「吉田の火祭り」富士講御師によるデザインされた鎮火祭について

大森 照子

はじめに
「吉田の火祭り」は毎年8月26日・27日に山梨県富士吉田市上吉田地区で開催される富士山の鎮火祭で、400年以上続く北口本宮冨士浅間神社(浅間神社)・摂社諏訪神社(諏訪神社)*Aの祭祀である。両社の神幸に際し、2基の神輿が御旅所に一夜宿りをする晩に、地区内の路々に設置した松明が燃え盛る様子と、翌日のススキ玉串を持った人々が神輿の後を練り歩き、境内を周回する様子は、古来民間信仰を色濃く継承された祭礼として、2012年国の重要無形民俗文化財に指定された。富士山の山仕舞いとなる風物詩「吉田の火祭り」に施された、富士山信仰と御師町のデザインを考察する。

1.鎮火祭行程
8月26日
宵祭 本殿祭・御動座祭・発輿祭・神輿渡御・御旅所着輿祭
まず、浅間神社御神霊が絹垣に覆われ諏訪神社へ移動する。諏訪神社御神霊は明神神輿へ、浅間神社御神霊は御影神輿(御山神輿)へ奉鎮され、諏訪神社前の高天原で発輿祭の後、セコ(1)に担がれ参拝者で賑わう参道を下り氏子町内を渡御する。暮れ方、火の見櫓のご神木に張られた注連縄を明神神輿の屋根に立つ鳳凰がクチバシで切り、2基の神輿は御旅所に奉安される。その直後、世話人(2)とセコが一斉に神幸路にスコリア土を敷き、高さ10~11尺の大松明約70本を立て点火すると、沿道の各家で用意した高さ4.5尺の井桁松明350本にも点火され*B、上吉田地区は火の海と化す。さらに富士山の各山小屋でも松明が焚かれ、富士山と上吉田は炎の筋で繋がれる。「吉田の火祭り」は、この宵祭をさす。
御旅所では太々神楽が奉奏され、多くの露店と観光客が松明の傍らを行き交い夜祭を楽しむ。松明が燃え尽きる午後11時頃には消防団により消火され、路上清掃をする。

8月27日
本祭 御旅所初輿祭・金鳥居祭・神輿渡御・御鞍石祭・あげ松の神事・すすき祭・高天原祭・還幸祭
御旅所を出発した2基の神輿は昨日と異なるルートで地区内を渡御し、夕刻、御鞍石(みくらいし)(3)に到着する。昔から、この石は諏訪の祭神が祀られていた旧社と伝えられていたが、2010年山梨県埋蔵文化財センターの調査で建物跡が無かったため、神籬であると考えられる。明神神輿はこの石の上に置かれ、御山神輿は御鞍石のそばの地面に手荒く置かかれる。御鞍石祭の後、あげ松の神事で謡(4)を読みあげる。クライマックスのすすき祭りは、浅間神社の境内に明神神輿が勢いよく流れ込み、高天原を7周廻る。3週目に御山神輿も列に加わり、神輿の後に続いて玉串をつけたススキを持つ氏子、参詣者が高天原をグルグルと回る。さらに、重さ1.5トンの御山神輿が、渡御中と同様に度々地上に叩きつけられる。それは、御祭神の御神威の発揚を促し、荒ぶる富士を鎮める為に行われる。高天原に2基の神輿を納め、神幸祭終了を奏上し、神輿を諏訪神社へ移動する。暗闇の中、絹垣に覆われた御神霊を神輿から諏訪神社へ納め、浅間神社の御霊を浅間神社本殿へ還御し祭事が終わる。雅楽と警蹕が諏訪森に響く「奉遷」は厳かで、不可視の神が確かに在ることを表わしている。

2.火祭りの起源(伝説)
・時宗西念寺の僧が信濃諏訪修行の帰りに木枝で竜の杖を造り、吉田諏訪神社に祀り、杖を燃やしたことから。宵祭朝、西念寺高僧が諏訪神社で法楽(5)をし、明神神輿渡御の折々に正装で路地に立つ様子からも深い繋がりを示している。
・長野諏訪大社祭神建名方神(6)が国譲りの戦に負けこの地に至ったとき、土地の者に無数の炬火を燃やさせたところ、寄せ手の軍は援兵と見て去ったことから。
・『古事記上巻』より、木花開耶姫命(7)は彦火瓊瓊杵尊(8)から一夜の交わりで懐妊したことを疑われ、身の証をたてるため富士山の胎内に産屋を造り、火を放ち猛火の中で3人の神の子を産んだ故事から。

起源伝説は、明治時代に諏訪神社の祭りとして神建名方神型が主流であったが、大正から昭和戦時期は浅間神社の木花開耶姫命型が一般化する。火中出産の説話は、「日本女子の貞操を証す婦徳」として戦時体制下の国威宣揚に用いられた。

3.富士山信仰の変化
古来より、富士山は神体山のため禁足地であり遥拝信仰の対象だった。平安時代、大規模噴火に伴い、朝廷が鎮爆祈念のため浅間神社を建てる。平安末期に神仏習合・山岳信仰の影響を受け、修行のため信仰登山者が現れた。やがて富士信仰の祖、長谷川角行(1541~1646伝)の教えを継ぎ、食行身禄(1671~1733)が遺訓「三十一日ノ巻」を弟子に口伝し、枝分かれした多くの講祖が講社を作り「江戸八百八町に八百八講」となる。巡礼登山が江戸庶民の間に爆発的にひろがり、上吉田町は富士講(9)の聖地として栄えた。
明治以降、神仏分離令・神道立国の提唱・廃仏毀釈に従い、山中の仏像仏具は谷間に廃棄、修験道廃絶の強行、呪術師一掃、富士講は神道教会化に強制改宗させられ、拒否した講社は廃業した。さらに、カタリや悪質な講社の事例から1795年富士講禁止令が出され、御師町は大恐慌となる。1875年、浅間神社宮司宍野半(1844~1884)が「富士一山講社」を興し、講社を組織化した。2013年、富士講は富士山世界文化遺産の構成資産として登録された。

4.地域特性について*C
甲州街道を大月で分岐し富士道へ進み、鎌倉街道との交差点に上吉田地区入り口となる金鳥居があり、真正面に霊峰富士の姿を拝むことができ富士信仰の聖地の境界を示している。
室町時代、「千軒ノ在所」と言われた古吉田宿は、御師を中心とした賑やかな町場が形成されていた。しかし、度重なる雪代(10)の被害をうけ1572年に上吉田宿に移転し、現在の上吉田地区となった。
御師達は移転に際し、諏訪森を雪代の堤防とし、雪代災害防止のため開折した2本の川(11)を配し、タテジクの三町の綿密な町割りと屋敷割りで寺社を計画的に配置した。中央大通りの両側に短冊状に地割りされた70軒に、御師・神職・商人・職人が住み、富士山信仰の最大イベントである登拝を観光産業の中心に見据えた町場である。
富士山は死の世界である。死に装束で念誦を唱え登り、臨死と誕生を体感する登拝で生命の大切さを実感し信仰心を深くする。江戸時代に巡礼ブームとなったのも、庚申御縁年の立札や浮世絵の宣伝手法を取り入れた布教活動に加え、登拝体験者の伝達力が大きい。
また、現在も残る「富士は上」の地図表記や、「南に行く=上がる」の表現を定着させ、富士に向かって生きる独自の文化を形成した。

5.他社の鎮火祭について
・広島県宮島町 厳島神社 大晦日、嚴島神社の御笠浜で行われる「火難除け」の祭りで、「晦日山伏(つごもりやまぶし)」と呼ばれる。神社祓殿の斎火を御笠浜に設けた斎場の大松明に移し、大松明を担ぎ威勢良く御笠浜地区を練り歩く。
・石川県金沢市大野湊神社 1月、火の恵みに感謝し、荒ぶらないように祈念するお祭りで、奈良時代からつづき、「ほしずめのまつり」とも呼ばれる。四種神宝と赤以外の野菜果物を備え、鎮火神符を配布する。
このように他県他社では防火を祈願し護摩焚きをするなど、秋葉神社・秋葉寺の火伏と同じく防火防災を祈願するものである。

おわりに
本来、鎮火祭は諏訪神社の祭祀であった。浅間神社が大規模となっても諏訪神社の祭りの禁忌を厳守させ、鎮火祭の渡御では御山神輿は決して明神神輿を追い越さず、御山神輿は人の手で手荒に扱った。産土神を霊幻新隆かつ尊重し、神事や形式を厳格に取り決め確実に継承させる。変動する時代の規制を巧みに乗り越え、正当化できたのは2社の神主となり富士講最高位に在った御師である。
人口の杜や川に神話を附し、唯一無二の霊峰富士を最大のパワースポットにし、御師町を聖域としたテーマパークでの最大イベント鎮火祭を創り上げたのだ。御山神輿や大松明は富士山を模し、赤い山肌や炎は御神火である。異常に多い数の松明を一斉に点火し、溶岩の流出や割れ目噴火を疑似体験させる。霊峰富士と上吉田地区町構造と2社の祭祀に、ドラマチックな視覚効果を取り入れた演出をし、畏怖を信仰に結び付けるデザインをした。
寛政二年、京都加茂社祠官加茂季鷹(1754~1841)が富士登山の見聞を記した『富士乃日記』火祭りの記述からも、祭りの形態は変わらずに230年伝承されていることがわかる。
富士講御師により完成した奇祭は富士吉田市の行事としても定着し、浅間神社氏子の北口御師団が中心となる「吉田の火祭保存会」に正確に継承され、世界文化遺産富士山の構成資産のひとつとして確実に継続される。

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参考文献

参考文献
ふじさんミュージアム『北口本宮冨士浅間神社のすべて』㈱サンニチ印刷、2018。
山梨教育委員会『山梨県の祭り・行事』堀之内印刷、平成11年。
田中良和『祭礼行事・山梨県』㈱おうふう、平成7年。
外川家住宅学術調査会『富士山吉田口御師の住まいと暮らし 外川家住宅学術調査報告書』富士吉田教育委員会、2008年。
オフサイドブック編集部『謎解き祭りの古代史を歩く』㈱平河工業社、1999年。
北口本宮冨士浅間神社『陳火祭-北口本宮冨士浅間神社』北口本宮冨士浅間神社、平成8年。
富士吉田教育委員会『国記録選択無形民俗文化財調査報告書 吉田の火祭』㈱サンニチ印刷、平成17年。
篠原武『富士講のヒミツ』富士吉田教育委員会、2015年。
三田崇博『生駒の火祭り』㈱読書館、2014年。
富士吉田教育委員会『吉田の火祭のヒミツ』㈱少國民社、2012年。
富士吉田史資料叢書4『村明細帳』富士吉田史編さん室、発行年不明。
改訂佐藤八郎『甲斐国史 第三巻』雄山閣版、昭和46年。
富士吉田教育委員会『富士の女神のヒミツ』㈱少国民社、2012年。
ふじさんミュージアム『ふじさんミュージアム』㈱少国民社、2019年。
山科小一郎『富士講の歴史 江戸庶民の山岳信仰』㈱名菱出版、昭和59年。
池田敏夫『賀茂季鷹富士日記の研究』富士山大社山御岳神社 、1979年

CATV特別番組(DVD)『吉田の火祭り』CATV甲府、平成16年。

オマツリジャパン『吉田の火祭りを陰で支える若手!「祭典世話人」制度とは?』(2019年12月10日閲覧)
https://omatsurijapan.com/blog/yoshidanohimatsuri-sewanin/

山梨県埋蔵文化センター『山岳信仰-北口本宮 富士山の調査 御鞍石周辺調査』平成22年(2019年12月7日閲覧)
https://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/sanngaku-sinnkou/kitaguchihonnguu.html

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス(2019年12月19日閲覧)
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1



(1)セコ
神輿の担ぎ手。世話人の指示で、松明の着火準備や祭りの雑務をする。

(2)世話人
祭典世話掛。上吉田地域在住、浅間神社氏子で42才厄年前の男子。既婚者で地付きの者とされ、上吉田市内の上町中町下町から14人選出される。祭り全般を取り仕切り大松明も制作する。

(3)御鞍石
諏訪神社の旧社地。平成22年山梨県埋蔵文化財センターの調査により、御鞍石の前方に集石が、また御鞍石がのるマウンドの縁辺部からは土留石積と寛永通宝や永楽通宝、陶磁器片が見つかったが、建物跡などはなかった。石を信仰対象としていることが確認された。
山梨県埋蔵文化センター『山岳信仰-北口本宮 富士山の調査 御鞍石周辺調査』平成22年

(4)あげ松の神事の謡
あげ松の神事で宮司が3回読み上げる。
「すはのみや すわのみや みかけ やイよう神 さいさうがみ けにもさふらう やイようかみもさすらふ」
『冨士浅間神社社誌』によると、
「諏訪の宮(建名方神) 諏訪の宮(建名方神) 御影(富士山) 八葉神(木花開耶姫命) 左右神(相殿の二神=彦火瓊瓊杵尊と大山祗神) けにもさふらう(現在も候)・・・・・・」と記載されている。

(5)諏訪神社法楽
吉積山西念寺が神前読経をする慣わし、神仏習合の儀礼を取り行う。

(6)建名方神
諏訪神社の祭神。日本神話では、大国主命の子で武神。武甕槌神(たけみかづちのかみ)らが葦原の中つ国の国譲りを大国主命に迫ったとき、大国主命の命令で武甕槌神と力比べを行ったが敗れて信濃諏訪湖に逃れ、この地から出ないと誓った。諏訪大社の祭神。

(7)木花開耶姫命
北口本宮冨士浅間神社の祭神。富士山の神とされ、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘。天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃。火照命(ほでりのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・火明命(ほのあかりのみこと)の母。

(8)彦火瓊瓊杵尊
北口本宮冨士浅間神社の祭神。天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)の命により三種の神器とともに日向(ひゅうが)の高千穂峰に天降(あまくだ)り,木花開耶姫(このはなさくやひめ)を妻とし,彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)ら3人の父。

(9)富士講
富士山を信仰する農民・職人・商人で組織された講社。富士山登拝を行う。浅間講(せんげんこう)ともいう。

(10)雪代(ゆきしろ)
春先の急激な気温上昇にともなって起こる融雪による土石流のこと。
古吉田宿は1545年、1554年、1559年に雪代被害を受けた。『勝山記』より。

(11)2本の川(龍神の川)
雪代堀で間堀川と神田川のこと。上吉田移転の際の防災計画と考えられる。
鎮火祭の日、明神神輿が下るとき白い蛇(龍)神が東の川を下り、黒い蛇(龍)神が西の川を上る。「水車に蛇が絡まった」と記され、祭中は川を綺麗にし、堰き止めてはいけないと『富士浅間神社社誌』に記載されている。

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