古くて新しい小鹿田焼 -ゆるぎない伝統
1 基本的データと歴史的背景
大分県日田市街の北16㎞の山あいに小鹿田焼の里 源栄町皿山がある。北部九州には文禄・慶長の役で連行された朝鮮人陶工の技術が伝わった古窯が多いが、その一つの小石原焼(註1)から、宝永2年(1705)陶工の柳瀬三右衛門を招き、黒木十兵衛が出資し、坂本家が土地を提供し開窯した。以来300年途切れることなく10軒前後の窯元が一子相伝により日用雑器を焼き続けてきた。現在は柳瀬姓2軒、黒木姓2軒、坂本姓4軒、黒木から独立した小袋姓1軒の開窯時の子孫9軒の窯元が谷川沿いに寄り添うように連なっている【写真1】。
日田以外では無名であった小鹿田焼を、民藝運動(註2)の創始者柳宗悦が、昭和6年(1931)に初訪して「朝鮮系の焼きものが今日殆ど煙滅し去った時、ひとりこの窯ばかりは伝統を続けて今も煙を絶やさない」(註3)と民藝の手本として絶賛し世に広めた。柳の影響で英国人陶芸家バーナード・リーチ(註4)も逗留し、その技術と世界との懸け橋を少なからず小鹿田焼に残した。
昭和30~40年代の全国的な民陶ブームに乗って、半農半陶から作陶一本の生活に変わった。平成7年には窯場としては初めて国の重要無形文化財に指定されるとともに、全窯元で構成される小鹿田焼技術保存会は、その保持団体に認定された。文化財の指定要件として①陶土の作り方②成形方法③装飾方法④釉薬の種類と掛け方⑤伝統的な作調等の特質維持という6項目が定められている(註5)。柳が訪れた昭和初期から比べると茅葺が瓦屋根になり、道が舗装された程度でほぼ変わらないであろう作陶の暮らしが今も続いている。
2 小鹿田焼の積極的に評価する点
戦後の復興、高度経済成長を経て日本の隅々まで機械化、効率化、大量生産と大量消費が浸透した現在もなお開窯以来の手仕事の伝統を継承できているのは奇跡に近く評価に値する。
その伝統の内容とは、①機械を使わない②家族で営む③手作りの道具を使う④窯元の名を入れない⑤絵を描かないというものである。集落近郊で採取した土を、川の流れを動力にした唐臼【写真2】で20日~30日かけて粉砕し、水簸して濃縮した泥水をオロ(濾過槽)【写真3】で水抜きし、さらに天日や窯の上で乾燥させ、全身を使って練る【写真4】とやっと陶土ができあがる。陶土は蹴轆轤を使って成形する。成形用のヘラ、コテ、叩き板、装飾用の鉋【写真5】、櫛などの道具は使い手に合わせて手作りしたものである。伝統的な装飾として鉋で削り目をつける「飛び鉋」、化粧土をかぶせたところに刷毛、指、櫛で模様をつける「打ち刷毛目」「指描き」「櫛描き」、釉薬を柄杓で打つようにかける「打ち掛け」と全体に流れるようにかける「流し掛け」がある。そういった素朴な装飾にとどめ絵は描かないのである。土づくりや薬品を使わない自然の材料での釉薬づくりには家族総出で担当する。そして作品には個人名は入れず、入れても「小鹿田」という共有のブランド名を押し入れるだけである。小鹿田焼はあくまでも日用雑器で美術品ではない、ひとりだけ抜きん出ることもなく集落全体で底上げをしてきたという伝統に対する美学の表れといえよう。皿山には5軒が共同で使う1基と個人所有4基の登り窯がある【写真6】。窯をあたためるために使う薪は古材を使い、焼成に使う薪も製材所で出る端材である。火を入れると約30時間(共同窯は約55時間)夜通し焚き続ける。焚き終わるとレンガや赤土で火口を塞ぎ、3日冷やして窯開けとなる。まわりにある自然の恵みや人力だけで焼きものをつくるのである。
機械化や大量生産の話が外部から持ち込まれたこともあったが、先人たちが断ってきた(註6)。唐臼が作り出す土の量がここでの作陶の量のすべてで決して多くない。機械窯と違って登り窯は膨れや割れのリスクを伴う。それをいかに減らすかが作陶上の課題だが他には多くを望まない。坂本工窯の窯主は「飛び鉋は膨れや割れを隠すための技法だ。いつかなんの飾りもない化粧土だけの真っ白い器を作ってみたい。」と向上心あふれて語る。風に飛びそうなほど微細に粉砕された土からできた小鹿田焼は、朴訥な見かけに反して磁器のように軽やかで金属音がする。手間と時間をかけた手仕事の作り出した逸品である。
3 波佐見焼との比較にみる伝統継承の本質
長崎県波佐見町は、約400年続く焼きもののまちである。町の就業人口の約4割が窯業関係に従事し、窯元は約100社を数え、食器の出荷額は国内全体の11%で全国第3位の実績を誇る(註7)。作陶工程は、型屋、生地屋、窯元の分業制で大量生産を可能にしている。大量生産の歴史は長く、中国清朝内乱時には官民一体の生産体制で中国に代わって世界中に輸出し、中国復調後は市場を国内に転換して「くらわんか手」をつくり、江戸末期には中尾郷に世界第1位、2位の巨大な登り窯を築き「コンプラ瓶」で海外輸出を再開した。藩の支援がなくなった明治以降は窯を小さく分割し、技術開発、機械導入で活路を見いだしてきた。生産規模が大きいゆえに社会情勢の変化が直撃し、その時々で生産体制や焼きものの姿かたちを変えて凌いできた。伝統的な文様や形式を持たず自由度が高いため、手描きだけでなく判子や転写を多用し、今では時代のトレンドを先取りしたデザイン【写真7】が好評を得て市場を拡大しているが、波佐見焼の特徴はとの問いには答えがむずかしい。
一方、小鹿田焼は規模が小さく家族以外の人の手が入らないだけに社会の変化の影響は大きくないのが幸いし、あわせて先祖伝来の小鹿田焼に対する誇りが高く、生産体制も生産方法も姿かたちも変えなかった。一目見れば小鹿田焼とわかるその素朴な風合いは決して時代遅れのものではなく、かえって流行の和モダンともいえる。各窯元が文化財の規制の範囲内で、今の人が好むデザインを取り入れ、基本からぶれずに伝統をつないできた結果が小鹿田焼の存在を明らかにしているのである。同じ食器を一定数揃える時代は終わり、気に入った一点ものを選ぶようになった今、すべてが自然で手作りのこの世に一つしかない小鹿田焼は、現代の食器選びに合致し、私だけのものという希少性と愛着を満足させる。
生産地としての伝統継承に成功した波佐見に対して、小鹿田は小鹿田焼という焼きものを主体に純度の高い伝統をつないできた。これこそ真の伝統継承といえよう。
4 今後の展望
あらゆる産業において後継者不足の日本において、小鹿田焼のどの窯元にも若い後継者がいるのは稀有なことである。筆者は、この状況が100年後も続くであろうかと危惧していたが、坂本工窯の後継者坂本創に話を聞き明るい兆しを見た。坂本工窯は、他の窯元が年間5〜6回窯を焚くところ3回に抑えてでも、創が国内外を飛び回って首都圏や大都市を中心に、洋服業界などとコラボしギャラリーなどでの展示即売というかたちの個展をしている。年20回を超える個展は芸術家のそれではなく、あくまでも日用雑器の職人としての立ち位置を崩さない。小鹿田焼の販売先は従来地元近辺の業者が主で、他の圏域には届きにくくなっている。創は「欲しいと思う人が手に取って選んで、安く適正な価格で買える状況をつくりたい。だから、その機会を広げるために都会に出ていくし、異業種とのつながりももつ。」「飛び回っている父ちゃん(小鹿田焼の職人)カッコいい、と3歳の息子に思ってほしい。」と将来を見据えて語る。この思いは、美を湛えた日用雑器を「ごく普通のもの、誰も買い誰も触れる日々の用具である」(註8)と定義する柳宗悦の思想と共通する。創の活動は創独自の民藝運動といえよう。創本人やギャラリーはSNSで活動を発信し、フォロワーも小鹿田焼に料理をよそったりして情報の輪を広げている。【写真8】やがて他の小鹿田の若い後継者が創に追随することは想像に難くない。世界中に販路を広げて小鹿田焼は魅力ある家業へと発展するであろう。
5 まとめ
小鹿田焼の窯元はどこも蹴轆轤が2台並んでいる。窯主と後継者以外は誰も、機械も入る余地のない狭さである。他者が窯を開けないほど集落も狭い。そういった空間と関係の濃密さが一子相伝を維持してきたと考える。皿山で長男に生まれれば家業を継ぐことが運命づけられ、息子たちも結局は逆らわなかった。他のことをやってみたいとか機械化して楽をしたいとか、さまざまな思いを抑えてでも守るべき大切な伝統がある。守ることができるのは一窯二人の限られた者しかいないのだという責任感と自負が、この濃密な里だからこそ培われているのである。
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【写真1】「小鹿田皿山の全景」(2022年11月22日 筆者撮影)
現在14戸が暮らしており、そのうち9戸が窯業を営んでいる。いずれの窯元も成形した生地の乾燥などを行う作業空間の前庭(ツボ)を取り囲むようにL字の一端に住居、もう一端に作業場が配置された鉤屋造りになっている。唐臼やオロ、土掛け窯、登り窯は家のすぐそばにあり、小鹿田焼の里は非常にコンパクトにまとまっている。 -
【写真2】「唐臼」(2022年5月18日 筆者撮影)
集落の中心を流れる川の水を利用して原土の粉砕を行う唐臼は約40基ある。腕木の一方にくりぬいた枡に流水を受け、いっぱいになると重みで「ザーッ」とこぼれてはもう一方の杵を上下させる。杵が地面に掘られた臼に入っている原土を砕くときに「トーン」と乾いた音がする。腕木が「ギィー」と軋む音とともに「ギィー、ザーッ、トーン」と唐臼の独特の音が休みなくこだまする小鹿田皿山地区は、平成8年「残したい日本の音風景100選」に選定された。 -
【写真3】「オロ」(2022年5月18日 筆者撮影)
粒子状になった原土に水を加え、カクボウで撹拌し、できた泥水を何回もふるいにかけて漉し、濃縮した泥水をオロで水抜きする。水抜き後、夏場は天日で乾燥させるが、乾きにくい冬場は土掛け窯で乾燥させる。水簸作業はなかなかの重労働であるが、家族の女性が担う。 -
【写真4】「土練り」(2022年5月18日 筆者撮影)
成形前の粘土の中の空気を出し、土の状態を均一に整えるため、全身を使って土練りをする坂本工窯主。 -
【写真5】「鉋」(2022年5月18日 筆者撮影)
坂本工窯の飛び鉋模様を刻む鉋は、トタン屋根の古材を使っている。 -
【写真6】「共同窯」(2022年11月22日 筆者撮影)
集落の中央に8つの焼成室をもつ登り窯がある。5軒の窯元が2軒と3軒に分かれて、それぞれ年5回共同で焚く。 -
【写真7】「波佐見焼」(2022年11月23日 筆者撮影)
中尾山交流館のギャラリーで販売されている器は、窯元ごとに趣が異なる。転写で模様づけしたこの皿は若い女性が好みそうである。 -
【写真8】「窯開け」(2022年11月22日 筆者撮影)
筆者が取材した3日後から、器や洋服を扱う神戸市にあるギャラリーで開催される個展「小鹿田焼 坂本創の仕事展」に出品する器もたくさん焼きあがった。底を研磨し、選別をしたらすぐに梱包して神戸へ発送する。荷受け、展示、販売はギャラリーの仕事で、創は焼きもの職人として現地に顔をのぞかせる。手前にある指描きの徳利は、伝統の白化粧にトルコ石やコバルトを微量混ぜてかすかに青みがかった白をつくったもので、パリコレにも出品する予定である。創はインスタグラムでは「so sakamoto」のアカウント名で個展の告知のほか折々に投稿している。
参考文献
≪註≫
(1)小鹿田の西の県境を越えた福岡県東峰村にある陶郷小石原は、九州北東部における窯業のパイオニアである。朝鮮人陶工の流れをくむ茶陶高取焼二代目が小石原に移住し、17世紀末黒田藩主が招いた伊万里陶工との交流があって小石原焼を開窯した。小石原焼の特徴は飛び鉋や打ち刷毛目など小鹿田焼が継いでいる伝統的な装飾方法を守りつつも、新しい釉薬で色調に変化を出したり、現代的な造型をつくったり生活の変化に応じて姿かたちを変えてきている。ガス窯を導入している窯元も多く、小鹿田焼の兄窯といわれながらも別々の道を進んでいる。
暮らしの図鑑編集部編『暮らしの図鑑 民藝と手仕事』、翔泳社、2020年、187頁。
小穴康二ほか編『やきものを楽しむ旅』、世界文化社、2005年、94頁。
(2)「民藝」という言葉は本来「民衆的工芸」または「民間の工芸」という言葉の略である。1925年に宗教哲学者柳宗悦(1889-1961)は、陶芸家の濱田庄司(1894-1979)や河井寛次郎(1890-1966)らとともに民藝という言葉をつくり、広く世に提唱する運動を起こした。無名の職人によってつくられ、民衆の暮らしの中で用いられた日用品には豪華絢爛な工芸品にはない美しさがあるという考えに基づいた運動である。
和田和也『焼き物質問箱』、誠文堂新光社、2015年、37頁。
(3)柳宗悦「日田の皿山」、『柳宗悦全集著作篇 第12巻』、筑摩書房、1982年、219頁。
「日田の皿山」は、柳が昭和6年4月26日に小鹿田皿山を初めて訪れて、同年7月に「西部毎日新聞」に連載した「北九州の窯を見る」の一部である。その後訂正増補し『工藝』第9号(昭和6年9月5日)に掲載し、さらに加筆して昭和18年『工藝選書』の第3冊として日本民藝協会より刊行された。のち昭和30年に発行した新版の後記には、伝統継承が廃れてきた日本において小鹿田の伝統保持は日本窯業にとって貴重な存在で感謝している旨を述べている。あわせて今後伝統が乱れぬ限り、伝統に基づいておのずから成長がある限り小鹿田焼の名声はますます上がるであろうと力説している。
柳宗悦「日田の皿山」、『柳宗悦全集著作篇 第12巻』、筑摩書房、1982年、215-244、764-765頁。
(4)バーナード・リーチ(1887-1979)は、日本在住の祖父のもとで幼少期を過ごしたこともあって、帰国後も再々来日し日本の陶芸家とも親交を深め、柳宗悦の民藝運動にも参画した。英国に開窯したリーチ・ポタリーには世界中から陶芸を志す人が集まり、各国の第一人者と呼ばれる人々を輩出した。小鹿田皿山には昭和29年(1954)に3週間滞在して陶工たちとともに仕事をした。ピッチャーの把手のリーチ特有の付け方が、小鹿田に古くからある水注の把手の付け方に取り入れられた。リーチの滞在は国内外に小鹿田焼の名を有名にした。
和田和也『焼き物質問箱』、誠文堂新光社、2015年、16頁。
水尾比呂志『民窯の旅 焼物の美を求めて』、芸艸堂、1972年、105-106頁。
(5)小鹿田焼技術保存会に交付された「重要無形文化財小鹿田焼の保持団体認定書」(日田市立小鹿田焼陶芸館にて展示)記載事項より。
(6)濱田琢司「維持される産地の伝統 -大分県日田市小鹿田陶業と民芸運動-」(『人文地理』第54巻第5号、2002年。)には、機械導入問題で揺れた経緯の記述がある。この問題は、文化財に指定されてもなんの経済的措置がないことに不満をもっていた一部の窯元が、産地が経済的に潤うのであれば多少の機械化は容認するという考えをもつ日本民芸協団の勧めで、機械化で量産化に成功している小石原を視察したことに端を発する。1970年末から翌年にかけて、原土粉砕機を中心とした機械の導入をめぐって紛糾した。完全なる伝統保持を評価する柳宗悦設立の日本民藝協会の影響をもとより受けていた小鹿田では、協会派と協団派の二派分裂の様相がみられた。県や市、協会、協団等関係団体を交えて話し合いを重ねたが、「長い目で見れば伝統を守ってこそ小鹿田焼の生きる道がある」という若手窯元の意見が窯元たちの目を覚まさせたようで、機械導入否定で決着したというものである。
小鹿田皿山では、何かにつけて窯元が集まり酒を酌み交わし小鹿田焼に関わる話を交わしてきたと坂本工窯の窯主坂本工は言う。たとえば原土採取地を新しく開発することを一つとっても、土地を買って整地、採土するのに2千万円はかかり、とても単独では太刀打ちできない。様々な問題を共同で取り組むのが当然のこととなっていると言う。
(7)古くから波佐見焼の中心的陶郷である中尾郷にある「中尾山交流館」の展示パネルより。中尾郷自治会が管理運営する交流館の2階は、中尾郷にある18の全窯元の器が一堂に揃うギャラリーとなっている。
(8)柳宗悦「下手ものの美」、日本民藝美術館編『民藝叢書 第一篇 雑器の美』、工政会出版部、1927年、4頁。
≪参考文献≫
・暮らしの図鑑編集部編『暮らしの図鑑 民藝と手仕事』、翔泳社、2020年。
・小穴康二ほか編『やきものを楽しむ旅』、世界文化社、2005年。
・和田和也『焼き物質問箱』、誠文堂新光社、2015年。
・柳宗悦「日田の皿山」、『柳宗悦全集著作篇 第12巻』、筑摩書房、1982年。
・水尾比呂志『民窯の旅 焼物の美を求めて』、芸艸堂、1972年。
・柳宗悦「下手ものの美」、日本民藝美術館編『民藝叢書 第一篇 雑器の美』、工政会出版部、1927年。
・杉山享司「評伝 柳宗悦」、竹内清乃編『別冊太陽 日本のこころ294 柳宗悦 民藝 美しさをもとめて』、平凡社、2021年。
・伊東安兵衛『現代の民藝陶器』、四季社、1961年。
・佐々木一成『地域ブランドと魅力あるまちづくり -産業振興・地域おこしの新しいかたち』、学芸出版社、2011年。
・落合知子、波佐見町教育委員会編『地域を活かすフィールドミュージアム -波佐見焼窯業地のまちづくり-』、雄山閣、2020年。
・波佐見中尾山のあゆみ実行委員会編集・発行『波佐見 中尾山のあゆみ』、2018年。
・中村聡編『くらしのやきもの事典 昭和の名品と全国の窯場』、MCプレス、2006年。
・永峰美佳『やきものの里めぐり』、JTBパブリッシング、2014年。
・宮内泰介、上田昌文『実践 自分で調べる技術』、岩波書店、2020年。
・濱田琢司「維持される産地の伝統 -大分県日田市小鹿田陶業と民芸運動-」、『人文地理』第54巻第5号、2002年。
(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/54/5.54_5_431/_pdf/-char/en 国立国会図書館サーチ2022年12月14日最終閲覧)
≪取材協力≫
・日田市立小鹿田焼陶芸館(2022年11月22日取材)
・小鹿田焼 坂本工窯 坂本工、坂本創〔敬称略〕(2022年5月18日、11月22日取材)
・中尾山交流館(2022年11月23日取材)
・波佐見町中尾郷自治会老人会副会長 井上忠光〔敬称略〕(2022年11月23日取材)