文化財と地域 豊島松子の民藝蒐集活動

山田 徹

はじめに
文化資産評価報告として、一人の女性の蒐集活動から「文化財と地域」を考察。次の3点を考察する。

1 豊島松子の蒐集品・建築物。
2 建築物は登録有形文化財(予定)として既に評価がある。そこに収蔵される文物は、建築と複合した文化財と評価
3 上記から地域文化財の危機

1基本データ
所在地 愛媛県伊予郡砥部町大南701~703にある①~③と付帯する3棟計6棟

1-1建造物の構造規模
[資料1]
1-2-1豊島家住宅
1-2-2梅野精陶所倉庫(以下「蔵」と呼ぶ)
1-2-3母屋

1-3 収蔵品 民藝品・生活用品・道具類・人形・美術品など約1万2000点

1-4 蒐集者  豊島松子 (写真1)
大正15年5月6日 梅野鶴市・マスエの二女として愛媛県伊予郡砥部村に生まれる。現在94歳。
梅野家は明治15年梅野精陶所(註1)を創業。砥部を代表する窯元として地域に寄与する。

以上1-1から1-4が報告対象

2 評価のポイント
豊島松子(以下、松子)は柳宗悦の「平常の雑具の中にこそ非凡な美が見いだせる」(参考文献4 P4)とした日本民藝運動に感銘、生涯を蒐集活動とそれらを収蔵する建築を成した。

3 成立過程
松子の父・梅野鶴市(1890 - 1969)は町制施行以来、町長を務めた。(註2)
鶴市は、無医町に昭和25年日本赤十字松山病院勤務医、豊島吉男を松子の夫に迎え、建築物1-2-3に医院を開業。
昭和28年から鶴市は三男の武之助(註3)と戦後低迷する「砥部焼」復興を掲げ、柳宗悦、濱田庄司ら(註4)を招聘し指導を受ける。
松子は子育ての一段落を機に積極的に蒐集活動を始めた。(註4)
蒐集の背景に、昭和33年医院を隣地に移転し母屋と蔵の収蔵空間を得たこと。この建築1-2-1の設計は愛媛の後藤種一(資料2)である。
資金的には、周辺の人口増による豊島医院の地域医療として重要性が増大、加えて柳や濱田はじめその弟子らの指導による砥部焼と梅野精陶所の発展がある。

4 建築物の文化財評価
1-2-1 豊島家住宅(旧豊島医院)は道路拡幅により2020年5月取壊した。
2017年10月、愛媛大学教授 曲田清雄、日本建築家協会愛媛支部の調査を実施。(資料2)
2019年3月8日、文化庁文化財二課登録部門 文部科学技官 福田剛史を招き、建築物の文化財価値の確認をした。
1-2-2 梅野精陶所の蔵(大正13年建築)、これは出荷倉庫(蔵)で中央部が吹き抜け構造となり、昇降機構を有し、産業遺産として文化庁福田に評価された。
昭和38年民藝展示館をイメージした意匠で改装した。(写真2)
1-2-3 母屋
蔵と同時期大正13年に建築された精陶所事務所、通り面して糸屋格子をあしらうなど京の町屋の意匠を用いた。
昭和25年、病院に転用開業。昭和33年に1-2-1に病院兼住居は隣接地に移転、昭和38年に道路側の格子を取除きウインドウに変更「とべむかしのくらし館」を開館した。しかし以降も展示を上回る蒐集活動で展示は未整理で雑然と積み上げられていった。

5 人物の評価
松子による蒐集は、砥部焼を通し日本の民藝運動に触れた梅野一族、梅野鶴市、武之助、豊島吉男らを巻き込んだ類を見ない民藝運動である。特に女性特有の感性と美意識に裏打ちされた蒐集は高く評価できる。

6 収蔵品の文化財評価
蒐集品の中からいくつかを挙げる。収蔵品点数は砥部町学芸員宮本直美(2020年7月27日面談)によると約12000点。このほか調査中の着物が多数あり現在確認作業中(写真3)

6-1 夜着
76点が綿入りの状態で保存状態も良い。
2018年4月「むかしの夜着展」を開催。(資料3)「大きな話題を集め、テレビ・新聞の取材を受け、全国放送に取り上げられ国内の資料館などからの問い合わせがあった。」
(註4)豊島吉博談2019年12月15日面談

6-2 欄間
(写真4右)
精緻で優れた技巧の欄間が40点。江戸時代末期から明治に建てられた民家が取壊されると聞くと松子が出向き貰い受けて来たのである。

6-3 箪笥
仙台箪笥、朝鮮箪笥をはじめ水屋や長持ちなども相当数があり、そのどれにも当時の着物や履物、陶芸品などが詰め込まれている。

6-4 淡黄磁
明治23年に砥部の向井和平が創始。創設期の梅野精陶所はこれに深く関り、明治26年(1893)シカゴ万博で金賞にかがやいた。近年、再生運動が起きている。参考資料に「淡黄磁」の解説を付記。(註5-6)写真1のラベル参照

6-5 群鶴図屏風
(写真4左)
母屋の中から発見された。
矢野徹志(註6)によると江戸時代の京都四条派のものと推認。

6-6 そのほか
反物、絣反物、帯、子供着物、ひな人形、五月飾り、獅子舞頭、農具、籠、煤竹、食器、鬼瓦など圧倒的な数量である。和服は20枚入りのケースが200個以上ある。現在仕分け作業中。

7 他の事例に比較
国内にはいくつかの「民藝館」「民俗資料館」が存在する。そのいずれもが生活の中に美を見出した柳宗悦らの思想がある。
そうしたなかでも松子は、とりわけ繊維製品である着物、帯、絣の反物、夜着、子供の着物、人形飾り、多様な人形、女性特有の「可愛い」にこだわって蒐集した点が特筆される。このような女性特有な感性を蒐集の中に置いた例は多くはない。
これまで建築物の文化財的資産のみに評価を行ってきたが、この研究を機にひとりの女性が成し遂げた「藝術活動」として新しく評価する。

8  今後の展望

文化財の価値を損なわないため道路収用・文化財のそれぞれ担当部署の連携。埋蔵文化財のように、土地収用など開発計画に文化財のスクリーニングを実施することを提案する。
個人で保存をするのが難しくなりつつある現代は、文化財を地域共通の財産か、個人の趣味の資産かを考察する仕組み、つまり文化財のトリアージのような仕分けを行うことを提案する。
参考例;高知県大豊町にある豊永郷民俗資料館(註9)

いっぽう本件は松子の長男で後継者の豊島吉博が保存展示活動を続けるが、その後の展望は厳しい。
これらを大豊町を参考に町に寄贈するという案もあるが、行政は近年こうしたものを受取ることに消極的で、このままでは文化財は早晩に散逸し喪失してしまう。
よってその対策として次の提案をする。

文化財継承を中学・高校で活動
愛媛県立長浜高校に課外の部活動「水族館部」がある。(註10)この高校生部員らは学校の前の海洋生物の生態を日々に観察研究し、空き教室を活用し休日に開館し(入館料無料)部員らは入場者への解説を行っている。地域の観光資源になるばかりか高い研究成果をあげ、教育価値を獲得している。この仕組みこそ地域の文化財の研究と保存・展示に最適だ。
生徒数の減る空き教室の多い地域の公立学校に博物館を設置する。

まとめ

今回の調査を通じ地域にある文化財の価値を再発見した。そこには柳の言う、まさに「用の美」があり、よく使いこまれ、豊かな生活を営んでいた人々の姿まで浮かび上がってくる。
それらが地域の文化であろう。
松子は柳宗悦らに対する尊崇と、日本民藝館に対する知的なライバル意識が、蒐集の糧になっていたのは豊島吉博からの聞き取りの端々から見られた。
「これは日本民藝館にもなかろう」とか「民藝館にあるよりもこちらのものが良い」という松子の発言がそれを特徴づけている。
しかしこれほどまでの蒐集を成し遂げた背景をさらに探るべく、この研究のまとめとして資料4に豊島松子を巡る相関図を、長男の豊島吉博氏とともにまとめた。
この思想を引き継ぐ地域の活動を実践するためにも、さらに調査と研究を継続しなくてはならない。
こうした事実を再確認するとともに、いま地域の文化財は喪失の危機に直面していることがよくわかった。それは、とりもなおさず地域の喪失を意味している。
あらためて「文化財とはなにか」そしてそれは誰のものか。真に取り組み行動をしなければならない時限に迫られている。

  • 1 (左)豊島松子(29歳)昭和29年撮影、撮影者は夫豊島吉男(故人)、日本民藝運動と出会ったころ。写真は長男の豊島吉博提供、2019年11月25日使用許諾済。
    (右)古砥部を代表する『淡黄磁』のラベル。松子の父の名前で「梅野鶴市工場」と記載されている。撮影 山田徹 2020年10月8日
  • 2_a4%e5%86%99%e7%9c%9f2_%e8%94%b52_page-0001 A4写真2_蔵(2)
    昭和38年頃、民藝の意匠で改装された蔵の内部。2020年6月9日 山田徹撮影
    2020年春までは大量の収蔵品に埋もれ、照明も暗く、蔵自体の意匠は不明なままだった・今回は蔵の曳家工事のため、収蔵品を全て撤去したことにより内部の意匠が明らかになった。壁の下部に穿たれた穴は家曳工事のため設けられた。
  • 3_a4%e5%86%99%e7%9c%9f3_%e5%8f%8e%e8%94%b5%e5%93%81%e7%94%bb%e5%83%8f12%e7%82%b9_page-0001 A4写真3_収蔵品画像12点
    非常に多種多様となる収蔵品を、展示されている状態でいくつかのブロックごとに撮影。
    2019年12月20日 山田徹撮影
  • 4_a4%e5%86%99%e7%9c%9f4_%e6%ac%84%e9%96%93%e3%81%a8%e5%b1%8f%e9%a2%a8%e3%81%ae%e8%a3%9c%e4%bf%ae%e4%bd%9c%e6%a5%ad_page-0001 A4写真4_欄間と屏風の補修作業
    (左)蔵にあった『群鶴図屏風』金箔の上に墨が塗られており、落款も消されている。『消えた落款の謎』は筆者が続いて調査し纏めている。
    写真を松子に見せると「知らない」:という回答。鶴のモチーフが多いのも父である梅野鶴市の蒐集である。(右)屏風および欄間の補修作業および撮影風景の写真 2019年9月28日 撮影及び制作:山田徹
  • 5_%e4%bf%ae%e6%ad%a3_a4%e8%b3%87%e6%96%991_%e9%85%8d%e7%bd%ae%e5%9b%b3%e3%81%a8%e5%a4%96%e8%a6%b3%e5%86%99%e7%9c%9f%e9%ab%98%e9%80%9f210219_page-0001 卒研資料1_配置図と外観写真高速
    1.四国内道路地図は当該物件の位置を赤丸で示した。制作にあたっては高速道路網はNEXCO西日本の地図
    https://www.w-nexco.co.jp/search/highway_guide/pdfs/guide_map_chushi.pdf
    国道および地図形状は国土交通省四国地方整備局「新たな道づくりの推進」
    https://www.skr.mlit.go.jp/road/vision/vision/f_newway.html
    を参照し山田徹が作図。
    2.当該物件配置図は当該建築物に拡幅される県道の完成位置を赤線で示した。
    作図に当たっては愛媛県が豊島家に道路収用計画のため示した計画図を参照に、
    山田徹が実地に測量し作画をしたもの。
    3.収容による面積の減少
    当該物件配置図で測量した面積を山田徹が計算し取りまとめた。

    建築物写真3点の撮影位置も平面図に示した。2019年12月6日 山田徹制作
    撮影日はいずれも2017年10月26日 山田徹
  • 6_%e5%8d%92%e7%a0%94%e8%b3%87%e6%96%992_%e8%a6%96%e5%af%9f%e5%a0%b1%e5%91%8a%e6%9b%b81_page-0001 卒研資料2_視察報告書+(1)
    資料1で示した①の豊島住居(旧豊島医院)昭和30年建築の価値の検証のため(公)日本建築家協会愛媛支部の有識者らを招き視察のち意見交換、視察は主に旧豊島邸、及び蔵、母屋と収蔵品など。 2019年12月16日撮影 資料作成:山田 徹
  • 7_%e5%8d%92%e7%a0%94%e8%b3%87%e6%96%993_%e5%a4%9c%e7%9d%80%e5%b1%95%e3%83%9d%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%81%a8%e4%bc%9a%e5%a0%b41_page-0001 卒研資料3_夜着展ポスターと会場+(1)
    2018年4月28日より5月6日の日程で砥部町中央公民館にて、豊島吉博が砥部町と合同で行った『昔の夜着展』
    「かいまき」とも呼ばれる夜着のコレクションは大きな反響を呼んだ。総点数は76点。これまで10点あまりの確認はされていたものの今回の調査で母屋の屋根裏で発見されたものが65点で「これほどあったとは」と豊島吉博。ポスターの制作は砥部町、会場提供砥部町。ポスターの使用許諾は豊島吉博及び砥部町。写真撮影は山田徹。2018年4月28日
  • 8_a4-%e7%9b%b8%e9%96%a2%e5%9b%b3200108_page-0001 A4-相関図200108
    松子を巡る民藝蒐集活動から見えてきた人々の相関図を松子の長男である豊島吉博氏と共同で作成した。
    2020年10月6日、山田徹制作。豊島吉博監修、制作にあたっては参考文献9を参照した。
    図中の(S38‐40)の表示は来砥、または在砥を昭和=Sで表した。西暦の表示は生年-没年を示した。

参考文献

参考文献
1『砥部町誌』砥部町誌編纂委員会編 昭和53年3月20日
2『砥部』伊予陶磁器協同組合発行 昭和52年4月1日 
3『民藝とはなにか』柳宗悦 講談社学術文庫  2006年9月8日
4『民藝の日本 柳宗悦と「手仕事の日本」を旅する 』 日本民藝館編 筑摩書房 2017年9月
5『日土小学校の保存と再生』八幡浜市教育委員会 鹿島出版会 2016年2月28日
6『建築家松村正恒ともうひとつのモダニズム』花田佳明 鹿島出版会 2011年2月28日
7『民具の事典』岩井宏實 河出書房 2017年1月30日P214
8『円山応挙から近代京都画壇へ』求龍堂 2019年8月
9.『アウト・オブ・民藝』軸原ヨウスケ、中村裕太 誠光社 2019年5月11日

註釈

(註1)「梅野精陶所」窯名を梅山窯といい砥部で現存する中で最も歴史のある窯元です。明治15年(1882年)に開窯して以来130年あまり永きにわたりその伝統を受け継ぎ、砥部の材質を生かして「用と美」をコンセプトに実用工芸品の製作につとめてきました。あたたかみのある白磁の器に深い藍色と色絵で描かれた文様と、ぽってりと厚みのある形で作られている梅山窯の器は、飾り気のない健全な美しさを感じられます。
以上Webから引用
https://baizangama.jp
閲覧日;2019年12月20日

(註2)松子の父である梅野鶴市は、町制施行後前の昭和18年~21年および原町村と合併、新砥部町の初代町長を昭和30年~36年の間務めた。」2019年12月2日、豊島吉博談
参考文献1、275頁 

(註3)梅野武之助(1921~1999)
大正10年(1921年)12月6日砥部村大南に生れ、戦後の不況期に砥部焼の再興に尽くし、中央から著名な工芸家を招いてデザイン指導を受け、白磁に呉須で代表される今日の砥部焼の基礎を築いた。
 また、昭和59年(1984年)から砥部焼まつりを開催するなど、砥部焼の発展に尽力されたので、ここに顕彰する。(『梅野武之助翁顕彰碑』解説より)

 昭和56年(1981年) 紺綬褒章
 昭和58年(1983年) 黄綬褒章
 平成7年(1995年) 勲五等瑞宝章
 平成13年(2001年) 名誉町民
http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:4/89/view/14763
閲覧日;019年12月21日

「武之助は梅野鶴市の三男で、松子のすぐ上の5歳違いの兄。長男・次男を戦争で亡くした鶴市は、家業を武之助に委ね、自らは町政に奔走した。武之助は砥部焼の振興に尽くした。この二人の連携が見事だった。」
2019年12月20日、豊島吉博談

(註4)「昭和28年は、柳宗悦どころか、バーナード・リーチも同行している。その後も人間国宝となった濱田庄司、富本憲吉らが相次いで来て、其々の弟子、浜田は鈴木繁男、富本は澤田犉を推薦派遣してくれ、若手を指導育成、今日の砥部の流れを作ってくれた。
日本のトップリーダーたちをとりこにした背景には、祖父である町長の砥部焼と日本の民藝運動に対する理解と情熱に加え、梅野精陶所(梅山窯)を継いだ若社長の梅野武之助の人間力と経営手腕があった。」豊島吉博談 2019年12月18日および参考文献2 128頁

この招聘によって砥部町を訪れた芸術家たち
柳 宗悦 (1889-1961/明治22-昭和36)民藝運動を起こした思想家・美学者・宗教哲学者。
濱田 庄司 (1894-1978/明治27-昭和53)主に昭和に活躍した日本の陶芸家。重要無形文化財保持者
バーナード・リーチBernard Howell Leach(1887 -1979)イギリス人の陶芸家・画家、白樺派や民芸運動にも関わりが深い。日本民藝館の設立にあたり、柳宗悦に協力した。
富本 憲吉(1886-1963/明治19-昭和38)陶芸家。人間国宝、文化勲章受章者。
鈴木繁雄 (1914- 2003/大正3-平成15)漆工芸作家
澤田犉(1933-1993/昭和8-平成5)
ここでとくに澤田の説明を大分県立美術館のWebから以下に引用する。
「京都市に生まれる。陶芸家澤田痴陶人の長男。昭和33年京都市立美術大学陶磁器科を卒業し、師の富本憲吉の推薦で砥部の梅野精陶所に入所。砥部焼にはなかった日常食器の開発に取り組み、新しい呉須やデザインの開発に貢献した。昭和44年伊万里陶苑に招かれ痴陶人の轆轤を担当すると共に伊万里焼の新しいデザイン開発に従事した。退職後、有田窯業大学校講師を勤め、1986年大分県立芸術短期大学教授に就任。'昭和30年前半という戦後早い時期に、日常使いの陶磁器の現代的なデザイン開発と指導に取り組み、卓越した轆轤技術とデザイン力で、シャープで洗練された器を制作した。」
http://opamwww.opam.jp/collection/detail/d_writer_master/422;jsessionid=B3D42A904773DEDF3A619333123775FA
閲覧日;2019年12月18日
以上も豊島吉博からの聞き取りを取り纏めた。

豊島吉博(昭和26年2月27日~)豊島松子の長男。愛媛新聞社記者(主に文化部)を経て日本サッカー協会事務局長、愛媛FC社長などを歴任。現在は四国サッカー協会会長、同「砥部むかしのくらし館」館長(筆者が聞取りまとめた2019年12月18日)


(註5)砥部町観光協会HP 、http://www.tobe-kanko.jp/product/tobeyaki/history.html
砥部町パンフレット『砥部焼』
閲覧日:2019年12月17日

(註6)愛媛県生涯学習センター「わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~淡黄磁(たんおうじ)に魅せられて西岡 秀典」より
http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/25/view/3564
「戦後の昭和27年ころの民芸ブームが起きたころに、柳宗悦先生や濱田庄司先生、また、富本憲吉先生などが来られて、「砥部焼には、くらわんかがある。淡黄磁がある。」というふうに言われた(中略) これは明治23年に向井和平翁(向井窯)が始められたもので、元々のルーツは中国の北宋の白磁にさかのぼると聞いております。淡黄磁といいますのは、現在の砥部焼にみられる白磁でなくて、柔らかく淡い黄色味を帯びています。それに向井和平翁が「淡黄磁」という名前をつけてくれています。これは砥部独特の名前で、非常に響きの良いすばらしいネーミングだと思います。
 淡黄磁は、砥部焼の中では、くらわんか茶碗と並ぶ宝物ではないかと思うのです。ですから民芸ブームが起こった時にも、柳先生、濱田先生、富本先生なども、淡黄磁が砥部焼にはあるというようなことで、非常に興味を持たれたと聞いております。
 淡黄磁というのは、一般の磁器とどこが違うのかということをお話させていただきます。まず、磁器の焼き方には酸化焼成と、還元焼成とがあります。一般の磁器である白磁は、通常、還元焼成で焼きますが、淡黄磁の場合は、酸化焼成か中性の焼成になります。還元焼成といいますのは、燃料を不完全燃焼させて、一酸化炭素の雰囲気の中で焼きます。また、酸化焼成といいますのは、酸素の十分ある状態で焼くということです。例えば、焼物の顔料としてよく使われる鉄を例にとりますと、鉄が酸化しますとさびて赤茶っぽくなりますが、それを還元しますと、いわゆる青光りをする、鉄本来の色に戻るのです。もう一つ焼物でよく使われる顔料に銅がありますが、銅を酸化させますと、緑っぽい緑青の色になりますが、それを還元しますと、赤銅色のあかがね色になります。実際の淡黄磁でいいますと、酸化焼成で焼きますので、銅は緑っぽくなり、鉄は酸化鉄となり赤茶色になりますが、鉄分が微量ですと全体に淡い黄色になります。しかし、完全に酸化というわけではなくて、酸化から中性の間で焼きますと、淡黄磁の焼き味が出てきます。
 ついでに焼き物の顔料の鉄の色についてお話しますと、焼物で、鉄は非常に基本的な顔料となります。砥部焼の原料には微量ですが鉄を含んでおり、白磁といいましても、純白ではなくて、薄く青みがかった砥部焼独特の色になります。また、釉薬の鉄の含有量が1~2%ですと青白磁の色になり、4%ぐらいですと、ちょっと濃い青磁の色になり、8%まで入りますと真っ黒の天目(てんもく)になり、12%を越えますと鉄砂といいまして鉄さび色になるというように、いろんな色が鉄で出るのです。
 昔の淡黄磁というのは、釉薬の調合に楢灰(ならばい)というのを使っておりまして、この楢灰の中に、原料になるナラの木が栄養分としてとった鉄分が含まれていた関係で、こういう淡い黄色を出したのだろうと思います。」
閲覧日:2019年12月20日

(註7)矢野徹志(1940-)『近世伊予の画人たち―愛媛近世絵画の諸流』愛媛文化双書 2016/7『愛媛の近世画人列伝』愛媛県文化振興財団, 1996などの著書がある元高校教師、元愛媛県美術館学芸員、芸術家であり芸術史研究家(筆者が聞取りまとめた2019年12月18日)

(註8)日本民藝協会HP,http://www.nihon-mingeikyoukai.jp/pavilion/
閲覧日:2019年12月18日

(註9)豊永郷民俗資料館https://www.museum.or.jp/museum/6848
http://jofukuji-kochi.jp/museum_1.html
では、町に寄付された民俗資料などを特定NPO法人豊永郷民俗資料保存会によって展示保存運営されている。2020年8月25日訪問。館長である釣井龍秀(同法人代表、定福寺住職)に面談。文化財の保存と継承についての考え方を伺う。
HP閲覧日:2020年9月4日
(註10) 長高水族館 https://www.facebook.com/nagako.aquarium
閲覧日:2020年3月26日

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