-神仏の融合と調和を現代に伝える- 弔いの神楽「墓獅子」
はじめに
藩政時代の八戸南部藩領内*1では神楽が盛んで、獅子頭を「権現様(ごんげんさま)」と呼び、地域の守り神として篤く信仰してきた。しかし、明治期の神仏分離令や修験道廃止令、その後の廃仏毀釈の影響は舞手である山伏を減らし*2、多くの神仏習合*3の習俗は消滅した。では、なぜ鮫神楽の「墓獅子*4」はその習俗のまま残せたのか。そして、この芸能のあるべき姿と、次世代へ繋ぐ運営の仕組みとは何かを考察する。
1.墓獅子の概要
青森県八戸市鮫町に伝わる「墓獅子」は、神道の獅子頭が、墓前で死者を弔う「神仏習合」の姿を今に残す神楽舞である。お盆の8月14日・15日に、曹洞宗「浮木寺」墓地内で舞われる神楽は、地域の風物詩として認知され、青森県重要無形文化財に指定されている。
鮫神楽は、呪術的作法の舞や神楽など厳格な修験者伝承の作法を守り、200年以上継承されてきた。古式を厳守する反面、狂言や歌舞伎を題材にした娯楽性の高い流行を取り入れる*5柔軟性もあり、そうした30以上ある神楽舞の演目の一つが「墓獅子」なのである。
近年は、地元愛好者で結成された「鮫神楽連中」を中心に、小・中学生や高校生の「鮫神楽伝承会」が発足している。地域外の参加者も募り、高齢化や後継者不足の厳しい中で女性の参加者も増え、伝承活動の成果発表の場である「鮫神楽発表会」も定期的に開催されている。
2.歴史的背景
墓獅子が現代に残る背景には、八戸藩と山伏の歴史が関係している。領内で山伏神楽が活発化したのは、藩が山伏の所属寺社を取り込み組織化*6していたことに起因する。南部藩主が土着信仰*7を統治に利用し、山伏神楽は盛んに行われた。配下の里山伏は、霞*8内での加持祈祷や病人への施薬、社会的弱者の保護や行政の役割も担い*9、武士や民衆の精神的な拠り所として、地域には欠かせない存在だった。つまり、山伏系の鮫神楽が地域に根ざす地盤は、すでに江戸時代には構築されていたといえる。
江戸時代の鮫地域は、重要な藩港として鮫浦役所が設置され、江戸幕府の城米船や諸国の千石船が往来する八戸藩の玄関口だった。この環境が、上方の最新の流行や文化を鮫神楽に取り入れる要因となり、他の山伏神楽とは一線を画す独自性の展開へと結びついた。
神仏習合を体現する「墓獅子」は、神でありながら仏や遺族にも成り代わる特徴をもつ。権現様を依り代に、掛け歌で死者を降霊させ、歌と舞で死者と生者が言葉を交わす。やがて死者を成仏させていく呪術的な流れは「イタコの口寄せ*10」に酷似する。イタコ降霊の巫歌は「神寄せ→仏寄せ→極楽→仏送り→神送り」と展開するが、墓獅子の掛け歌と共通点*11が多いのは、イタコ発祥に山伏が関わった経緯と歴史*12が、山伏修験法の呪術を巫歌に起因させ、墓獅子の掛け歌との類似性を生んだのであろう。
3. 文化資産としての評価
イタコの口寄せは、心理カウンセラーと同様の効果をもっている。東日本大震災後に口寄せに訪れた人は、大切な人との突然の別れに虚無感や喪失感を抱えていた。しかし、故人と思いを伝え合えたと感じることで、心の隙間を埋め、死を受け入れて心境を変化させる。同じように死者と生者の依り代になる「墓獅子」も、かつてはそうした死を受容させる役割を果たしてきたと考えられる。
明治14年(1881)以前の浮木寺*13は「鮫村観音堂」と呼ばれ、隣町の寺直属の尼僧庵だった。死者が出ると、隣町から僧を呼び寄せなければならず、すぐに弔いができない事態も起こったと想像される。『三戸郡誌*14』によると、昭和2年(1927)以前の「墓獅子」は、新しい仏の墓前で舞われていた。その状況を鑑みると、「墓獅子」が死を受容させる別れの場や儀式の働きを担い、地域に必要な存在だったことが伺える。
現代の日本では、教会で結婚式をあげ仏教で葬儀をする。クリスマスを楽しみ寺社へ初詣に行く。こうした大らかさは、森羅万象のあらゆるものに魂や神が宿ると考え、神道と仏教が相互に共生し合う「神仏習合」の思想が根源であろう。「墓獅子」の特筆すべき点は、神仏の融合と調和の思想を継承し、日本人の信仰への寛大さの原点を伝える芸能であることだ。地域の歴史文化のみならず、いにしえより培われてきた人びとの信仰や、弔いの精神文化をも伝える、継承すべき芸能であると評価できる。
4.他の事例との比較と課題
4-1 黒森神楽とイタコの場合
墓獅子が残る神楽に、宮古市の黒森神楽*15がある。鮫神楽とは対照的で神社に所属し、盛岡藩から、霞を越える活動を許された神楽のエリート集団である。その黒森ですら、戦後の後継者不足で巡行を断念した時期がある。また、民衆の嗜好に寄せたことによりレパートリーが減り、復活には30年を費やしたという。つまり、望まれなければ消滅へと直結し、復活には相当な時間と労力を必要とする。「墓獅子」のように、依頼なしには披露もできない、限られた地域の芸能が一度消えたなら、復活は困難を極めるのだ。黒森神楽の例は、継承には演じる場を絶やさない工夫の必要性を暗示している。
最後の南部伝承イタコ*16である松田広子氏は、自らの著書で、一件の依頼料が3,000円であることを明かしている。また、八戸コンベンション協会主催のイタコの口寄せのイベント*17では、定額4,500円(基本3,000円+必要経費1,500円)という明快な価格設定で、5年で延べ101日間開催し1540件の依頼を受けている。信仰に関する金銭話はタブー視されがちだが、イタコの事例では、料金の明確化が依頼しやすさに直結していることは明らかである。
4-2 墓獅子の課題
喫緊の課題は依頼者の減少対策である。少子化が進む昨今、合祀墓を選択する人も増え、厳しさを増すのは明らかである。これまでは、墓参り中、偶発的に神楽衆に遭遇したなら依頼が可能だった。その点も含めて地域住民*18へ取材し、以下の回答を得た。
・頼んでみたいが、いつ・どこに頼めばよいのか分からない。
・日程が14日15日の二日間だけと知らなかった。
・料金が高そうで頼めない。
・お盆中は忙しく見られない。家族(40~60代)も見たことがないと思う。
依頼できずにいる人の存在は明らかで、その方法と料金の曖昧さが依頼のハードルを上げていることも判明した。慰霊という繊細さから、積極的に依頼者を募る活動は行っていない。また、地域でも鑑賞経験のない人がおり、依頼者を切らさずつなげるためにも、鑑賞機会を絶やさない環境と運営の改善は先務である。
5.今後の展望
「墓獅子」を次世代につなぐための改善として、伝承活動の5項目を提案する。
①回覧板での日程と開始時刻の告知。高齢者も多く、回覧板が情報源として活きており、
少ない費用負担で複数回の告知に活用できる。
②告知に連絡先を掲載し事前予約を受け付ける。それによりスケジュールが明確化し、
鑑賞の機会づくりにもつながる。
③予約受付と問合せ先の設置。担当者の存在は、直に神楽衆が金銭に関わり、
経済活動をしているとの悪印象や、反発を招かないための配慮になる。
④32町内会会合での勉強会と上演会の開催。会合時に「鮫の文化的資産」としての価値を
学び、披露の場を設ける。「弔いの場」から「誇るべき町の文化」への捉え直し。
⑤依頼金額の設定と明確化により、依頼のハードルを下げる。イタコの例で
分かるように、金額面の不安を是正し依頼しやすさにつなげる。
鮫神楽は古くより戸別の依頼で舞われており、今より垣根の低い芸能だったと考えられる。改善により「地域共通の文化」として捉え直され、より身近な存在になることが期待される。
6. おわりに
かつて、どこの山伏神楽でも行われた「墓獅子」は消滅した。明治以降の宮城県では法印*19の多くが廃業し、神職へ転換した法印らが、細々とつないで残したのが法印神楽である。当時は、それを当然とする風潮が日本中にあったのである。そうした状況下で鮫神楽の「墓獅子」は、寺社への所属をせず、人びとに寄り添い地域と一体になることで残ってきた。それは、諸国の船が往来する土地柄が流行と古式を融合させ、独自の文化を育むことで、弔いのみならず娯楽としても地域から望まれ、支持を得たからに他ならない。
現代に、神仏習合の精神や姿をそのまま残す「墓獅子」は貴重な芸能であり、その重要性は高い。地域の人びとに、伝統芸能がどのような力をもたらすのか。これからも、弔いの精神文化として人びとの心に寄り添いながら、地域が誇る芸能として次世代へ継承されていくことを願う。
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〔資料1〕
画像左 :南部藩領図 -藩政時代の八戸南部藩領(ピンク色)と盛岡南部藩領(黄色)
八戸・盛岡の両南部藩では「権現様」と呼ばれる修験系の山伏神楽が盛んだった。
(画像は「八戸藩を考える」八戸歴史研究会講演会資料に加筆したものである。)
〈八戸市教育委員会設置の看板〉
画像中央:鮫浦役所跡(奉行所跡)
元禄6年(1693)と同16年(1703)に、屋敷割・船着場・倉庫用地が整備された。
宝永元年(1704)には幕府の城米船が定期入港し始め、廻船や漁船の管理、税の
徴収のため奉行所も設置され、鮫湊が八戸藩の玄関口だったことが記されている。
画像右 :鮫の艀(はしけ)場跡
鮫奉行所が設置され、江戸からの千石船の停泊地として利用され、荷の積下ろしが
行われた跡地。文政(1818)~天保(1844)年間のころが、江戸への往来が
もっとも頻繁で、八戸藩の玄関口だった鮫湊は新しい文化も取り入れやすかった。
(2019年9月 筆者撮影) -
〔資料2〕墓獅子が行われているようす
墓獅子は鮫神楽連中の約10名に依頼者が加わり行われる。墓獅子は誰でも鑑賞できるが、墓参の邪魔にならない配慮をしながら、墓石の隙間や通路からそっと鑑賞する。季節の風物詩となっているため、例年、報道機関の取材が多い。 (2020年8月14日 筆者撮影) -
〔資料3〕
権現様(獅子頭)がお墓に手向けられた花束をもち、依り代として死者に成り代わっている場面。
残された遺族への思いが舞われ、死者と生者が互いを偲び、思い合う交流が表現される。
(2020年8月14日 筆者撮影) -
〔資料4〕依頼を待ち待機中の権現様
鮫神楽では権現様を5体保有している。最古のものは文化13年(1816)と薄く墨書きがある。
権現様の隣は、鮫神楽連中の中で一番若手の担い手、畑中大河氏(27才)である。
大学卒業後、地元を離れることも考えたが、神楽を続けたい思いもあり残る決意をしたという
鮫神楽を継承する期待の舞手である。 (2020年8月15日 筆者撮影) -
〔資料5〕
画像左 :墓獅子への依頼を待ち、墓地の中程で待機する鮫神楽連中。
2020年はコロナ禍の影響で依頼者が少なく、例年より待機時間が長く見える。
この日は、篠笛奏者として女性が参加している。(2020年8月15日 筆者撮影)
画像中央:スーパーに貼られた「鮫神楽伝承生募集」のポスター。
(2017年11月17日 筆者撮影)
画像右 :2018年1月。デーリー東北新聞に掲載された伝承生募集の記事。
地域内外への呼びかけも行われ、積極的な取り組みにより一定の効果が見られる。
定期的な発表会が開催され、神楽に関わるメンバーのモチベーションを高め、
地域住民の鑑賞の機会づくりも積極的に行われている。近年は「鮫神楽」で
TwitterやYouTubeを利用し、現代に合った取り組みもされている。 -
〔資料6〕鮫神楽のレパートリーと「墓獅子」掛け歌の歌詞
歌詞には、神道の「高天原(天照大神をはじめとする神の住む国)」が登場し、仏教の「卒塔婆・浄土」という言葉や「南無阿弥陀仏」の念仏が見られる。神道と仏教の二つの信仰が、折衷し融合と調和してきた「神仏習合」の姿が、この歌詞の中にも残されている。
(画像は、2020年8月15日の取材時に保存会会長の「柾谷伸夫」氏より提供していただいた
鮫神楽「墓獅子」の解説書から転載した。) -
〔資料7〕鮫神楽とは別系統(中山手)の権現様(八戸市尻内町 松本家所有)
画像は、法霊神楽の師匠で舞手の一人だった、(故)松本永松氏所有の雌雄・対の獅子頭である。八戸三社大祭での「龗(おがみ)神社」法霊神楽は行列の目玉で、何体もの権現様が勢揃いしての「一斉歯打ち」は圧巻である。高く響く歯打ちで場を祓い浄める所作は、山伏神楽特有のもので修験信仰を色濃く残す。
山伏神楽は、旧南部藩領(八戸・盛岡)地域では「権現様(ごんげんさま)」と呼ぶが、青森県下北地域では「能舞」、秋田県や山形県では「番楽(ばんがく)」、宮城県では「法印」と呼ばれる。広めた修験者により系統が違い、八戸地域の神楽のほとんどは「中山手」と「江刺家手」の系統に分かれる。しかし、鮫神楽はその両系統とも異なり、発祥も不明で、独自に発達したと考えられている。
(2018年9月29日 筆者撮影) -
〔資料8〕「さめ浜まつり」蕪嶋神社の下で舞う「墓獅子」(右上が蕪嶋神社社殿)
この祭りは、鮫地区の文化や伝統の継承を目的に20年前から毎年開催されている。(2020年はコロナ禍により中止。)蕪嶋神社宮司の祝詞のあとに神輿の海上渡御や、鮫神楽の「墓獅子・鮫虎舞」などが行われる。東日本大震災以降は、犠牲者を弔う海難供養の「墓獅子」が舞われている。神社では仏事を穢れとして避けるため、神社のお膝元での弔いは珍しいことと考えられる。 (2018年7月22日 筆者撮影)
参考文献
【註釈】
*1-資料1-画像左の南部藩領図参照。南部藩とは南部氏により統治されていた地域で、
八戸藩と盛岡藩が存在する。ここで取り上げているのは、現在の青森県南部から
岩手県北部の八戸藩領をさす。
*2-明治元年(1868)に明治政府が出した「神仏分離令」をきっかけに、廃仏毀釈という
仏教排斥運動が起こり、寺社への所属が求められ、神官か僧侶、もしくは帰農し農民に
ならざるを得ず、廃業へと追い込まれた山伏が多かった。
山伏(修験者)とは、修行で得た験力を用い、呪術宗教的な活動を行う宗教者である。
*3-神仏混淆ともいい、日本固有の神と仏教を融合・調和させて同一視し、神道と仏教を
同化させた思想。奈良時代に出現し、明治政府の神仏分離政策のころまで続いた。
*4-青森県八戸市鮫地区に伝承された神楽で、青森県重要無形文化財に指定されている。
山伏神楽に属すが、その発祥は不明で、他の山伏神楽と一線を画した娯楽性の高い
独自の演目をもつ。権現様の上顎と下顎を打ち鳴らす「歯打ち」は、空間を浄める、
古くから続く山伏神楽の特徴である。
*5-資料1-画像中央と画像右は、鮫湊が八戸藩の玄関口だった痕跡を示す。鮫神楽には、
江戸航路の船頭とされる「佐藤連平」記名の嘉永年中(1848~54)と後書きされた
台本集が存在し、台詞・ト書き・舞曲名まで詳細に指定しているこだわりは、連平の
上方芸能への深い造詣を感じる。三浦忠司『海をつなぐ道』の鮫御役所日記(p53)
には、八戸-江戸航路の藩の御手船・久吉丸の船頭として「漣平」名を見つけた。
江戸への往来が確認され、上方の芸能を取り入れた裏付けとなるものだ。
*6-山伏の修験組織は「常泉院」を惣禄(統括者)とし、下部組織の年行事を通して里山伏
(それぞれの地域に居住しながら宗教活動を行う修験者)が掌握されていた。
*7-その土地に古来より伝承され、民衆の中で信仰されてきた生活や習俗に密着した信仰。
*8-山伏(修験者)の縄張りや支配地域。
*9-病気や厄災から身を守るための神仏への祈りやお祓いの加持祈祷や、厄除け札の配布や
戸籍管理なども行われていた。昭和の初期ぐらいまで、祈祷やおまじないをする里山伏の
名残りの「べっとうさん」と呼ばれる人が存在し、地域の相談役になっていた。
*10-民間信仰の一つで、イタコという霊媒の巫女が、死者の霊を降霊させ身体に憑依させ、
死者の思いを語ることを口寄せという。イタコ習俗にも、神仏習合の痕跡が見られる。
*11-青森県立郷土館研究紀要第37号、2013年、北川達男研究員による
「イタコ「オシラ祭文・神よせ」」報告書、2013年
http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-kyodokan/files/2014-0617-1520.pdf
この中には複数の祭文・経文が掲載されているが、墓獅子の掛け歌は、イタコの
ホトケ呼び・仏様の上げおろしの複数の祭文を凝縮させたような印象である。
イタコの巫歌からピックアップして作られた文言に見えるほど類似している。
*12-山伏惣禄とは、江戸期には盲人を統括したともいわれ、山伏をまとめる支配頭である。
太宗婆(正式名不明)が修行・修養で会得した技の全てを、山伏惣禄の鳥林坊の妻に
伝授し二代目イタコ「高舘婆」となった。視覚障害者の「高舘婆」は、鳥林坊と二人で
視覚障害の女性の生業として確立・組織化させたのが南部イタコの発祥である。
*13-浮木寺の発祥は宝暦二年(1752)だが、明治14年(1881)以前は、白銀町の福昌寺
直属の尼僧庵で「鮫村観音堂」と呼ばれていた。寺院に昇格し「浮木寺」となったのは
明治14年(1881)で、それ以前は法霊社とも呼ばれ、金比羅宮も一緒に祀られる、
海や水に関わる霊場でもあった。
*14-三戸郡誌には「鮫村」当時の「墓獅子」のようすが記述されている。p112~113
八戸市発足前の明治期は、藩政時代の八戸藩領と盛岡藩領の一部は三戸郡で、
昭和4年(1929)に三戸郡八戸町と鮫村が合併し、八戸市鮫町と変更された。
*15-2006年、国の重要無形民俗文化財に指定。岩手県宮古市の黒森神社を中心に、北は
岩手県久慈市から南は釜石市まで、三陸沿岸の広範囲を霞として、数ヶ月をかけ
泊まりがけの巡行をすることで知られる。現在は宿泊はせず土日をかけて廻る。
*16-南部イタコの場合、約250年前から師弟関係を辿れる。辿れる最後のイタコと呼ばれる
松田広子氏は6世代目である。近年は「南部伝承イタコ」と呼ばれている。
*17-八戸コンベンション協会により、イタコを観光資源として試験的に活用したイベント。
観光に組み入れ、JR八戸駅において5年間(2009年~14)開催されたが、イタコの
高齢化に伴い行われなくなった。
*18-鮫地区住人の60代~90代で、浮木寺の墓地所有者、または実家や親類の墓地がある
という協力者からの聞取り取材。
久保田サツ氏、久保田弘子氏、十文字みや氏、澤谷カヨ氏、小田イシ氏、
福島氏(氏名不明・男性) (2020年9月8~10日 聞取り順)
*19-法印とは宮城県地域での山伏の異称であり、僧位の一つである。法印神楽は法印に
より伝えられた神楽で、石巻・牡鹿(おしか)・桃生(ものう)・登米(とめ)・
本吉(もとよし)・気仙沼などで現在も行われている。
【参考文献】
阿部達 著『八戸の歴史双書 八戸の民俗芸能』八戸市発行、2001年
三浦忠司 著『八戸藩の歴史をたずねて』デーリー東北新聞社、2014年
三浦忠司 著『海をつなぐ道-八戸藩の海運の歴史-』デーリー東北新聞社、2018年
滝尻善英 著『奥州南部観音霊場巡り 糠部三十三札所』デーリー東北新聞社、2020年
滝尻善英 著『南部の碑は語る』デーリー東北新聞社、1991年
滝尻善英 著『八戸御城下 三十三番札所巡り』デーリー東北新聞社、1988年
青森県高等学校地方史研究会 編『青森県の歴史散歩』山川出版社、2007年
松田広子 著 江刺家均 解説『最後のイタコ』扶桑社、2013年
小井川潤次郞 発行『三戸郡誌 第4編』社団法人 三戸教育委員会、1927年-p112~113
野村朋弘 著 『死を巡る知の旅』藝術学舎、2016年
東北学院大学 震災の記録プロジェクト 金菱清(ゼミナール)編
『3.11霊性に抱かれて』新曜社、2018年
【参考資料】
情報誌『UKIPALユキパル』2019年8月号掲載、
柾谷伸夫「マサヤンのぐだめぎ(つぶやき)」⑧奇習?鮫神楽の「墓獅子」
デーリー東北新聞「ふるさと遺産52 鮫神楽」2017年12月31日掲載
青森県史デジタルアーカイブス民俗編資料南部 7章民俗芸能-1 修験系神楽 (2)鮫の神楽
http://www2.i-repository.net/il/meta_pub/detail (2020年10月26日確認)
佛教大学共同研究成果報告論文集
中嶋奈津子「南部藩領内における死者祭祀に関わる神楽の事例」
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SH/0006/SH00060L035.pdf(2020年12月29日確認)
国際交流基金公式ウェブサイト https://performingarts.jp/indexj.html(2021年1月20日確認)
・アーティスト・インタビュー 黒森神楽・神楽衆 田中大喜 氏
https://performingarts.jp/J/art_interview/1304/1.html (2021年1月20日確認)
・アーティスト・インタビュー 黒森神楽 東北文化財映像研究所 阿部武司 氏
https://performingarts.jp/J/art_interview/1206/1.html (2021年1月20日確認)
北川達男「イタコ「オシラ祭文・神よせ」」青森県立郷土館研究紀要第37号報告書、2013年
http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-kyodokan/files/2014-0617-1520.pdf
(2021年1月10日確認)
山崎福太郎「青森県八戸市におけるイタコの実態と観光資源としての活用事例」
https://core.ac.uk/download/pdf/148783273.pdf (2021年1月10日確認)
雄勝町教育委員会「雄勝法印神楽」
file:///C:/Users/isosa/Downloads/21425_1_%E9%9B%84%E5%8B%9D%E7%94%BA%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E9%9B%84%E5%8B%9D%E6%B3%95%E5%8D%B0%E7%A5%9E%E6%A5%BD%20(2).pdf (2021年1月17日確認)