北海道最古の碑「貞治の碑」

星野 幸江

貞治の碑とは
北海道最古の碑(北海道有形文化財)(①②)。貞治6年(1367)2月の銘がある。宝暦2年(1752)函館大町の榊伝四郎が井戸掘りの際に九曜紋入りの刀の鍔などと共に発見した安山岩製の板碑(註1)。高さ二尺七寸五分、横二尺五寸(註2)。貞治は北朝の年号。発掘の後称名寺に納められたが、草叢の中から享和3年(1803)に村上島之丞(秦檍丸)(註3)が発見し『蝦夷島奇観』に模写した(③)外、その図と解説を印行領布している。
現在の称名寺は函館市船見町18-1(④➄)

板碑の価値
構想や布置の非凡さや、更に二つの面が有機的に関連している点も評価する研究者もあるが、北海道最古の板碑であること、蝦夷地への仏教の伝来の研究上重要である点が挙げられる。しかし私は実際に函館で碑を見、文献や資料を探し出すうちに、研究者であり称名寺住職であった須藤隆仙氏はじめ多くの研究者が知識と実証を重ねた研究も評価すべきものであると考える。

各地の板碑との違い
来迎図像板碑の中で一つの面をニ区に分けてニ種の来迎図を表したものは少なく更に左右の構図が異なるものは福島県の石仏のみである。また人物を彫っている例も極めて珍しい。

碑文と建立の意図
碑面は判読が困難になっている部分も多いが、碑文には「貞治六年 丁未二月日 旦那道阿 慈父悲母 同尼公 」とある。『蝦夷島奇観』には「公」の下に〇がつけられ何か文字があったと思われる。
多くの文献でこの読みをしているが、千々和実氏(註4)は昭和31年に函館を訪れ「道阿」を「道海」と判読しこの碑の建立者とし、「慈父悲母」の上に「為」、「同尼公」のあとに「敬白」がつくとしている。須藤氏は「海」に関しては、『奇観』にも『蝦夷実地検考録』にも「阿」とあり発掘以来「阿」と読まれてきており、拓本からも「海」とは読めなく、阿字に傷がつけば海字のようになるかもしれないとしている。また「為」について千々和氏は第3行と第5行より下がっており文意からしても「為」があるとしているのに対して須藤氏は、文字が下がっているのは認めるが碑面の風化が激しい上に曇の絵と重なっており明瞭に「為」の字であると断定できないとしている。「敬白」は千々和氏は普通はここに「敬白」がくるとして「敬」の左半分は見え右半分もたどれなくはなく「白」の痕跡は相当見えると述べているが、須藤氏は奇観でも公の下に〇がついているし、享和印行のものにも印がついており文字か何かがあったのであろうが痕跡は文字として扱うのは筆法が稚拙であるので加えるべきではないと論じている。なお「海」に関しては千々和到氏(註5)は父の実氏を支持しており、函館市史編纂室の神山茂氏の著書(参考文献4)では昭和16年の記述に『函館区史』からの引用として「道阿」として他の文字も加えていない読み方、昭和27年の碑の紹介でも同様の読み方を示しているが、昭和33年度『函館市史資料集』には千々和氏の論を採用した神山氏の論文が掲載されている。しかし昭和49年度の『函館市史資料編第一巻』では文面が「…旦那道阿、慈父悲母同尼公」と戻され、昭和55年度の『函館市史』でも安静年間市川十郎の筆による『蝦夷実地検考録』から採用したとして同様の文面が紹介されている。どのような経緯で採用したり戻したりしたのか調べたのであるが確認できなかった(註6)。
服部清道氏(註7)は拓本の判読ではあるが千々和氏のようには読めないとし、武蔵系列や下総系列板碑のように「敬白」をつけると「尼公」がこの施主になり銘文の原意と反対になってしまうと述べている。そして、「貞治六年丁未ニ月日」は2行1連で、多くがそうであるようにこの板碑の造立年月日で、更にこの銘文は第1行から第5行まで1連に見て読み下すので「旦那道阿」「慈父悲母」「同尼公」と同格にみて、被供養者とすることが妥当で建立者は不明としている。須藤氏ははじめ道阿を建立者としていたが(参考文献1)、服部氏の論をうけ、その先論に引用した類似板碑にも「旦那○○」と建立者名を記入したものはないとして旦那道阿は建立者ではなく慈父悲母、同尼公と共に被供養者である、と改めている(参考文献3)。
司東眞雄氏(註8)の見解は、来迎阿弥陀如来像は浄土系の宗派の建立を示すものであるので時宗の僧侶の建立としている(参考文献5)。

碑面の図像について
左右共に弥陀一尊来迎像で左面は雲台に乗り体を左傾にして西方浄土から飛来した体勢の即来迎の様相で、右面は蓮台上に正面向きに直立している(参考文献1)とあるように、多くの研究者が双方共阿弥陀如来としており、須藤氏等が右面は信心の誠を捧げている弥陀入信の相、左面は光明摂取の相と解釈している。
司東氏は、須藤氏同様右面は老男老女が蹲踞し信心の誠を捧げ左面は老男老女へ二本の放光線を阿弥陀如来の白毫より放ち光明摂取の相を加え男女の位置が阿弥陀如来に近づいていることから、左右総合して阿弥陀仏信仰の説話となりこれは蝦夷島に渡って永年阿弥陀信仰を鼓吹した道阿が自分の亡き後も信仰が退伝しないように比喩をもって示したものではなかろうかと論じている。また時宗系の板碑の殆どは『南無阿弥陀仏』の6字の名号板碑であるがこれは絵像碑となっていることからも教化に目的を置いているのではないかと推論している。神山氏も千々和氏の右区の不動静止、寂光浄土の相に対して左区は飛来する仏の活動という論を受けて二面を総合的に見ている。
しかし、左区は来迎を喜ぶ剃髪した夫婦であり道海の逆修の姿で右区は弥陀に救われて喜ぶ死者の往生の姿で亡くなった慈父悲母の極楽往生の為という説に対して、服部氏は自説に都合の良い読み方にしたり付加するようなことや、十二単にすべらかし髪とか頭巾を被った剃髪者など想像的な解釈に批判的である。これは千々和氏の見解と思われ、千々和氏は『奇観』は正確ではないとして自らの拓本によって先に述べた「道海」や頭巾や剃髪等を示している。この説については須藤氏は千々和実氏の専門的立場を尊重しながらも、この説が『函館市史資料集』に採用されたり碑が北海道の有形文化財に指定されたことも踏まえて問題提起している。私は板碑の専門的なことは無知であるし『奇観』にも幾つかの版があるが、150年を経てからよりも『奇観』が記された当時の方がより正しく判読できている蓋然性は高いのではないかと思うのである。これに関しては昭和32年に須藤氏にあてた書簡で千々和氏は「…慌ただしい一日の旅で道史も少しも知りませんので十分な論証もできませんでした」と述べていることから、決定的なものとして発表されたものではなく旅日記程度の記録であったのであろうと須藤氏は述べている(参考文献3)。
なお男女の頭上に畳様の物が見えるが、これは「曼荼羅の研究者の野々村学念氏によると建物を表したもので如来の光明は無礙光として遮るものなく如何なる所にも照り給うとの意を現わしたものである」とある(参考文献1)が、私の主観ではあるが単に速来迎図によくある左側が空いて左向きの往生者がいる家の屋根を描いている様に見えなくもなく、宗教的な解釈にまで依拠するべきかは疑問に思う。

まとめ
文字や図像の判読は困難が伴い、弥陀入信と光明摂取の相という解釈からさらに勧化の役割をも見出している司東氏の見解もあれば、服部氏の来迎図ではあるがそこには深い意義は見出しい難いとする結論付けもある。しかし共通項は史蹟とその保存への思いと今後の研究の進展への期待である。私は、服部氏の「板碑という庶民的性格上単なる来迎図であって特別深い意図は認められない」という結論を支持しながらも、須藤氏の「来迎像のもつ意義を蘇生させずにはおかない」という考察に共感を覚える。芸術的価値の高い来迎図や実際に糸を通した跡の残る山越阿弥図に比べれば如来一人しか現れない素朴なものであるかもしれないが、宗教的な思いを顕現させる気持ちが全くなければ来迎図を模して碑を刻むことはしないのではないかと考える。現代より切迫感をもって仏に祈る頻度が高かったであろう時代に、対の面を描くことでその思いの表現を強化しようとした可能性もあろう。
最後にこの碑の今後については、奥庭に立てられたり小屋に保存していた(➅)時代を経て、現在は北海道最古の板碑として大切に展示保存されているが、須藤氏指摘の、浮き彫りのような酷い写真が載ってしまった本(参考文献12、⑦)や『蝦夷島奇観』(⑧)の中にも放射線がなくなったり飛雲も蓮に変わるなど模写が重ねられていくうちに不正確になっているものもある。遺物には当時の地域の生活や先祖に対する感じ方が潜んでおり、又どこにどの論を採用するかも重要である。今後碑と共に、積み重ねられた研究や史料も間違いが看過されることなく残っていくことを望む。私にとってこの板碑と諸研究との出会いは千載一遇と言っても過言ではないと共に北海道史に残っていくべき板碑であると確信する。

  • 1 ①称名寺の宝物室に保存展示されている貞治の碑(2019年9月22日筆者撮影)
  • 2 ②「貞治六年 丁未二月日 旦那道阿 慈父悲母 同尼公」とある
  • (非公開)
    ③『蝦夷島奇観』に記されている貞治の碑(函館市中央図書館蔵)
  • 4 ④現在の称名寺(2019年9月22日筆者撮影)
  • (非公開)
    ➄称名寺の位置
  • (非公開)
    ➅小屋を建てて保存していた頃の貞治の碑。はっきりとした期間についてはわからなかった。
  • (非公開)
    ⑦『岩波写真文庫151』に載せられている貞治の碑。石板に彫られた現物とは全く違う浮き彫りのもの。どこから採用したか興味があるが不明である。
  • (非公開)
    ⑧『蝦夷島奇観  坤』 放射線もなく飛雲が蓮座になっている

参考文献

註1 浄土宗護念山摂取院 称名寺 (パンフレット)より
註2 参考文献1より。史料により若干の違いあり
註3 江戸後期の蝦夷地探検家
註4 1903~1985 日本史学者
註5 1947~ 歴史学者
註6 なお、神山氏が編纂委員であったのは昭和30年12月から昭和40年5月までである
註7 1904~1997 郷土史家
註8 岩手の郷土史家
1 須藤隆仙 稿嚢整理第2號 『北海道最古の古碑『貞治碑』に就いて』昭和30年11月発行
2千々和実 『板碑源流考』 吉川弘文館 昭和62年9月 
3須藤隆仙 『北海道仏教史の諸研究 第1巻』1962年
4神山茂 『神山茂著作集 第2集』神山茂著作集刊行令 平成15年12月
5函館新聞 昭和11年8月5日、6日、7日
6浄土宗称名寺案内
7『函館市史資料集 第33集』 函館市史編纂委員会 昭和33年4月
8『函館市史 史料編 第1巻』 函館市 昭和49年3月
9『函館市史 通説編 第1巻』 昭和55年3月
10 村田和義 『石造美術探訪記24 北海道・東北地方の来迎板碑』平成8年 編集発行村田和義
11『称名寺350年誌 函館の歴史と称名寺』平成6年 浄土宗称名寺
12『岩波写真文庫151』 岩波書店 昭和30年6月
13須藤隆仙 『写真図説 函館の1000年』 昭和57年 国書刊行会 

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