
「開運橋のジョニー」の足跡を振り返り、ジャズ喫茶のこれからを考える
はじめに
日本独自の文化であるジャズ喫茶(註1)は、音楽の聴取方法や音源の収集法の変化によって、現在では消えゆく文化遺産などと呼ばれている。しかし近年、若いレコード収集家やオーディオマニアからは再注目されている存在でもある。折しも2026年はジャズ界の巨人であったマイルス・デイビスとジョン・コルトレーンの生誕100周年である。これを機会にジャズ喫茶を改めて検証し、未来ある文化資産なのか考えてみたい。
1.ジャズ喫茶の基本データと歴史
日本最初のジャズ喫茶は1929年に誕生した「ブラックバード」というのが定説となっている。その後ジャズという音楽の流入経路同様、東京や横浜、神戸など大都市を中心に出店が増えていった。全盛期の60年代から80年代には文化的コミュニティとしても機能しており、評論や演奏理論、レコード批評、プレイヤー情報など文化の発信地にもなっていたのである。
その空間は独特であった。多くは外国製のアンプやスピーカーといったオーディオが内部正面に位置し、客は全員それに向かって着席する。私語は禁止で聴取に集中しなければならない。所蔵するレコードは千枚を下ることはなく、入手困難の輸入盤などは早期入荷を争っていた。曲のリクエストは可能だったが、選曲は一種の通過儀礼のようで躊躇する初心者も多かったという。しかし音楽を聴くことがまだ高価だった時代に、コーヒー1杯で最高級のリスニング体験をできるところは日本のジャズ喫茶以外、世界のどこにもなかったのである。
現在残るジャズ喫茶は、全盛期のように排他的・高圧的なところはむしろ少なく、ゆっくりと音楽鑑賞できるところが多い。私が暮らす盛岡にも「開運橋のジョニー」(以下ジョニー)という半世紀を超えたジャズ喫茶が健在である。この店のこれまでの活動を振り返り、ジャズ喫茶のこれからを考えてみよう。
2.ジョニーの積極的に評価したい点
ジョニー(資料1)が誕生したのは岩手県沿岸の陸前高田市である。時は1975年、ジャズ喫茶全盛期とはいえ、人口3万に満たない田舎町で開店するということはかなりの冒険だったに違いない。しかし当時の地方都市の状況を把握すれば、これは最も評価されていい点だと思われる。 【画像01】
当時音楽の情報源は、雑誌など印刷物とラジオ、テレビしかなかった。市の中心になる高田町には書店は2店、レコード店は1店のみ。テレビも民放2局とNHKしかなく、ラジオのAM局は電波状況の関係で夕方からしか受信できない。そんな状況であるから、ジャズを聴く機会など日に何度もあるわけではない。ステレオで音楽を楽しんでいる人もそう多くはなかったはずである。
しかし、ジョニーのオーナーである照井顕氏は早くからこの町で音楽を軸にした仕事を模索していたという。「希望音楽会」と称するレコードコンサートを開いてきた経験から前途はそれほど暗くはないと感じていたようだ。後年、親交を結ぶことになるジャズピアニストの穐吉敏子から「自分の好きなことを一生懸命に、どんな困難にも負けないでやっていれば世界で一番になれる」という言葉をかけてもらったということだが、実は当初からその姿勢であった。
とにかく「音楽を聴きたい!」という気持ちを原動力に、ジャズ喫茶の経営だけでなくコンサートの企画・開催、レコード制作、地域情報誌の編集などを手がけ、ジャズと音楽の魅力を伝え続けてきた情熱には頭が下がる。
このようなジョニーの情熱が、陸前高田市という小さな町の住民に与えた影響は無視できない。閉塞的ともいえる田舎の暮らしの中でジョニーに夢や希望を感じた人間は多い。ジョニーの経営は決して順調ではなかったのだが、これを救ったのが地元の医師を中心に結成されたジョニー後援会であった。彼らは小さな町での文化的・芸術的活動がどれほど貴重なものであるか、理解していたからこそ無償での支援に乗り出したのであった。【画像02】
3.他のジャズ喫茶には見られないジョニーの特徴
数多あるジャズ喫茶の中で、ジョニーの一番ユニークと思える点は、ジャズ喫茶の範疇などお構いなしというところではないかと思われる。多くのジャズ喫茶は、レコードなど音源の収集とオーディオの充実に努め、唯一無二の音作りに精を出すことで他店との差別化を図ってきた。オーディオに何千万という投資をしたところも決して少なくはない。【画像03】【画像04】
しかしジョニーの考え方は、当初から柔軟であった。店自体は日本のジャズ限定という他に類を見ない方針を打ち出しつつ、「日本ジャズ祭」や「ジャズ音頭まつり」といったコンサートを多数開催している。それらはジャズが中心ではあるが、決して限定はしていない。出演者も有名、無名を問わない。ジャンルもほとんどあらゆるジャンルに及んでおり、これまで積み上げた主催回数は店舗内のものを合わせると1000回以上にのぼるという。
また、1978年に立ち上げたテルヰ音楽産業より「ジョニーズ・ディスクレコード」のレーベルでレコード制作と販売に挑戦し、現在も制作を続けている。そして穐吉敏子の『1980 秋吉敏子トリオin RIKUZENTAKATA』やフォークシンガー三上寛の伝説的ライブ盤である『職業』など、知る人ぞ知る名盤を送り出すことにも成功している。【画像05】
このような傾向は、照井氏自身がクリエイターであるということが影響していると思われる。(資料2)照井氏自身、作詞作曲を行い、寺院や公民館、学校、喫茶店、野外など、さまざまな場所でコンサートも開催している。著作や講演、ラジオやテレビへの出演も多い。
ジャズ喫茶のオーナーの多くは、秘密基地のような店舗の中で自分好みの音作りに熱心な人が多いのだが、照井氏は機会があれば店舗の外へと飛び出して、ジャズと音楽の魅力を発信することに努めてきた。ジャズ喫茶のオーナーで喫茶店経営以外にこれだけのことに挑戦してきた人はそう多くはないはずである。【画像06】
4.穐吉敏子JAZZミュージアムとCafe Bar West38に感じる今後の展望
1974年穐吉敏子(資料3)の『孤軍 (Kogun)』と出会ったことから照井氏は彼女の音源だけでなく、ありとあらゆる資料の収集に努めてきた。その執念たるや穐吉をして「私の世界一クレイジーなファン」といわしめるほどであった。
1980年の陸前高田公演以来、穐吉との親交は40年以上にわたるが、その結実が、2022年に開設した「穐吉敏子JAZZミュージアム」である。【画像07】ミュージアムにはジョニー収集のコレクションや本人提供の衣装などが展示されており、穐吉だけでなくジャズそのものの歴史に触れられる展示になっている。
そしてその隣には「Cafe Bar West38」が併設されている。軽飲食を楽しみながら音楽を聴くことができ、毎週土曜日にはライブ演奏が行われている。これはファンのみならず演奏者にとっても朗報であった。定期的に演奏できる場というのは、演奏者にとって勉強や研鑽のまたとない機会なのである。【画像08】
ジョニーの次なる目標は、この場を通して、「未来を担う若者たちが好きなことを見つけ、そのきっかけづくりや一助となる」ことだという。その言葉通り、現在若いスタッフによって盛岡のジャズを紹介する冊子制作が進行中である。そして照井氏自身も密かに穐吉敏子自叙伝の出版や穐吉敏子アワードの設立を計画中だという。
5.まとめ
現在ジャズ喫茶は、失われつつある文化遺産として捉えられることが多い。後継者のいないオーナーなど、そう切実に感じている人ばかりである。
しかし、ジャズそのものの歴史を振り返ってみよう。ブラスバンドのようなデキシーランドスタイルから始まり、ビッグバンドによるスイング、小編成でアドリブ重視のビ・バップやクール、コード進行から解放したモードやフリー、そしてエレクトロニックを取り入れたフュージョンへと変化と進歩を続けてきたではないか。90歳を超える穐吉敏子もまだまだ新境地を開こうとする意欲がある。ジョニーは柔軟に新企画を仕掛け続け、今また新たなところをめざそうとしている。
以上のようなことを考えると、ジャズ喫茶も取り組み方次第では、まだまだ文化や芸術の発信地になれるのではないだろうか。これまでの記憶や記録を残すことも大事だが、ジャス喫茶は文化遺産ではなく文化資産としてジャズや音楽の新しい魅力や情報を発信できる可能性を秘めているように思われる。そしてそのカギを握るのはジャズ喫茶関係者一人ひとりなのである。
-
陸前高田のジョニー。高田町にあった2代目の店舗。2011年の東日本大震災によりレコード1枚を遺して跡形もなくなった。 2026年7月25日、筆者複写 -
1984年に開催された秋吉敏子ルー・タバキン陸前高田公演の新聞広告。 1984(昭和59)年10月9日東海新報掲載。 2026年8月5日、筆者複写 -
現在の開運橋のジョニー内部。往年のジャズ喫茶を思わせる。6つのスピーカーを同時にならすコーラス方式がジョニーサウンドの特徴。 2026年7月25日、筆者撮影 -
開運橋のジョニーのレコードコレクション。どこに何があるか、知っているのはマスターの照井氏のみである。 2026年7月25日、筆者撮影 -
ジョニーが手がけたレコードとCD。タイトル数は50以上におよぶという。ジャズだけでないところが、ジョニーの懐の深さ。 2026年7月25日、筆者撮影 -
忙しい身でありながら照井氏は著作も多数発行している。右上の本の表紙になっている髭面の男性が若かりし頃の照井氏である。 2026年7月25日、筆者撮影 -
照井氏の夢の結実、穐吉敏子ジャズミュージアム。現在も新発見の新聞記事など、収集と寄贈は継続中である。 2026年7月25日、筆者撮影 -
Cafe Bar West38ではジャズ以外にもさまざまな催しがある。ちなみにWest38とは穐吉敏子が暮らすニューヨークの住所である。 2026年8月5日、筆者撮影
参考文献
参考文献
秋山晃男編集『音楽の手帳 ジャズ』、青土社、1981年
平岡正明著『昭和ジャズ喫茶伝説』、平凡社、2005年
マイク・モラスキー著『ジャズ喫茶論』、筑摩書房、2010年
読売新聞東北総局編『みちのくのジャズ喫茶』、読売新聞、2022年
相倉久人著『至高の日本ジャズ全史』、集英社、2013年
西田浩著『秋吉敏子と渡辺貞夫』、新潮社、2019年
日本研究(国際日本文化研究センター)vol.34「ジャズ喫茶の文化史戦前篇」 細川周平著
日本研究(国際日本文化研究センター)vol.35「「日本的ジャズ」をめぐって」 細川周平著
取材・協力
開運橋のジョニー 照井顕氏、2026年7月7日、25日
註および資料
(註1)
ジャズ喫茶とは、本来アルコール類を出さない喫茶店であるが、現在はアルコール類を提供するジャズ・バーやレコードだけでなくライブ演奏が楽しめるライブ・ハウスなど、業態が変化・発展している。このレポートでは、それらをすべてまとめてジャズ喫茶と呼称する。
(資料1)
ジョニーの略歴
1975年 岩手県陸前高田市で「音楽喫茶・ジョニー」開店
1977年 店名を「日本ジャズ専門店・ジャズ喫茶・ジョニー」に変更
1978年 テルヰ音楽産業、「ジョニーズ・ディスクレコード」創設
2001年 岩手県盛岡市に「ジャズスポット・陸前高田ジョニー」を開店
2003年 店名を「Jazz&Live 開運橋のジョニー」とし現在に至る
2004年 陸前高田の「ジャズ喫茶・ジョニー」の権利譲渡
(資料2)
照井顕氏活動歴
・作曲
IBCTV「朝のテーマ」、FM岩手オールザットジャズのテーマ
・著書
ジョニーのらくがき帳、続・ジョニーのらくがき帳、陸前高田ジョニー、日本ジャズ専門店、ジャズ物語・るり色の夜明け、ジャズ喫茶ジョニーの洗濯
・写真集
岩手の染め織り、かもめ・かもめ、言いわけ
・講演
NHK放送講座他、PTA、寺院、小・中・高・大学校、公民館、会社、団体等で多数
(資料3)
穐吉敏子略歴
1929年12月12日生まれ、現在96歳。
ニューヨーク在住の日本人ジャズピアニスト・作曲家・編曲家・ビッグバンドリーダー。
1929年旧満州遼陽生まれ。弥生高等女学校、大連音楽学校で学び、46年日本に引揚げ。
1948年夏、18歳で単身上京。
1951年 自己のコージー・カルテットを結成。
1953年 初レコーディング。
1956年 バークリー音楽院奨学生として渡米。
1973年 ロサンゼルスにて穐吉敏子のオリジナル曲のみ演奏するリハーサルバンド「トシコ=タバキン・ビッグバンド」を結成。
1974年の「孤軍」。75年の「ロング・イエロー・ロード」76年「おいらんたん」「インサイツ」などの名盤を発表。名実ともに世界No.1ビッグバンドとなる。
1982年 ニューヨークに居を移しバンドを再編成。
2003年 オーケストラを解体。その後は原点に戻りピアノに専念、ソロ、デュオ、トリオ、カルテットなど小編成で活動。現在に至る。
主な受賞歴
グラミー賞ノミネート14回
1977年 SJジャズディスク大賞金賞。
1980年 DB誌国際批評家投票並びにファン投票、3部門で第1位。
1984年 RR誌最優秀編曲賞。
1986年 ニューヨーク100周年リバティー賞
1988年 ルーツ世界ジャズバンドリーダー賞
1997年 紫綬褒章
1999年 国際ジャズ名声の殿堂入り
2004年 ウーマンジャズ賞、旭日小授章
2006年 米ジャズ界最高名誉NEAジャズマスター賞、JFKSジャズの生きた伝説賞
2018年 AA財団ジャズの生きた遺産賞