ハドソン川渓谷の景観の力: ハドソン・リバー派を軸にして
1.はじめに
アメリカ建国草創期、ニューヨーク北部のハドソン川渓谷の自然は、トーマス・コール(Thomas Cole, 1801~1848)をはじめとする画家たちの心を揺さぶり、アメリカ史上最初の絵画学派ハドソン・リバー派を生んだ。イギリスの自然にはない手つかずの自然景観の美しさに、トーマス・コールは神の創造した「エデンの園」を見(1)、風景画を描いた。その芸術的直観は、イギリスを追われた清教徒達の「新天地を求める宗教的な精神」に一致し、その作品は「アメリカの絵画」として受け止められた。(2)
この卒業研究では、ハドソン川渓谷の自然景観の力が、どのようにハドソンリバー派の創始者コールとの出会いによって絵画として実り、それがアメリカ建国期の精神風土とつながり、今日まで続くハドソン川渓谷の環境保護活動につながっていったかを辿る。
筆者はこの地域に住んでいる地の利を生かし、コール邸等を訪問し、彼らの視点がとらえた景観の力の意味を体感し評価報告書とする。コールの弟子フレデリック・チャーチ(Frederick Church, 1826-1900)には言及するが、他のハドソンリバー派の画家については割愛する。
2. 基本データと歴史的背景
ハドソン川は、アディロンダック山脈を源泉として、ニューヨーク市を経て大西洋に流れ込む507㎞に及ぶアメリカ有数の川である。ことにニューヨーク市から200㎞北上したハドソン川渓谷は、雄大な景観に満ちている。自然の植生は広葉落葉樹林で、秋、ニューイングランド地方にかけて、燃えるような紅葉は圧巻である。
アメリカ最初の絵画の派ハドソン・リバー派は、その自然を背景にして生まれ、風景画を描いた。ハドソン川沿岸キャッツキルの地に、派の創始者とされるトーマス・コールの家があり(資料1,2)、リップ・ヴァン・ウィンクル橋を渡ると、コールの弟子、フレデリック・チャーチの家がオラナの丘の上に建っている(資料3)。イスラムのモザイクを施したその邸宅からは、渓谷が一望できる。「リップ・ヴァン・ウィンクル」という橋名は、コールと同時代に活躍した作家ワシントン・アービング(Washington Irving, 1783 - 1859) の文学作品からとられており、彼は、キャッツキルの山を舞台に短編小説を創作した。
コール邸は国家の歴史遺産(National Historic Site)、チャーチ邸とリップヴァンウィンクル橋はニューヨーク州歴史遺産に指定されており、ハドソン川渓谷における最大の観光地となっている(資料4)。
ハドソン川渓谷の歴史には、アメリカ開拓黎明期の華々しさと、追いやられたアメリカインディアンの悲劇という明暗が重なっている。1609年、ヘンリー・ハドソンは、ニューヨーク湾を北上し探検した。船のための良好な湾や入り江があることが分かると、捕鯨船の造船所、ラム酒蒸留所などがつくられ、ハドソン川は交通の要路として繫栄を極めた。アメリカが合衆国として独立した後、最初にできた市は、この地域にあるハドソン市であり(1785年)、裕福な商人達は邸宅を建て、経済的な豊かさは芸術の繁栄を後押しした。(3)
3. 評価
コールは、自分の故郷イギリスの田園風景や、産業革命により変貌してゆくイギリスの都市にはない、手つかずの自然の景観に目をうばわれた。イギリス美術を専門とする出羽尚准教授は、19世紀前半のアメリカでは「依然、美術の規範は歴史画を頂点とするヨーロッパの理論に求められていた」(4)のに対し、コールが「アメリカにはウイルダネス(筆者:野性的な手つかずの自然)という固有の自然があり、その自然は「神との対話にふさわしい場」である」(5)ととらえた点を特異点として指摘している。
コールのこの視点は、アメリカを「新天地」として国づくりに向かう入植者たちの視点と重なった。出羽は、この視点が、「アメリカに理想の神の国の実現を目指したカルヴァン主義的ピューリタンの思想に通じていたなどから、多分にアメリカ的なものとしてアメリカ美術史の中心に位置づけられた」(6)と述べている。
コールの画風は、同じイギリス人であるターナーに代表されるヨーロッパ・ロマン派の画風を引継ぎながらも、アメリカの黎明期ゆえの暗さと希望を示唆する深い森の色、光の明彩を基調としている。彼は、ナイアガラの滝、コネチカット、ニューイングランド地方にも旅行し、絵の素材を得、自宅から望むカーテスキル山、カーテスキル滝、キャッツキルの渓流を好んで描いた。(資料5)
1842年、コールは3年間ヨーロッパ各地を旅した。帰米後、コールが見たのはこの3年で破壊された渓谷の自然であった。コールは渓谷の自然景観に新天地アメリカへの希望を見出す一方、近代化が進むアメリカに、かつては興隆したが今は廃墟となった古代ローマ帝国を重ね《帝国の推移》5部作を描いた(資料6)。それは、自然を破壊を伴う近代文明への批判であり、コールは、自然環境の保護の必要性を訴えた(7)。
4. 他の事例と比較して特筆される点
イギリスでは、同時代、ロマン主義による風景画が現れ、特にウィリアム・ターナーは地誌的風景を描き、ジョン・カンスタブルは、身近な風景を描いた。それは美術史的には有意義なものであったが、ハドソンリバー派の与えた国家的、歴史的影響とは異なっている。
ハドソンリバー派の隆盛は、1870年までの40数年であった(8)。しかし、彼らは、「新天地」としてのアメリカを求めていた入植者たちに建国の精神風土を与え、同時に今日まで続く自然保護運動の先駆けとなり、ハドソンの自然風土を守る糸口を作った。今日、この地域では、有機野菜を育てる小規模農家が多く自然と共生を目指す生活風土が根付いている。ハドソン川渓谷の自然景観を土台にして、それを精神風土、生活風土にまでつなげた点で、その影響力は、主に絵画学派としてとどまったイギリスの風景画と比較して際立っている。
5. 今後の展望
ハドソン川渓谷の景観は何億年をかけた地球の成り立ちによって造られた。山や川の岸壁から切り出された石はマンハッタンのビル街を造り、沿岸に造られた工場からの産業廃棄物は、スタージン(チョウザメの一種)などの生物を全滅に追い込んだ。コールは、アメリカで環境保護を訴えた最初の画家としても知られている(9)。コール邸、チャーチ邸は歴史遺産となり、行政はその一帯を散策できるよう道路を整備した。観光客は渓谷の自然景観を楽しむと共に、リップ・ヴァン・ウインクル橋に設けられた歩道を歩き、対岸のトーマス・コール邸までの散策を満喫できるようになっている。訪問客は、地元で採れた有機野菜を買う(資料7)など、ニューヨーカーの人気スポットとなっている。
6. まとめ
ハドソン川渓谷の自然景観は、コール達の絵画を通して、建国黎明期の入植者たちに、新天地アメリカが約束された「エデンの園」であることを確信させた。新国家で、自分たちのアイデンティを模索していた入植者たちに精神的な支えを与えた。コールは、新国家の建設に希望を抱くと共に、近代化の向かう将来に危険と不安をも感じていた。コールが≪帝国の推移≫を描いたのは、彼の文明批判と見ることができる。
コール邸が国の歴史遺産となり、チャーチ邸がニューヨーク州の歴史遺産となったことは、コール達の果たした歴史的役割が認められている証拠である。
ハドソン川渓谷の自然景観の力を、芸術を媒介にして精神風土、生活風土にまで仕上げたコール達の功績を改めて評価したい。それは美術が美術史を越えて歴史の原動力となり、世紀を越えてそのメッセージを伝える力であることを例証している。コールの放った近代文明への警鐘は、今も人々の心に響いている。
参考文献
注
1. コールは、“We are still in Eden” (私たちはまだエデンの園にいる)と“Essay on American Scenery,” American Monthly Magazine 1 (January 1836) の結論部分で述べている。この言葉は、コールの言葉として頻繁に引用されている。コール邸のギフトショップでは、2022年7月現在、この言葉をステッカーにして販売している。
American Monthly Magazine 1(January 1836)のPDFファイルは下記のリンク。
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=njp.32101015921271&view=1up&seq=15 (2022年7月1日閲覧)
コールのエッセイのみを記したのは、下記のリンク。
https://www.csun.edu/~ta3584/Cole.htm (2022年6月1日閲覧)
2. 出羽尚「ハドソン・リヴァー派におけるアカデミズムの痕跡」、『宇都宮大学国際学部研究論集』第43号、1−14、2017年、p.3。
3. History, City of Hudson (Official Site).
https://cityofhudson.org/visitors/history/index.php(2022年6月20日閲覧)
4. 出羽尚、前掲書、p.2。
5. 前掲書、p.3。
6. 前掲書。
7. Thomas Cole,“Proceedings of American Lyceum,”#15 - The American monthly magazine. n.s., v. 1 (Jan. - Jun. 1836). コールは、このエッセーで、自然破壊をやめるように訴えている。https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=njp.32101015921271&view=1up&seq=15 (2022年6月1日閲覧)
8. Hudson River School, Britannica
https://www.britannica.com/art/Hudson-River-school (2022年6月1日閲覧)
9. Maggie Adler et al. “Wilderness, settlement, American identity,” SMARTHISTORY: The Center for Public Art History.
https://smarthistory.org/seeing-america-2/thomas-cole-environmentalist-2/ (2022年6月1日閲覧)
注記以外の参考文献
• Chandler, Bruce. Hudson River School, The: Artistic Pioneers. [United States]: PBS, 2016.DVD
• Hudson River School Art Trail — Hudson River Art Trail、 https://www.hudsonriverschool.org/hudsonriverschoolarttrail (2022年6月1日閲覧)
• Hudson River Skywalk、https://www.hudsonriverskywalk.org/ (2022年6月1日閲覧)
• Tabone, Vin, and Bruce Chandler. The Hudson River school: Part I Artistic Pioneers, PBS, 2016. DVD
• Tabone, Vin, and Bruce Chandler. The Hudson River school: Part II Cultivating a Tradition. PBS, 2019. DVD
• Talbott, Hudson. Picturing America: Thomas Cole and the Birth of American Art. New York: Nancy Paulsen Books, 2018
• Talbott, Hudson. River Of Dreams: The Story Of The Hudson River. New York: G.P. Putnam's Sons, 2009.
• Thomas Cole House、National Trust for Historic Preservation、 savingplaces.orghttps://savingplaces.org/distinctive-destinations/thomas-cole-national-historic-site#.Yr9NVxXMJMs (2022年6月1日閲覧)
• Thomas Cole National Historic Site、 https://thomascole.org/ (2022年6月1日閲覧)
• Thomas Cole, The Metropolitan Museum of Art、 metmuseum.orghttps://www.metmuseum.org/search-results?q=thomas+cole (2022年6月1日閲覧)