下村 泰史 (准教授)2018年3月卒業時の講評

年月 2018年3月
卒業研究レポートを読んで

今年も多くの方が卒業研究レポートに取り組まれました。
これに着手するまでのご苦労は大変なものだったと思います。襟を正して拝読いたしました。

他大学や他学科の一般的な卒業研究や卒業制作に比べると、この3200字2単位の「卒業研究」は軽いもののように思われるかもしれません。しかしむしろ、この3200字の中にきちんと方法立てた論述を織り込むのは高度な作業のようにも思います。この長さは、本格的な学位論文の要旨とも似たものです。これがきちんとまとめるというのは、なかなかの作業です。

さて、今回拝見したレポートですが、率直に申し上げて出来はさまざまでした。
対象について自分で観察したのはよいけれど、なんとなく語って終わってしまっているものもありました。ブログに書くエッセイであればそれでよいのかもしれませんが、学術的な文章の場合にはそういうわけにはいきません。どういう事実を確かめているのか、どういう根拠にもとづいてそのような価値判断を下したのか、といったことが読み手に伝わらなくてはなりません。参考文献もほとんど挙げず、言いたいことだけ言っただけでは、「研究」にはなりません。いや、それならばまだましなのでしょう。少なくとも自分で見、自分で思ったことが書いてあるのですから。

卒業研究に限ったことではありませんが、間違ったことを言ったらまずいことになる、と思っている方は多いように思います。今の日本の言語状況がそうなってきているように感じます。正しそうな側に付きたい、正しそうなことを言いたいという気持ちに駆られることも多いのではないでしょうか。
しかし、世の中にばらまかれている「正しそう」なものの中には、不確かだったり、間違ったりしているものも多いのです。それをきちんと吟味する方法を知っていることが「教養」なのだと思います。
盗用や剽窃の問題についてここで長々と書こうとは思いませんが、そうしたことをしてしまうのも、何か「正しそう」なものに頼ろうとする精神的な姿勢の現れのように思います

研究とは、どんなささいな、身近なテーマであれ、これまで未知だったものにロゴスによって形を与えること。この働きは詩にも似た、創造的なものです。そして、そこから生まれたばかりの結論は、その時点では「正しいかどうか」はわからないのです。人々の間にその言葉が出て行き吟味されたときに、初めてその妥当性は明らかになるのです。
これは心細いことです。しかしその心細さに耐え、その論の確かさを磨き上げるために、先ほど挙げたような、根拠を踏まえることや論理的に考えることが必要になるのです。
みなさん、そうした学的態度を在学中に養ってこられたのだと思います。それが卒業研究で開花した方もいれば、反省が多く残る結果になる方もいると思います。もしこの文章を読まれたら、ご自身が受けた講評と改めて照らしあわせ、これからのご自身の研究制作に活かしていただければと思います。

明日からのみなさんのご活躍をお祈りしています。