水郷に鎮座する武神の社 鹿島神宮・香取神宮

小島 幸子

~「神宮」の名に潜む謎~

1、はじめに
かつて「神宮」と名乗ることが許されたのは、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮のみであった。古くから天皇や貴族の崇敬を集めてきた両社は、平安時代の延長5(927)年に「神宮」の称号を得、『延喜式』神名帳に神宮と記されるのはこの三社だけである。古来、伊勢神宮の上参宮に対し下参宮と言われた。都から遠く離れた東国の神社が、格式で他の神社と一線を画し、なぜ皇室の氏神と並び称されたのか、その特殊性を考察する。

2、基本データ
鹿島神宮(常陸国一の宮)
所在地:茨城県鹿嶋市宮中2306-1
創建:神武天皇元年
祭神:武甕槌大神(別名:健御雷之男神)

香取神宮(下総国一の宮)
所在地:千葉県香取市香取1697
創建:神武天皇18年
祭神:経津主大神(別名:伊波比主之命)

3、歴史
神代の昔、経津主大神と武甕槌大神は、天照大神の命により出雲の国に赴き、大国主大神との「国譲り」の交渉に成功した。そのあと両大神は葦原中国を平定して、日本統一の基礎を築いた。また、武甕槌大神は神武東征の際、苦境に陥っていた神武天皇に布都御魂剣を授け、東国平定を助けている。その大功を称え、この地に祀られたという。ただし、経津主大神は『日本書紀』には登場するが、『古事記』にはその名はみえない。『古事記』で武甕槌大神とともに派遣されたのは、天鳥船神(鹿島・香取神宮とともに東国三社の一社に数えられる息栖神社の祭神の1柱)である。武威を以て関東を鎮護してきた二柱の神は、徳川家をはじめとする武家から篤い信仰を受けた。源頼朝や足利尊氏、徳川将軍家など、多くの武将から崇められ、両神宮に宝物を奉納した記録も残っている。そうした雄々しい気風は、12年に一度午年に行われる豪壮な式年大祭(鹿島神宮は御船祭、香取神宮は式年神幸祭)に今も健在である。神代の時代から現代まで、多くの人々に崇敬されている神々なのである。

4、両神宮が重視された理由
経津主大神と武甕槌大神は武神として、共通する点が多い。誕生の経緯を見ると、伊弉冉尊は火之迦具土神を産んだときに陰部を焼かれ、このときの火傷が原因となって命を落とし、それを嘆き悲しんだ伊弉諾尊が火之迦具土神を十拳剣で斬り殺す。その際、剣の先から滴り落ちた血液から武甕槌大神と、経津主大神の祖となる五百箇磐石が生まれたとされる。武甕槌大神は、雷を神格化した神とされている。剣から生まれているのは、剣が稲光(雷)のシンボルと考えられていたからであろう。経津主大神は剣を神格化した神とされている。
このように2神は同一神と見なし得るほどに共通性を有している。国譲りの交渉役として2神が遣わされたのには、武神としての神格もさることながら、その背景には経津主大神を奉斎した古代軍事氏族物部氏と、やはり古代有力氏族中臣氏(後の藤原氏)との勢力争いが反映していると考えられている。鹿島・香取神宮の由緒を辿ると、藤原氏の前身である中臣氏と深い関わりが見て取れる。中臣氏が関わりを持つ以前は、物部氏が武甕槌大神と経津主大神を奉じて、この一帯を支配していたという。藤原鎌足の時代には両宮の運営を掌握していたという説もある。『大鑑』には藤原鎌足が鹿島神宮の神官を務めたあと都にやって来たと記され、のちに藤原氏の庇護を受ける奈良の春日大社に武甕槌大神と経津主大神が勧請された。彼らの本来の氏神は天児屋根命なのに、2神がその上に立った。古代史研究家の大和岩雄氏によれば、「伊勢神宮の内宮と下宮が対になっているように、鹿島・香取両神宮も本来はペアであり、「伊勢」には天皇家の氏神を祀り、「鹿島・香取」は藤原氏が一族の正統性を証明するために、格の高い神を他の氏族から乗っ取って氏神にしてしまった」という(『神社と古代王権祭祀』白水社)。こうして藤原氏は、天皇家の伊勢と、「自家の氏神」鹿島・香取だけに「神宮」を名乗らせた。両宮が藤原氏にとっていかに重要な存在であったかがわかる。なぜそこまで重視されたのか。鍵を握るのは「水運」である。
二つの神宮の周辺は日本有数の水郷地帯だ。古代の霞ヶ浦は現在よりも大きな内海で、その出入口を監視するような形で両神宮が鎮座している。利根川の河口一帯は古代から水運の中心だった。利根川を制して初めて、関東に覇を唱えることが出来た。そういった要衝だからこそ、古代の多くの氏族に重要視されたのもうなずける。『日本書紀』景行天皇の条には、日高見国(常陸国の北側の地域)は土地が豊かで広いから討ち取るべきだ、といった話が登場するほどだ。要するに、下総(千葉県北部)と常陸(茨城県)の海岸地帯は東国支配の拠点だったのだ。このことから、鹿島・香取神宮の地勢上の意味合いがうかがえる。

5、特徴ある境内
鹿島神宮の社殿は、参道の中ほどに北面して建てられている。全国の神社の多くが南面を通例とするなかで珍しい例である。これは歴代の朝廷が警戒してきた北方の蝦夷に睨みをきかせるため、つまり北方鎮護の社であったことを意味している。本殿の背後にそびえる杉の御神木は樹齢1200年以上、歴史の古さを物語る。[写真①②③]
香取神宮の社殿は、関東地方には稀少な檜皮葺の重厚な建物である。現存する三間社流造の中ではもっとも大きい。古くは伊勢神宮と同じように、式年遷宮の制度によって、本殿を20年ごとに造り替えたといわれている。[写真⑤⑥]
さて両宮にしかない見所と言えば、ふたつの「要石」だ[写真⑦⑧]。両宮には、ともに要石とよばれる石が祀られている。鹿島は凹形、香取は凸形で、同じ神話を伝えている。神代のころ、この地方は地中に大きな鯰が棲みついていて、地震が頻発していた。そこで両宮の大神は、地中深くに石棒を挿し込んで大鯰の頭(鹿島)と尾(香取)を貫いたので、地震は治まったという。地上に現れているのはほんの一部で、そのほとんどが地中に埋もれているとされ、実際の大きさは計り知れない。水戸の徳川光國公が7日7晩掘らせても、全貌が明らかにならなかったという逸話がある。東日本大震災(2011年)で、鹿島神宮の参道の入り口にあった大鳥居が崩壊したが、それ以外は参道に並ぶ店にすら被害がなかったと聞いている。これも要石のおかげだろうか。平成26(2014)年に境内の杉を用いて、木製鳥居が再建された。震災復興のシンボルとして親しまれている[写真④]。

6、今後の展望について
歴史の教科書が「薄く」なるという。日本に生まれながら、自国の歴史も伝統も文化もよく知らないなど恥ずかしい話だ。それは己の生い立ちを知らぬのと同様だ。日本の義務教育で古事記や日本書紀を学ぶことはほぼ無いに等しいが、ただの昔話のような扱いでも、もっと触れる機会があった方がよい。なぜか極右論者と言われかねない風潮が蔓延っているが、それが史実であろうとなかろうと自国の建国神話を誇りに思って何が悪かろう。私たちの先祖が、自分たちの生きる世界とその成り立ちをどんなふうに考えてきたのか、今の日本がどんな歴史の積み重ねによって成り立ってきたのか、もっと知るべきではないだろうか。
近年のパワースポットブームにより、神社に参拝する人は増えている。だが、神社の本来の意義、歴史、伝統、祈りの場であることを理解せずに、ただの観光地の如く大騒ぎしている人たちも多い。そもそも神社という神域は、神様の気を受け、その気配を感じとり神を畏む場所である。訪れる人には、われわれの祖先が大事にして共に歩んできた悠久の歴史があることを忘れないでほしいと思う。また、子供達や次の世代にも自然の恩恵や神々のご加護を伝えていきたい。神社の基本的な事柄を理解することにより、自分の足元を見つめ直し、見失いつつある日本の伝統文化の根底を再発見する源としていきたい。

  • 1 写真① 鹿島神宮「拝殿」 江戸時代、重要文化財 (2017年3月22日 筆者撮影)
     本宮社殿は拝殿・幣殿・石の間・本殿の4棟からなる。質素な素木造り、入母屋造り、檜皮葺き。現在の社殿は、元和5(1619)年、徳川2代将軍秀忠の造営。
  • 2 写真② 鹿島神宮「本殿」及び「御神木」 (2017年11月21日 筆者撮影)
     本殿は元和5(1619)年造営、重要文化財。随所に豪壮華麗な桃山建築の特徴が見られる。幕府の大棟梁 鈴木長次奉行による、江戸時代初期の社殿を代表する建築である。本殿後方に立つ御神木は、樹高40メートル以上、幹回りは9メートル以上ある杉。
  • 3 写真③ 鹿島神宮「奥宮」 桃山時代、重要文化財 (2017年11月21日 筆者撮影)
     現在の奥宮本殿は、徳川家康が関ヶ原合戦の戦勝御礼に慶長10(1605)年に本宮として奉納したもので、元和5(1619)年の社殿造替の際、徳川秀忠が奥宮の社殿として移築した。境内の社殿中もっとも古く、武甕槌大神の荒御魂を祀る。
  • 4 写真④ 鹿島神宮「大鳥居」 (2017年6月5日 筆者撮影)
     平成23年3月の東日本大震災で石の大鳥居が崩壊、再建には困難が予想されたが、氏子崇敬者の寄進により、平成26年6月に竣工。御用材は境内の杉4本が使用された。高さ約10メートル、幅約15メートル、柱材となった杉の樹齢は約500年である。
  • 5 写真⑤ 香取神宮「拝殿」 (2017年12月14日 筆者撮影)
     本殿・幣殿などの大改修に伴い、昭和15(1940)年に新築された。幣殿とともに、国の登録有形文化財になっている。本殿(重要文化財)と同じく元禄13(1700)年に造営された旧拝殿は、移築されて祈禱殿として残る。
  • 6 写真⑥ 香取神宮「楼門」 江戸時代、重要文化財 (2017年12月14日 筆者撮影) 
     元禄13(1700)年、徳川5代将軍綱吉によって造営。楼上の額は、明治の軍人東郷平八郎の筆になる。楼門内に安置している随身は、俗に左大臣右大臣と呼ばれているが、向かって右の老人像は「武内宿禰」、左の壮年像は「藤原鎌足」と伝えられる。楼門右前には、徳川光圀公手植えの黄門桜がある。
  • 7 写真⑦ 香取神宮「要石」 (2017年12月14日 筆者撮影)
     地震を起こす地底の大鯰の尾を押さえる霊石。鹿島神宮の要石とひとつ岩で繋がっているとも言われている。
  • 8 写真⑧ 鹿島神宮「要石」 (2018年1月6日 筆者撮影)
     地震を起こす大鯰の頭を押さえている鎮石。鹿島大神が降臨した御座石とも。鎌倉時代の伊勢ごよみに「ゆるぐともよもやぬけじの要石 鹿島の神のあらんかぎりは」という歌が載っており、要石と地震の関わりを記した最も古い記録とされる。

参考文献

・鹿島神宮|常陸国一之宮  http://kashimajingu.jp/
・鹿島神宮 参拝のしおり
・香取神宮|千葉県香取市 全国約400社の香取神社の総本社 http://katori-jingu.or.jp/
・香取神宮 参拝のしおり
・薗田 稔監修『週刊 神社紀行 鹿島神宮・香取神宮』、学習研究社、2003年
・三橋 健監修『週刊 日本の神社 鹿島神宮・香取神宮』、デアゴスティーニ・ジャパン、2014年
・神社本庁監修『神社のいろは』、扶桑社、2012年
・神宮本庁監修『神話のおへそ』、扶桑社、2012年
・大和 岩雄著『神社と古代王権祭祀』、白水社、2009年

年月と地域
タグ: