築地市場の建築デザインがもたらしたもの
東京都内に11か所ある東京都中央卸売市場の1つ「築地市場」は、1935年に開設された国際水産業の中心地として世界的に有名である(写真1、2)。2015年には43万6274トン、4401億4500万円の取引が行われた[2]。北米最大の魚市場であるニューヨークのフルトン・フィッシュ・マーケットと比較すると、1996年のデータで、10億ドルの取引があったのに対し、築地市場は6103億7800万円(57億ドル相当)の取引がなされていた[3]。このことからも、築地市場の規模が如何に大きいかがわかる。築地市場での日々の取引の大部分は、家族経営企業が多い仲卸業者を介している。わずか7つの卸売業者と596社(2016年現在)の仲卸業者は、セリ場でセリを行い、水産物の価格を決める。その後、仲卸業者は各店舗で水産物を捌き、飲食店や小売業者に販売する。築地市場の特徴は、少ない卸売業者に対し、多数の仲卸という中間機構が高度に発達したことにある。そして食文化の形成に寄与してきた。1980年代後半から多くの先進国では、効率を重視し、市場を物流センター化した。そういった施設では、平均的な食材は簡単に手に入るが、平均を超える食材は手に入りにくい。フランスやイタリアなどでは、味覚文化の低下が指摘され、一方で、築地市場の特異性が注目され始めた。
2018年10月に築地市場は、豊洲へ移転する。築地市場の設備、建物の老朽化、銀座に近い土地の活用のため、建て替えや移転が30年にわたり議論されてきた。しかしながら、建築物としての築地市場は、議論の対象とならなかった。築地市場の扇型の構造は、築地市場たらしめる中間機構の複雑なシステムの構築に貢献している。本文化資産評価報告書では、築地市場を生み出した建築デザインついて評価する。
- 江戸魚河岸文化の歴史的背景
築地市場の前身は、幕府の御用市場であった日本橋魚河岸である。1590年徳川家康が江戸城に入場した。このとき摂津国佃村の漁師、森孫右衛門は、30人余りの漁師とともに随行した。彼らは、隅田川河口の島(現佃島)と江戸湾上流の漁業権を得て、対価として江戸城に海産物を献上した。1603年孫右衛門の息子の久左衛門が、魚を庶民に売る許可を得た。1641年頃には、日本橋周辺に少なくとも14軒の魚屋ができた。草創期、問屋は漁をして売りさばく、あるいは漁村から海産物を仕入れ売りさばくなど、仲買(仲卸)を兼ねていたが、消費量の増大とともに、仲買業者がうまれた。問屋と仲買の連鎖で成り立つ流通システムは、江戸東京の魚河岸文化の原型をとなった。
明治期に入ると日本橋魚河岸の上納制度はなくなったが、高い税率がかけられた。また江戸文化の代名詞ともいえる魚河岸は、日本橋からの撤退を促されたが、日本橋の問屋らの反対派により、膠着状態となっていた。転機になったのは1923年の関東大震災で、新しい中央卸売市場の建設が、内務大臣後藤新平の立案した「帝都復興」計画の中の重要案件の一つとなった。日本橋から芝浦に一時的に移動していた魚河岸は、浜町の青物市場と共に、海軍技術研究所などがあった築地へ移転することが決定した。移転場所にあった浴恩園という庭園の池を埋め立て、モダンな築地市場の建設がすすめられた。
- 築地市場の成り立ちと扇型の機能的工業デザインについて
築地市場の工事は、浴恩園という庭園の池(東京ドーム2個分)の埋め立てからはじまった。建物は、欧米の市場を下敷きに、近代建築の3要素、鉄、セメント、ならびにガラスがふんだんに使用された。工期は6年、労力は41万9500人、総工費約1650万円だった。大震災前に建設された、当時最先端のビルであった旧丸ビルの建設費は900万円だったことから、国家の一大プロジェクトであったことがわかる。
東京市は震災の翌年には、築地のデザインを任された東京市土木局の建築チームは、ミラノ、ミュンヘン(写真3)、フランクフルト・アム・マイン、ライプチッヒ、ニューヨークのブロンクス市場などを視察した。帰国後、技師たちは市場で働く人々と意見を交換し、最適な空間の配置と動線を研究した。彼らは近代と伝統とを融合させるため、西洋の合理的な市場を真似ただけではない、日本の市場を作り上げた。
1920年代末から30年代初期にかけて設計された当時の築地市場は、市場の物流的機能を理想化した建築物だった(写真1、2)。海岸沿いに建物全体が大きくカーブし、内側から海岸に向って扇が開いたような形をしている。魚河岸で働く人々は、四角い建物がよいと主張していたが、建築技師らは扇型にして、鉄道のレールを建築物に沿って走らせ、物流運搬に鉄道を利用する計画を提案した。日本橋の魚河岸では、問屋と仲買が混在していたが、この扇型構造により、卸売業者と仲卸業者の仕事が空間的に分離した(図1)。すなわち、鉄道や船によって運ばれてきた海産物は、扇状の建物の外側で荷卸しされ、卸業者のより仕分けし、セリにかけられる。品物は、扇状の建物の内側にある仲卸業者の店舗に運ばれていき、さらに細かく仕分けと等級付けがされ、料理人や買出人へと分配される。海側(外側)から町側(内側)へと流れていく動線により、卸売と仲卸業者は空間的、心理的に分離していった。これが、日本橋魚河岸とは決定的に異なる築地市場の文化を形成した。
- 築地市場のバウハウスの影響について
築地市場のデザインは、当時台頭していたバウハウスの影響を受けたと言われている(写真2)[3、4]。仲卸棟の切妻屋根には扇型に沿うよう天窓が設けられ、側面は大きな窓ガラスが使われ、採光に配慮されている。事務所棟の廊下は、柱から梁にかけて、曲線を描いている。塔門や装飾帯、そして階段の吹き抜けに丸窓を配置している。戦前の日本政府の建物を造った建築家たちは、扇型の機能的な工業デザインに加えて、このような美しい幾何学的な曲線構造を施した。
- 豊洲新市場との比較から建物のデザインがもたらすコンセプトついて
移転先の豊洲新市場は40haあり、築地市場の23haの1.7倍の敷地面積である。東京ガスの工場跡地で、環状2号線と315号線が直交しているため、敷地は分割され、卸売棟や仲卸棟が分離されている(図2)。卸棟から仲卸棟(5階建)までは外周廊下を使いトラックなどで運ぶ。仲卸棟1階で荷分けされた荷は、荷物の運搬車両ターレットに乗せられて、建物外部のループ状の渡り廊下を通り、駐車場を併設した3階と4階の買出部に運ばれる。また、各棟を繋ぐ地下道が3本後付けされた。ここを1日に2000台のターレットや500台のフォークリフトが行きかうこととなる。これは市場からの荷を運び出すことを優先した動線を描いており、物流に特化したデザインとなっている。築地市場で中心的役割を果たしていた仲卸の動線とは異なるもので、築地市場とは異なる文化が始まることが推察される。
- 今後の展望について
築地市場は外部から見ると、ターレットと車両、人がせわしなく無秩序に行きかうように見えるが、整然たる秩序がある。ハーバート大学の人類学者テオドル・ベスターは、築地市場を「制御された混沌 コントロールド・ケイオス」と表現した[3]。この「制御された混沌」の諸要素間の動的な平衡状態により生じるものが、築地市場という現象の本質である。つまり、各要素が揃えばよいのではなく、要素間の関係、速度、相互作用が築地市場の本質で、そこには機能的建築デザインが深く寄与してきたと考えられる。生物学者の福岡伸一は、築地市場の動的平衡を指摘し、「築地市場は、生命現象の何物でのない」と言及した[3]。
築地市場の集荷・仲買・買い出しという3つのステップを表現した3層の扇型の平屋のデザインは、外側から内側へと放射状の動線がつくられ、壁が少ない自由度に高い構造により、人々が無尽に行き来をすることができる。築地市場の建築は、機能主義的なデザインを有し、中間機構による流通システムの形成に貢献した。そこでは働いている人間の活動と建築の構造が、完全に一体になっており、築地市場独自の文化の形成に至った。
築地市場で中心的役割を果たしてきた仲卸は、移転伴い減少してきている。仲卸業者の減少により、政府は市場の調整をしやすくなると考えられる。築地市場でつくられた流通システムが、合理的な新しい中央卸売市場でどのように変容し、どのような文化を生み出していくのか期待したい。
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写真1 1934年の築地市場 (東京市「築地本場・建築図集」より引用)
(画像は国立国会図書館ウェブサイトからの転載) -
写真2 1934年の築地市場 A 仲卸棟外観, B 仲買人売場屋根, C 仲買人売り場内観, D 事務所棟廊下, E F 卸売人売場プラットフォーム。(東京市「築地本場・建築図集」より引用)
(画像は国立国会図書館ウェブサイトからの転載) -
写真3 1912 年設立のミュンヘン中央卸売市場の外観
(Urban development feasibility study for Munich wholesale market hall siteより引用)
(非公開) -
図1 2016年の築地市場全体図
(東京都中央卸売市場築地市場「築地市場概要」2016年度版より引用)
(非公開) -
図2 豊洲市場の完成予想図と施設概要図
(東京都中央卸売市場ホームページより引用)
(非公開)
参考文献
[1]東京市(編)『東京市中央卸売市場築地本場・建築図集』、1934年
[2]東京都中央卸売市場築地市場『築地市場概要』、2016年度版
[3]テオドル・べスター(著)、和波 雅子 (訳)、 福岡 伸一 (訳) 『築地』、木楽舎、2007年
福地 享子 (著)、築地魚市場銀鱗会 (著)『築地市場 クロニクル1603-2016』、朝日新聞出版、2016年
[4]中沢 新一 (著)『アースダイバー 東京の聖地』、講談社、2017年
[5]濱田 武士 (著)『日本漁業の真実』、筑摩書房、2014年
[6]佐野 雅昭 (著)『日本人が知らない漁業の大問題』、新潮社、2015年
[7]和泉真理 (著)『研究員レポート:EU の農業・農村・環境シリーズ 第 12 回 ミュンヘンの中央卸売市場:新旧の流通の中で』 (社)JA 総合研究所
[8]東京都中央卸売市場ホームページ (http://www.shijou.metro.tokyo.jp/toyosu/)
[9]Urban development feasibility study for Munich wholesale market hall site (http://www.as-p.com/projects/project/machbarkeitsstudie-grossmarktgelaende-203/show/)