高来神社(たかく)の御船祭の御座船

江藤聡子

高来神社(たかく)の御船祭の御座船

高来神社の来歴は、寺宝古文書等の散失と消失によってはっきりしない。大磯の東にそびえる高麗山は古代から神宿る山として信仰を集めていた。神功皇后の三韓征伐の後、武内宿禰が奏上して、東夷静謐の為に神皇産霊神、高麗大神和光(高麗権現)を高麗山上に遷して祀った。それがこの神社の始まりとされている。
奈良時代の初め養老元年(717)、僧行基がこの地を尋ねた際、大磯の照ケ崎の海中から漁民が引き上げた千手観音菩薩を拝して、これを本地仏と定めて鶏足山高麗寺を創建した。山頂の高麗権現と下宮の千手観音を併せ祀ることになり、この地が神仏習合の聖地として長らく信仰されてきた。徳川家康はこの地が気に入り、寛永11年(1634)には東照権現(家康)が当地に勧請された。そのため、参勤交代の際、大名は駕籠から降りて高麗寺の大鳥居の前で深々とお辞儀をし、毛槍を下げて寺領内を静かに通らなければならなかった。 特定の檀家を持っていなかったのと 東照権現を祀っていたことが災いして、明治元年の廃仏毀釈で高麗寺は廃寺となり、神社はもとの高麗神社を称するようになり、明治30年に高来神社と再度改称している。
神奈川県は、668年の高麗滅亡を契機に、日本に渡来してきた戦争難民が住み着いた土地のひとつだ。彼らは戦争の難をあらかじめ避けるため、あるいは戦闘で荒廃した土地を捨てて、新しい土地に流れた。660年に新羅・唐の連合軍に百済が滅亡したとき、日本は多くの百済遺民を受け入れた。それから8年後、百済に次いで高麗が新羅・連合軍に滅ぼされたときも、事情は同じで多くの遺民が日本に渡来し、関東の開拓のため、高麗移民が関東各地に配された。現在の大磯町付近にも高麗からの多くの渡来人が住みついたため高麗の郷と呼ばれた。 高来神社の"たかく"を音読みにすれば”こうらい”、すなわち高麗だ。
神奈川県中郡大磯地区の北下町、南下町が中心となって、毎年「神輿」「御座船」がでる夏の大祭が盛大におこなわれてきた。昭和15年頃から「御座船」は一年おき、偶数の年に出るようになった。現在は、7月第3土曜日、日曜日に行われているが、本来は7月17日、18日が祭日だ。
古くは、船で花水川をさかのぼり、神輿を船に乗せて花水川を下り、相模湾の海上に出て照ケ崎の式場まで海上渡御し、浜降りのみそぎをしたと伝えられる。その後、ある年の暴風雨によって海上を渡御することができなくなったためとか、地震で花水川の河床が浅くなったためとか、いつの頃から川から神輿をお迎え出来なくなった。
他の地域でも海上渡御から陸上渡御に変わったところがある。三浦市三崎の「海南神社の夏の例大祭」では、明治時代の始め、海上渡御の途中で死傷者が出て、海上渡御をやめ陸上渡御になった。
天災によって陸上渡御に変更されたという例は高来神社のみで特筆される。
高来神社から御霊を納められた12基の神輿と美しく飾られた2艘の船形の山車が日曜日の早朝出発し、山王町、長者町、北下町、南下町などの目抜きの街路を通る。最終的に正午頃、照ヶ崎に浜降りして終了だ。
7月18日は大磯浦の漁夫加藤蛸之丞が、高麗寺の本尊であった千手観音を、海中から引き揚げたといわれる日であり、御船祭は700年余りの歴史と伝統をもって受け継がれてきた。
費用の点、その他の事情で、2年おきの7月18日(現在は7月第3日曜日)に、御船の渡御があり、2艘の「権現丸」「観音丸」の御座船が祭の主役だ。今は神輿は人の肩で担い、「南下町」は「観音丸」を以て、山王町の端まで迎えに参り、「北下町」は「権現丸」も以て、高来神社の鳥居前まで迎えに参り、共に神輿の先駆後駆となり進む。各所で、千手観音や高麗人渡来の伝説の、「木遣・御船歌」を唄いながら照ケ崎の式場までお供する。 明治元年の「神仏分離令」により仏教的要素を退けるため、「観音丸」は名称を「明神丸」に改め、現在は2艇とも「明神丸」と呼ばれる。昭和47年に大磯町無形民俗文化財指定された。
2艇は舟形の山車で、長さ1丈8尺(約5メートル)、幅9尺(約2メートル)。ケヤキ作り、極彩色、屋根形は襖、その上に神紋を染めた水色(水引幕)を垂れめぐらす。長さ3丈(約3メートル)、水色は3枚。文化11年製と明治34年製があるが使用に耐えず、昭和41年に新調したものを使用する。船枠は漆塗り、巴紋を散らす。「権現丸」の舷上には中央に白丁姿に御幣を持つ日枝神社の猿の人形さるたひこのみこと、「明神丸」には太鼓の上に羽毛を広げた鶏、かんことほうおうが飾られる。周囲に船名、神社名を書いた幟旗を立てる。権現丸の船首は竜頭、明神丸は鳳首。船首から屋形にかけて綱をはり、サルンボとかオサルサンと呼ばれる赤い布で作ったつくりものが吊るされる。下部には奉納者の名前を書き、子孫の繁栄と無病息災を祈る。健康を祈る呪形で三角形の袋物もつける。車体は四輪、木製。氏子が綱で曳行する。一定の場所で行列を停め、木遣、船唄、かけづけ唄をあげる。
船唄は、船山車の上で漁師たちがうたう。浴衣、羽織、日の丸扇子をもつ。木遣は町内の所定の場所に船山車を停めて、別の漁師たち(木遣師という)がうたう。かけづけ唄は、船山車を曳行中にうたう船唄の一種。木遣唄がそのうたう場所によって内容の違う多くの歌詞をもつのは、この船祭の特徴であり大磯の文化と伝説を知り得る。木遣師は麻の単衣、袖口は紅と青の布切れで二重にし、頭には長さ五尺の黒木綿をかぶる。
この祭は、浜青年と呼ばれる漁民だけで構成する青年団によってとりおこなわれてきた。祭の執行にあたっては、遠方へ仕事に出ていても祭の準備のために必ず帰らないといけなかったこと、漁民以外の者の参加を認めなかったこと、神霊の乗った祭船を2階から見下ろしてはいけないなど、厳しい戒律もあった。祭の費用は、年4日あるツリアゲと呼ばれる日に青年たちが漁をしてあてた。
加藤家は千手観音の発見者として世襲的に祭を司っている。観音様の台座に鮑がついていたので祭典では必ず鮑を供物として供えなければならない。鮑は海神の特殊神饌として鹿島神宮をはじめ各地の祭祀にみられる。明治維新前までは蛸之丞は帯刀を許され、子孫は裃を着して陣笠を被り刀を手に携えて船祭の行道を指揮し現在に至る。
ところで、船の形をした船山車を出す祭は海岸地帯を中心に多く見られ、精緻な彫刻や多彩な彩色が施され、町人の財力を誇示する贅をつくしたつくりのものが多い。
信濃の「オフネ」は船山車とは形態が相違し破壊を前提にするものもあり、同じ舟形の山車でもまったく異質な存在だ。
長野県中央、諏訪湖畔に鎮座する諏訪神社では、湖を中心に南北に上社と下社があり、8月1日にオフネに曳かれて下社の諏訪の神が春宮から秋宮へ遷御する「お舟祭り」が行われる。下社の祭神は1月~6月を春宮、7月~12月秋宮に鎮座すると言われている。元々は1月1日と7月1日の年2度実施されていたが明治に入って太陽暦が採用され、養蚕の最盛期と重なったため、2月1日と8月1日に実施される。2度の祭りは同一の意味と規模を持つはずが、8月の祭りを重視し、春に山に坐す神が里に降りて農耕を司って秋に再び山に帰ると考えられており、収穫を祝う盛大なお祭りを行う。1月の祭りは神輿渡御だけの静かなお祭りだ。
オフネが巡航する理由として、春秋両社の間を船運によって往来した時代の船渡御の名残と言われている。
オフネは長さ約10m、幅約4m、高さ約3m、重量2.5トンにも及ぶおおきなもので、2本の太い欅で橇をつくりその上に立体形に近いヤグラを組み立てる。骨組みに杉葉などの束を結わえつけ舳先と艫の形に仕上げ、黄、青、黒、白、赤の縦縞五色の幕で囲って舟の形につくり注連縄を張りめぐらせる。オフネには翁と媼の人形が載せられ、建御名方命と八坂刀売命が諏訪湖で舟遊びをする様子が再現されている。オフネの曳行に合わせ、長持行列、騎馬行列、時代行列、民謡流しなどの神賑わいが繰り出される。他の地方と違い曳行を元気づける囃子は存在しないで、木遣り唄とラッパの音色が力を与える。秋宮に到着し鳥居を抜け神楽殿正面に止まり二体の人形をはずし、幕をめくりあげ、オフネを倒しては戻すを繰り返して全て終了する。
昭和41年に船祭を後世に伝えることを目的として、「大磯船祭保存会」が発足し、祭典日などの規約も作られている。我が町の貴重な祭の保存に自分もかかわれたらと思う。




大磯御船祭保存会 福田良昭さまより、以下の内容について、ご指摘を頂きました。ありがとうございました。卒業研究を執筆された江藤さんからも了承を得ましたので、追記いたします(芸術教養学科研究室)。
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よく研究されておりますが、内容の一部に誤りがありますのでお知らせいたします。原因は参考文献に誤りが散見されるからです。御船について、正しくは南下町が「權現丸」北下町が「觀音丸」でありましたが、維新「神仏分離令」により權現の乱用仏教要素排除され双方「明神丸」となりました。明治31年4月28日吉田忠重著「高麗權現由来記」にすでに本祭が隔年となった記述があり、明治初期には隔年本祭が推測されます。御船の上では木遣、御船の脇では御船唄が奏されます。大磯の木遣は江戸後期の式亭三馬著、淋敷座之慰 (さびしきざのなぐさみ)「はやり小唄」所収「木遣くどき」の流れを汲み大磯のご当地ソングとでも言う「古跡由来」で「決められた場所」で唄います。
「古跡由来木遣」の歌の構成は「祝儀(=前唄)・本歌詞・後付け(=後唄)」となっており、「道中木遣」の構成は「前唄・かけづか・後唄」となります。
「引立て木遣=出発の木遣」の後「決められた場所」までの間は「道中木遣」が唄われます。南濱では道中の長いところの「かけづか」に「お杉口説き=赤間ゲ関坊主落とし=引接寺お杉」が唄われたこともありました。
濱降りの際には「松前木遣=北海道松前からの仕事唄」昭和61年に最後、船の別れには「甚句木遣=長崎ゑびや甚句」が唄われましたが、今では継承者がおりません。また御船唄は「官船御用のお船歌で江戸時代、向井将監(むかいしょうげん)監修で全国的にあります。對馬宗家と朝鮮通信使の関係が深くかかわり、通信使が江戸へ参向の折各地の藩の御座船を乗り継ぎ御船歌も演唱されてきました。木遣と御船唄がセットで演唱されているのは大磯だけと思われます。(大磯御船祭保存会 福田良昭)
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  • 987383_363a9abfa2ca43898229ed14349be7fa 写真1 猿
  • 987383_182c0b0aebe445a0845a95590cba35bd 写真2 龍
  • 987383_a14d67bddc434b4e90a04a14396a31a6 写真3 龍
  • 987383_9a5d4728d4fe4b1eb5613842b608d60f 写真4 さる
  • 987383_ec18ec0d72444c45b6a820d4f98ba582 写真5 さる
  • 987383_db14667830ed431e9ef96b9e8d19e2ff 写真6
  • webでは未公開とします
    写真7

参考文献

大磯町文化史編纂委員会著「大磯町文化史」
大磯町著「大磯町史11 別編ダイジェスト版 おおいその歴史」
永田衡吉「神奈川県民俗芸能誌 増補改訂版」
三田村佳子「風流としてのオフネ 信濃の郷を揺られてゆく神々」
大磯町「大磯町史1~9」
大磯町「大磯町史研究 創刊号~第十五号」
大磯町郷土資料館「大磯の年中行事ー豊かさへの願いー」