箱根関所-景観のもたらす江戸防衛の秘策
1:はじめに
2018年8月、芸術教養講義3の課題である空間を調査するために箱根関所を訪れた時、関所の景観がもたらす心理的な抑圧を感じ(資料1)、関所の景観に大きな興味を抱いた。また、徳川幕府(1603-1867)265年の歴史の中で、箱根関所の関所破りが6件〔1〕であったこと知り、長い歴史の中で何故この様に少ない件数であったのか、関所〔2〕の統制機能に注目した。
関所の統制機能としては関所手形制度〔3〕が知られているが、調査を進める中で関所の景観が統制機能に大きな役割を果たしていることが分かった。その景観の中でも、実態の景観だけでなく、先に感じた景観のもたらす心理的抑圧が、関所の統制機能に大きな役割を果たしているのではないかとの問いを抱くに至った。この問いの検証を通して、景観のもたらす江戸防衛の秘策を考察し、関所と言う伝統的な文化遺産の継承について今後の展望を示す。
2:箱根関所の歴史的背景と構造
徳川幕府は江戸防衛のために、主要街道に53の関所〔4〕(資料2)を設置した。その中でも主要な関所は東海道の箱根関所〔5〕と新居関所〔6〕、中山道の碓氷関所〔7〕と福島関所〔8〕である。東海道と中山道はともに将軍が居住する江戸と天皇が居住する京都を結ぶ主要街道であり、徳川幕府が江戸五街道〔9〕の中でも最も重視した街道であった。
新居関所と福島関所は街道の中間地点に位置し、箱根関所と碓氷関所は関東の入り口に設置された。このように街道の中間地点と江戸近接点の二重防衛としており、江戸防衛の要としていたことがうかがえる。この中でも箱根関所は1983年に伊豆韮山の江川文庫〔10〕で発見された「相州御関所御修復出来形帳」〔11〕の分析結果に基づき、2007年に江戸時代の姿に完全復元〔12〕されており、当時の景観を把握することが出来る。
箱根関所は東北に屏風山が横たわり、西南には芦ノ湖がせまる狭窄な地形に設置されており、その間に東海道を開いたために、この狭い場所をどうしても通らざるを得ないと言う景観の特徴を生かした作りであった。更に、要害山〔13〕である屏風山の上まで400mにわたり、また、芦ノ湖の中まで60mにわたり柵が施されており、関所を迂回して通過することを困難としていた。(資料3)要害山を通過しようとした場合には、箱根山中の村々の住民から関所に速やかに通報する御要害山制度〔14〕が機能するなど、強固な統制制度が構築されていた。
3:景観のもたらす防衛策の評価
関所のミッションについて考えると、「入り鉄砲に出女」と言う言葉が出てくる。これは関所が取り締まりの対象をどこにフォーカスしているかを端的に表している言葉である。入り鉄砲は江戸に持ち込まれる鉄砲を代表とする武器を取り締まりの対象とし、出女は人質として江戸に住まわせている大名の妻が勝手に国に帰ることで、人質としての抑制力を失うことを避けるために取り締まりの対象とした。特に箱根関所においては、「出女」を取り締まりの最重要対象としていたことが、設置された高札〔15〕から知ることが出来る。
この他にも、乱心者・手負・囚人・首・死骸なども取り締まりの対象としていた。これらが国に帰ることで反乱者が蜂起するきっかけとならないように情報を制御した。つまり関所は人・モノ・情報の統制を図る機関として機能していたのである。
先に述べたように箱根関所は険要な地点に設置することで、景観の特徴を活用した統制が図られていたが、これに加えて、関所の入り口の構造による心理的な抑圧機能を活用した防御が図られていた。
小田原宿から険要な箱根路を進んできた旅人は、芦ノ湖畔にたどり着いたあと、杉並木を進んで箱根関所前の新谷町〔16〕にたどりつく。新谷町で手形の確認や関所の情報を収集し、いよいよ関所へと進むことになる。
街道は、新谷町から再度杉並木に入った所から34m〔17〕までは水平に進み、(資料4①)次になだらかな下りの左カーブを描きながら15m進んだところで江戸口御門〔18〕の一部が見え(資料4②)、更に11m進んだところで江戸口御門の全景が見える構造となっている(資料4③)。ここから36m進んだところに千人溜〔19〕があり、更に34m進んだところが江戸口御門である。
旅人にとっては恐ろしい印象の関所は、江戸口御門の僅か70m手前で初めて目に入る。関所に近づいてから、全景が目に入るまでは、景観に押し潰されそうな雰囲気の中で歩を進めることになる。特に出女にとってこの景観は恐ろしく感じたことであろう。
また、三島宿から進んできた場合には、京口御門〔20〕の104m手前の鍵型の道を曲がるまでは(資料4④)関所の姿を目にすることは出来ない。
芦ノ湖と屏風山に挟まれた狭窄の地を通らざるを得ない上に、中々目に入らない関所に恐れながら旅人は歩を進めることになる。箱根関所の立地と、心理的抑圧の両面から、旅人を統制していることが確認でき、景観を活用した徳川幕府の江戸防衛の秘策を見ることが出来る。
4::四大関所の景観比較
箱根関所に見られるような心理的抑圧について、他の四大関所の状況について現地調査を通して確認した。
新居関所は浜名湖の対岸にある舞坂宿との間を船で渡る構造となっている。浜名湖は水深が浅いために、渡船は最大15人乗りの小型船であった。関所の船着き場に着いたときには、小型船であるが故に、旅人からは関所の屋根の一部しか見えず(資料5①)、建物の全景が見えないが故に旅人の不安は増幅された状況となっている。更に船着き場から関所の敷地内に上陸したときには、突然関所の全景を目の当たりにする(資料5②)ことになり、ここでも心理的な抑圧が応用されている。
福島関所は街道より坂を上ってたどり着く構造となっている〔21〕。坂の現存する西側(京都方面)で確認すると、上り坂ゆえに西門の12m手前で初めて関所の様子が分かる構造であり、直前まで関所の様子が把握できないことは、箱根関所・新居関所と同様に心理的な抑圧をもたらす状況となっている。(資料6)
碓氷関所は、当時関所が設置されていた場所は、現在道路や民家となっているために、当時の景観をリアルに確認することは出来ないが、把握されている関所の構造〔22〕(資料7)からその状況を推測することが出来る。碓氷関所の番所は街道より石段を上った高い位置にあるため、旅人を見下ろしているような威圧感がある作りとなっている。番所に行くためには街道から90度曲がって石段を上がる必要があり、威圧的な雰囲気の中で歩を進める景観となっている。
このように見てくると4大関所には景観を活用した心理的な抑圧要因が備わっていることが確認できた。その中にあっても箱根関所は江戸時代の構造・景観を復元できているため、今の時代においても、江戸時代の旅人と同じ心理的抑圧を体感できることが他の関所と比べて特筆された価値が現存しているものと考える。
5: 今後の展望
1619年に設置された箱根関所〔23〕は2019年に開所400年を迎えており、様々なイベントが催された。2019年10月26日に開催された400年祭シンポジウム〔24〕(資料8①)のパネルディスカッションにおいて、参加関所〔25〕より関所の維持・活用について課題が多いことが発表された。関所と言うかつては忌み嫌われた存在をどの様に活用していくのがよいのか、次の世代の人々に関所の魅力をどの様に伝えていくべきか、悩ましい現状を知ることが出来た。
この課題の解決策の一つとして、現在のような無形資産に価値を見出す時代においては、関所と言う有形の存在だけでなく、今回取り上げた心理的抑圧と言う関所を取り巻く無形の価値にフォーカスすることで、現代の人々に関所の魅力を伝えることが出来るものと考える。徐々に迫りくる、あるいは突然浮かび上がる関所の姿は人々の関心を捉えることが出来るのではないだろうか。
また、今回の調査で確認した「見えないものへの恐怖」を現代の交通インフラの課題解決にも応用できるのではないかと考える。近年課題となっている、大量高速移動手段である新幹線のセキュリティ対策として、改札口の後方をブラインド化し、心理的な抑圧を生みだすことで、危険物を持込む動機を低減させることが出来るのではないかと考える(資料8②)。
この様に景観がもたらす心理的抑圧と言う無形資産の活用が、関所と言う伝統的文化遺産を次の世代へ継承し、更に時代を超えた交通インフラの課題解決にも役立つことに期待する。
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資料1
2018年8月18日筆者撮影 -
資料2
出典:新居関所資料館編集『関所 箱根・福島・今切』
P9 図1 諸国関所配置図、P10 表1 諸国関所一覧 -
資料3
①2019年1月26日筆者撮影
②出典:箱根町立郷土資料館編集『東海道 山の関所・箱根/うみの関所・新居』
P1 箱根関所之図 -
資料4
箱根関所景観図は中村静雄編集『箱根宿歴史地図』にある対照用現在図に筆者が加筆し作成した。
①②③④の写真は2019年2月17日筆者撮影、
箱根関所平面図は新居関所資料館編集『関所 箱根・福島・今切』P29より引用 -
資料5
①②ともに2019年2月11日筆者撮影 -
資料6
①②③ともに2019年11月9日筆者撮影 -
資料7
①②ともに2019年11月10日筆者撮影 -
資料8
①は箱根関所設置400年記念事業 全国の関所シンポジウムパンフレット
②は「新幹線改札口写真」を設定条件として検索(2020年1月16日)した写真を筆者が加工
利用についてはJR東海応諾済み。
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RioucEhSFej0UAqyaU3uV7?p=%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A%E6%94%B9%E6%9C%AD%E5%8F%A3&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
参考文献
【現地調査日程】
2018年8月18日〔箱根関所〕
芸術教養講義3、課題の空間として箱根関所を取り上げ、現地調査を実施
2018年12月24日〔箱根関所〕
箱根関所資料館掲示の説明文より江戸時代を通しての関所破りが6件であることを確認
2019年1月26日〔箱根関所〕
箱根関所の景観について現地調査を実施
2019年2月11日〔新居関所〕
新居関所の景観について現地調査を実施
2019年2月17日〔箱根関所〕
箱根関所の景観のもたらす心理的抑圧について再度現地調査を実施
2019年10月26日〔箱根関所〕
箱根関所設置400年記念事業として箱根関所資料館で開催されている企画展
「全国関所の今昔」にて、全国の関所の情報を確認
2019年10月26日〔箱根関所設置400年記念シンポジウム〕
江戸時代の五街道を踏破した体験談を講演
パネルディスカッションにて、参加関所の課題を確認
2019年11月9日〔福島関所〕
福島関所の景観について現地調査を実施
2019年11月10日〔碓氷関所〕
碓氷関所の景観について現地調査を実施
【註釈】
〔1〕東海道箱根関所の関所破りは6件
箱根関所資料館内掲示の説明文書によると、関所破りは6件(内1件は明治になり釈放)、藪入りは19件が確認されている。「関所破り」とは関所手形を所持せずに不法に関所を通過したり、関所を通過する際の煩雑な手続や物流が阻害されることを回避するために間道を通り抜けて関所を避けて通ることを言う。「藪入り」とは、関所を預かる小田原藩の規定で、関所の手前の山中で捕まった未遂犯の罰則規定。関所破りは主殺し、親殺しと同様の重罪とされた。
〔2〕関所
関所の成り立ち
関所の起源は古く、最古の関所は3世紀ごろからあったとされている。当初、関として朝廷により設置され、通行者を監視するなど治安維持を目的としたが、古代律令制下には伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関、越前の愛発関の3関は首都防衛のために設置されている。中世になると領主により通行税として関銭をとるために関所が利用され、南北朝の争乱の時代では密使や隠密の動向を探るために関所が軍事的に利用されていった。そして下剋上の時代と呼ばれる室町時代では幕府に従わない地方豪族などにより、関税取得の目的で関所が乱立した。このように関所は政治の動きによって変転し、政治の姿が反映したものとみることができる。戦国時代に入ると関所は再び軍事的に利用されるようになっていくが、国内の統一が進むにつれ、関所が統一の妨げとなったため、織田信長により撤廃された。その後、徳川家康により関所は再び設置されていくことになる。
(桑原剛志著『近世関所探訪』P3より引用)
〔3〕関所手形制度
旅人が関所を通過するために、様々な確認事項が書かれた手形を持参し、本人を確認する制度。関所を通過する鉄砲について記載された鉄砲手形や女性を対象とした女手形などがある。
〔4〕53の関所
53の関所は資料2によると、江戸を何重にも囲んだ設置となっていることが分かる。ここからも関所は江戸防衛の要となっていることが確認できる。53の関所の内、本稿では箱根関所、新居関所、碓氷関所、福島関所を四大関所と言う。
〔5〕箱根関所
東海道で、江戸から一番近い所に設置された関所。元和5年(1619)に現在の場所に置かれたと伝えられているが、江戸幕府の正史「徳川実紀」には、それ以前の慶長年間にも箱根関所に関する記事を確認することが出来る。このことから、箱根関所は、東海道が整備された慶長6年(1601)と時を経ず、箱根山中の東海道沿道に設置され、その後現在の場所に移設されたものと考えられている。「出女」に関する改めは厳格である一方、「入鉄砲」や男性の通関については、原則改めを行わないという特色がある。
(箱根関所資料館展示パネルより引用、箱根関所資料館応諾済み)
〔6〕新居関所
浜名湖が駿河湾に接する今切口に建つ関所。慶長5年(1600)に設置されたが、暴風雨や地震による津波などの災害を受け、江戸時代を通じて三度の移転を余儀なくされた。通関に当たっては、「出女」のみならず江戸へ下る女性についても改めが行われた。また、江戸へ向かう武器類については老中証文が必要だった。現在、大御門の復元に続き、女改之長屋の復元工事が実施されている。
(箱根関所資料館展示パネルより引用、箱根関所資料館応諾済み)
*関所の名称については今切関所が正式名称とされており、参考とする資料により、新居関所、今切関所の両方の表記があるが、現地調査において確認すると、パンフレット、案内板、資料館などは新居関所の表記を使用しているため、本稿では新居関所と表記する。
〔7〕碓氷関所
碓氷関所の由来は古く、平安時代の昌泰2年(899)まで遡ると言われている。その後、中世期にも時の権力者により度々関所が置かれた。江戸時代に入り当初の関所は、中世期の関所が置かれた「関長原」の地(現在地より約1㎞北)であったが、元和9年(1623)に現在の場所へ移転したことが知られている。「出女」は御留守居証文、「入鉄砲」は公儀御証文をもって通関させた。一方、江戸方面へ向かう女性は、出所地の領主手形が、また福島関所を通り江戸へ向かう女性は福島関所から碓氷関所へ宛てた送手形(書替手形)が必要だった。
(箱根関所資料館展示パネルより引用、箱根関所資料館応諾済み)
〔8〕福島関所
中山道福島宿の東端、池井坂を登ったところに位置し、箱根・新居・碓氷とならぶ大規模な関所。成立は、慶長7年(1602)または慶長9年(1604)の説があり、いずれも中山道に宿場が制定されて間もなくの頃。関所は当初幕府の、後に尾張藩の木曽代官となった山村氏が、江戸時代を通じて管理にあたっていた。通関については、「出女」は幕府御留守居証文が、江戸へ下る女性は、京都所司代・京都町奉行・大阪町奉行など幕府が指定した発行権者の手形が必要だった。また、これらの手形は、福島関所で確認の上留置き、次の関所へ宛てた書替手形を渡すという制度がとられていた。「入鉄砲」は幕府老中証文に引き合わせて通関させた。
(箱根関所資料館展示パネルより引用、箱根関所資料館応諾済み)
*参考とする資料により、福島関所、木曽福島関所の両方の表記があるが、本稿では福島関所と表記する。
〔9〕江戸五街道
次の五つの街道を江戸五街道と言う
東海道:江戸日本橋から京都三条大橋まで
中山道:江戸日本橋から下諏訪を経由して京都三条大橋まで
甲州街道:江戸日本橋から下諏訪まで、下諏訪で中山道に合流する
日光街道:江戸日本橋から日光まで
奥州街道:日光街道を経由して白河まで
荒井秀規、櫻井邦夫、佐々木虔一、佐藤美知男 共編 『日本史小百科 交通』によると、五街道の呼称が利用され始めたのは、万治2年(1659)に道中奉行が設置され、その管轄下になった街道を指して略称したことによる。(P83)
五街道以外の道は脇往還・脇街道・脇道などと総称され、これも御料、私領にかかわらず幕府役人の勘定奉行の管轄下にあった。(P85)
〔10〕江川文庫
財団法人江川文庫は、国指定重要文化財「江川家住宅」、国指定史跡「韮山役所跡」に関わる史料の維持管理及び公開を主な目的とし、学術、文化及び芸術の振興に寄与することを目指す財団法人
江川代官所の支配地 は伊豆、駿河のみならず遠く甲斐、武蔵、相模にまで及んでいた。
(財団法人江川文庫HPより)
〔11〕相州御関所御修復出来形帳
『相州御関所御修復出来形帳(慶応元年:1865)』は、江戸時代末期に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書である。昭和58年(1983)に静岡県韮山町(現伊豆の国市)の江川文庫から発見された。箱根町でこの資料の解読を行った結果、当時の箱根関所の建物や構造物などの全貌が明らかになった。平成19年(2007)春の完成をめざして発掘調査を行ない、その成果や資料の分析結果に基づき、建物の復元や関所周辺の環境整備を行った。
(箱根関所HPより)
〔12〕完全復元
関所の復元にあたっては、江戸時代の工法をそのまま取り入れており、建物と言うハードとともに、工法と言うソフト面も復元された。復元された箱根関所は建築基準法の適用除外であるため、土台についてもコンクリート等の現代の材質は使用されず、当時の工法で作られた。調度品についいても資料に基づき復元されており、江戸時代の景観をそのまま味わえる空間となっている。
〔13〕要害山
関所周辺の山や林を指定して、一切の立ち入りを禁止した区域であり、箱根山を越えるためには箱根関所を通らなければならない様になっていた。
〔14〕御要害山制度
関所周辺の村々は「守り村」に指定され、要害山の見回りを義務付けられており、旅人を発見した場合には通報する制度。旅人の侵入を見逃した場合には村民全員が罰せられると言う連帯責任制度である。海越えの新居関所周辺の村民にも同様の制度があった。
〔15〕高札
関所の基本的な検閲対象について、幕府の道中奉行から下された内容を記載した看板。高札は幕府の威信を示すために、旅人を見下ろす高い位置に掲げられた。箱根の高札の内容には二つの特徴がある。一つ目は第3条目に記載された女改めについて、「関より外に出る女」つまり江戸より京都方面に向かう女について女手形と照合する内容であり、江戸方面に入る女についての記載はない。二つ目の特徴としては鉄砲をはじめとする武器類の改めに関する規定が無いことである。この高札の内容から、箱根関所の最重要監視対象は「出女」であることが分かる。(新居関所資料館編集『関所 箱根・福島・今切』P27より)
箱根関所の高札に書かれた五項目の取り調べ内容は次の通り(箱根関所HPより)
一、関所を通る旅人は、笠・頭巾を取り、顔かたちを確認する。
二、乗物に乗った旅人は、乗物の扉を開き、中を確認する。
三、関より外へ出る女(江戸方面から関西方面へ向かう女性:出女)は詳細に証文と照合す
る検査を行う。
四、傷ついた人、死人、不審者は、証文を持っていなければ通さない。
五、公家の通行や、大名行列に際しては、事前に関所に通達があった場合は、通関の検査は
行わない。ただし、一行の中に不審な者がまぎれていた場合は、検査を行う。
〔16〕新谷町
小田原宿から箱根越えをする場合、箱根関所手前にある町。多くの旅人は関所で手形を提出する前にこの新谷町の茶屋に寄り、そこで手形の内見をしてもらい、若干の心付けを置き、茶屋より関所へ案内され、関所の検閲に臨んだと言われている(『箱根宿歴史地図』コメントを参照した)。新谷町を出て関所に向かう旅人はこの後関所で受ける検閲に対して大変ナーバスな状態になっているところである。
新谷町の跡地は現在は神奈川県立恩賜箱根公園の駐車場になっている。
〔17〕34m
現地調査において、歩測(歩幅75cm)にて距離を測定した。以下、本稿において距離は同様に測定した。
〔18〕江戸口御門
箱根関所において江戸方面に設置された門、江戸方面から来た旅人は江戸口御門より中が箱根関所となる。
〔19〕千人溜
江戸口御門の外にあり、旅人たちが関所改めを待つ待機場として利用された広場。京口御門の外側にも同様の千人溜があった。
〔20〕京口御門
箱根関所において京都方面に設置された門、京都方面から来た旅人は京口御門より中が箱根関所となる。
〔21〕福島関所は街道より坂を上ってたどり着く構造
新居関所資料館編集『関所 箱根・福島・今切』(P43)によると福島関所は中山道より池井坂を上ったところにあった。
〔22〕把握されている関所の構造
碓氷関所跡に掲示されている「碓氷御関所絵図」(資料7)にて把握した。
〔23〕1619年に設置された箱根関所
箱根関所が現在の場所に設置されたのは、元和5年(1619)の頃と言われている。
しかし、江戸時代の史料には、それ以前にも箱根山のどこかに古い関所があったことを伝えるものもあり、現在の場所に関所が移されたのが元和5年のことと考えられてもいる。
(箱根関所HPより)
〔24〕400年祭シンポジウム
箱根関所設置400年記念事業として2019年10月26日に開催されたシンポジウム。
日本交通史の専門家による「江戸時代の旅と関所」をテーマとした基調講演、江戸時代の五街道踏破経験者の体験談、現在関所を活動拠点としているパネラーによる各関所の紹介や課題・将来への構想についてのディスカッションが行われた。「関所とは何か?」、「関所を拠点とした街づくり、地域活性化の取り組み」、「歴史遺産としての関所は今後どうあるべきか?」、などについての意見交換が行われた。
私は「五街道ウォークから学んだこと」と言うタイトルで講演を行った。
(箱根関所設置400年記念特設HPより)
〔25〕参加関所
東海道 箱根関所(神奈川県)/東海道 新居関所(静岡県)/本坂通 気賀関所(静岡県)/中山道 碓氷関所(群馬県)/北国街道 関川関所(新潟県)
【参考文献】
・児玉幸多監修『古写真でみる 街道と宿場町』、世界文化社、2001年
・楠戸義昭著『探訪 日本の歴史街道』、三修社、2006年
・荒井秀規、櫻井邦夫、佐々木虔一、佐藤美知男 共編
『日本史小百科 交通』、東京堂出版、2001年
・大島延次郎著『関所その歴史と実態』、新人物往来社、1995年
・新居関所資料館編集『関所 箱根・福島・今切』、新居関所資料館、2011年
・箱根町立郷土資料館編集『東海道 山の関所・箱根/うみの関所・新居』、
箱根町立郷土資料館、2010年
・箱根町教育委員会箱根関所企画編集『もう少し知りたい!箱根関所のみどころ 建物編』
一般財団法人箱根町観光協会、2011年
・箱根町教育委員会箱根関所企画編集『もう少し知りたい!箱根関所のみどころ 歴史編
①』、一般財団法人箱根町観光協会、2011年
・箱根町教育委員会箱根関所企画編集『もう少し知りたい!箱根関所のみどころ 歴史編
②』、一般財団法人箱根町観光協会、2012年
・桑原剛志著『近世関所探訪』、うすいの歴史を残す会、2014年
・中村静夫編集『箱根宿歴史地図』、中村地図研究所
・財団法人江川文庫HP http://egawabunko.or.jp/ (2019年12月28日閲覧)
・箱根関所HP http://www.hakonesekisyo.jp/index.html (2019年12月28日閲覧)
・箱根関所設置400年記念特設HP https://growin.co/hakone400/
(2019年12月28日閲覧)