富田林「寺内町」の文化資産評価報告

猿橋 正朗

1. はじめに
私は、大阪府の南東部にある富田林市に住んでいる。転勤の間、数年間いなかった事はあるが、基本的には生まれも育ちも富田林市である。その富田林市には、「寺内町」という歴史的町並み遺産が、時代劇セットさながらに昔の姿そのままで残されている。しかも、そこにまだ人が生活し、ユニークな地域観光資源として位置付けられて残っている。また、行政から支援を受けながら商事業者、住民、町並み保存団体等がネットワークを組んで旧中心市街地の活性化と住環境整備に取り組んでいる。本稿ではその寺内町を取り上げ、そのような「歴史的町並み遺産、地域観光資源」という既成の価値観に囚われず、中世から現在まで伝統的に保存されているという観点で、文化資産としての評価を試みることにより、寺内町の新たな価値の発見を目指すものとする。そして文化的資産として積極的に評価したい。また、似たような事例として、中世に建築された都市スウェーデン・ストックホルムの旧市街ガムラスタン (Gamla stan) と比較し、寺内町の歴史性、空間性、文化性の観点から評価していきたい。

2.寺内町の基本データ
寺内町は、富田林市の中心部にあり、[註1]東西に7本、南北に6本の街路で区画された東西400メートル、南北350メートル、13.3ヘクタールの広さがある町である。[図1]楕円形に広がる周辺より一段高い台地上に、近世の町割りを残している。その周辺の低地との境目は幅の広い土居が設けられていて斜面の1部に竹藪が残っている。南側にある石川と面するところが、境界としていることが、地図からも読み取れる。土居のなかにある整然とした街路の両側には、河内風の白壁の土蔵や、格子造りの民家が連なっており、歴史的な街並みをつくっている。この近世の町割りの区画は六筋七町とよばれていて、興正寺御殿を中心に、宅地、畠などが計画的に配置されている。その六筋とは南北方向の通りのことであり、東筋、亀ヶ坂筋、城之門筋、富筋、市場筋、西筋の6つの通りをいう、次に七町とは、北から順に壱里山町、富山町、北会所町、南会所町、堺町、御坊町、林町となっている。現在も多くの古民家が残り、1997年10月に大阪府で唯一、国の「重要伝統的建造物群保存地域」として選出された。1986年8月には、「近世の自治都市」として旧建設省と「道の日」実行委員会により寺内町の中心を南北に通る城門筋(市道富田林6号線)が「日本の道100選」にも選ばれている町である。

3.寺内町の歴史
寺内町は、[註2]兵火と一揆が絶え間なかった16世紀半ばの戦国時代に、南河内の石川の畔に極楽浄土の町を夢見て作られた。永禄初年(1558年~1561年)本願寺一家衆の京都興正寺第14世の証秀上人が、南河内一帯を支配していた守護代の美作守(みまさのかみ)安見直政から富田の「荒芝地」を買収し興正寺の御堂を建築し、近隣4か村の有力百姓が中心となり開発が行われた。町全体を仏法の及ぶ空間、寺院の境内とみなして、門徒衆や信者らが生活を共にする「宗教自治都市」寺内町が開発された。世にいう石山合戦(1570年)の頃、富田林も同じ一向宗として、予断を許さない状況であったが、軍事的には本願寺に味方せず、織田信長に妥協し「寺内別条なき」という安堵の保証をさせることに成功した。寺内町は無防備な平和戦略をとることで戦禍を免れ寺院の威光を利用しながら都市特権を広げてきた。また、自主防衛の為、外周には土塁が巡らされ、堀割もあり町の出入り口4か所にそれぞれ木戸門と呼ばれる門が昭和の初めまであった。

4.スウェーデン、ガムラスタンとの比較
私は、10数年来スウェーデンにある会社と仕事をしている。その関係でストックホルムには年に数回訪れる。訪問の中で、ガムラスタンは、寺内町との共通性を感じることがあり、よく似た事例として取り上げ、スウェーデンの友人にインタビューする事を含めて、比較することにより寺内町の文化資産的な評価を浮き彫りにしていきたい。
ストックホルム市ガムラスタン (Gamla stan) 地区は、33.2ヘクタールあり、街路面建物外観438面ある。そのガムラスタンは、『古い街』を意味するスウェーデン・ストックホルムの旧市街だ。[図2写真] ガムラスタンはスターズホルメン島を指し徒歩で1時間もあれば一周できる広さの島である。街の発祥は13世紀で、中世の小路、玉石敷きの通り、古風な北ゲルマン建築が保存されていて、旧市街建設に強い影響を与えている。19世紀半ばまで、ガムラスタンは単にsjälva staden (街そのもの)と称され、周辺地域はほとんどが田舎の特徴を持つとしてmalmarna(隆起、うねという意味)と称されていた。ガムラスタンの名は、20世紀初頭から日常的に使用されてきた。

5-1.歴史性の評価
そのガムラスタンと寺内町の歴史性を比較してみると、ガムラスタンの歴史は13世紀と古い。スウェーデン人の友人に聞くと16世紀の寺内町は「とてもフレッシュ」だという感想で、寺内町は単純に歴史的に新しいという事になる。しかしながら、ガムラスタンの始まりは、13世紀に築かれたとあるが、網の目のように張り巡らされた魅力ある細い路地や石畳の小路が形になったのは、17世紀から18世紀にかけての事であり、そういう意味では歴史の深さにさほど差はない。寺内町は宗教都市として安全を守るために開発された歴史があるが、ガムラスタンは、どちらかというと外洋に出ていくための一部、軍事基地的要素で発展してきた経緯がある。そういう意味では歴史的に考えると織田の軍勢から地域を守るための歴史的事実と、植民地や市場の開拓のための基地としての歴史の違いがあり、寺内町の方が平和的な歴史性がある。

5-2.空間性の評価
寺内町には「あてまげの道」と呼ばれる道がある。街路を直行させず、半間ほどずらし、わざと見通しを妨げる道がである。[図3写真]外部からの侵入者をかく乱し、町を守る工夫がされている。当時は織田信長の軍勢が、いつ攻めてくるかわからない中での緊迫した設計であったのであろう、そういう意味では、道が半間ずれながら、河内風の白壁の土蔵や、格子造りの民家群が連続性を今も保っている空間は興味深い。一方のガムラスタンは、古風な北ゲルマン建築の伝統的建造物のが連続的に続く、歴史的街区である。街の空間には、背の高い建造物の連続性があり、高い塔などが、景観にアクセントを与えてる印象がある。寺内町の木造伝建地区とヨーロッパの伝統的な組積造市街地との間の形態属性の比較を通しても建物の構法の違いを越えて共通する空間が表現されている。そういう意味では、寺内町の空間性の評価は、世界的に評価されているガムラスタンの空間性と同等である評価ができるのではないだろうか。

5-3.文化性の評価
寺内町の文化の中でも、明治期、堺の与謝野晶子らと共に活躍した「明星」派歌人、石上露子の出身である旧杉山家住宅(重要・文化財)がある。[図4写真]当時の先端文化としてのアール・ヌーボ等の近代モダニズムの精神がこの町屋建築に融合し明治期には先端文化の発祥地として注目された事がある。ガムラスタン中心部には、ノーベル賞の文化を伝えるノーベル博物館がある。18世紀の建物で、旧証券取引所の1階を改装し設立された。ストールトリエット広場の前に建っており、ストックホルム旧市街の文化のシンボル的な存在がある。これらの文化性の部分は、一概に比較できないが、文化的建造物を考えるのであれば寺内町の石上露子旧杉山住宅の方が親しみがある。

6.おわりに
以上の様に富田林寺内町の文化資産報告では、ヨーロッパの有名なガムラスタンと遜色のない文化資産が評価できた。このような文化資産が身近にあったことは、私にとって幸運であり興味深い研究ができた。今後、この寺内町の景観を観光資源として、ガムラスタンのような文化資産の保存と商業発展が共存できる街づくりに期待したい。

  • 1 図4 写真 明治期に与謝野晶子等と明星派の文化的歌人石上露子の生家、旧杉山邸
  • 20190129%e3%80%80%e5%af%ba%e5%86%85%e7%94%ba-001 図1 寺内町町割り図、近世地図、現在の観光地図
  • 20190129%e3%80%80%e3%82%ac%e3%83%a0%e3%83%a9%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%b3 図2 ガムラスタン地図 写真
  • 20180128%e3%80%80%e3%81%82%e3%81%a6%e3%81%be%e3%81%92%e3%81%ae%e9%81%93 図3 あてまげの道 写真

参考文献

『じないまち探求誌』大阪府富田林市教育委員会文化財保護課 1999年3月
脇田修著『日本近代都市史の研究』、東京大学出版会  1999年
『VISIT STOCKHOLM』https://www.visitstockholm.com/ 2018年1月確認
『北欧フォカー』http://fika10.com/Sweden/ 2018年1月確認
山本明 (千葉工業大学, 工学部, 教授)著 千葉工業大学『街並み保存地区画定指標に関する研究 ―国内外の歴史的景観による比較研究―』 1999年

[註1]『じないまち探求誌』p8 寺内町の景観
[註2]『じないまち探求誌』p6寺内町の誕生

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