊
ワルシャワ市内にあるワルシャワ蜂起博物館(Museum Powstania Warszawskiego)にて、どのような経緯で蜂起に至り、街が破壊されたのかを調べた。

一九四一年、ポーランド全土はナチス・ドイツの支配下になった。当時のポーランド政府はイギリスへ亡命し、ポーランド国内にはドイツに抵抗するポーランド国内軍(以下国内軍)と呼ばれる武装組織が設立された。ドイツはソ連にも侵攻を開始するが戦況は徐々に悪化し、一九四四年には一部のソ連赤軍部隊はワルシャワの目前まで迫った。ワルシャワのドイツからの解放が秒読みとなった時、ソ連はラジオ放送で「行動の時、来たれり」「対独闘争に合流せよ」とワルシャワの人々に呼びかけ、蜂起を促した。
そして、同年八月一日、国内軍は一斉蜂起を決行し、ドイツ軍に襲撃を開始した。軍だけでなく、自分たちの街を取り戻すために民間人も一丸となって戦い、連合国軍の一員のイギリスは支援として物資空中投下を開始した。しかし武装蜂起を煽ったソ連赤軍はドイツの反撃で進軍ができないとし、戦いには参加せずただ傍観していた。進撃停止の情報すら国内軍に伝えられることはなかった。
蜂起の最初は国内軍が一定の成功を収めていたが、イギリス・アメリカの物資空中投下量の不足や、約束されていたソ連赤軍の支援が受けられなかったため、国内軍はじわじわと後退せざるを得なくなっていった。ドイツの航空機による急降下爆撃や大規模な砲兵部隊、戦車の投入により、それに対抗できる武器を十分に持たない国内軍はなすすべがなく、ワルシャワの街は徹底的に破壊されていった。国内軍は地下水道にこもって抵抗を続けたが制圧地域は徐々に狭まり、空中投下された物資は多くがドイツ軍に回収されてしまう状況だった。
蜂起開始から六三日目、十月二日に国内軍は武装解除して降伏した。ドイツはこれ以上ワルシャワの街に手をつけないと一度は約束したが、ハインリヒ・ヒムラーの命令によって破壊しつくした。翌年一月、廃墟と化したワルシャワへソ連赤軍が突入し、占領した。微弱ながら抵抗を続けていた国内軍も掃討され、生き残った者たちは逮捕された。この蜂起での戦死・処刑で、国内軍と一般市民合わせて約二二万人が命を落とした。

3、戦後の街の再生とその評価
1)戦前や戦時中、ワルシャワ工科大学建築学科の教授はワルシャワの街が破壊されることを予見し、学生たちとともに市街の隅々に至るまで、入念なスケッチを残していた。そして、三万五千枚にものぼるそれらのスケッチを、戦争が終わるまでナチスから命がけで隠し通した。破壊されていく街の前に立ちはだかっても火炎放射器や銃の前では守ることはできないが、彼らは身の危険を顧みずに自分たちにできることをやり通し、復興の大きな手がかりを作ったと言える。
2)戦前百万人以上だったワルシャワの人口は戦後には数千人にまで減り、「北のパリ」と呼ばれるほど栄えていた街は廃墟と化した。戦争で国の経済も崩壊した。それでも人々はかつての美しいワルシャワを取り戻す希望を捨てず、戦後すぐの一九四五年に復旧活動が始められた。特定の構築物だけを再建するのではなく、街ごと再建するという規模は前代未聞であったが、人々は残されたスケッチや歴史的絵画などを手がかりに、跡形も無く瓦礫の山となってしまった建物たちを「レンガの割れ目一つに至るまで」忠実に再現した。再建作業には建築家や修復の専門家だけでなく、ワルシャワの多くの一般市民が自主的に参加した。その結果、一九五四年にはワルシャワの旧市街の大部分は破壊前の姿を取り戻すことができた。
3)ワルシャワの再建はワルシャワ市民だけでなく、国の総力でなされたという点も忘れてはならない。ポーランドの首都であり、国のシンボルであるワルシャワの復興は他の地域に住む人々にとっても他人事ではなかった。再利用できるものはなるべくオリジナルのものが使われ、がれきの山からレンガを拾い集めて再建に使用したが、人手、資源ともにポーランド中から支援が集まったおかげで、旧市街全体の復興が可能となった。
4)一度は完膚なきまでに破壊された街の景観をワルシャワ市民、ポーランド国民が自らの手で取り戻した。その一人一人の名前や働きが語られることはないが、悲しみを乗り越え「レンガの割れ目一つに至るまで」元通りにしようとする「不屈の熱意」こそが、一番の評価に値する点であり、その熱意が「自分たちが愛した昔のままの街を復元する」という復興のデザインを生み出した。

4、さまざまなデザインの復興―復元・創造
第二次世界大戦で原爆投下により破壊され、焼野原となってしまった広島は、元の姿を取り戻す「復元」を目指したワルシャワとは対照的に、当時最先端の建築様式を用いて新しい街づくりをする「創造」の復興を果たした。
その中心的な役目を担ったのが、建築家丹下健三だ。終戦後、広島市が主催した広島平和記念公園のコンペで丹下健三のチームの設計案が一位入選した。丹下のチームは、広島市を東西に貫く平和大通りと直交する南北軸線上に慰霊碑と原爆ドームを配した。他のチームは公園敷地内のみが対象だったのに対し、丹下のチームの計画案は都市を巻き込んだもので、それがコンペで高く評価された。丹下は、戦争の記憶を大切に残しながらも日本の新しい都市建設を開拓しようとした。例えば、被爆したのちもなお形を保っていた原爆ドームは取り壊さずに残し、世界平和を願うモニュメントとして公園デザインの一部に取り入れた。また、国指定重要文化財の広島平和記念資料館は新しい建築の一例で、「モダニズム」と呼ばれる装飾のないシンプルなスタイルで設計された。一階全体をピロティとして吹きさらしの解放空間にし、建物全体が公園のゲートとなるようにしたのは、当時の建築様式の最先端だった。丹下は新しいものだけに目を向けて過去にあったことをおざなりにしたのではなく、歴史のその瞬間にあったものをそのまま残し、新しく創る街に上手く組み込むことで、過去と未来を繋げていると考察できる。
失われた街の風景、すなわち過去を取り戻したワルシャワと、過去の遺産に敬意を払いつつ未来に目を向け、それまでになかった新しい空間づくりをした広島。どちらも「復興」でありながら目指したベクトルは異なる、興味深い事例である。

5、今後の展望について
旧市街は復興で戦前の街並みを取り戻したが、その後ワルシャワ市内に建設されていった公共のスペース、広場、公園、モニュメントなどは近代的な都市を目指し、新しいスタイルの建築様式も採用された。現在のワルシャワには、昔の面影そのままの旧市街エリアと大都市・近代都市としての新しい街並みのエリアがバランスよく存在している。
ワルシャワ駅の前にそびえる文化科学宮殿は現代建築の有名な例で、ワルシャワの観光名所やシンボルとして描かれることも多い。しかしこの宮殿はワルシャワ蜂起で焼け残ったいくつかの建物を取り壊し、ソ連が建設したもので、多くのポーランド人はコミュニズムを想起させられると語る。歴史の中で長年コミュニズム、ファシズムの支配と戦ってきたポーランド人にとって、そのような建物が世界の多くの人にワルシャワのシンボルと思われているのは本意ではない。
ワルシャワでは今もなお次々と高層ビルや新しいモニュメントが建設されている。中でもヴァルソ・タワーはEUで一番高い建物で、二〇二一年二月二一日に文化科学宮殿の約二倍の高さである三一〇メートルに到達した。まだ工事は続いているが、このタワーの内部には商業・サービス施設とオフィス、そして展望テラスが設けられる予定だ。ヴァルソ・タワーが文化科学宮殿に代わって新しいワルシャワのシンボルとして機能する日はそう遠くないだろう。

6、おわりに
ワルシャワの旧市街が世界遺産として高い評価を受けたのは、街自体の歴史的価値というよりも「破壊された街の復興への、市民の不屈の熱意」である。このレポートでその背景を考察してきたが、旧市街の街並みや文化科学宮殿だけでなく、ポーランドにある文化や芸術は、いつもその歴史と深く関わっている。文化を表面的に鑑賞し、美しいと賞賛するだけでなく、それがどのような経緯で作られてきたのかを知ることで、その文化に込められた人々の思いを感じることができる。また、広島の事例との比較から分かるように、一言で「復興」と言っても人々がそれによって目指す形はさまざまである。

  • 75259_1 現在のワルシャワの旧市街 2020年7月16日筆者撮影
  • 75259_6 ワルシャワの現代的な都市風景と文化科学宮殿 2020年7月16日筆者撮影

参考文献

ワルシャワ蜂起博物館 http://www.1994.pl/
『VADEMECUM MATURA 2009 historia』著者 Renata Antosik, Edyta Pustuła, Cezary Tulin 出版社OPERON
『私たちのデザイン3 空間に込められた意志をたどる』著者 川添善行 編集 早川克美 京都造形芸術大学 東北芸術工科大学 出版局 藝術学舎
公益社団法人日本都市計画学会 都市計画論文集vol.47 no.3 2012年10月 87 ワルシャワ歴史地区の復原とその継承に関する研究ー文化財としての価値をめぐる戦後の議論に注目してー 鈴木亮平、西村幸夫、窪田亜矢
広島市ホームパージ「平和記念施設保存・整備方針 第3 平和記念施設の現状と課題 」https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/48/9630.html
Varso Place Warszawa https://varso.com/biura/varso-tower

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