愛知県春日井市 「内々神社」と「内々神社庭園」、さらに隣接する「内津妙見寺」における「神仏習合」についての考察

佐田 春男

はじめに

愛知県春日井市の東部に位置し、さほど規模の大きな神社ではないが、歴史が古く、素晴らしい日本庭園があり、秋には紅葉が綺麗で知られる内々神社(うつつじんじゃ)と内々神社庭園があり、その神社と隣接して内津妙見寺(うつつみょうけんじ)が建立している。
そこで、この神社には歴史上の2つの疑問がある、その1つ目は、神社の敷地内に何故、仏教を代表する禅宗の回遊式林泉型庭園が存在するのか。さらに2つ目は、何故、神社と寺院が隣同士並んで建立されているのか。これらの事を踏まえながら、この神社と寺院の宗教上の関係、および歴史的背景について考察する。

1【内々神社と内々神社庭園】

内々神社(註1)は、この神社と密接な関係にある内津妙見寺(註3)が隣接して建立されていて、神社敷地内には室町時代のものと思われる禅宗を象徴するような回遊式林泉型庭園がある(註2)。さらに「延喜式神名帳」⦅927年(延長5年)にまとめられた全国の神社の一覧である。⦆にも記載されている由緒ある神社である。日本武尊の伝説と深い関係があり、主祭神は尾張氏の祖、建稲種命(たけいなだのみこと)であり、これに日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀姫命(みやずひめのみこと)を配している。その建稲種命が駿河の海で水死され、それを聞いた日本武尊は「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き、その霊を祭られたのが内々神社の始めとされる。
この神社は昔から武将の尊崇が厚く、そして、権現造りの社殿は江戸末期・信州諏訪の名工立川一族(註6)により造られ、回遊式林泉型の庭園は夢窓国師⦅1275年(建治元年)から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧⦆作といわれている。

2【なぜ内々神社に禅宗の回遊式林泉型日本庭園が存在するのか】

この神社の裏には愛知県指定の名勝の庭園がある。伝えを見るとこの庭園は夢窓国師作となっていて、回遊式林泉型の庭園で、石の配置や自然の利用の仕方など、夢窓国師の影響が見られる名園である(註11)。
しかし、ここは神社であり、禅宗のお寺でもなく、隣に位置する妙見寺は天台宗である。そこで、この妙見寺の流れを紐解くと、のちに臨済宗の開祖となる栄西の天台宗時代の流れをくむ「葉上流」の寺である。さらに、ほど近くには岐阜県多治見市にある臨済宗南禅寺派の寺院「虎渓山永保寺」がある。この寺院は1313年(正和2年)に夢窓国師が開創した寺院であり、そこには国の名勝庭園である回遊式池泉型庭園が存在する。年代は多少異なるが、この寺院の流れを見れば内々神社庭園も夢想の影響があったとしても不思議ではない。しかしながら、日本古来の神社に、何故、禅宗を代表する回遊式庭園が存在するのか、寺院と寺社の関係と共に、歴史の流れを見る事にする。

3【内々神社と内々神社奥の院、および、内津妙見寺との成立ちとその関係】

内々神社を奥に進み、岩山を登った洞窟の中に「奥の院」(巌屋神社)がある。それは、日本武尊が建稲積命の霊を最初に祀ったとされ、本来はこの奥の院が神社の始めとされ(註4)、後に現在の位置に神社が建立されている。また、神社の隣に位置する内津妙見寺はこの辺りの武士の信仰を集めていたが、戦国時代に一度荒廃した後に江戸時代に再建され、本堂の彫刻は隣の神社と同じく立川一門によるものである(註6)。
この妙見寺は室町時代初期に天台宗の尾張地方の中本寺格「密蔵院」(春日井市)開山の慈妙上人によって開創され(註8)、内々神社の別当を勤め、妙見信仰の中心となり、神宮寺となっていた。いわゆる、以前は神社と寺院全体が妙見宮で、そこに庭園も作られたのであろう思われる。故に、当時の主な宗教形態で、内津一帯が神道と仏教が一体となった神仏習合の姿に変わっていった。

4【本地垂迹説(神仏習合)と廃仏毀釈(神仏分離)による影響、そして、この寺社の持つ特筆すべき点】

その後、明治維新での神仏分離令以降、各地の神社と寺院はお互いの敷地内に間借りしたり、影響を受けているものは多く見られるが、この内津では神社と寺院が、お互いを尊重するかのように、現在は綺麗に左右に並んで配置されている。尚且つ、神社の敷地内に禅宗を代表する回遊式庭園が有るのは非常に珍しく、日本の宗教の流れを象徴しているようでもある。また、その歴史の過程を見る上でも貴重な存在でもある。
内々神社は江戸時代までは「妙見宮」といわれ、その来歴が「妙見宮由緒書」として密蔵院に伝えられている。そこで、由緒書では「内々神社ではなく、なぜ妙見宮なのか」である。これは、当時日本では明治の廃仏毀釈(神仏分離)までは神仏習合は当たり前のことで、神社と寺院は一体であった。神社には神が、寺院には仏が祀られ、神は仏の仮の姿であるとする本地垂迹説により、仏が神の上位にいた。そして、祀られていたのは妙見菩薩であった。祭神は忘却され、宮司・禰宣などは置かず、妙見寺の僧侶が管理をしていたとされる。まさに、この時期では神社ではなく寺院の姿であったといえる。
明治維新に入り、明治元年の廃仏毀釈により寺社は分かれて、内々神社は神社として復権した形となり、本尊妙見大菩薩は寺社内の護摩堂に移った。この護摩堂が現在の妙見寺であり、まさに神仏分離が行われて神社と寺院が並ぶような形になり、庭園とともにそれぞれが今の配置になって保存され現在に至る。

5【国内の歴史的な事例】

日本では古くから仏を「本地」として、神を「垂迹」とする仏教を優先に考える本地垂迹説の思想がある。それは、平安時代から各地の神社の本地仏が確定し、本地垂迹説が進められた。そこで、熊野古道で知られる熊野信仰が最も盛んに行われたのも平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてである。これは本地垂迹説に基づく神仏習合信仰と浄土信仰が一体化したものである。
また、日本各地にある八幡神社は清和源氏、桓武平氏などが全国の武家から武神の神として崇敬を集め、八幡大菩薩と称され神社内に神宮寺が作られた。これらは神仏習合で代表される神社である。
日本の神仏習合は中国仏教で説かれた神仏習合思想の影響を受けたものであり、以後、日本独自の本地垂迹説へと発展した文化・思想である(註9)。このように、神仏習合は当初こそ仏教が前面で進められたが、流れを見ると神が完全に仏の支配に属したわけではなく、長い仏との接触の中で、神は次第に独自性を持つようになり、明治維新の廃仏毀釈という仏教には不遇の時代も経て、現代の日本という場にかなった日本独自の宗教の形へと変貌した(註10)。

おわりに
【内々神社と内々神社庭園、そして内津妙見寺、その歴史的文化資産の今後の展望について】

この内々神社は日本の宗教の歴史を、まさにそのまま写し出しているようである。古い神社の歴史があり、江戸時代以前の長い神仏習合の時代から明治維新での廃仏毀釈の影響を経て、現在では、神社と寺院、さらには庭園がそれぞれ独自の姿を保持している。
現代の多くの日本人は神社と寺院とをあまり区別することなく適時参拝、信仰している。この現在の日本の神仏の関係は新たな神仏習合の形と言っても良いのかも知れない。それは、およそ1000年以上の年月を経て変化したものであって、この内々神社も今後に残すべき大切な歴史文化資産のひとつである。
そこで現代のこれらの文化財の保護に目を向けたところ、先の2018年春の国会で「文化財保護法等の改正案」が可決された(註12)。また、春日井市も民間団体の支援を得ながら積極的に取り組んでいる。しかしながら、この先を見ると、他の都市でも同様ではあるが、観光への貢献が優先され、財政や人的な問題はなかなか現場に反映される事は少なく、これらの文化財の保護は次世代を考えた場合、標榜だけに留まらず、この様な大切な歴史資産が、行政の力と共に各方面の力も合わせ、文化財として、さらには住民の大切な施設としても保護されなければならない。

  • %e4%bd%90%e7%94%b01 「内々神社」
     愛知県春日井市の東部に位置し、素晴らしい日本庭園があり、秋には紅葉が綺麗で知られる神社である。「延喜式人命帳」(927年)にその名が記載される古い神社(式内社)で、創建は日本武尊と深い関係を持ち、「妙見宮由緒書」(吉見幸和著)(1702年)によると、景行天皇41年尾張連祖、建稲積命を祀ったことに始まる。建稲積命は熱田神宮にも祀られているが、熱田神宮はこの内々神社よりおよそ8~9年遅い創建となっている。(註1)(2018年、10月6日、筆者撮影)
  • %e4%bd%90%e7%94%b02 「内々神社庭園」
      この裏に愛知県指定の名勝の庭園がある。伝えを見ると夢窓国師作となっているこの庭園。しかし、ここは禅宗のお寺でもなく、隣に位置する妙見寺は天台宗である。しかしながら、回遊式林泉型の庭園で、石の配置や林泉型特有の裏山を見事に取り組んでいる。これらの自然の利用の仕方など、夢窓国師の影響が見られる名園であろう。
     「夢窓国師」⦅1275年(建治元年)から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧。 世界遺産に登録されている京都の西芳寺「苔寺」および天龍寺のほか瑞泉寺などの庭園の設計でも知られている。1283年頃に甲斐国〔山梨県〕甲斐市河荘内の天台宗寺院平塩〔現在は廃寺〕に入門して空阿に師事し、真言宗や天台宗などを学んでいた。そこで臨済宗の開祖となる栄西の天台宗時代の流れをくむ「葉上流」の寺である内津妙見寺と縁があった可能性もある。⦆(註2)(2018年、10月6日、筆者撮影)
  • %e4%bd%90%e7%94%b03 「内津妙見寺」
      内々神社と密接な関係にある内津妙見寺(現在は内々神社と隣接している。)は室町時代初期に天台宗密蔵院(愛知県春日井市)開山慈妙上人によって開創された寺である。のちに臨済宗の開祖となる栄西の天台宗時代の流れをくむ「葉上流」の寺である。さらに、内々神社の別当を勤め、妙見信仰の中心となり、神宮寺となっていた。
     この本尊妙見大菩薩は、人々の運勢を守護する霊尊として、関東秩父、九州八代とも並び、「日本三妙見の一つ」として、古くから多くの人々の信仰を集めてきた。その御神体が北斗七星であることから、勝利をもたらす星として、多くの戦国大名や剣豪にも信仰されてきた。(註3)(2018年、10月6日、筆者撮影)
  • %e4%bd%90%e7%94%b04 「内々神社、奥の院」
     現在は巌屋神社とも呼ばれ、昔は妙見神社と呼ばれていた。当初はこの場所が最初で、「建稲種命」はこの妙見神社(奥の院)に祀られていたとされている。
     内々神社の左側を川沿いに1キロほど歩くと奥の院の入り口があり、そこから小高い岩山を登り、頂上近くにある鉄の階段を登った上に祠が現れる。最初にこの場所に神社を作った時はさぞかし大変な事だろうと想像される。しかし、祠のある上からの眺めは素晴らしいものがある。(註4)(2018年、10月9日、筆者撮影)
  • %e4%bd%90%e7%94%b05 「内々神社と内津妙見寺の正面入り口」
     「内々神社」と「内津妙見寺」の正面の入り口は並んだ作りになっていて、道路面から見ても内々神社と妙見寺は寄り添うように並んでいる。。なお、内々神社庭園ののぼりも立てられているのが見える。さらに敷地内に入るとお互いを自由に往来が出来る。そして、内々神社庭園は内々神社のすぐ奥に位置したところにある。(註5)「配置は配置図参照(註7)」(2018年、10月6日、筆者撮影)
  • %e4%bd%90%e7%94%b06 「 内々神社の立川一族による彫刻」
      権現造りの社殿は、江戸末期の1803年(享和三年)、信州諏訪の名工「立川和四郎と立川一族」により寺社が改造され、これが現在の寺社となっている。本堂には、全国的にも珍しい「飛龍(翼のある竜)」が彫られている。また、廃仏毀釈が行われる以前の作成と思われ、神社と妙見寺とも同じ彫り物で飾られている。(註6)(2018年、10月6日、筆者撮影)
  • %e4%bd%90%e7%94%b07 「内々神社と内々神社庭園、および内津妙見寺の配置図」
      内々神社境内にある案内図であるが、神社と妙見寺、さらには庭園と奥にある奥の院の位置が判り易く記載されている。そして、ここの宿場では俳句が盛んに行われていたようで、松尾芭蕉など由来のある6名の句碑が作られている。『松尾芭蕉の句である「すみれ草」にちなんで「すみれ塚」と名付けられている。また、神社では現在も春日井市役所と合同での主催で、一般の参拝者からも広く俳句を募集する活動を行っている。』(註7)(2018年、10月6日、筆者撮影)
  • %e4%bd%90%e7%94%b08 「密蔵院」
    (愛知県春日井市にある天台宗の寺院。)
    (画像は国指定重要文化財である「多宝塔」を掲載)
    「代表的な文化財」
    ○木造薬師如来像〔平安時代後期〕(国指定重要文化財)
    ○多宝塔〔室町時代前半〕(国指定重要文化財)
     1328年(嘉暦3年)、美濃御嵩より訪れた慈妙により開創された。尾張の天台仏教の中心地として栄えた小牧市の正福寺の衰退を受け、以降尾張地方に於ける天台宗の中心地(中本寺格)となる。
     1441年(永享末年)前後に最盛期を迎え、末寺は尾張・美農を中心に11ヶ国、700ヶ所、塔頭は36坊にものぼり、七堂伽藍も備わって「葉上流」の伝法灌頂の道場として重きをなした。当時の学徒も3000人を超えたとされる。しかしながら、現在は国の重要文化財など多くの文化財を抱えながらも、明治維新以降の廃仏毀釈により急激に衰退してきている状況は否めない。(註8)(2018年、10月9日、筆者撮影)

参考文献

(吉田一彦、『日本の神仏習合をどう理解するかー歴史学の視角からー』、nagoya-cu.ac.jp、名古屋市立大学大学院人間文化研究科、2018年)(註9)

(島田博巳著、『神も仏も大好きな日本人』、筑摩書房、2011年)(註10)

(梅原猛、『日本仏教をゆく』、朝日新聞社、2004年)

(岡田憲久、『内々神社庭園現況調査報告書』、春日井市教育委員会、2009年)(註11)

(杉本宏、『文化財保護法改正における展望と課題について』、文化遺産の世界 HOME 本誌特集 V O L.33、「文化遺産の世界」編集部、2018年)(註12)

(安藤直太朗、『内々神社庭園』、「愛知県春日井市、『郷土誌かすがい』」、第3号、1979年)

(重松明久、『中世ー密蔵院の開創と慈妙』、「愛知県春日井市、『郷土誌かすがい』」、第10号、1981年)

(重松明久、『中世ー葉上流の伝流と密蔵院』、「愛知県春日井市、『郷土誌かすがい』」、第11号、1981年)

(池山一切円、『密蔵院について』、「愛知県春日井市、『郷土誌かすがい』」、第13号、1981年)

(伊藤浩、『内々神社の社殿』、「愛知県春日井市、『郷土誌かすがい』」、第29号、1986年)

(高橋俊明『「妙見宮由緒書」再考』、「愛知県春日井市、『郷土誌かすがい』」、第70号、2011年)

(高橋敏明、『妙見菩薩の庭〜内々庭園4つの謎〜』、「愛知県春日井市、『郷土誌かすがい』」、第77号、2018年)

(杉浦誠、『内々神社の装飾彫刻』、「愛知県春日井市、『郷土誌かすがい』」、第77号、2018年)

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