沖縄久高島の祭祀文化とシマの感性について

小澤 謙一

1 沖縄久高島の祭祀文化の歴史的背景

 久高島は、沖縄本島東南端の知念岬から東へ5.3kmに位置する周囲8.0kmの細長い島である。琉球の聖神アマミキヨが国つくりを始めた地といわれ、東の海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地とされる。ニライカナイとは、豊饒や生命の源であり、神界でもある。生者の魂がそこから来て死者の魂がそこへ帰る、祖霊が守護神へと生まれ変わる場所と信じられてきた。久高島には、古琉球(15世紀の琉球統一以前)時代から島独自の祭祀文化が根付いていたが、琉球王国の政祭一致政策を受容しつつその後も受け継がれた。それが500年以上続いており、今でも一年を通じて様々な祭祀が執り行われている(図表1)。

2 久高島訪問

 2020年7月25日、沖縄本島安座真港から船で約15分、徳仁港から久高島に入島した。
 現地では、ガイドの内間さんにご案内いただいた。実際に祭祀を目にすることはなかったが、内間さんは島の歴史に造詣が深く、訪れる場所それぞれの意味を丁寧にご説明いただいた。訪れた主な場所、その地の意味、および図像を添付する(図像①~⑦)。

3 他の祭祀文化との比較

 我が国の主な祭祀文化として、「宮中祭祀」と「神社祭祀」がある。「宮中祭祀」は、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的に行う祭祀である。「神社祭祀」は、神様に神饌をささげることでご接待を行い、天下地域の安寧と発展、さらには願い事をする氏子崇敬者の繁栄を祈るものである。祭祀の主体が前者は天皇、後者は神社や氏子という違いはあるが、いずれも、天皇や神様といった絶対者が存在し、聖化されることに特徴がある。
 琉球王国では、国王のもとに男性の官人階層がある一方、最高神女「聞得大君」のもとに「君々」「大あむ」「ノロ」と呼ばれる神女各層があり、国家組織自体が聖俗の二本立てであった。久高島には、「外間ノロ」と「久高ノロ」の二つのノロ家があって、当家の女性が代々ノロを受け継いできた。そしてノロを頂点に、島の女性が神女として組織化され、祭祀を担ってきた。このように、神格化された絶対者の存在はなく、すべての女性が神女としての役割を担い、聖=女性、俗=男性という聖俗分離がなされていたことに特徴があると言える。

4 ショーペンハウアーの美学「美による救済」

 ここで、19世紀前半のドイツの哲学者、ショーペンハウアーの美学思想に触れる。
 まず、佐々木健一氏は著書『日本的感性』のなかで、われと世界のかかわりについて、次のように述べている。
 「われと世界を結ぶには、二つの方位が考えられる。われが世界に介入するか、世界がわれに変容を加えるかである。前者は自由意志の回路であり、後者が感性の回路である」。自由意志を「我欲す」、感性を「汝なすべし」と言い換えることもできるであろう。
 また、佐々木氏は著書『美学への招待』で、ショーペンハウアーの美学の特質について次のように論じている。
 「ショーペンハウアーは、「美による救済」という19世紀的な思想を代表する一人です。世界を動かしているのは「意志」であり、この世界を生きることは争いと苦悩をもたらします。その対極にあるのが「表象」で、意志の現実から一歩退いて、理想的な世界を観想することです。(中略)一方には、ひとが生きて活動することへのコミットメントを美が促進する、という点を強調する考えがあり、他方には、現実の苦悩から抜け出して、この世ならぬ境地へ連れて行ってくれるという面を美の本質とみる説がある、という理解です」。
 ショーペンハウアーの「美による救済」は、われと世界のかかわりに照らせば、「感性=汝なすべし」に類型されると言えるであろう。

5 久高島祭祀文化の芸術性に関する考察

 久高島の神女たちは二面性を備えている。普段は妻であり母であり生活者である。祭祀では歌い踊る神女であり、神が憑依してニライカナイと交信する。比嘉康夫氏が著書『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』の中で、興味深い神女とのエピソードを記している。「久高通いをして二年ほどたったころ、つぎの年である1978年に迫ったイザイホーで歌うことになる神歌を、祭列の先頭に立ってリードする西銘シズさんに、「歌って聞かせてください」と不用意に言ってしまったことがあった。すると、シズさんはいつになく真剣な表情で、「神の歌はその場にならないと歌えない。その刻になると自然に神が歌わせてくれる」と言った」。
 シマの女性は生まれた時から神女になることを運命づけられ、シマを守る役割があることを子供のころから無意識のうちに育む。成人して神女となり祭祀を託されたシマの女性は、その無意識を祭祀の場で身体表現として発露させるのであり、そこには神女たちの肉体を介した芸術性が潜んでいるように思われる。
 1978年の最後のイザイホーの映像をYouTubeで見ることができる。全員白装束の神女と神女の成り手(ナンチュー)がティルル(神歌)を歌い、「エーファイ」と連呼しながら御殿庭の七つ橋を渡る。そしてまた、ティルルを歌い、手をたたきながら、神女とナンチューたちが御殿庭を輪になって回る。このような儀式が4日間続く。歌と動きとストーリーが、オペラのようであり、歌舞伎のようであり、韓国の民俗舞踊カンガンスルレのようでもある。
 島民はその芸術性に触れ、救済されていることを感じながら日常を過ごす。自由を追求するのではなく、理想的な世界を観想して「汝なすべし」ことをしていれば安寧な生活を送ることができる。これが500年以上続いてきたのが久高島の祭祀文化であり、神女たちによる身体表現の芸術性がそれを支えてきたのではないか、ショーペンハウアーの「美による救済」と重なるものではないか、と私には思われる。
 久高島では、女は神人(かみんちゅ)、男は海人(うみんちゅ)と言われる。男性社会には支配と階級がつきものであり、政治支配や権威は変遷する。一方、女性の特徴は母性に見られる抱擁である。祭祀を司る表現者の芸術性と並んで、それが女性であることに起因する抱擁力が、このシステムを安定させ、シマに安寧をもたらし続けたのであろう。

6 久高島祭祀文化の持続に向けた展望

 内間さんの次の言葉が印象的であった。「シマの女の子は小さいころから祭祀行事に参加し神女になるための素養を身につけていく。私の孫もそう、男子禁制のフボー御嶽の祭祀にも参加している。しかし、親の中には、現代社会への適応を優先し、学業や経済活動を優先させる人も多い」。これは、「我欲す」と「汝なすべし」の二元性、現代社会と久高島の社会の仕組みの相違に起因していると言える。琉球王国時代のノロは職業であったが、現代の社会経済の枠組みの中では定義しづらい。一方、シマで生まれてシマで結婚した女性でないと神女になれないという習わしがある。神女の成り手不足により、1978年を最後にイザイホーが途絶えている。シマの外に目を向ければ、神女になりたいという女性もいることだろう。内間さんの言葉からもご自身の胸の内を感じたが、彼女は沖縄本島から嫁いできたのでその資格がない。500年以上続いてきた伝統を揺るがすことになりかねないが、持続のためにはわずかな変化がシマに求められているのかもしれない。

7 まとめ

 欲望の資本主義が格差と分断を促したと言われる現代にあって、格差も分断も生むことなく500年以上も安寧を持続してきた久高島は、特異なコミュニティと言えるだろう。その背景に、神女が執り行う祭祀に潜む芸術性が、「美による救済」があったのではないかと考察した。
 政治支配や権威に左右されず持続可能な社会への転換が叫ばれる現代において、久高島の祭祀文化の芸術性に、そしてそれを受容するシマの感性に、その解決の端緒があるようにも思われる。

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    11月のイザイホーは1978年を最後に中断。
    比嘉康夫『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』37ページ、38ページ、より
  • 2 【図像①】ガイドの内間さん
    (2020年7月25日 筆写撮影)
  • 3 【図像②】大君口・君泊(うぷちんぐち・ちみんとぅまい)
    琉球王国時代、国王と聞得大君が来島する際に使われた港。
    (2020年7月25日 筆写撮影)
  • 4 【図像③】御殿庭(うどぅんみゃー)
    久高御殿があった場所で、村落の主要な年中祭祀の祭場。
    (2020年7月25日 筆写撮影)
  • 5 【図像④】フボー御嶽
    沖縄七御嶽の一つで、久高島のみならず沖縄最高の霊地。男子禁制であり、観光客はここから先は入れない。御嶽はこの奥にある。
    (2020年7月25日 筆写撮影)
  • 6 【図像⑤】カベール岬
    琉球開闢の祖アマミキヨが降臨あるいは上陸した聖地とされる岬。
    (2020年7月25日 筆写撮影)
  • 7 【図像⑥】外間ノロの家・ウプグイ
    正月を始め主要な年中祭祀の祭場。
    (2020年7月25日 筆写撮影)
  • 8 【図像⑦】イシキ浜
    五穀の趣旨の入った壺が漂着したとされる五穀発祥伝説の浜。
    (2020年7月25日 筆写撮影)

参考文献

佐々木健一『日本的感性 感触とずらしの構造』、中公新書、2010年
佐々木健一『美学への招待 増補版』、中公新書、2019年
比嘉康夫『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』、集英社新書、2000年
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』、中公クラシックス、2004年

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