愛恵まちづくり記念館―モニュメンタルな福祉・教育デザイン―
1、はじめに
東京都足立区にある、「関原の森・愛恵まちづくり記念館」は、地域の行事やサロン活動を開催するなど、区のまちづくり事業の拠点施設である。
この建物は、昭和5年に地域の児童のための福祉・教育・健康の総合施設「愛恵学園」の「愛の家」であり、戦後は幼稚園等の活動を行った後、平成2年に閉園し、平成6年より現在の活動を実施している。木造の洋風建築物は現存する数少ない戦前の社会事業施設として貴重なものであり、当時の姿のまま美しく整備された地域のシンボル施設である。
本稿では、愛恵まちづくり記念館について、その歴史的背景と活用を調査・考察し、モニュメンタルな福祉・教育デザインとしての文化資産として評価し報告する。
2、基本データ
施設名:愛恵まちづくり記念館(旧愛恵学園「愛の家」)[写真1・見取図1]
所在地:東京都足立区関原1丁目21番9号
竣 工:1930(昭和5)年
設 計:八木憲一[註1]
施 工:合資会社 清水組
建築面積:235.92㎡
延床面積:423.49㎡
構 造:木造2階建て。外観は清楚で品位があり、長方形の窓がはめられた明確な構造。内壁はモノトーンで統一され落着いた清潔な雰囲気である。1階にイベントルームⅠ~Ⅲ、2階に会議室・相談室・まちづくり資料室がある。[写真2]
3、歴史的背景
(1)愛恵学園の設立から閉園まで[写真3・見取図2]
愛恵学園の経営母体である米国メソジスト監督教会は、1872(明治5)年に日本伝道を決議した。メソジスト教会の活動の特徴は、単にキリスト教の伝道のみならず、教育・福祉に積極的な点にあった。東京での宣教活動の内、福祉については、都下の貧困地域に建設された日暮里愛隣団、根岸会館、共励館、愛清館、愛恵学園の5つの社会事業施設による先駆的活動が行われ、愛恵学園は最後に建設された施設であった。
愛恵学園は、米国メソジスト教会婦人外国伝道会社より派遣された宣教師ミス・ミルトレッド・アン・ペインにより、貧困家庭の多い足立区本木町(現在の関原 1 丁目)を活動の場として、1930(昭和5)年に設立された。昭和8年発行の『日本メソヂスト社会事業概要』によれば、愛恵学園は主な事業をナースリー・スクール、幼稚園、児童図書館、乳幼児健康相談事業を実施する総合施設であった。その活動には高等教育を受けた女性を中心とする優れた人材を置き、健康相談事業の相談相手として聖路加病院長トライスラー博士が選ばれた。毎月開催の「母の会」では家庭との連携とともに紙芝居による日常の衛生管理の教育を行った。また、「愛の家」を清潔に使用することで、地域住民に衛生管理の大切さを伝えた[註2]。地域住民や学生によるボランティア活動も行われた。
太平洋戦争時に、ペイン宣教師が米国へ強制送還され事業は中止されたが、建物は空襲による焼失を免れた。敗戦直後、元職員の益富鶯子がフィリピンからの戦災孤児を引き取り、「愛の家」で近隣住民等の支援を受けながら保護事業を行なった後[註3]、1946(昭和21)年にペイン宣教師が再来日し愛恵学園の運営に従事し、青年部の新設、教養講座、読書会、夏のキャンプ、合唱とドラマの夕べなどを開催した。生活環境の改善と行政による福祉の充実により愛恵学園は1990(平成2)年にその役割を終えて閉園した。[写真4]
(2)愛恵まちづくり記念館としての再出発
戦前戦後にかけて愛恵学園の事業への地域住民からの信頼は厚く、学園の活動に青春の思い出を持つ人々も多く、住民希望もあり愛恵学園で最初に建てられた木造の「愛の家」を利用し、「愛恵まちづくり記念館」として整備され1994(平成6)年に再出発し、現在に至っている。
施設の指定管理者であるNPO法人あだち・まちづくり・コモンズは、地域自治と施設の協働管理をしながら町会、あるいは住区センターと一体となり、以下の事業を展開して地区のまちづくりの発展に努めている。
記念館を地域のサロンとしてまちづくりの情報を集めている。具体的には、愛恵カフェとして、毎週土曜日、自由なお茶飲み会を行っている。1日約20人が参加し、まちづくりや、問題点の把握について話している。
さらに、区内のまちづくりが始動して30年が経過し、今後はまちづくり推進委員会と連携をとり、まちづくり地区のアフターフォローの実施を考えている。
また、NPOコモンズの自主事業としては、愛恵まちづくり行動館事業として、住まいづくり・まちづくり相談事業、住まいづくり・まちづくり資料の充実、サロンの開設。愛恵まちづくり学校の実施として、まちづくりキッズ育成講座(模型講座・カラー講座等)、愛恵ガーデナー育成講座、街並み研究講座、まち歩きテクト、あらかわ探検マップづくり。施設利用促進事業として、関原の森朗読会、楽学の会の開催、関原の森ちょうちん行列、関原の森もちつき大会がある。[写真5、6]今後は、特に足立区まちづくり大学を継承したまちづくり学校において、まちづくり人を育成することを考えている。
上記のように、愛恵まちづくり記念館は、地域住民と一体となった、区のまちづくり活動の拠点施設として活用されているのである。
4、国内の同様な施設との比較と特筆について
戦前における、メソジスト教会の福祉・教育活動は、都下の貧困地域において、愛恵学園とともに、日暮里愛隣団、根岸会館、共励館、愛清館の5つの社会事業施設による活動が実施されていた。
以下に、各施設の概要とともに、愛恵学園との比較と特筆を述べる。
(1)日暮里愛隣団
日暮里愛隣団は、日露戦争後の産業発展による東京市の人口膨張に伴い生じた複数のスラムの内、大きなスラムであった日暮里金杉に、1920(大正9)年に設立された。スラムには貧困、疾病、飢餓、犯罪などの社会問題があり、特に無籍児や不就学児童に対する支援が行われ、不就学児童のための小学校と無料診療所などの事業が行なわれた。
日暮里愛隣団は、東京大空襲で焼失後、根岸会館に活動拠点を移し、戦後は保育園として現在も活動している。
(2)根岸会館
根岸会館は、1921(大正10)年に、幼稚園と救済事業をもって始められたが、関東大震災で焼失し、復興後は鉄筋コンクリート4階建ての施設に竣工された。地域の子どもや女性、工場労働者を対象に、幼稚園、英語学校、和服裁縫学校などの事業が行われた。戦後は、日暮里愛隣団の事業が移り、保育園として戦前の建物が使用されていたが、老朽化のため平成26年に新築されている。
(3)共励館
共励館は、1924(大正13)年に、関東大震災後の復興事業の一環として、家内工業地区の労働者宿泊指導施設として設立された。その後は、保育園や隣保館として活動を展開した。東京大空襲で施設は焼失し、戦後は愛清館の事業と合併後、保育園として現在も活動している。
(4)愛清館
愛清館は、1902(明治35)年に、紡績工場で働く工女の支援のための、慰安・教育・宿泊施設として設立された。やがて、工場地域の人々との交流が進み、女子クラブ、英語夜学校、児童図書館、幼稚園、救済活動など、様々な事業を展開した。東京大空襲で施設が焼失し、戦後は共励館のあった場所に移り、共励館の事業と合併後、保育園として現在も活動している。
以上の各施設は、愛恵学園同様に、現在のまちづくりの手本となる先駆的な活動を展開してきたが、東京大空襲のため愛恵学園以外の建築物は焼失あるいは老朽化による建て替えが行われ、戦前の姿を失ってしまった。また、愛恵学園が戦前から戦後、そして現在に至るまで地域との関係を継続してきていることに較べ、他の各施設は、戦後の移動や合併により、地域との結びつきが途切れてしまった。
5、今後の展望について
愛恵まちづくり記念館における、地域のまちづくり活動の拠点施設としての活発な活動を可能にしているのは、愛恵学園の福祉・教育等事業の長い年月において築かれ、現在も継続している地域住民との結びつきの深さによるものと思われる。そして、戦前と変わることのない「愛恵学園」の建築物は、共同の歴史的背景による結びつきの媒体としての優れた福祉・教育デザインとして評価できる。
現代社会では、地域のまちづくり活動において、地域福祉による支え合いや、生涯教育の必要が言われている。愛恵まちづくり記念館に見られるような、地域住民の記憶と共にあるモニュメンタルな建築物の活用は、今後の様々な地域でのまちづくりにおいて効果的な福祉・教育デザインの方法となる可能性が考えられる。
- 写真1:愛恵まちづくり記念館外観(平成29年12月23日、筆者撮影)。
- 見取図1:記念館内部図(パンフレット『関原の森 物語の生まれるまちへ』より)(非公開)
- 写真2:愛恵まちづく記念館内部2階まちづくり資料室(平成24年8月3日、筆者撮影)(非公開)
- 写真3:昭和5年竣工当時の「愛の家」(三吉保著『愛恵学園物語』18ページ)(非公開)
- 見取図2:竣工当時の「愛の家」平面図(三吉保著『愛恵学園物語』35ページ)(非公開)
- 写真4:「愛の家」を背景に職員と児童たち(三吉保著『愛恵学園物語』37ページ)(非公開)
- 写真5:記念館で使用されている「まちづくりかるた」(筆者撮影)(非公開)
-
写真6:記念館で開催れた「夏休みキッズ模型講座」の様子。(非公開)
記念館ホームページ(平成29年12月24日閲覧)http://sekibaranomori.com/report/2017kidsmokei/
参考文献
【註釈】
[註1]
三吉保著『愛恵学園物語』17ページに、「愛の家」の建築設計について、「すすめるひとがあって建築工事は清水組に請負って貰うことになり、担当は八木という青年社員であった。」とある。黒石いずみ著「間島記念館のオーダー(円柱)に想うこと」によれば、当時、清水組の社長であった清水釘吉は青山学院の卒業生であり、1929(昭和4)年に青山学院の間島記念館を建設しており、その時の設計者の一人に八木憲一がいた。青山学院は愛恵学園の経営母体である米国メソジスト監督教会により創設されており、愛恵学園の設立運営には、後に青山学院院長となった阿部義宗の協力も見られるなどの関係から、「愛の家」の建築工事を合資会社清水組が請負い、設計を同会社の八木憲一が行なったと考えられる。八木憲一には、その代表的な建築に、当時の斬新なデザインであったアールデコスタイルを取り入れた「伊勢丹新宿店」(現存)がある。愛の家は建設当時に温水暖房や屋上庭園(現在は無い)を備えており、最先端の技師の手によって設計施工されたのである。
[註2]
ペイン宣教師に会ったことのある高齢なキリスト教会員の話によれば、ペイン宣教師は特に教育に重点をおき、それは施設の建物においても表現されていたという。「愛の家」設立当初より、施設を清潔に使用するとともに、戦後、「愛の家」が古くなり改修の話が出た際に、ペイン宣教師が改修に反対した理由は、「愛の家」を手本として、古い建物を清潔に使用する大切さを地域に向けて伝えたいという考えであった。母子支援のために家庭の衛生管理教育に力を入れていたペイン宣教師の理念が建物に反映している逸話である。
[註3]
大橋由香子著『満心愛の人益富鶯子と古謝トヨ子 フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』70ページには、太平洋戦争時に事業が中止されたままの愛恵学園において、敗戦直後の益富鶯子による戦災孤児保護事業について、地域のボランティアの支援が行なわれたことが書かれている。このことは、敗戦直後の混乱期においても、足立区本木町の地域住民のよるボランティア活動の意識が高かったことを示すとともに、愛恵学園と地域との強い結びつきがあったことが考えられる。
【参考文献】
・パンフレット「関原の森 物語の生まれるまちへ」(特定非営利活動法人あだち・まちづくり・コモンズ)。
・三吉保著『愛恵学園物語 その五十年の足跡』(財団法人愛恵学園、1986年)。
・黒石いずみ著「間島記念館のオーダー(円柱)に想うこと」『青山学報255』(Spring2016)。
・松波秀子著『明治・大正期の建築作品集にみる清水組設計組織 その2』(清水建設研究報告第89号平成24年1月)
・谷川貞夫著『日本メソヂスト社会事業概要』(日本メソヂスト教会社会局、1933年)。
・谷川貞夫著『社会福祉序説 戦前、戦中、戦後の軌跡』(全国社会福祉協議会、1984年)。
・新堀邦司著『愛わがプレリュード カナダ人宣教師G.E.バットの生涯』(日本基督教団出版局、1994年)。
・大橋由香子著『満心愛の人益富鶯子と古謝トヨ子 フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』
(インパクト出版会、2013年)。
・小池昌代、塚本由晴著『建築と言葉 日常を設計するまなざし』(河出ブックス、2012年)。
・関原の森 愛恵まちづくり記念館 まちづくり工房館ホームページ(平成29年12月29日閲覧)http://sekibaranomori.com/
・UR都市機構ホームページ(平成29年12月22日閲覧)
http://www.ur-net.go.jp/machimichi-net/activity/detail_160203d.html
・足立区役所ホームページ(平成29年12月22日閲覧)
http://www.city.adachi.tokyo.jp/misshu/shisetsu/toshokan/018.html
・分離派建築博物館―超時空建築探訪(平成30年1月20日閲覧)
http://www.sainet.or.jp/~junkk/jikuutanbou/jikuukousou.htm
・関根要太郎研究室@はこだて(平成30年1月20日閲覧)
http://fkaidofudo.exblog.jp/12593839/