江戸時代の土木が創り出した筑後川の風景デザイン-水害克服から生まれた風景

山下 正昭

はじめに
九州一の大河である筑後川は、その源を熊本県阿蘇郡瀬の本高原に発し、大分県、福岡県、佐賀県を経て有明海へ注ぎ、流域のみならず九州北部における社会、経済、文化活動との深い結びつきを持っている。特に、多くの人とのつながりが発見できるのは中流域である。筑後川中流域に位置する福岡県久留米市では、肥沃な筑紫平野に広大な田園が広がり、その南側には筑後山地の北端部となる耳納連山がせり出している。豊富な水量により、食糧生産が盛んに行われる地域であると共に、人々の心を魅了する自然風景が存在する。このような筑後川中流域の風景を文化資産として捉え、評価し報告するものである。

1.基本データと歴史的背景
筑後川の幹川流路延長は143キロメートル、流域面積は約2,860平方キロメートルにも及ぶ。筑後川の歴史を辿ると、古代から現代に至るまで、水運、灌漑、洪水調節など、人々の生活に不可欠な役割を果たしてきている。
江戸時代には、筑後川を利用した灌漑用水の開発が本格化し、中流域には堰や水路などの大規模な水利施設が造られた。これにより、筑後川下流域の筑後・佐賀平野では、水路やクリークを縦横に造り、水田の灌漑を行った。
また、筑後川は「筑紫次郎」とも呼ばれ、利根川(板東太郎)、吉野川(吉野三郎)と共に日本三大暴れ川の一つとされている。水害からの復興と併せて江戸時代より大規模な河川改修が行われ、河川形状は水害に強いものへと変化してきている。
(資料-1・位置図、詳細図参照)

2.筑後川の風景デザインに対する評価
1)良好な景観要素
筑後川は、山脈に挟まれた筑紫平野の中央付近を東から西に流れている。その中で、筑後川中流域に位置する久留米市付近を見ると、筑後川から最短で2km程度の近い距離に耳納連山が位置し、河川と山岳地が近接していることがわかる。山岳の標高は、国土地理院地図にて確認すると、西から高良山312m、耳納山368m、発心山697m、鷹取山802mと東に行くにつれ徐々に高くなり連なっている(註1)。また、筑後川中流域は耳納連山とほぼ並行しており、筑後川流域右岸からは筑後川の背後に山岳風景を望むことができ、耳納連山西端の高良山からは、筑後川の中~下流域を一望できる(資料-1・写真1)。
筑後川中流域の風景を評価するにあたり、樋口忠彦による『景観の構造』(註2)を参考とした。樋口は、景観類型としていくつかの事例をあげているが、そこで示される「神奈備山型空間(かんなびやま型)」は、「平地に突出した山容が目立つ小山で、山崇拝の対象となる霊山を望む空間」として、日本人の風景観と深く結びついているとしている(註3)。筑紫平野に突出した耳納連山の西端にある高良山は、古代から霊山として知られ、山頂付近にある高良大社には高良玉垂神が鎮座している(註4)。この事実と、樋口が示す景観構造は一致しており、筑後川周辺は、人が好む景観の要素を備えているのだと考えられる(資料-1・写真2)。

2)土木がもたらした副次的効果
筑後川の歴史は、洪水と共にあるといっても過言ではない。一番古い洪水は、806年(大同元年)に起きており、その後も1573年(天正元年)から1889年(明治22年)までの316年間で183回の洪水記録が残っている(註5)。こうした洪水から生活を守るため、治水工事が戦国時代より行われている。元々の筑後川は、大きく蛇行し、それが原因で洪水被害を起こしていた。この蛇行による氾濫を防ぐ目的から、蛇行部分をショートカットして直線的な流れを確保するために、現在に至るまでに8か所の捷水路(しょうすいろ)が建設されている(註6・7)。そのうち4か所は戦国~江戸時代に工事が行われた(資料-2・筑後川捷水路配置図、表1参照)。
この中でも特に象徴的なのは、江戸初期の筑後柳川藩主となった田中吉政により造られた瀬ノ下捷水路である。1606年(慶長11年)から1618年(元和4年)までの13年の年月をかけ、久留米城の直近下流側で大きく蛇行していた部分をショートカットすることで久留米城及びその城下町を洪水から守ることとなった。この瀬ノ下捷水路完成に伴い、新たなビューポイントが誕生している(資料-2・瀬ノ下捷水路と久留米城、高良山の位置関係参照)。筑後川右岸から東側を望むと、左手に久留米城、右手に耳納連山最西端に位置する高良山が見える。雄大な筑後川を眼下に見ながら久留米城と高良山を同一視野におさめられる景観は、捷水路建造の副次的効果として生まれた風景デザインだといえる(資料-3)。

3.他の事例と比較して特筆される点
江戸時代に治水事業として捷水路建造がなされた秋田県の雄物川(おものがわ)と比較し、その違いを確認した。雄物川は全川にわたって蛇行が激しく、筑後川同様に古くから流域に水害をもたらしていたことから、江戸時代に3か所の捷水路が建造されている。1615年(元和元年)に上流部の雄物川、皆瀬川、成瀬川の合流部付近、1659年(万治2年)に下流部の岩見川合流付近、1782年(天明2年)に中流の玉川合流点の河川の改修がされている(註8)。
雄物川も良好な自然風景を残しているところであるが、江戸時代に捷水路建造された箇所付近において、筑後川の瀬ノ下捷水路と同様に、城が配される箇所は見当たらない(註9)。下流部では開けた原野、中~上流部は河川背後に山脈が近接している状況である。これは、樋口忠彦による『景観の構造』における景観類型との一致は見られない(資料-4)。
元来、河川改修の目的は治水にあり、風景を創造するものはない。筑後川と雄物川の捷水路を比較すると、治水という目的は同一であるが、そこに生まれた風景は違うものとなっている。筑後川は、江戸時代の土木が創り出した風景デザインを今でも愛でることができる河川として特筆されるのである。

4.今後の展望
久留米市教育委員会では、今から150年以上前の江戸後期に描かれた「筑後川水吐新川見積絵図」が収蔵されている。この図は、水害に見舞われた住民が藩に対して河川改修を求めるために、新川の意義や工事に必要な人員、賃金、資材等の見積りを付記したものである(註10)。計画を見ると、中流から下流を大胆にショートカットした新川が赤い線で描かれている。江戸時代に捷水路が建造された後に、さらなる改修を求めたものであるが、結果的には実現していない。この新川計画が実現していれば、筑後川の風景デザインは今とは全く違ったものになっていたであろう(資料-5)。
近代の河川改修は出水量の確率や水理など土木工学的な計算から流水断面の計画がなされている。昭和時代の河川改修はコンクリート構造による、いわゆる三面張りが多かった。平成時代以降、河川計画は自然景観を壊さないようにコンクリートブロック護岸などが前面に出ないように、多自然型護岸など景観や生態系を壊さない配慮がなされてきた。筑後川においても、筑後川に流れ込む支川の高良川での事例(註11)もある。多自然型川づくりは、周辺を含めた風景デザインというよりも川を中心として近景で楽しむ景観形成的要素が強くなっている。
これらを総合的に考えると、筑後川の風景デザインは、江戸時代にほぼ完成されたともいえる。今後の展望としては、大きな改変ではなく、現在の風景を活かしたものとしていかなければならない。筑後川の周辺地域の開発に伴う大きな建造物建設は極力抑制し、風景に溶け込む工夫が求められる。これは、2011年(平成23年)に施行された『久留米市景観計画』(註12)でも示されている。

5.まとめ
筑後川は水害を契機として、江戸時代から改修が進められ今の姿となった。当時は、災害からまちを守るという発想しかなかったはずであるが、それが筑後川の風景デザインを生むことになったのである。つまり、筑後川の風景デザインは江戸時代の土木により誕生したといえる。土木は、治水や利水を目的としているが、風景デザインの一つの手法ともなり得る。先人の知恵と工夫と努力によって生まれた風景を、これからも文化資産として守っていかなければならないのである。

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  • 81191_011_32085031_1_2_資料−2_page-0001 資料-2
  • 81191_011_32085031_1_3_資料−3_page-0001 資料-3
  • 81191_011_32085031_1_4_資料−4_page-0001 資料-4
  • 81191_011_32085031_1_5_資料−5_page-0001 資料-5

参考文献

(註1)国土地理院 電子国土Web https://maps.gsi.go.jp/#13/33.303560/130.620060/&base=pale&ls=pale%7Cd1-no959%2C0.65&blend=1&disp=10&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0&d=m(2024年7月26日閲覧)
(註2)樋口忠彦『景観の構造 ランドスケープとしての日本の空間』技法堂出版、1975年
(註3)ミツカン水の文化センター機関誌『水の文化』14 号「京都の謎」 https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no14/04.html(2024年7月26日閲覧)
(註4)高良大社ホームページ http://www.kourataisya.or.jp/(2024年7月26日閲覧)
(註5)国土交通省筑後川河川事務所「筑後川の洪水の歴史」https://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/archives/kozuichisui/cikugokozui/index.html(2024年7月26日閲覧)
(註6)国土交通省筑後川河川事務所「筑後川歴史散策 中流域エリア 捷水路群」 https://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/site_files/file/riyo/02-history/imgs/syousai/syousui.jpg(2024年7月26日閲覧)
(註7)大串浩一郎・川原航・森田俊博 共著「筑後川の捷水路と旧蛇行部の治水・利水の効果に関する水理学的検討」、土木学会論文集B1(水工学)、2019年 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejhe/75/2/75_I_469/_pdf(2024年7月26日閲覧)
(註8)国土交通省秋田河川国道事務所「雄物川直轄河川改修百周年 江戸時代の河川改修」 https://www.thr.mlit.go.jp/bumon/j75001/river/14_omonogawaayumi/omonogawa_100/gaiyou_kaisyuu.html(2024年7月26日閲覧)
(註9)秋田県教育庁生涯学習課文化財保護室「秋田県遺跡地図情報」 https://common3.pref.akita.lg.jp/heritage-map/map/index.html(2024年7月26日閲覧)
(註10)久留米市市民文化部文化財保護課への聞き取り調査による
(註11)一般社団法人九州地方計画協会 九州技報第14号1993.12 グラビア「多自然型川づくり・筑後川水系高良川」https://k-keikaku.or.jp/%E5%A4%9A%E8%87%AA%E7%84%B6%E5%9E%8B%E5%B7%9D%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%83%BB%E7%AD%91%E5%BE%8C%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E7%B3%BB%E9%AB%98%E8%89%AF%E5%B7%9D/(2024年7月26日閲覧)
(註12)久留米市都市建設部都市計画課『久留米市景観計画』 https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1050kurashi/2070machi/3070keikan/2011-0113-1831-197.html(2024年7月26日閲覧)

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