江戸時代、北信濃の文人画僧「雲室」について
<はじめに>
長野県の最北端に位置する飯山市は、江戸時代より城下に寺院が多い仏教の盛んな地域であり、島崎藤村も小説「破戒」の中で「さすが信州第一の仏教の地・・」と述べている。この飯山出身の偉人の一人で、僧であり、かつ儒学者、詩人、画家として知られる人に武田雲室(1753~1827)がいる。雲室の絵は今も北信濃を中心に多く残存しており、郷土の芸術家として愛されている。その軌跡を追うことで、当時の地方と江戸との文化の交流の様子をうかがうことができると考え、雲室の魅力について調査した。さらに、江戸時代の芸術を通じた地域交流が現代にも影響をあたえている様子にもふれる。
<その生涯>
武田雲室は宝暦三年(1753)信州飯山町の浄土真宗光蓮寺の十四世として生まれた。先祖は甲斐の武田信玄の弟、武田左馬亮信繁とされる。雲室は幼名を恵明といい、二歳の時に父と死別、まもなく継父を迎えた。少年時代は体が弱く、学問も思うにまかせなかった。しかし、近くの称念寺の自天上人に漢詩や絵の手ほどきを受け、その面白さを知る。本格的な学問を学ぶために、明和六年(1769)十七歳の時、善光寺参詣を口実にその足で江戸へ出た。江戸で恵明は荻生徂徠の門人として知られた宇佐美子迪の門をたたき、朱子学、漢文学を学んだ。しかし、恵明の身を案ずる父母の願いで安永四年(1775)に帰郷。その翌々年、西本願寺で宗学を修めるべく京都に出た。恵明は一夏、本願寺の学寮生活を終えて飯山に帰ったが、学問への志あつく、安永七年(1778)、再び江戸へ出た。江戸では当初、石町の森彦左衛門(東郭)に易経と老子・荘子を学び、後に幕府の儒官林家の学頭関松牕について儒学を学んだ。体の弱い恵明にとって湯島の聖堂での学問は大変厳しいものであったがこれによく耐えて、学識(教授)に挙げられるまでになった。このころより雲室の雅号を用いるようになる。しかし、その後、老中が田沼意次から松平定信に移り、学制改革のあおりで、田沼の信頼の厚かった松牕に関わる学者は一掃された。雲室も聖堂を追われ、それに加えて天明の飢饉と江戸の大火によって無一文になった。雲室は江戸をあとにし、知人のいる相模の国、浦賀の淨誓寺に移り、そこで儒書などの講義をおこなった。
その後、江戸当時の友人、石七蔵(子享)の勧めで、天明八年(1788)上尾に行き、しばらく講義を続けた。そして、上尾の人々の熱意に応え、そこに私立聖堂(朱文公、菅公にちなんで二賢堂と命名)を建て、孝経、大学、近思録等の講義を行った。しかし、寛政二年(1790)ここでも定信の推す栗山派以外の学問の講義、聴講を禁じられ、雲室は上尾から江戸の頃の友人、森島子與をたよって甲州へ移る。このころより盛んに詩書画の創作を行うようになった。
寛政四年(1792)江戸西久保光明寺の住職となり江戸にもどった雲室は小不朽吟社(詩社)を作り、一流の文人を集めてその中心として創作に没頭した。
そして、文政十年(1827)五月、江戸西久保光明寺で死去、行年七十五歳であった。
<画風>
文人画は中国に起源をもつ言葉で、文雅な事柄に携わる知識人が心の赴くままに描いた絵を意味する。特定の様式を示す言葉ではないが、南宗画系統の作品を呈することが多く、明末の文人・董其昌(1555~1636)らが南北二宗論を主張して以降、南宗画と同一視されていく。宮廷に使える職業画家が描く、角ばった皴法や華やかな色彩を用いる北宗画に対して、士大夫などの文人が余技で描く、やわらかい皴法や水墨を用いる南宗画を重視する考え方が江戸時代の日本にも伝わった。
日本では中国とは異なり士大夫に相当するような高い身分のものばかりではなく町人出身の職業画家も多かったが、儒教を通した中国文化への関心が高まり、漢詩文を重視する素養も日本での文人画発展の下地となっていった。日本の文人画は南宗画を縮めた「南画」とも呼ばれる。
文化文政時代は江戸文化が最も爛熟の域に達したころで、市民太平を謳歌し、詩人、美術家も盛んに創作し、文人墨客相会して、その風雅の会流行し、南画が特に愛好され、加藤文麗、北山寒厳、谷文晁、酒井抱一、鈴木芙蓉、渡辺玄対などその盛名をほしいままにしていた。
そのような、あまたいる同時代の芸術家の中で、雲室の芸術の特徴は何かといえば、雲室が絵画、詩、そして書の三方面に熟達していることがあげられる。
雲室にとって、まず詩は少年時代から唐宋元明の詩人の作品を研磨してその造詣深く、後に市河寛斎に師事し、才能を開花させた。寛政十二年(1800)には多くの著名文人を集めて小不朽吟社なる詩社を結成している。この結社の趣旨は、詩人は画を描かない、画家は詩を作らない、これは惜しいことであると考え、画人と詩人の間を斡旋してまわり、表面上は詩の結社であったが、画を描くことを奨励したものであった。小不朽吟社はその盟主に広瀬台山を推して、渡辺玄対、片桐桐隠、鏑木梅渓、渡辺赤水、大西圭斎、春木南湖、谷文晁、柏木如亭、金井烏洲などが参加した。また永井荷風は雲室の詩集を座右の書架に蔵し、朝夕愛誦し、友人知己に称賛したとされ、断腸亭日乗のなかにも記述がある。
さらに、絵画については、少年時代の自天上人の手ほどき以外師を持たず、もっぱら目標を宋、元、明の名画におき、研鑽画技を磨いた。その作風は、ややかすれた筆致の風韻と詩趣があふれたものとされる(日本南画史)。木村兼葭堂は雲室を「東方の絵、僧雲室の如くに気品高雅なるを見ず、関左(箱根以東)の画家一も雲室の右にいづるものなし」と評したし、のち信州出身の洋画家中村不折も「明治以前において、信州第一の画家は正に雲室上人その人也」と激賞しているほどである。また、その書も幽玄典雅な趣を評価されており、文人画の理想である、絵、詩、書の三絶の妙味を会得していることが雲室の魅力とされている。雲室が小不朽吟社を通じて南画の趣味をひろめた功績は大きく、そこから詩人として画人として優れた柏木如亭が出、やがて春木南湖、そして最後は谷文晁へとつながっていくこととなる。
<作品>
以下いくつかの作品について触れる
1. 糸瓜の図
「五月の空気まで描けているような作品。古拙と簡潔を生命とする文人画の範としたいような良さがある。」「雲室は草花がいい。心に残ったものだけを素直に筆にまかせて描いている。」「旅の途中で求められれば描く程度で、本人も画家とはまったく思っていなかったであろう。それが職業画家には無い深いあじわいを表現している。」(北信濃の美術)
2. 陶家秋
「秋の気を見事に表現した作品である。陶家はやきものの師の家と言うよりも、好きだった陶淵明の家の秋ととってもよいようである。欲の無い線がいい」(同上)
3、葡萄図
代々飯山に暮らした当家所蔵の画である。飯山市埋蔵文化センター所蔵の「葡萄の図」によく似る。後述するように雲室には贋作が多い。
真贋は不明だが伝雲室の作品が多く地域に残る一例である。
<郷土の画家として>
こうした雲室の作品、およびその生涯の軌跡は今日にも大きな影響を残している。
雲室生誕250年にあたる平成15年(2003年)には飯山公民館で雲室上人生誕二百五十周年記念祭が行われた。
雲室が住職をつとめ、最期を迎えた光明寺(東京都港区)の現住職石上和敬氏により「雲室上人の生涯」をテーマに講演が行われ、引き続き、二賢堂のあった上尾から上尾雲室保存会長、生誕地飯山から飯山雲室保存会、都留氏郷土研究会長を交えてのパネルディスカッションも行われた。また、同時に雲室の作品の記念展示も行われている。
実行委員会には飯山市長、光明寺住職の他、生誕地光蓮寺の現住職武田信雄氏も参画しまちを挙げてのイベントとなった。
飯山―上尾―江戸を結ぶ地域交流のきっかけとなっている。
<さいごに>
雲室の作品は今日残存するものに贋作が多いとされる。その贋作の中でも比較的画格の高いものとされるのは雲室晩年の門人、飯山藩士高野松塢が師匠雲室の偽物を描いたと噂されるものである。そうしたエピソードも含め、江戸時代に雲室が地方から江戸へ上り、中央へ少なからぬ影響を与えたことが、地元地域での存在を大きくしたことを物語っている。
現在では残念なことに雲室の画はかつてほど知られていない。しかし、その出身地飯山や、ゆかりの上尾、江戸光明寺といった地域、人々を出発点として再評価される可能性がある。
参考文献
山内長三著『日本南画史』六興出版 1981年
高井蒼風著『信濃畸人傳』信教印刷株式会社 1971年
栗本徳子編『日本の芸術史 造形編Ⅱ 飾りと遊びの豊かなかたち』 藝術学舎 2013年
雲室上人生誕二百五十年記念祭実行委員会『雲室上人生誕二百五十年記念祭 図録』2003年
飯沼正治、小崎軍司他著『北信濃の美術 十六人集』1983年