負の遺産「陸軍登戸研究所」を保存・活用・継承する「明治大学平和教育登戸研究所資料館」

上野 清美

1.はじめに
陸軍の秘密戦のための資材の研究・開発をした登戸研究所の全貌を伝える場が明治大学平和教育登戸研究所資料館である。1974年(昭和49)私が入学した神奈川県川崎市立生田中学校から登戸研究所が見えた。その一帯は不気味で怖い記憶として残っている。大人になり、夫の同僚の教諭と高校生が登戸研究所を調査した。1932年(昭和7)生まれの母は、群馬県富岡市の小学校の講堂で上級生が風船爆弾を作っているのを見ている。そして私が卒業した生田中学校はかつての登戸研究所の一角であった(註1)。この不思議な縁により、登戸研究所を保存・活用・継承し、平和・科学教育の発信拠点にしていこうという明治大学平和教育登戸研究所資料館を考察し、報告する。

2.基本データ
名称:明治大学平和教育登戸研究所資料館
展示のねらい:陸軍登戸研究所の全貌を伝えるとともに、戦争と平和について考える場になることを目的としている(註2)。
展示内容:登戸研究所の第一科から第四科で開発された秘密戦のための兵器・研究開発を資料館の第一室から第五室で展示している。
第一展示室:登戸研究所の全容とその歴史が概観できる。
第二展示室:第一科開発の電波兵器や風船爆弾など物理学利用の兵器開発を展示。中心になる展示は「ふ号兵器(風船爆弾)」の実物の十分の一模型だ。第一科開発の電波兵器「く号兵器(怪力光線)」は実用兵器にはならなかったが、実験動物を殺傷するレベルには達していた。風船爆弾には当初生物兵器(牛疫ウイルス)を搭載する予定であったが、実際には焼夷弾を搭載し、北米大陸まで到達した。
第三展示室:第二科の生物化学兵器やスパイ用品を開発していた活動内容を展示。第二科勤務女性作成の書類ファイル『雑書綴』(註3)のコピーに直接触れることができる。第二科は毒薬・生物化学兵器・スパイ器材の研究開発を行い、外地において人体実験や細菌・ウイルスの散布実験を行った。第二科開発の青酸ニトリールは「帝銀事件」(註4)での使用疑惑もある。
第四展示室:第三科の経済謀略活動のため、中国紙幣(法幣)の偽札製造・使用について展示。偽札製造の5号棟・26号棟の六〇分の一模型も展示している。
第五展示室:本土決戦準備のため登戸研究所が長野移転以降について展示。
開館式典:2010年3月29日
一般公開:2010年4月7日 
所在地:神奈川県川崎市多摩区東三田 明治大学生田キャンパス内 入場無料
交通:小田急線生田駅下車 徒歩10分

3.歴史的背景
登戸研究所(正式名称、第九陸軍技術研究所)は、日本陸軍の秘密戦のための兵器・資材を研究開発・製造した施設である。神奈川県川崎市生田の11万坪(約35万平方メートル)の敷地に建ち、1944年の最盛期には100棟を超す建物と約1000人の人たちが働いていた。登戸研究所は陸軍から重要視されていたため、東条英機、三笠宮(昭和天皇の弟)も来訪した(註5)。そして終戦とともに閉鎖した。終戦間際の証拠隠滅命令により、登戸研究所の研究資料はほとんど消された。1950年、登戸研究所跡地の約半分を明治大学が購入し、生田校舎が開設された。1980年半ば、登戸研究所の存在を知った川崎市民、高校生、歴史教育者により、歴史の掘り起こしが始められた。それまで口を閉ざしていた登戸研究所関係者が、高校生の熱意により次第に証言に応じるようになった。そして明治大学においても次第に登戸研究所遺跡の調査・保存を求める動きが広まり、2008年、登戸研究所展示資料館を開館することを正式決定する。2010年、登戸研究所の旧施設である36号棟を保存・活用し、明治大学平和教育登戸研究所資料館が開館する。資料館と共に登戸研究所遺構の動物慰霊碑、弥心神社(現生田神社)、弾薬庫、消火栓も保存された。

4.明治大学平和教育登戸研究所資料館の評価点
第一は、旧日本陸軍研究施設であった登戸研究所第二科、穀物用細菌兵器開発36号棟の建物をそのまま保存・活用・継承している点だ。全国的にも類例をみない存在と思われる。
第二は、終戦間際に隠蔽された秘密戦の記録を、川崎市民、高校生たちが掘り起こし、身近にあった負の遺産の歴史、戦争の暗部を解明した点だ。そして登戸研究所の全貌を伝えることで歴史の真実を伝え、平和・歴史教育の発信地として位置づけられている資料館になっている。
第三は、防諜・謀略・略報・宣伝からなる秘密戦(註6)という隠された裏面に焦点をあてた資料館である点だ。秘密戦に関わった技術者や兵器生産に関わった一般市民から聞き出した記録、記憶、証言を可能な限り収集し、展示・保存・継承している。
第四は、戦争と科学技術の関わり方、戦争における被害と加害について問いかける場になっている点だ(註7)。登戸研究所で開発された兵器は、人道上・国際法規上問題が多い(註8)。戦争により失われていく倫理観・人間性を直視し、歴史の事実を語り継ぐ重要性を提起している。

5.同じ負の遺産がテーマである広島平和記念資料館と比較し特筆される点
1945年(昭和20)8月6日、人類史上初めての原子爆弾が広島市中心部の上空約600メートルで炸裂し、広島市は壊滅的な被害を受けた。このことを後世に残すため1955年(昭和30)、丹下健三設計により広島平和記念資料館が開館され、累計7400万人が来館した。では広島平和記念資料館と明治大学平和教育登戸研究所資料館を比較する。相違点は、広島平和記念資料館は被害側の立場を展示・保存・継承するために作られた資料館だ。いっぽう明治大学平和教育登戸研究所資料館は、秘密戦の研究所で行った加害側の立場を展示・保存・活用・継承するために作られた資料館である。加害側の立場である登戸研究所の秘密戦研究資料は、終戦間際にほとんど処分された。登戸研究所の存在を知った川崎市民や高校生らは歴史の真実を封印してはいけないと、元研究員たちから直接話を聞きだし資料としてよみがえらせた。そしてその集めた資料は後世に残さなければいけないと判断した明治大学により、戦争遺跡である建物の中で展示・保存・活用・継承している。これらのことは特筆すべき点であり、きわめてめずらしいことである。いっぽう、類似点はどちらも戦争の負の遺産の全貌を伝え、戦争と平和について考える場であることだ。両資料館は、戦争は立場の違いにより見えてくるモノは表裏の関係であるということを教えてくれる場である。

6.今後の展望
終戦間際にその存在自体を消され隠蔽されてしまった登戸研究所。加害側の立場である登戸研究所の歴史を多くの人たちに知ってもらうことは、原爆ドームのように被害側の立場を知ってもらうのとは違い難しいのが現実である。明治大学では明治大学平和教育登戸研究所資料館を広く、多くの人たちに知ってもらうため、Twitter、Facebook、インスタグラム、YouTubeに掲載している。しかし、どのくらいの人が関心を持ち検索しているのか。登戸研究所の保存を求める声により、川崎市は2018年(平成30)、登戸研究所跡地一帯と資料館を川崎市地域指定文化財にした。2020年、10周年を迎えた明治大学平和教育登戸研究所資料館も、各展示室に展示解説ビデオを設置した。だが資料館の知名度はけして高くない。なかなか広がりをみせない。それだけ加害側の負の遺産は広がりにくいものなのか。今後の展望は、地道な活動により多少は来館者も増え、知名度が上がるかもしれない。だがマスコミなど、何か爆発的な発信、コトがなければ現状維持の状態がこの先も続くであろう。

7.まとめ
終戦間際に証拠隠滅をした秘密戦という特殊な世界は、公式な歴史には全くと言っていいほど記録が残されていない。よって、日本の中で秘密戦の研究所があったという事実をどのくらいの人が知っているのであろうか。日本が聖戦という大義名分の中で、人道上・国際法規上問題のあることをしてきた。戦争とは、倫理観・人間性が次第に失われていき、生か死か、勝ちか負けかになる。科学は正しく利用されなければ、悪にも兵器にもなる。加害側の暗部や戦争の裏の部分に目を向け戦争遺跡を活用し、実際に行われていた歴史の暗部を学び、戦争の裏側から戦争の本質を見る明治大学平和教育登戸研究所資料館。多くの人に歴史の真実を伝える場とし、保存、活用、継承する価値がある資料館であることを報告する。

  • 1 資料1:明治大学平和教育登戸研究所資料館
    旧日本陸軍の研究施設であった登戸研究所第二科、穀物用細菌兵器開発36号棟の建物をそのまま活用している。(明治大学生田キャンパス西南門の外より、2020年12月13日、筆者撮影)
  • 2 資料2:明治大学平和教育登戸研究所資料館 
    コロナ禍のため閉館中。(明治大学生田キャンパス西南門の外より、2020年12月13日、筆者撮影)
  • 3 資料3:陸軍登戸研究所全景(1947年、米軍撮影)(出典:山田朗、渡辺賢二、齋藤
    一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、中扉写真)【註1】
  • 4 資料4:陸軍登戸研究所の建物配置図と組織図(出典:渡辺賢二『陸軍登戸研究所と
    謀略戦』、38、39頁)【註2】
    建物配置図の第四科工場地は、現在は私が卒業した神奈川県川崎市立生田中学校が建っている。隣接する地図下部には、神奈川県川崎市立三田小学校が建っている。
  • 5 資料5:陸軍登戸研究所(出典:旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編、
    『陸軍登戸研究所』、本の表紙)【註3】
    上段左写真:解体前の偽造紙幣製造工場、旧5号棟。
    2011年に解体された。第三科の偽札製造は「秘密の中の秘密」の場所であった。そのため第三科の周囲には3メートルの板塀が張り巡らされていた。【註4】
    上段右写真:三笠宮来訪時の記念写真。前列中央で軍刀をついているのが三笠宮。【註5】
    中央左写真:石井式濾水機濾過筒とフラスコ。
    石井式濾水機濾過筒とフラスコは、戦後、本土決戦準備で移転した長野県に残されていた。【註6】
    中央右写真:裁断前の偽造法幣。
    1942年春、香港の中国法幣印刷所から正式の印刷版や輪転機を持ち帰った。それ以降はその機械を使用し印刷したので、まさに本物そっくりの法幣になった。【註7】
    下段左写真:かつて細菌・ウイルスなど生物・化学兵器の研究・開発をしていた登戸研究所第二科、36号棟。2010年から明治大学平和教育登戸研究所資料館として開館している。【註8】
    下段右写真:弾薬庫。
    広さ15平方メートル。登戸研究所で製造した小型缶詰爆弾、毒入りチョコレートなど特務機関員が携帯する小物の収納場所であった。【註9】
  • 6 資料6:明治大学生田キャンパス内の旧陸軍登戸研究所の史跡(出典:明治大学HP
    内、明治大学平和教育登戸研究所資料館、キャンパス内の史跡を筆者構成)【註10】
    地図①の史跡:明治大学平和教育登戸研究所資料館。
    かつて細菌・ウイルスなど生物・化学兵器の研究・開発をしていた登戸研究所第二科、36号棟を活用している。【註11】
    地図②の史跡:弾薬庫。
    広さ15平方メートル。登戸研究所で製造した小型缶詰爆弾、毒入りチョコレートなど特務機関員が携帯する小物の収納場所であった。【註12】
    地図③、④の史跡:消火栓。
    陸軍のマークだった星形が鋳込まれている。火薬を使う小型兵器開発を行っていたため、当時は各所に消火栓が配置されていた。現在は2箇所だけ保存された。【註13】
    地図⑤の史跡:弥心(やごころ)神社(現生田神社)。
    1943年(昭和18)、陸軍技術有功章を受賞したときの金一封(1万円)で動物慰霊碑と同時に建てられた。新宿・戸山が原の陸軍科学研究所から分祀した「発明の神」を祀った。同時に研究所で殉職した勤務員を慰霊した神社である。【註14】
    地図⑥の史跡:動物慰霊碑。
    動物慰霊碑としては高さ3メートルあり、立派すぎる石碑である。首相兼陸軍大臣・東条英機から直接、陸軍技術有功章賞状と金一封(1万円)を授与され、金一封の一部で動物慰霊碑と弥心神社が建てられた。陸軍技術有功章賞状と金一封は中国の南京病院での人体実験が軍内部で高く評価されたことで授与された。【註15】
  • 7 資料7:明治大学平和教育登戸研究所資料館、館内案内図(出典:明治大学HP内、明
    治大学平和教育登戸研究所資料館、館内マップ)【註16】
    第一展示室:(写真)全景ジオラマ、航空写真。
    航空写真は戦前の4枚の航空写真(1936年・1941年・1944年・1945年に参謀本部が撮影したもの)により、研究所施設の拡大の様子がわかる。【註17】
    第二展示室:第一科の活動内容を展示。(写真)風船爆弾1、風船爆弾2。
    風船爆弾の10分の1模型を展示。風船爆弾は、こんにゃく糊でさまざまなサイズの和紙を何枚も重ね合わせ製造した。群馬県富岡市の小学校の講堂で上級生が風船爆弾を作っているところを見た母の話によると、講堂の中にはたくさんのふすま位の大きさの板があった。その板にこんにゃく糊で和紙を貼り、それを乾かすために外に出す。そして乾いた和紙のついた板をまた講堂に運び、その上にまたこんにゃく糊で和紙を貼る。それを繰り返しおこなっていた。終戦後、風船爆弾を作っていた講堂は、床がべとべとで使える状態ではなかった。(2020年7月2日、母よりの話)
    風船爆弾とは、直径10メートルの巨大気球に水素ガスを充填し、秋から冬にかけて1万メートルの高空を西から東に流れる偏西風(ジェット気流)に乗せてアメリカ本土に爆弾を投下する兵器である。アメリカ本土まで8000㎞。平均時速200㎞の偏西風に乗ったとしてもアメリカ本土に到達するには50~60時間かかる。昼夜の温度差により水素ガスが冷却収縮して気球が落下することを防ぎ、高度維持のために気圧計に連動させた砂袋(パラスト)を自動的に落下させるようにした。そしてアメリカ本土上空に達したころに時限装置で爆弾を投下し、気球本体も爆破し証拠隠滅した。1944年11月3日から翌年4月29日まで千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の発射基地から、15キロ爆弾と数個の焼夷弾を搭載した9300個の風船爆弾が放球された。アメリカ本土到達確認された風船爆弾は361個。【註18】
    第三展示室:第二科の活動内容の展示。(写真)技術有功章、謀略兵器。
    第四展示室:第三科の活動内容の展示。(写真)偽札。
    偽札製造にかかわった5号棟(印刷工場)・26号棟(偽札倉庫)の60分の1模型、26号棟の部材の実物展示。【註19】
    第五展示室:本土決戦準備のために登戸研究所が長野に移転して以降を展示。(写真)フラスコ・濾過筒。【註20】
  • 8 資料8:明治大学平和教育登戸研究所資料館の展示内容(出典:文、山田朗、渡辺賢
    二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、35頁から52頁を引用し筆者制
    作。図、渡辺賢二『陸軍登戸研究所と謀略戦』、72頁)
    第一展示室から第五展示室の展示内容【註21】と風船爆弾の全体図【註22】

参考文献

註釈 
(註1)旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』、平和文化、2009年、29頁
(註2)山田朗、渡辺賢二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房、2011 年、40頁
(註3)渡辺賢二『陸軍登戸研究所と謀略戦』、吉川弘文館、2012年、4頁
『雑書綴』:第二科(生物・化学兵器担当)にタイピストとして勤務されていた、関コトさんが自らの和文タイプの練習用に保存していた雑多な書類束で、終戦時に偶然持ち出すことができたものである。そしてこの資料から青酸ニトリールや蛇の毒などいろいろな毒物兵器を開発していたことがわかった。
(註4)渡辺賢二『陸軍登戸研究所と謀略戦』、吉川弘文館、2012年、178頁、179頁 
「帝銀事件」:1948年(昭和23)1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に「東京都免疫部」の腕章を巻いた男が赤痢の予防薬と称し、行員16人に毒物を飲ませ、うち12人が死亡、4人が重体となり、その間に現金・小切手が強奪されたという事件である。
(註5)旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』、平和文化、2009年、14頁
(註6)山田朗、渡辺賢二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房、2011年、37頁
(註7)山田朗、渡辺賢二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房、2011年、37頁、38頁
(註8)山田朗、渡辺賢二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房、2011年、38頁

資料註釈
【註1】山田朗、渡辺賢二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』芙蓉書房、2011年、中扉写真  
【註2】渡辺賢二『陸軍登戸研究所と謀略戦』、吉川弘文館、2012年、38頁、39頁
【註3】旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』、平和文化、2009年、本の表紙
【註4】渡辺賢二『陸軍登戸研究所と謀略戦』、吉川弘文館、2012年、126頁
【註5】旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』、平和文化、2009年、14頁
【註6】山田朗、渡辺賢二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房、2011 年、46頁
【註7】渡辺賢二『陸軍登戸研究所と謀略戦』、吉川弘文館、2012年、143頁、145頁
【註8】旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』、平和文化、2009年、27頁
【註9】旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』、平和文化、2009年、29頁
【註10】明治大学HP https://www.meiji.ac.jp/noborito/index.html、(2020年12月3日閲覧)
【註11】山田朗・渡辺賢二・齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房、2011年、20頁
【註12】旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』、平和文化、2009年、29頁
【註13】旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』、平和文化、2009年、16頁
【註14】旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』、平和文化、2009年、30頁
【註15】山田朗、渡辺賢二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』芙蓉書房、2011 年、112頁
旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』平和文化、2009年、9頁、12頁
【註16】明治大学HP https://www.meiji.ac.jp/noborito/index.html、(2020年12月3日閲覧)
【註17】山田朗、渡辺賢二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房、2011 年、44頁
【註18】旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』、平和文化、2009年、17頁から21頁
渡辺賢二『陸軍登戸研究所と謀略戦』、吉川弘文館、2012年、61頁
【註19】山田朗、渡辺賢二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房、2011 年、44頁、45頁、46頁
【註20】山田朗、渡辺賢二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房、2011 年、46頁
【註21】山田朗、渡辺賢二、齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房、2011 年、35頁から52頁。
【註22】渡辺賢二『陸軍登戸研究所と謀略戦』、吉川弘文館、2012年、72頁

参考文献
山田朗・渡辺賢二・齋藤一晴『登戸研究所から考える戦争と平和』、芙蓉書房、2011年
渡辺賢二『陸軍登戸研究所と謀略戦』、吉川弘文館、2012年
旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編『陸軍登戸研究所』、平和文化、2009年
長野・赤穂高校平和ゼミナール、神奈川・法政二高平和研究会『高校生が追う陸軍登戸研究所』、教育史料出版会、1991年
明治大学HP https://www.meiji.ac.jp/noborito/index.html (2020年12月3日閲覧)
広島平和記念資料館HP www.hpmmuseum.jp (2020年12月5日閲覧)
広島市HP https://www.city.hiroshima.lg.jp (2020年12月5日閲覧)
明治大学平和教育登戸研究所資料館 10周年を迎えて  YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=G17fTsmvsQ0 (2020年12月30日閲覧)
川崎市教育委員会『川崎市地域文化財ガイドブック』、令和元年(2019)5月
川崎市教育委員会HP https://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000101919.html (2020年12月30日閲覧)

年月と地域
タグ: