ミラノ・ピッコロ座についての歴史的意義
1.はじめに
ミラノ・ピッコロ座は、イタリア・ミラノにある市立劇場、および劇団である。1947年にG.ストレーレルとP.グラッシによって創設された。日本を含む、多くの先進国には国立劇場が存在するが、イタリアには存在しない。それは文化や産業などの分野において、いまだに中央集権化が行われていないイタリアの政治状況に由来するが、そのかわりにイタリアには、ミラノ・ピッコロ座のような市立劇団が各都市で運営されている。そしてミラノ・ピッコロ座はそのような都市が運営する劇団の中で第二次世界大戦後初めて創立された劇団である。ピッコロ(=小さい)座という名前は、活動の本拠にする劇場が小さく、客席がわずか500しかなかったところからきているという 。また、日本における唯一の県立劇団であるピッコロシアター(兵庫県)は、この劇団名に由来する。
2.ミラノ・ピッコロ座の特徴
ミラノ・ピッコロ座は、ストレーレルという非常に独創的な指導のもとに、第二時世界大戦後のイタリア演劇界において輝かしい功績を残し、海外にまでその名は知られるようになった。もちろん日本でもこれまで数回来日公演をしている。
ミラノ・ピッコロ座はヨーロッパでよくみられるようにレパートリーシアター制だが、特に人気の演目は、ゴルドーニ、シェイクスピア、ブレヒトなどの作品である。ブレヒトはドイツ演劇であるが、ミラノ・ピッコロ座の演出は西ヨーロッパで最も高い水準の舞台を作り上げたと言われている 。演出家のそのような才能が、今日までミラノ市民だけでなく、世界中の人から愛され続けている要因の一つであると言える。
3.コメディア・デラルテの誕生
1947年に初演されたゴルドーニの「二人の主人を一度に持つと」は、70年以上経った現在でも上演が続けられており、すでに120以上の外国の都市で公演が行われている。これはコメディア・デラルテの作品をピッコロ座が戦後蘇らせたものである。
コメディア・デラルテの誕生まで、ここでイタリア演劇の系譜を簡単に整理する。
イタリア演劇の起源は、中世における典礼劇である。9世紀に生まれた教会における典礼劇が、しだいに教会を離れ、庶民の演劇として発達していった。
ルネサンス期の初期は、ギリシア・ラテンをルーツとする古典劇の上演が多く、また当時の人文主義者たちもそれらを模倣するケースが多かったが、16世紀になると、イタリア語による最初の劇作品であるポリツィアーノの『オルフェオ物語』(1480)が誕生した。それからイタリア各地で急速に劇団が結成されるようになり、その中から16世紀後半にコメディア・デラルテが誕生したのである。
コメディア・デラルテは、普通の演劇にみられるような台本を使わず、大まかな筋立てのみによって芝居を創る。また、その中で古典劇や人文劇の有名な台詞を引用しつつ、ダンス、歌、軽業など、あらゆるエンターテインメントの技巧を駆使した民衆喜劇を築いた。
コメディア・デラルテは、イタリア国内だけでなく、ヨーロッパ全土で人気となり、また、ジェロージ座、フェデーリ座、ウニティ座などの人気劇団がフランスやイギリスの王室をはじめヨーロッパ各地を巡業し、各国の国民劇の成立に大きな影響を与えた 。さらに200年以上に及ぶその活動は、シェイクスピア、モリエール、ゴルドーニなどへの影響にとどまらず、オペラ、バレエなどを含めた舞台芸術の世界に大きな影響を与えている 。
しかし、コメディア・デラルテはしだいに人気を失っていった。そして、18世紀初頭に誕生した中産階級たちの価値観とは相いれず、コメディア・デラルテを下敷きにしながら新しい市民演劇の創立を目ざしたゴルドーニの演劇改革へと受け継がれていったのである 。
4.ピッコロ座誕生まで
すでに述べた通り、衰退したコメディア・デラルテに対し、ゴルドーニはその卑俗性と仮面の類型性を脱却しつつ、新しい命を吹き込んだ。
ゴルドーニの代表作にして、ピッコロ座の代表作ともなっている『二人の主人を一度にもつと』は1745年にベネチアで初演され、イタリアの民衆をリアルに描写し、広く市民に受け入れられることになった。
やがて19世紀になると、イタリアにおける激動する政治的状況を背景として、ロマン主義的な演劇が台頭することとなった。愛国的な悲劇が好評を博し、国家統一の歴史的悲願と一体化して、国民的叙事詩としての性格を強めたが、1861年の統一達成後は、良識的な風俗喜劇が支持を得て、また優れた対話による心理劇なども生まれた。
第一次世界大戦の頃に登場した劇作家ピランデッロは、1921年の傑作『作者を探す六人の登場人物』を含む一連の作品において、現代劇に決定的な影響を与えた。ピランデッロ作品は現在でも世界中で上演されている。
ベッティは、第一次世界大戦から第二次世界大戦後の解放に至る時代に劇作を続け、当世の非情な孤独による葛藤を描き、実存的、象徴的リアリズムともよぶべき作風で一世を風靡した 。そしてその後1947年、ついにミラノ・ピッコロ座が誕生するのである。創立者であるストレーレルはもともとミラノの「アカデミア・ディ・フィルドラマティチ」で演劇を学び、軍役にも就いていたが、連合国への降伏のタイミングでイタリアからスイスに亡命していた。スイスのジュネーブで「仮面座」という劇団を結成し、アルベール・カミュの「カリギュラ」を演出した。そして1945年、イタリアの解放を契機にミラノに戻り演劇活動を始める。ほどなく47年にジャーナリストのP.グラッシとともにミラノ市当局に働きかけてミラノ・ピッコロ座を設立し、以後ヨーロッパ各国の古典、新作をきわめて高い水準で演出し、ピッコロ座を世界最高峰の劇団の一つに育て上げたのである 。
5.「二人の主人を一度に持つと」
創立以来、現代に至るミラノ・ピッコロ座の活動は、俳優、観客、作家の緊密な関わりを古典作品を現代の舞台として生まれ変わらせるストレーレルの優れた演出の成果として世界的な評価を獲得している 。
同劇団の俳優のフェルッチョ・ソレーリ氏は、50年以上にわたって代表作である「二人の主人を一度に持つと」の主役、アルレッキーノを演じている。1929年生まれのソレーリ氏のアルレッキーノの来日公演を少年時代の野村萬斎氏が観劇しており、さらに芥川龍之介の長男である新劇俳優の芥川比呂志も、パリで観ている 。80歳を過ぎてなお現役でいられるソレーリ氏という俳優の凄さも、ミラノ・ピッコロ座の人気の一つであることは間違いないだろう。
「二人の主人を一度に持つと」は、コメディア・デラルテの衰退後に、ゴルドーニが新しく命を与え、それを200年後にさらにストレーレルがリメイクした作品となる。すなわち17世紀に全盛だったコメディア・デラルテが二度も新しく命を吹き込まれているものである。
現代的なリメイクの大きな仕掛として、コメディア・デラルテ時代および、ゴルドーニの時代には決して観客に見せることのなかった舞台裏の部分が、作品として描かれていることが挙げられる。すなわち、ミラノ・ピッコロ座の「二人の主人を一度に持つと」は、大きな意味では、いわゆる「バックステージもの」の作品と言うことができるのである。
まず、中央にあるステージの手前部分に立ててある蝋燭に、役者が火をつけていく。そしてステージの外側では、裏方作業をしている者(の役を演じている役者)や出番待ちの役者がいろいろと準備をしているのが、観客から見えているのである。
芝居の内容は、アルレッキーノというコメディア・デラルテの主要なキャラクターが織りなすドタバタ喜劇であり、話の大筋は当時の作品を踏襲している。
6.おわりに
ミラノ・ピッコロ座は、イタリア演劇の中で非常に重要な役割を担っているだけでなく、その歴史ある劇場はヨーロッパ演劇の聖地となり、観光名所となっている。そして狂言とコメディア・デラルテの共通点の多さから、日本の狂言師である、野村萬斎氏などと協力し、来日公演や、反対に狂言のミラノ公演などを活発に行っている。
まさにミラノという地に根ざした劇場でありながら、演劇という芸術が、世界中の人間を繋いでいるのである。
- 写真提供(許諾済):ミラノ・ピッコロ座/MILANO PICCOLO TEATRO Archivio Storico.Fotografico
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- 写真提供(許諾済):ミラノ・ピッコロ座/MILANO PICCOLO TEATRO Archivio Storico.Fotografico
参考文献
世界大百科事典『ミラノ・ピッコロ座』、平凡社、2008年
日本大百科全書『コメディ・デラルテ』『イタリア演劇』、小学館、2001年
芥川比呂志著『決められた以外のせりふ』、新潮社、1970年